バレンタイン

光りある者

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 懐かしいお屋敷の大きな木の扉を開ける。少しほこりっぽい匂いがするけれど、一年と少し放置されていただけで思ったほど荒廃した雰囲気は無い。今日一日だけ入ることを許してもらったので、できるだけのことはして帰ろうと思う。秋一さんと悠斗と板井さん、メイドの女の子達はもちろん、護衛兼お手伝い部隊15名を引きつれて、僕は思い出が詰まった迅さんのお屋敷に入っていった。

 メイドの女の子達がみんなに割烹着を配り、まずは一階の窓という窓を全部開けると、それだけでもお屋敷が息を吹き返したような気がする。
 僕は細かい指示は女の子達に任せ、庭の温室に向かうことにした。リビングからテラスに出て、雨ざらしで薄汚れてしまったテラスのテーブルセットに歩み寄る。雨が降っていない日は必ずここでお茶の時間を楽しんだ。迅さんが普段着で寛いでいる姿を見るのが好きで、木陰からじっと見ていたっけ…
 膝の辺りで刈り込まれていた植木は好き放題に伸び、テラスから温室に向かう小径もなんだか獣道のようになっていた。僕が初めてその温室を見たときも十分古めかしい印象を受けたが、今はもっと寂れた雰囲気が漂っている。雨が入るように屋根は開け放しておいたけれど、寒さや風に痛めつけられていないだろうか?3年で見事に再生した温室の薔薇たちは元気だろうか?元肥や油かすをできるだけ沢山施してきたけれど…
 祈るような気持ちで温室に入ると、白薔薇独特の清々しい香りが鼻孔をくすぐり、僕は不安と期待に胸を躍らせながら温室の一番奥、日が一番良く当たる方へ早足に歩いていった。

 大きな花ではなかったけれど、ちゃんと咲いていた。剪定ができなかったので細い枝が増え、その細い枝にも小さな薔薇の花がぽつぽつと咲いている。
 良かった…
 持ってきた剪定ばさみで細い枝ごと花を切り取ると、持ちきれないほどの薔薇の花束が出来上がった。
 明日はバレンタイン。
 今年はどうしてもプレゼントしたい物があった。この薔薇の花束もそうだけど…
 この屋敷を後にするとき、僕自身の荷物は本当に身の回りの物だけにして、あとは全て残してきた。残した物の中に、どうしても必要な物があったのだ。
 薔薇の花で花束を作った後、僕はまたみんなが忙しそうに、でも楽しそうに働く屋敷の中に戻った。
 いつも野性的な格好をした護衛の人達が割烹着を着てぞうきんを掛けている姿には少し笑ってしまったけれど、僕が迷彩服を着るよりはずっと似合っているかも知れない。
 固く絞ったぞうきんを手に、屋根裏部屋を目指す。
 久しぶりに入ったその部屋は、懐かしい香りがした。巽さんが僕の薔薇の花で作ったポプリの香り。そのポプリが置かれたテーブルの小さな引き出しに、それは入っているはず。
 このお屋敷で僕にとっては初めてのバレンタインが終わった後、誰にも見つからないように、ここでこっそり作業をしていた。僕の部屋には巽さんがしょっちゅういたので見られたくなかったのだ。
 渡せなかった、だんな様へのプレゼントを…


 掃除も終わりお屋敷を後にする。次は何時来られるかな…できるだけ早く来てお掃除をしてお花の世話をして、そしてできることならまたここで暮らしたい。出会って別れて愛し合って、全ての思い出がここには詰まっているから…みんなが幸せになった、その出発点がここだから。


 バレンタインの朝、迅さんが二週間のアメリカ出張から帰ってきた。
「こんなに買ってこなくても…僕は迅さんが無事に帰ってきてくれればそれで良いのに」
 出張で留守にするたびに大量のお土産を買ってきてくれるのは嬉しいけれど…
「笑顔で受け取ってくれ…毎日何か一つ見つけて、亮が微笑む姿を想像して寂しさを紛らわせていたんだ」
 そう言えば…と迅さんはさっさと話しを切り返してしまった。
「亮が寄付しようと言っていた施設を回ってきたよ」
 今回の出張には、児童養護施設や未成年犯罪者の更生プログラムなど、未成年者が関わっている場所を視察し、補助する目的も含まれていた。僕が初めて迅さんにお願いした事でもある。本当は中国やアジアの子供達のために何かを考えていたのだけれどその方面はヨーロッパ勢にお任せして、光りある者や守りの蛇の歴史が浅いアメリカ大陸での援助をしてはどうかとサルマンお祖父様から進言されていた。
「運営に私たちが関わる事を条件を受け入れてくれたところが5カ所中3カ所。まずまずのスタートだと思う。そこを拠点にもっと地下深くまで探るつもりだ」
 僕たちのような目に会う子供は社会の表面には出てこない。
「ありがとうございます…僕も早く視察にいけたらいいのに…」
「早い内にきっと…イアンがヨーロッパから人を集めているから…」
 守りの蛇や護衛がいなければ、僕は訪れてはいけないことになっている。彼らが一刻も早くその地域に根付いてくれれば良いけれど…
「はい。お疲れなのに、すぐにお仕事の話しを聞いてしまってごめんなさい…お茶を淹れましょうね。迅さんバレンタイン・カオスには出られなかったから、チョコレートも…」
 テーブルの上に、もう見たくないほどのチョコレートが乗っている。迅さんにも少しでも食べてもらわなければ、このチョコレートは夕方に近くの教会や子供達の施設におすそ分けすることになっている。
「また凄いことになってるね…」
「あの…これは僕からの…」
 僕は昨日の夜、秋一さんと悠斗と三人で作ったチョコレートを迅さんに手渡した。
「ありがとう、亮。紅茶を淹れてもらっても良いかな?一緒に食べよう」
 

 ちょっと子供っぽいかと思ったけれど、こっくりとしたミルクティーを淹れ、チョコレートを迅さんと一緒に食べた。たぶん、美味しかったと思う。プレゼントを何時渡そうか、そればかり気になって味わえなかったのだ。去年もプレゼントを贈ったけれど、みんなと一緒だったし、まさかこんなに緊張するとは思わなかった。
「昨日、お屋敷に行ってきました。一階しかお掃除できなかったけれど、窓を開けて風を通して…それで、温室にもちゃんと薔薇が咲いていたんです。ちょっと待ててくださいね」
 僕はそう言って、用意していた白薔薇の花束を僕の部屋から持ってきて、迅さんに手渡した。
「良い香りだ…小さいけれど、ここに持ってきた薔薇より活き活きしてるね。やはり地面に植えた方が良いのかな?」
「たぶん…いつかまた、あのお屋敷に戻れたら良いのに…」
「古くて広いからね、警備を考えて、お母様が過ごしやすいように改装しないといけない。でも、いつか必ず」
 約束だよ、と僕の手を取ると、迅さんは小指と小指を絡めて『指切りげんまん』と言う約束をしてくれた。嘘をついたら針を千本も飲まされるのだそうだ。
 絡めた小指を解いて、迅さんは僕の手を大きな手の平で包み込んでくれた。そのまま抱き寄せられて、額に口付けを受ける。
 子供の時みたいに、迅さんはまず最初におでこにキスをしてくれる。そして僕の気持ちが落ち着くまで抱き締めて、背中を優しく撫でてくれる。
「迅さん…あの…」
 それは僕のポケットの中でかさこそと自己主張していた。二年も放っておかれて、主人となる人の登場を首を長くして待っているのだ。そうだね、はやくこれを渡さなきゃ…
「どうした?」
 頬を温かい手のひらですっぽり覆われ、まっすぐに見つめられると心臓がとくん、と鳴った。
「これを…」
 ポケットから丁寧に取り出し、少し古くなった包装紙に包まれたプレゼントを渡す。
「バレンタインの贈り物?」
「はい…でもこれ…一昨年用意した物なんです。やっと渡すことができました」
「一昨年?屋敷にいた頃の?」


「巽さんに、一番好きな人にはプレゼントも添えて贈るんだよ、と言われて…真っ先にだんな様の事が浮かんだけれど、ご迷惑だろうなと思って…でも僕は沢山の思い出が欲しかったんです。本家に帰ることになっても、思い出して幸せでいられるような思い出が。それで結局皆さんの分を作ったんですけど、だんな様にはどうしても渡せなかった。あの時は嫌われていたから…形に残る物を贈るのはいけないことだと思ったから…」
 心を込めてお茶を淹れ、育てた花を飾り、身の回りのお世話をして…そうすることしかできなかった。それだって自分のためにやっていたようなものだ。
 迅さんは小さな包みを丁寧に開け、中からワイン色のポケットチーフを取り出した。
「これは…ポケットチーフ?あの頃の私のために作ってくれたのか?」
「はい…迅さんのために何かしていたくて…」
 一生見守ることができないなら、側にいられる間は一秒たりとも無駄にしたくなかった。でもその気持ちは今でも変わっていない。いつかは命を全うして土に帰る日が来るのだろうけど、次の時代の僕たちがまた巡り会い愛し合うことができるように、この気持ちが生き続け引き継がれていくように、より深く大きな愛を育んでいきたい。
 抱き寄せられると、迅さんの心臓の鼓動はいつもより大きく、そしていつまでも鳴りやまなかった。

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毎度大騒ぎの紅宝院マンションですが、今年は初めての二人っきりのバレンタインです。手作りチョコ、どんなのをつくったのでしょうか?

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