山の上団地は冴えないアパートが建ち並ぶ古くからの団地である。四階建て二十四戸が三つの階段に分かれて均等に配置されている、どこにでもあるアパート。ただし分譲なので買えば間取りはある程度自由がきくし、内装も好きにし放題。おまけに今時のマンションとは比較にならないくらい安い。若い夫婦や独身者が一時的に住むにはもってこいの物件だった。
 駆け出しの建築家、倉石義童(ぎどう)もその一人で、スーパーや駐車場に近い棟の一戸を買い上げ、大学の頃からの同級生で恋人のインテリア・デザイナー、水口克彦にコーディネイトを任せて二人で住む計画…だった。
 義童は玄関ドアも取り替えられたらいいのに…中古で買ったBMW・3シリーズのクーペもそろそろ買い換え時かも…建築家として独立する方が先だな…などと思いながら駐車場へ向かう。隣の車はイカにも走り屋、と言った風情がある。若いヤツかな?にしては金掛かってるな。助手席に仕事道具を置いてドアを閉めるとき、隣の車の後部座席がちらっと見えた。と言うか座席は無かった。変わりにロールゲージが張り巡らされている。どんなヤツか見てみたいけど… 運転席に乗り込み、エンジンをかける…かける…かける…かからない!落ち着いて何度もかけるが、かからない…取りあえずボンネットを開けてみるが建物の構造は分かっても車の構造はちっとも分からない。仕方がないのでディーラーに連絡する。直ぐに来てくれるらしいがその場でなんともならなかったら…タクシー使っても遅刻だ。会社にも事情を話して遅刻の連絡を入れる。あとは待つだけ…もう一回試しにエンジンをかけてみるが、やはりかからなかった。諦めて煙草を一本取り出す。
 半分吸ったくらいで、隣の車の鍵がリモコンで空いたような音がした。エンジンまでかかっている。現れたのはやはり若く、汚れたつなぎの作業服を着たお兄ちゃんだった。二十歳になったくらいか?目つきは鋭いがどちらかというと童顔で、顔立ちは整っていた。私の車のボンネットを横目でチラ見しながら近づいてくる。
「あの…どうかしたんですか?」
 ボンネットの中を指さしながら、意外にも向こうから声をかけてきた。
「ああ、エンジンがかからなくて困ってるんだ」
 若者はボンネットの中にかがみ込むと、あっちこっちを緩めてはぎゅっと締めて回った。
「もう一回かけてみて」
 言われたとおりにかけてみたら…いつものように心地よい音が響いてきた。
「えー…こんな簡単になおるの?いやー助かった!ありがとう」
 たぶん、満面のえみで心の底からありがとうと言ったと思う。しかし彼は俯いて
「いえ」
 と言っただけでさっさと自分の車に乗り込んでしまった。轟音を響かせてゆっくり去る。
「ふーん、やっぱり車が好きなやつは詳しいな」

 そして数日後、やっぱり車が動かなくなった。スタートした瞬間、ぷっすんと止まり、うんともすんともいわない。駐車場で良かったが、今度は深刻そうだ。再びディーラーに連絡したが、遠方に出ていて時間がかかるという。勝手にレッカーで持って行けと伝えて電話を切ると、隣の車の彼が登場。
「おはよう」
 にこやかに声をかけると、少しだけ視線を反らして返事を返してきた。
「おはようございます…」
 人見知りする性格なのだろうか?今時の若者にありがちな声をかけられてウザいと言う表情ではなく、うっすら顔を赤くしているところをみると、恥ずかしい、といった匂いが漂ってくる。
「この間はありがとう、助かったよ本当に。君は車が好きなんだね」
「あ、はい…」
「今日もまた動かなくなってね、これから運んで貰う事になったよ。そろそろ買い換えの時期なのかな」
 彼は困ったように視線を向け、どうみてもおどおどしながら言った。
「あの…会社まで、送りましょうか?」
「え?嬉しいけど、時間、大丈夫?」
「俺なら、大丈夫です」
「助手席は…あるみたいだな」
「え?」
「いやほら、後ろのシートがないから」
「ああ…」
 助手席のシートはバケットシートだが、座ってみたら案外楽だ。ただ、相当低い位置にある。シートベルトもわけが分からずもたもたしていると、彼が装着してくれた。
「へぇ…こんな車、初めて乗った…ところで、君、名前は?私は倉石義童。ここに名刺を置いておくね」
「あ。はい。俺は…高津雷(らい)…です」
 ドロドロと轟音を響かせながらも、運転は滑らかで乗り心地が良かった。恐ろしい走りをするのかと思ったらそうではなく、安全運転の極み。
「安全運転だね」
「目、付けられることが多いから…」
 確かにそうだろうとも。
 その後も何て事はない会話でやり過ごし、会社に到着。口数が少ないし人見知りするし、私の方も共通点が見つからなかった。友達にも知り合いにも走り屋やってました〜みたいなやつがいなかったので、何を話せばいいのか分からない。しかし、隣で運転する高津君はあまり気にする風でもなく、ゆったりと構えて美しい動作で運転に没頭していた。
 シートベルトを外してもらい、車を降りる。ありがとう、気をつけて、と声をかけるとまた視線を反らしてうなずきながらゆっくり遠ざかっていった。

「おっ。今の車誰?新しい恋人?」
 事務所の先輩が出てきてからかわれた。
「違いますよー。駐車場で車が隣同士なんです。また動かなくなって…送ってくれただけですよ」
「だろうな。毛色が違いすぎる。あれって峠攻めたりするのかな?」
「さあ…私の趣味ではないから聞きませんでしたけど」

 家に帰るとディーラーからの預かり書類がポストに投函されていた。
 コーディネイトの途中で恋人と分かれてしまったので、家具が少なく部屋が薄ら寒い。あいつは結局駆け出しの俺より有名なやつを選んだ。何もかも二人で考えたビルを建てたい、大学の頃から良く設計図やら間取り図やら描いて一緒に遊んでいた。それなのに…今一番波に乗っている建築デザイン事務所の社長から声がかかったとたん、乗り換えやがった。もうずっと以前から知っていて、少しづつ気持ちも傾いていたのだろう。私の作品も捨てた物ではないんだけどな…見よこの団地の一室とは思えないようなスタイリッシュな室内!家具がほとんど無いけどなー…昔からちょくちょくこんな事はあったさ。あいつは、水口克彦はデキル男に弱くてちょっとでも自分のテイストに合えばふらふら付いていった。二人の夢の話しをすれば戻ってきたんだが、今度は違った。
 あっちの社長は超強引で、狙った獲物は逃がさないタイプ。克彦の趣味も全てお見通しで。センスが合うように持っていって克彦の気持ちを引きつけた所で身体の関係を持ち、自分からは離れられないようにする。でも、やつが欲しいのは今仕事に必要な才能で、共に変わっていこうとか発展していこうとするパートナーではない。他の才能が現れたり欲しくなったらポイされるのがオチ。だけど誰もが自分なら大丈夫と思うんだな。仕事が出来て自信があるヤツに限って大丈夫と思うんだ。
 克彦がそれに気付いて、傷ついて帰ってくるまで、このままの殺風景な部屋でも良いかも。
 って、振られたばかりだからか、おセンチになっているのは。
 書類にサインして封筒に入れテーブルに放り投げる。風呂に湯を張る間、買ってきたコンビニ弁当で夕食を済ませる。ゆっくりと全身を湯船に沈めて何も考えずに目をつぶっていると、聞き覚えのあるエンジン音が聞こえてきた。どこに勤めてるか聞かなかったけれど、今朝は間に合ったのだろうか?私もヒマだし、今日のお礼に食事に誘ってみるか…うーん…いつもあんな格好だし(作業着?)年も若そうだし、気安く入れて美味いところ…やっぱ居酒屋系?チェーン店は嫌だしな…
 高津君が住んでいる部屋は知らないので、朝、彼の車にメモを挟んでおいた。(先日のお礼に食事でも行きませんか?良かったら連絡先を教えて下さい)自分の電話番号も添えて。しかし、その日は連絡が来なかった。
 ディーラーからは連絡があり、ディーラーとしては新しい車を買わせたいようなのだが、私が今は買えない状況だと分かっているし、ばっちり直す事で良い関係を保てると思ったのだろう。見積もりも思ったより安かったのであと二日ほど待つことにした。しかしその日のうちに、他にも不具合が見つかったけれど修理するかどうかの連絡も入ってきた。修理担当者は確実に良くなるし、まだまだ大丈夫と言っているそうだ。
 そう言えば、高津君と食事に行くときの話題作りに、修理箇所とか不具合っぷりを見ておきたい。もっと良い方法を、彼なら知っているかも知れないし。修理工場に行ってみたいと連絡をすると、今係わっている現場の直ぐ近くだった。ついでに行ってみるのも悪くない。

 修理工場へ行くと、工場長と名乗る人物から私の車の保管場所まで案内して貰った。十台くらいの車があられもない格好で修理されている。私の車もボンネットが外され、タイヤも外され、とんでも無い格好でそこにあった。
「担当者が休憩中で、あと五分ほどで帰ってきますんで、少し待っていてもらえますかね?すみませんねぇ」
「いえ構いませんよ。アポ無しで突然来ましたから」
 すみません、すみませんと何度か謝りながら工場長退場。私は車に関する知識が無いだけで、美しい車体に隠された内部構造や、機能的なデザインがぎっしりつまった部分を見るのは好きだ。自分の車が裸に剥かれたところを見る機会は滅多にないので、修理担当者が来るまでの時間は苦にならなかった。
「あの…」
 なんと、修理担当者は、高津君だった。

「高津君じゃないか!」
「あ、はい…担当の高津です…」
「なーんだ、早く言ってくれれば良かったのに」
「…すみません。昨日、担当になったんで…」
「そうかー。君には本当にお世話になるね。食事一回くらいじゃすまないな」
「メモ見たけど、あの日は休みの日で、メモに気が付いたのが夕方だったんです…俺、携帯もってないし、うちに帰るの遅くなって電話かけられなくて…」
 俯いているだけかと思ったら、微妙に赤くなっている。見た目は突っ張っているけど、案外シャイな性格のようだ。照れたような怒ったような表情で話している。ほこりやオイルで汚れた全身をぴかぴかに磨けば、綺麗な子になりそうだ。
「じゃあ修理の説明聞いてから、出掛ける予定を立てようか?」
 軽く頷くと、彼は現状と修理箇所を素人の私にも分かるように、易しく丁寧に教えてくれた。車のことを話している時の彼の表情は真剣で、職人魂のようなものが伝わってくる。
「今度の休みはいつ?」
「明後日。明日この車を仕上げたら」
「そうか。じゃあ明日の夜は?」
「…大丈夫です」
「仕事は何時頃終わるの?」
「このぶんだと…十九時頃かな?」
「了解。じゃあその頃ここへ来ても良い?」
「あ、はい。あの、半でも良いですか?」
「良いよ。じゃ、七時半に」
 返事の変わりに頷く。こういう仕草はまだ子供だ。
「高津君、年は幾つ?」
「…十九です」
「そうか。じゃ、また」
 十九か…働いているからそのくらいなんだろうけれど、もっと年下と言われても違和感がない。十九の頃、自分は何をしていただろうか?一応大学の建築科にいたけれどまだまだ遊んでいたな。克彦と知り合って、一番楽しい時期でもあった。

 翌日、十分くらい早めに行くと、高津君は私の車を磨き上げている途中だった。
「あ、すみません。もう終わります」
「ああ、少し早かったかな?」
「俺、シャワー浴びて着替えてきます」
 私の返事を待たずに、掃除道具を持ってスタッフルームへ駆けて行く。…と直ぐにまた出てきて、コーヒーを持ってきてくれた。
「砂糖とミルク、わかんなかったから…」
 両方を手のひらに載せて差し出す。ミルクだけを取ると、また一目散に駆けていった。私はコーヒーを飲みながら、いつも以上に美しく輝く自分の車を見回した。ドアを開けて運転席に座ると、車内もほこり一つ無い。そう言えば高津君の車もそうだったな。仕上げが美しいのも才能の一つだ。それに、仕事が好きでないとここまでできない。
 二十分も経たないうちに高津君が再登場。ローライズのジーンズにTシャツ、丈の短いジャケット、今時の若者のありきたりな格好だが、作業着姿しか見たことなかったので、なかなか新鮮だ。髪も洗ったのか、さっきまで突っ立っていた髪が柔らかく顔にかかって童顔が際だつ。このとき私はどんな表情をしていたのだろうか?微笑んでいたことは確かだ。高津君が初めて私の目を見てはにかんだように笑ったから。
 洋食・中華・和食、高津君の好みが分からなかったので、どれも選べる居酒屋っぽい店を選んだ。酒屋が経営しているお店なので飲み物が豊富で、特にワインの品揃えは秀逸だ。
「俺、お酒飲まないんです。運転できなくなるし…」
「ああそうか、車好きで、未成年だもんな」
 高津君は童顔に似合った物を食べたがった。オムライス・からあげ・クリームコロッケ・ハンバーグシチュー…放っておくと野菜を食べなさそうだったので、煮物やサラダも皿に取ってやる。
「食事はお母さんが作ってくれるの?」
「…俺、一人暮らしです」
「じゃあ自分で?」
「はい。自己流ですけど…」
「じゃあ今度作ってよ。うちキッチンは立派だから。ぴかぴかだよ。使ってないし」
 また、こくんと頷く。どうやらこれはOKと言う合図らしい。
「十九にしては運転とか上手いし、車の事も詳しいよね?」
「子供の時から、カートとか乗ってたから…」
「へぇー…本格的だなぁ」
「父さんがレーサーで…子供の頃に死んだんだけど…育ててくれた叔父さんが、カートとかやらせてくれたんです」
「え…お父さん、レース中に?」
 高津君のご両親は、飲酒運転のトラックに激突されて亡くなった。父親の兄が育ててくれたのだが、その兄も高校一年の時に病気で亡くなり、以来ずっと一人で暮らしている。車以外のことにあまり興味がなかったから、高校も辞めて修理工の修行を始めたそうだ。
「そうか…それでお酒は飲まないんだね。そうか…思い出させて悪かったね」
「いえ…俺、ほんとに赤ちゃんの頃だったから…父さんが作った特製のチャイルドシートに乗ってて…俺だけ…」
 今の家は叔父さんのもので、叔父さんが亡くなった後も住み続けている。借りようにも買おうにも未成年で保証人がいなかったので、どうすればいいのか分からないと…。親戚はいるけれど、叔父さんが付き合うのを嫌っていたので、高津君も、いろいろ言われたらしいがほとんど付き合っていないらしい。こんなにまっすぐに育ってるんだ、叔父さんの考えの方が正しいのじゃないだろうか。
 高津君は素面だったので、彼の工場までタクシーで戻り、そこからまた送ってもらうことにした。
「この車ですかーっと走りに行ったりするの?」
「たまに」
「今度誘って」
 こくん。
 可愛い。
「うちに寄ってく?飲み物も、おやつも沢山あるよ」
 暫く考えて…
 こくん。
 やっぱり可愛い。
「よし、じゃあそこのコンビニ寄ってくれる?今から仕入れるんだけどね」

   

きっかけ

義童と雷