「すご…」
 玄関に入った第一声がこれだった。自慢の部屋なので素直な反応が嬉しい。
「自分で設計したんだよ」
「同じアパートじゃないみたい…」
 玄関でコンビニの袋をぶら下げたまま立ちつくす高津君を促してキッチンスペースに向かった。玄関ホールから見渡すと右奥にキッチンがあり、その前のスペースにダイニング、そのまた手前にリビング。左奥は風呂やトイレのスペースで手前は仕事スペース。そして玄関の左手の部屋が寝室。玄関ホールから室内を見れば寝室以外は一望できる。ダイニングテーブル、ソファ、ベッドくらいは克彦と選んでいたが、その直ぐ後に別れたので、他はまだ揃っていない。買ってきたものをテーブルに広げると、ケーキやチョコレートが沢山出てきた。
「高津君は甘い物好きなの?」
「あ、はい」
「飲み物はコーヒーかお茶しかないけど…」
「じゃあコーヒーで…」
 ケーキを平らげる様は子供のようだった。食事をしているときもそうだったが、普段と違い、少し微笑みながら食べているので見ているこちらも楽しくなる。ナッツ入りのチョコレートを口に放り込み、ゆっくり溶かしている。今、キスをしたら、まんまチョコの味だろうな…
 いや、やめておこう。また何時克彦が帰ってくるやら分からないし、克彦と過ごした七年は本当に楽しかった。嫌いになったワケじゃない。まだ未練はある。才能があり、その上美しく、あの時に見せる官能的な仕草や表情は一日たりと忘れたことがない。常に克彦が視界に入るように室内をデザインした。ベッドルームの壁も一部分ガラス張りにして、無防備に眠る悩ましい肢体を眺めることができるはずだった。
「倉石さん?」
「ああ、ごめんごめん」
「明日仕事ですよね…俺、もう失礼します」
 立ち上がろうとする高津君を思わず引き留めていた。
「ごめん、ちょっと思い出して情けなくなってただけ」
「?」
「はは。実は恋人に振られたばかりで…未練タラタラ」
 高津君は椅子に腰掛け直すと、真面目な顔でじっと座っていた。今まで彼からは何も聞いてこないのであえて自分の事は話さなかったが、今この態勢は、私が話すのを待っているようにも思える。もしくは、彼は急に独りにされる寂しさを良くわかっているので、一緒にいてくれようとしているのか。コーヒーを注ぐと、彼はまたチョコレートを一つ、口に放り込んだ。
「大学で知り合ってから今まで、七年間、付き合ってたんだ。インテリア・デザイナーでね。ここの家具も選んで貰うはずだったんだが…その前に他の男に盗られてしまった。今までも何度か盗られそうになったことはあったんだけど、今度は本当に持って行かれた」
 しんみりしてきたところで、彼がナッツの固まりをゴリッとかみ砕く音がして、振られたことがどうでも良くなるくらい可笑しくなって、笑い転げてしまった。高津君はわけが分からずオロオロしている。それがまた笑いの連鎖を誘い…ひとしきり笑った後には、気持ちが真っ白に洗われたような気がした。
「君のこと、雷って呼んで良いか?」
 雷はこくこく頷いている。
「私のことは義童でいいから」
「ぎどう…さん」
 私は頷くかわりに、雷の頭をくしゃっと撫でた。柔らかくて滑らかな手触り。雷は子供扱いされたのがお気に召さなかったのか、視線を反らして俯いた。
「俺、もう帰りますね」
「ああ、話しを聞いてくれてありがとう。気が楽になったよ。そうだ、電話番号教えてくれる?」
 携帯に登録して、玄関まで見送った。離れがたい。多感な時期をたった一人で真面目に生きて来て、寂しかったのではないか?自分はともかく、雷を一人にすることが嫌だった。

 父さん、母さん、叔父さん、今日は倉石さんとごはん食べに行きました。オムライスとかコロッケとか食べたよ。コロッケは美味しかった。でも、オムライスは俺の方がうまいかな。いや、叔父さんのオムライスは最高にうまかった。今度いつか義童さんに…義童って呼んで良いと言われました…オムライスを作ってあげようかと思う。帰りに義童さんのうちに寄ってケーキとチョコレートとコーヒーを食べた。義童さんは恋人と別れたばかりで落ち込んでるんだって。他の男の人に盗られてしまったそうです。義童さんはかっこいい人なのに、不思議です。大事な人をなくす辛さを知っているから、少しだけ義童さんのうちに長居してしまいました。帰りが遅くなってごめん。でも義童さん、帰る頃には元気に笑っていたから大丈夫だと思います。明日は義童さんの車が納車されます。随分走行距離がいってるけど、まだまだ走れるようになったと思う。明日は少しゆっくりしてからドライブに行こうと思います。じゃ、今日は寝ます。お休みなさい。

 それは雷の日課だった。両親が死んで叔父さんに引き取られた雷が言葉を話せるようになると、毎日その日のことを両親に報告するように言われた。自然と身に付き、叔父が亡くなってからは叔父にも一緒に報告する。これをやらないと一日が終わらないし、気分もスッキリしない。仕事のことや車のことしか報告することが無かったのだけど、義童と出会ってからは内容が少し濃くなったと思う。

「うん。納車日和だ」
 せっかく磨き上げたのに雨が降れば台無しだ。でも今日は雲一つ無い青空が広がっている。特別なコーティングをしておいたから、色つやが良くなっているはず。雷はゆっくり車を発進させ、気の向くままのドライブへ出掛けていった。
 一方で義童は、気まま我が儘な女性クライアントに振り回され、朝からどんよりしていた。
 駆け出しではあるが有望株として期待されているのか、小さい物件は任されるようになってきた。この女性クライアントはお金持ちのお嬢様で、片手間におしゃれなカフェでも経営しようかしらと依頼してきた。3日に一度気分が変わり、変更を余儀なくされている。
 上司も部下も、
「あれは義童君狙いだよ、絶対」
「何度かデートしてやったら?」
 等とお気楽なアドバイスをしてくれる。
 義童の元恋人が男だと知っているくせに、である。女と付き合えないわけでもないが、どちらかと言うとゲイ寄り。特にあんな我が儘女は大嫌いだった。同じ我が儘なら野郎の方が可愛いかも知れない。
「一度でもデートしたら人生終わるような気がする」
 ぶつぶつ言いながら休憩していると、納車の連絡が来た。急いで駐車場に行く。雷が一生懸命直して磨き上げてくれた車は、社長のメルセデスより美しかった。
「うん。見た目も良くなってる」
 一点の曇りもなく磨き上げられた車を前に、ディーラーも得意然としている。
「でしょう?あの若い修理工、なかなか優秀でね。彼に任せると中古車のランクも上がるんですよ」
「同じ団地に住んでるんだよ。オヤジさんがレーサーで、雷も子供の頃からカートに乗ってたんだって」
「へー、どうりで車が好きなわけだ」
 請求書は嫌々受け取ったが、その後の仕事は気分良くはかどった。

 帰宅すると雷の車があったので、お礼かたがた電話する。
「雷、車帰ってきたぞ。えらく調子いいし、外装も綺麗になってる。ありがとう」
『いえ…』
「今日な、お客さんからお菓子の詰め合わせもらったんだ。私は食べないから、雷のうちに今から持っていこうかと思うんだけど、大丈夫?」
『あ、はい大丈夫です』
 実は雷に会う口実が欲しくてお菓子は自分で買ったものだった。昨日、雷に克彦の話をする前まではヒマさえあれば克彦のことばかり思い出していたけれど…七年。七年の思いを雷はマカデミア・ナッツのひと噛みで砕いてしまった。
 雷の部屋は義童の部屋の間取りと同じだ。たぶんこの団地の全ての間取りが同じだろう。けれども住む人でその顔は変わってくる。雷の部屋は、独りで住んでいるはずなのに何処か暖かみがあった。叔父さんと住んでいた名残だろうか、義童の部屋より沢山の家具があり、どれも使い古されたものだけど丁寧に扱われている感じがする。キッチンには綺麗に磨かれた調理器具がきちんと整列している。義童が仕事スペースとして使っている部屋は本来和室で、雷の和室には仏壇が置かれている。花や供物も飾られていた。
「今日は何か特別な日だったの?」
 仏壇を開けるなんて滅多にないようなことに思われた。
「いいえ…」
「じゃあ毎日お供えとかしてるの?」
 こくん。
 義童は和室に入り仏壇の前に座ると、りんを鳴らし手を合わせた。
(はじめまして。倉石義童です。雷君にはお世話になっています。これからもよろしくお願いします)などと心の中で言って、照れてしまった。まるで恋人の両親に初めて会うような心境じゃないか。
「…ありがとう」
 雷が、後ろから声をかけてきた。
「一応、ご両親と叔父さんにご挨拶」
 仏壇に飾られている写真が二つ。一つは産まれたばかりの雷を抱いて嬉しそうに写っているご両親。もう一つは叔父さんだろう。
「ご両親は本当に幸せそうな表情をしているね」
 振り返ると、こくん、が見えた。雷が近づいてきて隣に座る。
「こっちが叔父さん?」
 こくん。
「雷はお母さんに一番似てるのかな…」
 さすがに、こくん、は無い。男だからか。
「そのうち父さんに似る予定」
「どっちにしてもいい男だよ、雷」
 照れて俯いている雷の頭をくしゃっとするついでに、立ち上がるための支えにした。正直なところ、まだ恋もしたことが無さそうな少年にどうやって気持ちを伝えればいいのか分からない。お菓子でもスキンシップでも、とっかかりの口実になる物はなんでも使ってやれ、と言う半ばやけっぱちな作戦だ。
「あ、お茶淹れます」
 かき回されてぐしゃぐしゃになった髪を整えながらバタバタとキッチンに駆けていく。
 雷がお茶を淹れている間に、菓子箱の包みをほどく。人気のある菓子店の焼き菓子セットだ。
「私は良いから、雷が全部食べろ」
 サクサクしたパイ生地の屑が雷の口元に残っている。 
 お約束の、指でぬぐう、をやるのも何年ぶりだ?雷の頬は髭など生えたこと無いかのように滑らかで柔らかい。髪も皮膚も、私の欲望をくすぐる。どちらかというともう少し年上の男が好きなのだが…雷はほんの一瞬目を合わせ、そして逸らした。
 
 お父さん・お母さん・叔父さん、さっきのが義童さん。お菓子を持ってきてくれました。義童さんは、やっぱり寂しいのかな?いい人なのに、彼女は何が気に入らなかったんだろうね。でも、どんなに好きな人でも大切な人でも、別れなきゃいけないときもある。それって運命なのかな?なんでそんな辛い運命が必要なんだろう。何のために?強くなるためかな?俺はあと何回、そんな運命を経験するのかな?俺は、もう嫌だ。でも、そう思うのは弱い証拠かな?独りでいるのは辛くない。でも大切な人が出来たらと思うと怖くなる。そんな人を作らないのが強さなの?義童さんなら頭良さそうだし、教えてくれるかな?義童さん、辛いだろうに、いつも優しくしてくれる。辛いときに誰かに優しくすると、自分も暖かくなるよね?あれかな?でもそれで義童さんの辛さが少なくなるなら、俺も嬉しい。うーん…俺、車のこと以外ホントわかんない。もう少し頭の良い子に産んで欲しかったなー。じゃ、きょうはもうこれで寝ます。お休みなさい。

 別れた克彦は依頼心が強い。何かあれば私がいつでも助けてくれると思っているし、私自身もそう思われることが嬉しかった。戻って来るから大丈夫、戻るところがあるから大丈夫と、お互いに心の底で思っていたから、少しばかり他の誰かに気持ちが傾いても許すことが出来た。お互いに浮気もしたけれど、自分の中での克彦は別格の存在だった。今回も戻ってくる確率の方が高い。しかもボロボロになって帰って来そうだ。頼られればはね除けることはできないと思うけど、今回ばかりは元の鞘には収まりそうにない。
 今、私の心の大部分を占めているのは雷の存在で、言ってみれば鞘の形が変わってしまったのだ…雷の部屋はとても不思議な感じがした。亡くなった人の思い出で溢れかえっていて、そのどれもが古びていないのだ。雷が必死で守って色あせないようにしているような気がする。新しいものは必要最低限で、古くなっても手を入れて修理して、どうしようもなくなったら捨てる。車にしてもそうだ。雷の車は五年前、叔父さんが亡くなる前に買ってくれたもので八万キロは走っているが、外装もメカも驚くほど良好。大切な物は出来るだけ長く手元に置きたいのだろう。雷が恋をしたら、どれだけ深く恋人を思い、愛するのだろう?克彦に対していい加減な気持ちで付き合っていたとは言わないが、新しい物にすぐ目移りして、はしゃぎ疲れると舞い戻ってくる付き合いに疲れてきたのかも知れない。

「らい〜、どこだ〜?」
 雷は携帯を持っていないので、仕事で外出したついでに修理工場へ寄って夜の都合を聞くこともあった。大抵雷は車の下とか中とかにへばりついているが、今日はどこに居る事やら…
「義童さん?」
 今日は比較的普通の場所、ボンネットをのぞき込んでいた。
「さっきクライアントにチーズもらったんだ。今晩、チーズオムレツ作ってくれる?」
「…良いけど」
「じゃあ、帰ったら電話してー」
 雷が帰って来たのは十九時くらいだった。雷が風呂を使っている間に、言われたとおりの下ごしらえをしておく。卵を溶いて、チーズを刻み、サラダ用の野菜を洗ってちぎる。そして雷が作っている間に私が風呂を使う。これがこの二週間、毎晩続いている。誘ったら絶対断らないと分かってからは、いい気になって雷を誘い続けている。
 雷は相変わらず自分からは話さなかったが、聞けば何でも話してくれる。もう少しうち解けてくれるにはどうしたらいいのだろう。
 風呂から上がると、出来上がった料理をテーブルに並べているところだった。料理で火を使ったから暑いのだろうか、まだ三月になったばかりなのに薄手のシャツ一枚で見ている限り寒そうだ。
「雷、湯冷めしないように、もう一枚着ておけ」
 予備のガウンを貸すと、素直に纏った。克彦のために買った物だったが。
「やっぱちょっと大きいな…」
 雷のオムレツはその辺のレストランより美味しい。あっと言う間に平らげて、雷のために買った食後のデザートを準備してやる。
「雷、聞きたいんだけどさ」
「うん?」
「お前、彼女とかいないの?」
 雷にはそこはかとない清潔感が漂っている。生々しい関係などしたことありません、みたいな。
「…いない」
「今までは?」
「…いた…かな」
「かな?」
「付き合って下さいって言われて、いっしょに遊んだりしたんだけど………」
「けど?」
「俺、話すの苦手だし、車以外の事知らないし、面白くないって…」
「まあな、若い女の子は強引でリードしてくれるタイプが好きだからな。相手のことを理解する前に取りあえず付き合って、だめなら次、だもんな」
「よく分からないけど…」
「雷から好きになった人いないの?」
「…いない」
「雷は、一人の人を大切にしたいタイプだからかな?焦ることは無いと思うけど…」
 こくん。
「前に付き合っていた人な、七年付き合ったけど、その間何回も浮気したけど、お互いに戻る所があるから甘えていた部分もある。私にとって克彦は別格の存在で、戻ってくれば全て許せた。何かあると最後に頼ってくるのは私。迎えに行けば飛びついて帰ってくる。もしかしたら今回も泣きながら戻ってくるかも、と待っていたんだけど…私の気が変わってしまって…」
「…克彦って…」
「男だよ。私の元恋人は。びっくりした?」
「…うん」
 出来るだけ驚かせないように、恋人が男だったと言う部分をさらりと流す。
「で、他に好きな人が出来てしまったんだ。別れて二ヶ月も経っていないけど…七年間、克彦のことを愛しているとか言いながら浮気して、二ヶ月も経たないうちにまた好きな人まで作るいい加減な私だけど、私と付き合ってもらえないだろうか、雷。雷のことが好きになったんだ」

 今夜告白する気などなかったのだが、勢いに流されて告白してしまう自分に内心驚く。しかしやはり、雷は凍り付いてしまったか。俯いたまま、大好きなはずのプリンを口に運ぶ手が皿の上で浮いている。
「急で、驚かせてしまったかな?」
 こくん。
「…ぎど…さん…」
「ん?」
 重くならないように、さりげなく振る舞う。
「…まだ…わからない…」
「ああ、当然だ。今すぐどうこうってワケじゃない。でも、恋人同士になれないからと言って、今までの関係を崩したくないんだ。それには私にも時間が必要かも知れない。決してこれっきりの関係にしたくない。友人に戻れるまで待ってもらうかもしれないけど、その後もずっと見守っていたい」
 そのくらいの覚悟がないと、雷を愛してはダメだと思った。
「…ごめんなさい…今日は、もうかえる」
 俯いて微かに震えて、今にも泣き出しそうだ。
 立ち上がって帰ろうとする雷を、素直に玄関まで見送る事にした。
「雷、どう転んでも、もうお前は一人じゃないからな。失うのが怖いからって一人で我慢する必要はないんだよ。お前がうんざりして義童なんかどっかいけって言いたくなるくらいまとわりついてやる。それくらい、愛してるよ」
「な…」
 俯いてばかりで伏し目がちだったけれど、じつは大きかった目を見開いて雷は義童を凝視した。
「お前の気持ちなんかお見通しだよ。私が寂しそうだから、私が飽きるまで付き合ってやろうとか思ってたんだろ?いついなくなっても良いように、バリア貼ってただろ…」
 また俯いて唇を噛む雷を引き寄せ、抱き締めた。
「愛してるよ、雷。本当は帰したくない」
 耳元に囁く。
「でも、どうしても帰るなら…プリン持ってけ」
 少しだけ身体を離し、ガウンのポケットに新しいプリンを滑り込ませた。
「食べながら、ゆっくり考えて良いから。ただし、私の気持ちじゃなくて、自分の気持ちを優先しろ」
 ガウンをしっかり着せ直して、もう一度抱き締める。
 びっくりして息を飲む音がした。
「お休み、雷」
 身体を離すと、雷はするっと逃げていった。
「明日は私がコロッケを作るよ」
 背中に向かって声をかけると、微かに頷いた。

  

きっかけ

義童と雷