「いつまで此所で油を売るつもりだ?」
「義童がその小猿と別れるまで」
 克彦は毎日のように事務所にやってきては雷を威嚇し、義童にしなだれかかる。克彦の威嚇にもだいぶ慣れ、適当にあしらえるようになった雷は、もうすぐ自分の職場に復帰することになった。
 そろそろ戻さないと、雷が担当していた客の中で最も危ないそっち系の客が義童の事務所に抗議を入れ始めたと言うこともある。偉い人が直々に来たときには当然みなびびりあがったが、雷とは仲が良さそうで、最後には義童に新しい事務所の設計まで頼んで帰って行った。帰り際、折り悪く克彦が乱入。義童の事しか考えていない克彦は取り巻きを連れた会長だか組長だかの怖い人の群れを分断しても、気にもしなかったようだ。会長だか組長を肩で払い除けながら義童に突進。会長だか組長だかは、取り巻きが騒ぎ出すのを制し、義童の前に立ちはだかる雷に向かって「退け、チビ猿」と凄む美貌の青年を面白そうに見ていた。
「何、あの下品な集団?」
 克彦は雷の淹れたコーヒーを啜りながら、高級車に乗り込む集団を窓から見下ろしていた。
「新しいクライアント。事務所の設計を頼まれた」
「元は俺のお客だよ」
 克彦は、これ?と頬に指で線を引く。
「うん。でもいい人」
「義童、こいつを東京湾に沈めて貰えば良かったのに!」
 雷は、克彦のことがそんなに嫌いではなくなった。口は悪いけど、心底憎くて言っているのではなく、克彦も心の底で寂しいのでは?と思ったから。綺麗で才能もあるからみんなにちやほやされて、でも誰も本気で愛してくれない。たぶん、義童だけがいつも克彦のことを心から心配してくれている。最初は愛し合っていたのかも知れないけど、今は克彦もそんなにしつこく付きまとうほど愛しているわけでは無さそうだ。乱入して騒いでいくのは昼間だけだし、義童の家には一度来たっきり来ないし。克彦は、我が儘を聴いてくれる人じゃなくて、我が儘を止めてくれる人を待っているんじゃないだろうか。
「そうかもな…私は黙って聞いてやるだけだった。父親か兄か、そんなところかな?」
「義童さんは俺の言うことは聞いてくれないよ?強引に仕事休ませちゃうし、嫌だっていってもやっちゃうし、ここでそんなことするなって言っても聞いてくれないしっ!」
 ギャラリーがいることを気にも留めずに、義童は雷を膝の上に乗せ、首筋に顔を埋めている。事務所の連中は全く気にしていない。克彦でさえも見て見ぬふりをしている。それどころか、義童にちょっかいを出されて赤面している雷をからかう方が楽しいらしい。義童を追いかけるより、雷と憎まれ口を叩き合う時間の方が多くなりつつある。
「さてと。雷は克彦と向こうでケーキでも食べていなさい。私は今の仕事を片づけてしまうから」

「チビ猿、もうぴっかぴかじゃんか、ここは良いからお茶もってこいよ。社長からお菓子預かってきたしー」
 雷が修理工場へ戻ると、何故かその日から克彦も修理工場へ出向いてちょっかいを出すようになっていた。
「義童さんの事務所へ行けばいいでしょう?克彦さんみたいなおしゃれな人が来る所じゃないし。俺この車早く仕上げないと、もうすぐお客さんが取りに来るんだ」
「しあがってるじゃん?」
 素人にはわかんないよ…とひとりごちながら黙々と作業を続けていると、イカにもな車が一台、工場の中に入ってきた。その車が入った途端、工場のシャッターが閉まる。
 真っ白な車体にスモークガラスのメルセデス。その車から降りてきたのもイカにもな風体の男達だった。いち早く出てきた助手席の男が後部座席のドアを開ける。たぶんその男が一番偉いのだろう、長身でがっしりした体躯に物騒なオーラを振りまきながら、降りてきた男。
「もう…克彦さんのせいで間に合わなかったじゃないか…」
「え…このマセラティ、あいつの?」
 この車に一番乗って欲しくないタイプの男だと、克彦は思った。デザイナーとして許せない。イタリアン・マフィアなら乗っても良いが暴力団員が乗るなど言語道断、だがその根拠はと問われると、独断と偏見、と答えるしかない。克彦はぴかぴかの車体にわざとこっそり手のひらを押し当て、手の跡をべったりつけた。怖い物知らずも甚だしい…
「おう、雷。できたか?」
「すいません、あと二十分くらいかかります」
「かまわねぇ。どうせそのくらい待たなきゃここを出られねぇからな」
「乗って帰られますか?」
「おう。久しぶりにドライブでもしようかと思ってな」
 見た目通りの重低音ヴォイス。成りと職業さえ普通なら男前なんだけどな…と思いながらも、克彦は関わり合いにならないように待合室に移動した。しかたがないので自分でコーヒーをつぎ、義童の事務所から失敬してきたお菓子の包みを破る。もちろんこのお菓子の店も義童達が設計した。いしだ洋菓子店、と言うなんとも頂けないネーミングながら、作るケーキは絶品だ。夫婦二人でぼちぼちやっていたけれど最近息子も手伝い始めたようで、そうなると将来のことも考え、古くなった店舗を建て替えることにしたらしい。味だけは変えてくれるな、と克彦は願っている。
「克彦さん、組長さんもここで待ってもらうけど良い?」
「えーーー…これ食べ終わるまで待ってよ」
「…冗談だろ…」
 組長さんを待たせるなんて、冗談でも図々しいと言うか恐ろしいというか…。雷は盛大に散らかったお菓子をきちんとまとめ、会長のためのコーヒーを淹れ、テーブルに置いた。
「どうぞー」
 声をかけるとドアをくぐるように、その男が入ってきた。ベンチと折りたたみ椅子しかなくて、ベンチは克彦が陣取っていたので男はぎしぎし言わせながら折りたたみ椅子に腰掛けた。克彦の斜め前あたりである。克彦は組長だか会長だかを上から下まで二往復眺め、素早く全身チェック。
(ロロピアーナかゼニアか、生地と仕立てはめちゃくちゃ良いけど、着てる本人がね…)
 焼き菓子を手元の温いコーヒーで流し込み、克彦はすっと立ち上がると優雅な足取りで出口に向かう。
「…おい、あんた」
 そのヤクザの脇を通った瞬間に克彦は腕を掴まれた。ヤクザは腕を掴んだまま立ち上がると、キッと見つめる克彦の美しい顔にもう片方の手を伸ばした。
 な、な、な、なぐられる!
 と思ったものの、気の強い克彦は動じないばかりか益々鋭い視線を放った。
「菓子の屑が…」
 ヤクザは克彦の反応に小さく笑いながら、唇の横についたお菓子の屑を指でそっと払い、ついでに胸元に散らばった食べかすを軽くはたき落としてやった。
「美人が台無しだ」
 普通の神経の持ち主であれば、礼を言うなりするのだろうが、もちろん克彦の神経は普通ではない。
 ヤクザに氷のように冷たい視線を送り、その視線をゆっくりと、自分を掴む手に下ろしていく。無言で『離せ』と言うがごとく。掴む力が僅かに緩むと、克彦は敢えて腕を引き抜こうとはせず、歩き始めた反動で自然に腕がするすると抜けるに任せた。完全に抜け出す少し前、ほんの一瞬だが指先が触れ合った。お互いの体温を感じて、克彦の指先がぴくっと震えた。恐ろしいのは、克彦の一連の動作がわざとではないと言うこと。下心がある者達にとっては駆け引きとも取れる媚態が、克彦にとっては自然な動作でしかないと言うこと。
 何事もなかったかのように控え室から出て行った後に残された雷はただただ唖然とするばかりだった。
「…克彦さん、すげぇ迫力…」
「克彦って言うのか?」
「あ、はい」
「建築家先生の事務所でも見掛けたな」
「義童さんの元彼です」
「ふーん…」

「でね、組長がその後ずっとにんまりしてた。気にいられちゃったのかな?」
 ベッドの中で義童に背後から抱き締められた態勢でその日の出来事をとりとめもなく話す、一日の終わりのこの時間は雷が一番好きな時間だ。
「それはあり得るな…組長の事務所の家具、克彦にふってみようか?」
「うん…でも…」
 新しく揃えたパジャマのボタンをゆっくり外そうとしている義童の手を、雷は軽く押さえる。
「でも…?」
「組長は、堅気には絶対に手を出さないって…」
「ささいなきっかけで、恋が始まる事もある」
 決して嫌がっているわけではない雷の手の動きを無視して、義童は雷の滑らかな胸元に手を滑り込ませた。
「マカデミアナッツみたいに…?」
「ああ…」
 答えとも、吐息ともつかない囁きが雷の耳元をくすぐる。
「ん…んっ」
 雷の身体に灯った小さな快楽の炎を消さないように、そっとそっと、羽根のように柔らかい愛撫をそそいだ。

END

   

6
きっかけ

義童と雷