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緩やかなり、萌芽3

夜叉と牧師

 荘厳、とまでは行かないが空から振ってくるパイプオルガンの音に全身を包まれると、身に染みこんだ毒が洗い流されるようで心許ない。
(普通の人間ならそれが心地よいのだろうな…)
 だが表情には出さず、吉野は最前列の席から説教台で美しい声を発する牧師を見つめていた。
 教会は苦手だが、光太の声は心地良い。その姿には心惹かれる。
 

「おや、吉野さんおはようございます。お仕事はもうお終いですか?」
 いつでも勝手に入って良いと言われていたけれど、さすがに牧師のプライベートエリアに本人不在時に入るわけにもいかず、吉野は教会と裏の自宅を結ぶ廊下から中庭を眺めていた。最後に歌われる賛美歌が終わって5分、牧師がそろそろこの廊下を通るはずだった。静かな足音が近づき、声を掛けられるまで中庭の花壇に気を取られていたような振りをする。
「光太さん…おはようございます。今日は…本田が克彦さんと旅行に行かれたので、私も休みを頂けたんです」
 本当は少し違い、朝起きたら本田からの電話で今日明日は休みだと一方的に言われ、その直後に現れた部下達に無理矢理ここへ連れてこられたのだ。
 牧師に出会うまでは教会などに全く縁がなかった。仕事柄、いや性格柄、神仏などとは対極にいる自分が訪れて良い場所ではない。訪れたら最後、その場で地獄へ突き落とされそうな恐怖もあった。この教会はたまたま克彦さんの兄が牧師を務める教会で、必要に狩られて来てみれば兄の光太さんは神々しいくせに庶民的で神経も太く、ヤクザである自分たちをその辺の善人と区別することなくすんなりと受け入れてくれた。
 牧師に誘われるまま何度も教会行事に参加したが、神の雷に触れたことは幸いにもない。神にしてみれば夜叉といわれはしても人間である自分など格好の餌であるだろうに…
 個人的には神などいないと思っている。こんな自分の思想を知れば牧師はどう思うだろう…
「克彦は旅行ですか…またあなたにご迷惑を掛けませんでしたか?」
「いいえ。今回は克彦さんが一人でがんばっていました。本田に二日間の休みを楽しんでもらいたかったのでしょう」
「そうですか…では吉野さんにも休暇を楽しんでいただかないといけませんね」
 

 何の事だか分からなかった。休暇を楽しむ?私はここにいるだけで十分休めるのだが…牧師は…光太さんは私の手を取ると礼拝堂へ向かった。そこはクリスマス用に美しく飾り付けられていたが、街で見掛ける豪華絢爛な物とは一線を画し、聖夜という言葉がふさわしい厳かな雰囲気があった。
「吉野さん、この一年、あなたや黒瀬組には本当に良くして頂きました。克彦の事もそうですし、この教会や父の教会にも…せめてクリスマスくらいは、私に世話を焼かせて下さい」
 光太さんはパイプオルガンの前に置いてあった本を手にとり差し出した。
「これは…?」
「賛美歌集です。吉野さんは、歌はお好きですか?」


 歌など、義務教育期間中に仕方なく歌ったことしかない。
 歌の試験なるものがあったから…

 
「好きとか嫌い以前に、数十年歌ったことがありません」
「では一緒に練習しましょう。実は今夜、キャンドルサービスがあるのです。ほら、あそこにろうそくが4本立っているでしょう?」
 歌の練習をさせられると聞き常になくうろたえた。で、ろうそくがどうしたんだ??全くわけが分からなくなり、ろうそくと賛美歌集を交互に見やる。
「今晩五本目のろうそくを立ててイブを迎えます。聖書の言葉を読んだり説教も少しありますが、ろうそくの光の中で歌う場面が沢山あるんです。とても癒されるというか…どんな疲れも吹き飛ぶほどに。吉野さんはとても頭がよいそうなので直ぐに覚えられますよ。さ、まずは最初のページ…」
 パイプオルガンが鳴り響き、慌てて最初のページをめくる。さん、はい、と言われれば歌わざるを得なかった。
 楽譜は、見れば何となく分かるし微妙に遅れて光太さんの後を追いかければ良い。が、果たして私は音痴では無いのだろうか?無我夢中で歌い終わり正気に戻った時、私は生まれて初めて羞恥心に苛まれた。
「お上手ですね!とても優しい、良い声をしていらっしゃる」
 それはあんたの方だろうと言い返したかったが、光太さんの言葉はたとえお世辞だろうと嬉しく、平常心に戻れるまで俯くしかなかった。
「さあ、もう一回今の曲を練習しましょう!」
 

 それから暫く歌の特訓は続き、光太さんの前向きな指導法に乗せられて真剣に歌い込んでしまった。気が付いたら本番で、私は最前列の席で光太さんを見つめていた。本番ではプロのオルガン奏者が伴奏していたが、時々音を間違えながらも活き活きとした光太さんの演奏の方が好きかも知れない。
 そして賛美歌の間に聞く光太さんの聖書を読む声は深く、優しく、地獄行きが決定事項の私でさえ救ってくれるような錯覚に陥ってしまった。
「楽しんで頂けましたか?」
 と問われ、
「はい」
 と即答していた。
 キャンドルサービスが終わり、光太さんの自宅リビングに招き入れられた途端に訪ねられ、私はたぶん笑いながら答えていたかも知れない。そのくらい、体中の力が抜けてリラックスしていた。
 組の事で煮詰まると道場へ赴き自己鍛錬で気分転換をしていたが、それとはまた違った、とろりとした気持ちよさがある。
 ここへ何度も通ううちに顔見知りになった信者さん達と共に軽い夕食を楽しんだことも、今日の記憶にいつまでも残るだろう。  何度かそう言う機会があったのだが、私は彼らにとって決して良い知り合いになるとは言えないから、と思い辞退してきた。だが今日は彼らの方から是非にとしつこく誘われ、断るのも気が引けたのだ。
 私に関わる事を光太さんがどう思うのか気になった。彼に引導を渡して欲しくて見つめてみたが、
「みんな吉野さんとお話ししたくてたまらないのですよ。明日はお休みなのでしょう?ゆっくりしていって下さい」
 と先手を打たれてしまった。明日も仕事、と言って断り続けていたのを上手く切り替えされてしまった。
 私のような仕事以外何もできない無趣味な人間と何を話したいというのだろう…上手く答えられるだろうか…不安のあまり、気が付いたら私は光太さんの後ろに背後霊のようにへばりついていたらしい。

 表の仕事の話しや武術の話し、食事が終わってみると思っていた以上に話しのネタはあった。光太さんのように気の利いた冗談を交える技術など無いので、面白かったかどうかは判断しかねる。が、皆さんの雰囲気は始終変わらなかったので、あれで良かったのだろう。一を言えば十の理解を示してくれる本田と沼田ばかり相手にしているので、何事も事細かく説明するのは苦手だ。いずれにせよ、光太さんのフォローがなければ上手くコミュニケーションできなかったと思う。
 気を遣わせてしまったお礼に後かたづけを手伝い、居間の掃除をしてから暇を告げた。
「皆さんに楽しいお話しをしてくれて有り難うございます」
「…楽しんで下さったのでしょうか…」
「謎の貴公子とお話しできて、それは喜んでいました」
「…謎の、貴公子…?」
「ええ。あなたのことですね、吉野さん」
 驚いて光太さんを見つめると、ウィンクされてしまった。
「そ、それは…謎かも知れませんが私は貴公子じゃありません。黒瀬の夜叉と呼ばれているくらいですからっ…」
「夜叉?」
「あ…それは…部下に対して容赦なく怒鳴っているので怖がられているのです…」
「吉野さんが怒鳴るのですか?それは…余程のことですね。でも怒った姿も見てみたいな」
 夜叉と言われる本当の理由を隠すために口から飛び出たでまかせが墓穴を掘り、答えに窮して黙らざるを得なくなるではないか。
「…みっともない顔をしていると思います…光太さんのように諭すように理解させることができれば…そう思います」

 
 光太さんの前ではみっともないところばかり晒しているが、本年度のみっともないこと第一位は今日の出来事だろう。帰り際、光太さんは綺麗な紙袋を手渡してくれた。
「明日お会いできるかどうか分からなかったので…あなたと出会えてとても楽しい一年でした。これはささやかですけれど…クリスマスプレゼントです」
 全く、露ほども、忘れていた。過去には散々クリスマスプレゼントを配り歩いておきながら、共にいて楽しいと思える相手に贈り忘れるとは…前代未聞の惨事に、私は…
「明日…明日も来ます!」
 と必死に訴えてしまった。


 どうでも良い人間に贈る物は直ぐに頭に浮かぶと言うのに、贈りたいと思った相手には何を贈ればいいのやら…克彦さんにアドバイスをもらおうと携帯を鳴らしてみたが出ない。ダメもとで本田の携帯を鳴らしてみたがやはりというか当然、出てくれない。沼田も出てくれない。部下に聞くわけにはいかない。園部は問題外だ。
 光太さんのことを思い描き、好きな物を思い出す。
 花…添えるのは構わないがメインになるとは思えない。師匠からはよく道着や袴やナイフをもらったが、そんな物を喜ぶはずがない。第一、使う機会がない。包丁の切れ味は悪いが…
 光太さんの姿をもっと思い出すんだ、と自分に言い聞かせ、足の先から頭のてっぺんまで何度も思い描く。
 光太さんと言えば…教会、牧師、聖書…革張りで年季の入った聖書を持っている…礼拝で読む部分に付箋が貼ってあって…そうだ、聖書の見た目と合っていないな、と思った事がある。

 
 花とケーキとプレゼントを携え教会へ到着したのは午後遅くだった。お茶の時間に丁度良いなと思いながら向かうと、昨日とは異なり教会はしんと静まりかえっている。クリスマスなのに…不審に思い、周囲に五感を張り巡らせる。特に気になる部分はないが…呼び鈴を鳴らし、いつものように迎え入れてくれた光太さんの背後の気配も問題ない。
「吉野さん?どうかしましたか?」
 ふっと我に返り、警戒を解く。
「あ、いいえ…クリスマスなのに…昨日と違って教会が静まりかえっていたので心配で…」
「ああ、今日はもうみなさんお帰りになって、ご自宅でお祝いをするのです。早朝ミサもしない教会がほとんどですから、実質お休みの日、ということになりますかね」
 

「さっきの吉野さんは…いつもと少し違いましたね」
 花を飾りケーキを食べながら寛いでいると、光太さんが真顔でそう言った。
「仕事柄…神経を研ぎ澄ます必要に迫られることがあるのです」
「それは、黒瀬組のお仕事で?」
「そうです。お見苦しいところを見せてしまって申し訳ありません」
「いいえ…それは、教会の様子がおかしかったからでしょう?」
「…ええ。私が無知でした…」
 いつも穏やかに笑っている人に真剣な表情で見つめられると自分の後ろめたい面を攻められているようで、いたたまれなくなる。
「吉野さん、何か悩みがあるときはいつでも相談して下さい。これでも一応牧師なので、あなたの仕事のお役には立てなくても、重荷を一緒に背負うことは出来ます」
 

 私は罪深い人間です。罪は私一人で背負って一生過ごす覚悟があります。 

「光太さん、そのお気持ちだけで十分です。ここで、こうやってあなたと向かい合う一時が、私にとって何よりの癒しの時間なのです」
 光太さんにいつもの慈愛に満ちた笑顔が戻る。
 その笑顔を見るだけで、私はいいのです。
「吉野さん、聖書にこんな言葉があります」

 疲れた者、重荷を負う者はだれでも私の元に来なさい。休ませて上げよう。


「私は牧師で、牧師というのはカトリックの神父とは違って神の代理人ではありません。神を信じようとする人々を導く教師といったところですか…あなたと同じ、悩みも苦しみも持つ人間なのです。疲れたらいつでもここに来て好きに過ごすと良い。それであなたが楽になれるなら本望です」


 ほんの一瞬、忘れかけていた師匠の顔が浮かんだ。


 夕食の後に連れてこられたバー。
 今夜はとことん飲みましょうと言われ、私もそんな気分だったのでついてきた。光太さんの理論で行くと、私は彼の前ではしたいように振る舞えば良いのだそうだ。外は今年一番の冷え込みで、もしかしたら雪になるかも知れない。私は何気なく首に巻いたマフラーの手触りを楽しみながら歩いていたらしい。
「早速使ってくれたのですね」
 そうだ、あまりにも馴染んだのでこれが光太さんからのプレゼントであることをすっかり忘れていた。
「あ…お礼も言わずすみません…とても手触りが良くて温かいです。有り難うございました」
「気に入ってもらえて良かった。何色にしようか迷ったんですが…いつも着ていらっしゃるそのキャメルのコートにはオフホワイトかな、と…よく似合ってますよ」
「…私からも…」
 コートのポケットに忍ばせておいた小さな箱。小さすぎて気が引けるが、仕方がない。私が贈りたいと思った物が小さかっただけだ。
「私にも!気を遣わせてしまったかな?」
「そんな…私も光太さんにはとてもお世話になっていますから。使って頂ければと思って…」
 丁寧に包みを開く手は大きく、水仕事や庭仕事で少し荒れているが美しい。
「これは…栞?百合の花と…こちらは桜?」
 真鍮製の、植物をモチーフに作られた繊細な栞だ。花が好きな光太さんにぴったりだと思った。
「いつも持っていらっしゃる聖書に付箋が貼ってあったのを見て…」
「とても綺麗な栞だ。今夜帰ったら早速使います。信者さんにも時々言われていたのですよ、ピンクや黄色の付箋は似合わないからやめなさいと。気がついてくれたんですね。さすが吉野さんだ」
 

 気を利かせるのが当たり前と思われている職場なので、褒めちぎられると恐縮してしまう。それでだろうか、私は自覚できるほど酔ってしまった。
 酒癖は悪くないのだが飲み過ぎると眠ってしまう。本田や沼田の前でしか眠ったことはないが、気がついたら自宅のベッドの上だったことが多々あり、次の日に二人からからかわれるのだ。
「光太さん…すみません…そろそろ…」
 朦朧とする意識をなんとかつなぎ止め、部下を呼ぶ。
「気分が悪いのですか?」
「…いいえ…飲みすぎると…意識が…」
 遠くなったり近くなったり…時々遠くで何か異様なモノが…蠢く影が見える。身体が熱くなりいよいよ倒れそうになったとき、逞しい腕にがっちりと支えられ、私は縋り付くと同時に意識をなくした。
 

 気がついたら朝で、私はいつものように自分のベッドで眠っていた。飲み過ぎたとは言え体調は上々で身も心も軽い。きっと光太さんと過ごしたお陰だ。酔ってしまい、途中でみっともない姿を晒したことを謝っておかなければ。昨夜の今朝だし、もう少ししてから電話をしよう。
 今日は本田と克彦さんが帰ってくる。
 土産話で午前中一杯は離してもらえないかも知れない。
 私も、もしこの二日間のことを聞かれたら…いや、聞いて貰いたい。本田が無理矢理教会に連れて行くように命令していなかったら、こんなに心休まる休暇を過ごすことは出来なかったろう。


『克彦、昨夜、吉野さんが酔ってしまって、少し様子がおかしかった。部下が迎えに来ると言っていたのだが…いつも見掛けるスーツの人達ではなかった。吉野さんも懐いていたようなのでお任せしたが…彼は大丈夫だろうか?』
 そんな電話を受けたのは空港から黒瀬の事務所へ向かう車の中だった。克彦は吉野の生態を知らされていないので兄以上に心配し、隣にいた本田に事の次第を伝えた。
「ああ…彼らは紅宝院の連中だ。お前の兄の教会は紅宝院の直ぐ近くだから…紅宝院のボディーガードは俺達の元同僚だ。無意識に、近い方を呼んだのは吉野らしいじゃないか」
 そう言われればそうである。あの完璧な吉野は、たとえ酔っぱらって前後不覚に陥っても完璧なのだ。
「兄ちゃん、あの人達はゆきと吉野さんの知り合いで、教会の近くに住んでるんだって。だから大丈夫だよ…うん。吉野さんのことだから兄ちゃんにも連絡が行くと思う。うん…俺達も今帰ってきたところ。後でお土産持っていくから…うん…じゃあね」

 

 今夜にでも吉野のことを相談するべきか。
 愛しい者が側にいる幸せを、吉野には思い出させてやりたい。あの凄惨な出来事から一刻も早く立ち直って欲しいと思っているのは自分たちだけでは無く、吉野を誰より愛していた、あの師匠も、地獄の縁で成り行きを見据えているだろう。
 死者にはやすらぎを。そして吉野には心豊かな未来を。

END

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すみません、クリスマスまだ続いています(笑)突然の雪で陸の孤島と化してしまい寒いしお腹空くし煙草は切れるし…と言うわけで更新断念してしまいました。さて吉野さん。とにかく何でも光太が一番と思っているようですが自覚してないようです。光太も恐らくこれが初めての恋でしかも気がついていないのでしょう。本田の後押しがないと二人ともずーっとこのままかも知れませんね。がんばれ雪柾。