「ああもうっ!!」
 持っていた鉛筆でそれまで描いていたデザインをぐしゃっ、と塗りつぶす。
「どうしたの?克彦」
 珍しいことに朝から事務所で仕事をしている克彦、そして行き詰まってはクロッキー帳を破り捨てている克彦に、同僚が笑いながら声をかけてきた。
「んーーーっ!でーきーなーいーっ!これ今日中に仕上げとかないと、週明けにお客さんの所に行かなきゃいけないんだ。週末は今夜から旅行なのにぃ…」
「旅行って、もしかして本田さんと?」
「うん。雪以外の誰と行けと」
「で、どこに行くの?」
「お・き・な・わ」
 夕方、本田の迎えが来るまでに仕上げておかなければならないのに、そわそわするばかりで何も手につかない。
 これはきっとあのせいに違いない。
 克彦はデスクの引き出しからポーチをとりだし、休憩してくるね、と言って何処かへ行ってしまった。


 午後から何とか気持ちを切り替え仕事を終えると、克彦はまったりモードで本田からの迎えを待つ。今日のおやつはティー・オーレと誰かの手作りクッキー。ホワイトチョコやラズベリーが入った素朴な味のクッキーは紅茶に良く似合っていた。
「これ、誰が焼いてきたの?」
「俺」
 と答えたのはシェフの資格も持つ料理の達人、岩城剛(いわき ごう)だった。厳つい名前のくせに見かけは小柄で可愛らしい。
「良いお嫁さんになるよ」
「…ありがとう」
 ごーくんは、バイセクシャルで、好きな女性は大柄で恐そうなタイプ、好きな男性は自分より小柄で大人しいタイプ、これも見た目を裏切っていた。お陰で恋人いない歴が長い。
「克彦、旅行の準備はもうすんだの?」
「うん。雪と旅行するときはさ、何にも用意しなくて良いの。みーんな雪が揃えてくれるんだ。正確に言うと、揃えてくれるのは吉野さんなんだけどね。俺は身一つで待ってれば、いつのまにか目的地に着いてるの」
 と答えた夜には石垣島のリゾートホテルのスイート・ルームのベッドの上に放り投げられていたのだった。


「ねぇねぇ、沙希ちゃんから絵はがきが届いたよ。園部さんとキーウエストって所に行ったんだって。いーなー…」
 事の発端は沙希から届いた三枚の絵はがきで、三枚も絵はがきを送るなら三枚まとめて一枚の封筒に入れて送った方が良いだろうと思ったが、小さな字でびっちり書かれ番号も振られている絵はがきを見ると、なんとなく沙希ちゃんっぽくて微笑ましい。
 時々電話で話しているが、余程楽しかったのか、絵はがきの文章も電話の内容と一緒で克彦は自分もそこにいたかのような物知りになっていた。
「日本の最南端って言ったら…どこ?」
 その辺にいた生き字引としても優秀な黒瀬組の組員に訪ねると、『沖ノ鳥島』と答えが返ってきた。
 朝の挨拶を済ませて昼頃社長室の前室、吉野の部屋にたどり着いた克彦は、吉野に背中を押されながら社長室に向かう。
「吉野さん、沖ノ鳥島って、良いホテルとかあるの?」
「…さぁ…さすがに私も行ったことがありませんから…ホテルは無いでしょうね。さあ、社長がお待ちですよ。社長にお聞きした方が良いのでは?」
 本田とは今朝別れたばかりだが、やはりいつ見てもドキドキする。昨夜は本田の帰りが遅く、それでも軽く三回ほど逝かされ、本田の腕の中で死んだように眠った。朝もデレデレしたけれどまだ足りない。
「雪柾、お疲れ様」
 デスクに座っていた本田が立ち上がり、克彦に近づく。克彦はソファーに座ると本田が隣に座りながら抱き寄せるに身を任せた。
「ねえ雪、日本の最南端って沖ノ鳥島?」
「ああ、そうだな」
「そこって泊まるところあるの?」
「無いな。なにしろ畳一畳分の陸地しかない」
「ええ!なーんだ、そうなんだー…じゃあ泊まれるところで最南端は?」
「…沙希の絵はがきか?」
 克彦も最南端へ行きたいらしい。
「うん。南だったらあったかいよね?寒くなったら行きたいなーって…」
「克彦、今週末、石垣島は晴れだそうだ。お前の予定は?」
 克彦は瞳をキラキラさせながら答えた。
「忙しいけどなんとかする!」


「…雪、なんでいきなりベッド!…せっかくなんだから遊びに行こうよ。お腹空いたし、泡盛も飲まなきゃ…ぶくぶく茶も…ふむっっ…ん」
 時刻はまだ夜の9時である…
 仕方なく、ジタバタ暴れる克彦を押さえつけていた両手を開放し、ベッドの上に起こしてやる。
「やった!でも俺ここは初めてなんだけど、良いお店とかあるのかな?雪の知り合いとかいないの?同業の人とかは?」
 実は先発隊を繁華街へ送り出していた。どうせ夜は飲んで騒ぎたがると思ったので下調べを兼ねて送り出していたが、克彦が今夜は大人しくしているようなら先発隊はそのまま繁華街で飲んでいても良い、と伝えておいたのだ。
「同業の知り合いはいないな。どっかの組の出張所があることはあるが…本土とは表だって繋がっていない、俺たちとは形態が違う組はある」
「ふーん…危険?」
「誰に尋ねてる?」
 不敵に笑う本田の顔に、克彦は腰砕けになりそうなのを我慢して元気よく立ち上がった。
「うん。雪は強いもんね。じゃあ楽な服に着替えて出掛けよう!」
 仕事場から直行した二人はスーツのままだった。秋物を着ていたので少し暑い。
「雪も…これと…これに着替えて。めっちゃ格好いいのを吉野さんに選んでもらったんだ」
 

 吉野はスーツ以外のセンスは最悪なはずだが…人格が変わったときに着る服もある意味悪趣味で、どっちの吉野が選んだ服も辞退したかった。
「いつ選ばせたんだ…」
 本田は目の前で服を広げてみせる克彦に頭を抱えた。
「千草スイッチが入ってるとき」
 ピッタリした黒レザーのライダーズ・スーツ。克彦は豹柄のパンツにお揃いの丈が短いジャケット。白いタンクトップは本田とお揃いだった。
「千草さんがナイフ舐めながら選んだの〜」
 いつの間に!と怒鳴りそうになったが、ナイフ片手に町をうろついたのではなく、沼田といちばん・にばんが目を光らせる中、ネットのショップで選ばせたのだそうだ。
「危ないことはするんじゃないぞ…」
 いくら屈強な男が3人見張っているとは言え、人格が変わっているときは危険である。千草がどこまで克彦を認識しているか分からないので、万が一克彦が襲われでもしたら…
「大丈夫。千草さんの背中にスイッチがあってね…」
 最後まで言わせずに、本田は強引に克彦を引っ張ると、夜の町に繰り出していった。
 
 

 服装だけなら派手な人間は五万といるが、それを纏っている中の人間までゴージャスな場合は少ない。美貌の青年と端正で研ぎ澄まされた男前が二人も肩を並べて歩いている場面に出くわす確率などゼロに等しく、今夜、この街で彼らを見掛けた者達は幸運だったろう。
 先発隊にもできるだけ目立たない私服で行動するように伝えてあるが、今夜は目つきの鋭い観光客が増えており、最後の仕上げがこの美丈夫と美青年では、地元のその筋が警戒してもおかしくはなかった。
 レンタルしたメルセデスでほんの少しの距離を移動する間、本田は携帯で部下と連絡を取り合っていた。
「克彦、クラブが良いか?それともバー?」
「んー…クラブってお姉さんがいない方の、若向けの?ガンガン踊れそうなところ?」
「…年上のお姉さんがいるところだそうだ。若い子が多い店より面白いらしい…」
「そこ行く!」
 都筑の母親が経営するスナックへ行って以来、克彦と友人達の間では『場末のスナック巡り』が流行っていた。
 克彦は自分の家族のことを一切話さないし、高校を卒業してからは一度も実家に帰っていないような感じだった。本人が話してくれるまではその事には触れない事にしている。両親と疎遠なせいか、自分を理解してくれる年上のおじさんおばさんには良く懐き、そんな人達が経営するお店で愚痴を聞いてもらったりしかってもらったりするのが好きなようだ。
 

 そんな克彦の趣味を良く知っている都筑が選んだクラブというかスナックは…
 ありがちな「暴力団追放宣言の店」のステッカーを横目で見つつ、都筑の先導で店に入る。カウンター10席、ゆったりとしたボックス席五つで狭い印象は無い。都筑が話しを通してくれていたのか、最奥のボックス席へ案内された。ただし、そこにたどり着くまでが大変だったのだが…
 本田と克彦が店内にはいると全員の視線が集中する。一瞬静まりかえった店内で最初に聞こえるのはいつも、克彦の挨拶だったりする。
「ども〜…」
 と、笑顔を振りまきながら花道を歩くように移動すると、一斉にため息やら感嘆の声やらが聞こえてくる。黄色い声が押し殺されるのは、直ぐ後ろに控える本田の鋭い視線のせいだろう。今日は全員が私服だったし黒瀬組二大スターは欠席なので、いつもほど目立つ集団ではなかったが、克彦以外は強面ばかりなので柔らかさが足りなかった。
「まぁまぁ、めんそーれ、ゆたさんいきがね〜」
 外国語のようだが、意味するところは何となく分かる。そしてその言葉を発した50代くらいのお姉様がママさんなのだろう。
「どこの国の王子様かしら?お供の方も立派な方ね」
「東京から、さっき着いたんです」
 

 ママさんは克彦の事がとても気に入ったようで、手を握って席まで案内する。克彦達の手前の席では既に部下達が着席していたが、何にも手を付けず待っていたらしい。本田と克彦が現れた途端、一斉に立ち上がる。
「なーんだー、みんな来てたんだ!雪柾が何も言わないから都筑と3人でしんみり飲むのかなって思ってたのに。みんな一緒だったらぱーっといこうね、ぱーっと。ママさん、こっちの人達も優しくしてあげてね。みんな見た目は厳ついけどいい人達だから。あ、向こうの人達も気にしないで騒いでね。カラオケもがんがん歌って!その代わり俺も歌わせてね」
「あらごめんなさい、うちはカラオケ置いてないのよ」
「えー…そっか…」
 敢えて何も指定しなかったが、都筑自身も懲りたのか。
 本田は少しがっかりして大人しくなった克彦を引き寄せ、席に着かせた。
「良くやったな、都筑」
「いえ、旅の恥はかきたくないっすから」


 
「ふーん、で、そいつら銀子ばばぁの店に入っていったのか?」
「ええ。夕方から見掛けた観光客の何人かがそこで合流した後に…えっらいいい男の二人連れが入ってきたら、みんな立ち上がって出迎えたそうですぜ。なんでも東京から来たとか…一人はその辺の女より綺麗な男で、連れは背が高い目つきの鋭い男だそうです」
「名前は?」
「雪とか克彦とか呼び合っていたそうです。取り巻きは社長とよんでいたそうで…」
「銀子ばばぁからそいつの名刺ふんだくってこい」
「わかりました」


「あ…同業者…」
 入ってくる客にさりげなく目を配っていた都筑が、ど派手なスウェットにこれまた派手なアクセサリーをした男に視線を止めた。視線が絡み合わないようにするのもこういう輩と問題を起こさないための技である。
 都筑は向こうが見ていないのを確認してから本田に耳打ちした。
「放っておけ。こちらからは動くな」
「はい。しかし…手本のような格好ですね…」
 克彦はママとすっかり意気投合してハイテンションで話し込んでいて、本田と都筑の会話など聞いていなかった。
 そのママが、入ってきたヤクザに気が付き席を外そうと克彦に断りを入れると、克彦はその入ってきた男に指さし確認をしてしまった…
「あ!ゆき、ヤクザの人だー!」


 克彦の元彼、義童が克彦をしばく場面を何度か見たことがあるが、この世の頂点に君臨するかのような恐いモノ無しの本田にとって、指さし確認くらい可愛い仕草だ。だが今回の場合は少し違う。血縁関係を重視する沖縄のヤクザ社会は、本土の擬制の血縁関係で結ばれたヤクザとは根本的な部分で相容れない。取引をするにしても常に裏切りや寝返りに気をつけねばならず、些細なことですぐ抗争に発展するため、本土から見れば面倒臭い事この上ない。黒瀬組としても、沖縄という狭い地域を手にするより海外進出に力を入れた方が組の発展に繋がるというもの。
 純粋に休暇を楽しむ場所としては良い場所なので、できるだけ波風は立てたくないが、指をさされて「ヤクザ」と言われて喜ぶヤクザも少ないだろう。東京であれば「黒瀬の…」で済むが、ここではどんな火種になるか分からなかった。
 本田はやんわりと克彦の腕を下げ、それ以上何もしでかさないようにぐっと自分の方に引き寄せた。
「大丈夫よ、ちょっと待っててね」
 本田の行動に気を利かせたママが、克彦の膝をぽんぽんと叩いてヤクザ者の方へ向かっていった。


「ゆき、俺、指さしちゃいけなかった?」
 いつでも好きなようにさせてくれて、指さし確認も笑って見ていた本田に止められたことで高かったテンションが一気に下がったようだ。
「いけないことは無い。俺たちには何の問題もないが、向こうのお兄さんはそう思ってくれるかどうか、だな」
「やっぱり俺が悪いんじゃん…」
「気にするな。任せておけ」
「社長、来ます」
 都筑が言うと同時に、ヤクザ者が何やらわめきながらずんずん近づいてきた。隣のテーブルに座っていた部下達が立ち上がり、素早く本田のテーブルの前に人垣を作る。
「てめぇ、なに人のこと指さしてんねや!女みたいな顔しやがって、躾けしなおしたるわ、どかんかぃこのぼけっ!」
 何故かイントネーションが関西風味で、克彦は顔を突っ伏してぷっと吹き出してしまった。
「今更泣いてもおそいんや。人の顔に泥投げつけとって、どう落とし前つけるきぃや!?あぁっ!?おまえら、どけやっちゅうねん!」
 

 そのまま泣いた振りしていろ、と本田が囁くと、笑いに歪む口元をしっかり隠したまま、克彦は肩を震わせながら堪え忍んだ。
 どけ、と言われてどくわけがなく、どかない男達に頭一つ下から斜めにメンチを切って来る。ヤクザ者が人垣を崩そうと強引に身体を割り込ませたが、鍛えられた部下達の身体はびくともしなかった。
「都筑」
 もうそろそろ良いだろうと、本田が暗に促し、都筑が立ち上がる。
 都筑は胸の内ポケットから見事な細工が施された銀色の名刺入れを取り出し、本田の表の会社の名刺をヤクザ者に渡した。
「申し訳ございません。後ほどお詫びを」
「あぁ!?お前が本田か!?社長!?社長がそっちの態度がでけぇクソガキに振り回されてんのか?」
 ヤクザ者が本田と克彦に向かって顎をしゃくる。
「はーっ!世も末だね。途中で泣き出すようなガキのお守りかょ、ご苦労なこって。詫びだぁ!?詫び入れるのはそっちのクソガキだろうが?どきやがれこの木偶の坊!!」
 つま先を思いっきり踏み、腹に拳を打ち込まれても、その部下はびくともしなかった。
「…?」
 ヤクザ者があっけにとられて自分の拳を見つめていると…
「うちの者に何するんだよっ!!」
 

 立ち上がったのは、克彦だった。部下の肩口から顔だけ出してヤクザ者を睨みつける。
「ったく黙って聞いてれば好き勝手なことばかり言って!だいたい、あんたのその服装、どっからどうみても一昔前のいけてないヤクザじゃん!今時そんなど派手な格好、東京じゃヤンキーだってしてないよ!もう少しセンス磨いたら!?それに直ぐ暴力振るうなんて最低!詫び入れるのは俺とか言っておきながらなんで他のヤツを殴るんだよ!しかも全然、びくともしてないし。相手の強さを見極めるのも度量のうちなんだよ!それに何、その関西風味のイントネーション!沖縄県人だったら沖縄県人らしく沖縄語で話せよ!俺は泣いてたんじゃなくてヘンな言葉遣いに笑ってただけだよ、失礼な!あとそれから、こっちが名刺出してんだからあんたも名乗れよ!躾ができてないのはあんたも一緒じゃないか!それに俺の指さし確認は親しみの表現なのっ!分かった!?」
 ヤクザ者は暫くあっけにとられた後、ちっ、とか、覚えてろよとか捨てぜりふを残して店を飛び出ていった。
「ママ、今の何者?」
「克彦ちゃん、やっちゃったわねー…今のは小桜一家の総長の甥だよ。照屋(てるや)さんて言うの」
「…小桜インコ?」
 もちろん克彦は冗談で言ったのだが、店中でウケまくって暫く笑いが止まらなかった。
「そうね〜、本田さんが鷹なら、照屋はインコだね〜。克彦ちゃんはクジャクかしら?」
「俺子どもの頃インコ飼ってた!でも本物のインコの方が可愛い…よね?」
 今更話を変えても遅いが、一応本田に意見を求めながら顔色をうかがう。
「インコよりクジャクより、お前の方が可愛いな」
 本田に怒られたことなど無いのに、克彦は自分が我が儘だという自覚があるので、ついやりすぎたときなどは本田が怒ってないかどうか心配になる。
「でも少し困ったことになったわね。照屋さんはそれこそ克彦ちゃんが言うようにいけてないちんぴらだから、直ぐに仲間を集めて来るわよ。お店の中にまでは入ってこないけど…きっと外であなた達が出てくるのを待ってると思う。名残惜しいけど、早めにタクシーで帰った方がいいわ」
「ゆき…」
 心配そうに見上げる克彦とは逆に、本田は表情も変えずに静かにグラスの酒を飲み続けている。
「克彦、セット料金2時間2千円、まだ一時間しか経ってないぞ。その後はバーに行くんじゃなかったか?」
 いけてないちんぴらに予定を変更されるなど、あってはならないことだ。
「行っても良いの?」
「誰にもお前の邪魔はさせない。都筑、50m以内の地理を把握してこい。桑野、吉野に連絡して小桜一家の資料を。後の連中は待機しておけ。一時間後にここを出る」
 

「本田さんって、ほんとに素敵。克彦ちゃんは社員思いの優しい子よね。だからみんな克彦ちゃんを守りたいと思ってるのかしらね?」
 ママがぐるっと見回すと、微かに頷いたり、照れて下を向いたり…
「みんなが優しいからだよ。俺さ、最初はみんなのことが大嫌いだったんだ。それなのにみんな優しくしてくれて…ゆきは特に…俺なんか我が儘しか言わないのに、何でも言うこと聞いてくれるんだ…」
 それから店を出るまでの間に、常連客ともすっかり仲良くなった克彦は、明日も来るからね〜、と手を振りながら店を後にしたのだった。
 その少し前、小桜インコは手下を集めて店の前に集結していた。

 
「ゆき、いるかな?いるよね…」
「さあな。どっちでも構わないが」
「裏から出る?一階のお店の裏口とか…」
 本田にそんな子ネズミのような真似はさせたくなかったが、問題を起こすよりは良い。沖縄まで来て警察沙汰にでもなったら…
「表からで結構ですよ」
 偵察をしてきた都筑が一言言った。
「当然だ」
「組長、これを」
 桑野が何かの書類を差し出した。吉野からの返事をもらった後、桑野は直ぐに何処かへ出掛け、たった今戻ってきたばかりだった。
 桑野から手渡された書類をパラパラめくりざっと目を通す。
「久しぶりだな、ヤクザな仕事は」
 本田はにやっと笑って書類を桑野に返した。
 建物の外に出ると本田のメルセデスの他に、地元の小桜インコがうようよ待ちかまえていた。
「克彦、お前は先に車へ。大人しくしてるんだぞ?」
 本田の物言いはとても柔らかで、克彦を気遣う気持ちが溢れている。
「うん」
 と言って素直に後部座席に収まったが、ウインドウをちょっとだけ下げたのは愛嬌だ。
「てめぇらただで返すと思うなよっ!小桜一家をなめんな!」
 先にさえずったのは小桜だ。
 舐める気など毛頭ない。本物のインコならまだしも、目の前の小桜は見るのも嫌なオヤジだ。
「…」
 

 本田は一言も発さずに小桜を見据えた。黒瀬を知るものなら、その視線の意味するところを知っている。が、さすがに南の果てまでは行き届いていないのか、本田の切るような眼差しに、果敢に挑んでくる。
 本田は克彦の乗るメルセデスを背に回し、インコの群れの前に立ちはだかった。黒瀬組の戦闘隊形は組長である本田が最先頭だ。たとえ相手が懐に何を隠していても、本田の判断力と運動能力に勝るものは無く、慣れない物を振り回す日本のヤクザ相手ならば、本田にはかすり傷ひとつ負わすことができないだろう。
「てめぇ、何とか言いやがれ!」
 本田の周囲では、汚い顔を更に歪めて巻き舌で意味不明な言葉が飛び交っている。またその外側には人垣もできはじめ、警察が出てくるのも時間の問題だろう。
「桑野、さっきの書類をかせ」
 差し出された書類を受け取り、小桜の照屋に突きつける。
「これがなんだか分かるな?」
 それは、照屋が時々薬を横流ししてもらう医師のリストだった。組には内緒の小遣い稼ぎだ。
「医者の一人を捕まえてある。こいつと一緒にお前のオヤジんとこへ行っても良いんだぜ?ここで諦めて一切手をださねぇってんならこれは忘れてやる」
「て、てめぇみたいな小僧に脅されて、ひ、ひ、引っ込むとでもおもってんのか…」
 

 リストを目で確認しながら、最初は勢いがあったが次第に事の重大さに気が付いたのか、だんだん尻すぼみになっていく。
「な、なんで知ってんだ、これ」
「さぁな。ここで油売ってる暇があったら逃げる準備した方が良さそうだぞ。この資料の持ち主は組対だ。誰かがてめぇを売ったんだろう。他所の組にちょっかい出す暇があったら足元固めることだな」
 照屋は慌てふためき、先ほどとはうってかわった間抜け面であたりにせわしなく目を配り始めた。警察がいないかどうか見回しているのだろう。こうなればもう誰も信用できないのが沖縄ヤクザ社会の特徴だった。
「どけっ!おまえら勝手にしろっ!」
 と子分達を押しのけ車に乗り込むと、大急ぎで走り去っていった。
 本田は手にしていた書類にライターで火を付け、燃え散った事を確認すると、克彦の隣に滑り込んだ。
「待たせたな。次の店に行こう」
「…良いの?」
 迷惑を掛けたのは自分の方なのに…あの書類を手に入れるために吉野や桑野が無理をしたのじゃないだろうか…
「次の店でおごれよ?」
 お酒の10杯や20杯、おごったところで普段から世話になっている十分の一、いや百分の一、千分の一?…も返せないけれど…本田の願い事はなんでも聞いて上げるぞ、と心の中で拳を握った。


 やっぱりかっこいいなぁ…
 ほろ酔い加減で見る本田はどの角度から見ても克彦の男心をくすぐる。
 二件目のお店では何事も起こらず、黒服達も本田と克彦が二人きりで静かに飲めるよう店の外で待機していた。と言っても相変わらず二人は注目の的で、ときどき克彦が本田に寄りかかると店中の客の視線を一身に集めていた。
「ゆき、さっきの横流しの話し、本当なの?」
「インコか?本当だ」
「吉野さんと桑野さん、無理な事してないよね?」
「ああ。吉野は知り合いから情報を手に入れて貰って、桑野はプリントアウトしに行っただけだ」
「知り合いって?」
「紅宝院。いりこが手伝ってくれた」
「えー!?いりこ!?懐かしー!元気かな?てか、なんでいりこが?」
「あいつはあれで天才なんだ。コンピューター関係のな。紅宝のコンピューターシステムはいりこが管理してるそうだ」
「うわー、うわー、凄いいりこだったんだね。お土産買っていかなきゃ!何が良いかな?やっぱいりこ?キビナゴくらいに昇格?」
「市場で見繕って送るか?」
「うん。うちにも送ろうよ、みんなで料理して食べよう!いりこと彼氏を呼んじゃだめ?沼田さんの彼にもまた会いたいなー」
 

 沼田が紅宝院関係者と繋がっているとは言え、深い交流はない。が、紅宝院が纏う雰囲気はいつまでも忘れることができないくらい清澄で…いや、花月院だったか、あの少年は。愛する者を守りたいと、祈ることしかできない少年だったが、その受動的な強さは、攻め続けることでしか強さを誇示できなかった本田に新しい認識を芽生えさせた。
 克彦の場合、性格が少々ひねくれているので周囲から誤解を生みやすい。 自分なりに友人や家族を守ろうとして自爆を繰り返しながらも、諦めずに立ち上がって燦然と輝きまたやりすぎて倒れると言う滑稽な一面を持っていた。
 その滑稽さが可愛いと思えるようになったのは、花月院の少年のお陰かも知れない。思いが少しでもハンパなら、本人が再起不能になってしまう。そうならずに輝き続ける強さをもった人間を見たからこそ、克彦の事が目にとまったのだ。本田自身が盲目のままだったら、克彦もただの馬鹿にしか見えなかっただろう。克彦との出会いも無く、無味乾燥な日々を過ごし続けていたかも知れない。
「好きなだけ好きなやつらを呼ぶと良い。二人で料理の腕を振るうか」
「うん」
 頷きついでに本田の腕に額を押し当てる。そんな仕草も本田の心に深く突き刺さり、ここがバーでなければ速攻で押し倒していた。
「帰るか…」
 一刻も早く克彦を抱かなければ、気が狂ってしまいそうだった。
「うん。じゃあここは俺が…払う…けど…」
 内ポケットを探ろうとして、内ポケットがないことに気が付く。ホテルでスーツからラフな格好に着替えた…
「…あぁぁぁ…」
「どうした?」
「財布忘れたぁぁぁぁ…」

 

前編
黒瀬組シリーズ

雪柾と克彦

Go!石垣Go!