そのバースマークが消えてしまったのはいつ頃だったか。
 自分の身に降りかかった事の意味も分からず、ある日突然いなくなった父と母を探して、探して、泣きじゃくっていた。確か、もうすぐ六歳の誕生日を迎える頃だった。
 誰かがしっかりと抱き締めていてくれたけれど、両親と三人でひっそり暮らしていた僕には慰めになるどころか、更なる恐怖でしかなかった。それに、何か硬い物がおでこに当たって痛かった。
 そのうち怖いより痛い方が気になりはじめ…
「…いたい…いたいの…」
 泣き過ぎて掠れた声で訴える。
 訴えながら精一杯腕を突っ張る。
「ん?」
 聞こえて来たのは優しい声。頭のてっぺんに、喉の振動が微かに伝わって来る。聴いた事がない、男の人の声。
「…おでこ、いたい…の」
 キツく抱き締めていた腕がゆるむ。痛みから解放され、心地よい振動を感じた上の方に顔を向ける。
「あ…ごめん」
 心底楽しそうな顔の男の人が僕を見下ろしていた。
くすくす笑いながら、僕のおでこを触っている。
「ははっ…ごめんね。制服のボタンの跡がついちゃった…ふふふっ」
 ひとしきり笑われ、その笑顔は父のものとも母のものとも違ったけれど、僕の恐怖心や猜疑心を振り払うには十分だった。初めて会うけど、ずっとまえから知っているような…
「やっと泣き止んでくれたね」
 その人はにっこり微笑みながら、今度はふんわりと、自分の頬と僕の頬を重ね合わせた。

「ハッピーバースデイ・トゥー・ユー〜ハッピーバースデイ・トゥー・ユー〜、ハッピーバースデイ・ディア・りょうく〜ん、ハッピーバースデイ・トゥー・ユー。心の中でお願い事をしてから、ふーってするんだよ」
 亮は小さな身体にいっぱいいっぱい息を吸い込む。
「ふーーーーーーーっ!!…全部消したよ!」
「うん、上手に出来たね」
「これ、全部食べて良い?」
「うん、今日だけ特別」
 美しい碧眼をこれ以上無いくらいに輝かせ、迅を見つめる。まぶしさに耐えきれず、迅は首に巻き付いていた亮を抱き上げると正面を向かせて膝の上に座らせた。
「でも、お兄ちゃんも少し食べたいな…」
「うん。いっしょにたべるの」
 ケーキにナイフを入れ大きめに切り分けると、嬉しいのか、亮は膝の上で身体を揺すり始めた。
「おっきいの、ぼくの!」
「はいはい…」
 取り分けたとたん、亮は生クリームに指をズボッと差し込んだ。引っこ抜いて生クリームまみれの指をうれしそうに舐めている。
「亮…そんな…いつもはおりこうさんなのに…」
 もう一度ズボッ。
「こんどはお兄ちゃんの!」
 そう言うと迅の口に有無を言わさず生クリームの付いた指を突っ込む。
「んっ!?ん〜〜〜!?」
 その後は二人ともお返しとばかりに、生クリーム攻撃。膝の上からずり落ちそうな亮を必死で支えていたけれど、そのうちそれも諦め、床の上で転げ回りながら笑い合う。
 

 ひとしきり暴れたあと、迅は生クリームでべとべとになった手を拭きながら、ポケットから小さな箱を取り出した。綺麗に包装してあった箱は、先ほどの大騒ぎで少しばかりよれていたけれど…
「亮。ちょっとだけ落ち着こうね」
 亮はまだ笑いがとまらないけれど、視界の中にプレゼントらしき箱を認識して、神妙になる。
「…??」
「はい、これ。プレゼント。でも、開ける前に…」
「おてて、洗ってくる!」
 転げんばかりの勢いでバスルームに駆け込むと、大急ぎで手を洗う。タオルで濡れた手を拭きながら、亮は迅の足元に滑り込んできた。
「開けてもいい?」
「どうぞ!」
 亮は、今までのあわてぶりは何処へやら、一つ深呼吸をすると、丁寧に包みをほどき始めた。その動作は子供らしくないと言えばそうだろう。今、自分の一番大切な人から貰ったものかと思うと、何よりも大事に扱いたかった。今までも両親から沢山のプレゼントをもらった。でも全て無くした。両親さえも今はいない。
 

 それは繊細な細工のペンダントだった。少し厚めで、真ん中に綺麗な蒼い石が嵌っている。亮は、一応男の子だったので、それが何なのかよく分からなかった。
「くびかざり?」
「うん。ロケットって言うんだよ。蓋を開けることが出来て、中に大切なものをしまっておけるんだ」
「大切なもの…どうやって開けるの?」
「ここに、小さなぽっちがあるだろ?これを押すと…」
 カチッと微かな音と共に、蓋が開いた。まだ何も入っていないが、言葉が刻まれている。
「なんて書いてあるの?かんじむずかしくてよめない  …」
「花月院亮六歳の誕生日に、紅宝院迅。今日の誕生日の記念だよ」
 亮はしばらくそれをじっと見つめていた。
「…ありがとう。ずっと大切にする…」
 頭の中で、また轟々と音が鳴った。
「トダー ラバー…」
「ん?なんて言ったの?」
「ありがとう…」
「他所の国の言葉?」
「うん。…他の国のありがとうも、言えるの」
「そっか。良い言葉だもんね」
 亮は、両親に言われた事を思い出していた。他の国の言葉は大人になるまで使ってはいけないと。その時が来たら、自然に出てくるからと。迅には話しても良いような気がした。ただ漠然と。


 その六歳の誕生日だけは今でも鮮明に覚えている。
 たぶん、いちばん嬉しくて悲しくて楽しくて辛かった日。
僕がおでこにボタンの跡を付けた日からその日まで、2人っきりで暮らしていた。
 幼い僕には分からなかったけれど、子供2人で1ヶ月以上も暮らしていられたのは、彼の両親もまた同じ時期に失踪していたものの、誰からも気に留められず放置されていたから。彼もまだ子供だったにも係わらず。
 今、十五歳になった僕からみても広大すぎる屋敷。ここで、十年前、二人で暮らしていた事があったんだな…たぶん僕は四階の屋根裏部屋に閉じこめられいていた。と言っても彼が学校に行っている間だけで、帰宅すると、次の朝までずっと一緒に彼の部屋にいることができた。絵本を読んでくれたり、機関車や車の模型で遊んだり、ブロックで遊んだり…でも、かくれんぼだけは一度でやめた。暗い屋敷の中でお互いに一人になる時間が怖かったから。
 夜は、しっかりと抱き合って眠った。僕は彼、お兄ちゃんののど元に顔を埋めて、お休みなさいの響きを頬で感じるのが好きだった。そしてそれから、お兄ちゃんの規則正しい鼓動を聴きながら、深く、眠りに落ちて行く。
 当時お兄ちゃんは十五歳。六歳の僕では想像もつかないほどの大人だった。両親以外でたまに交流があった大人は病院の先生と、お誕生日の日必ず来てくれたとても優しい叔父さん、そして時々訪ねてくるおじさんだけ。僕はそのおじさんが来ると、怖くて仕方がなかった。お兄ちゃんは初めて出会った、知らない大人の人。なのに、急にいなくなった両親の変わりにすがりつく事をためらわなかった。
 

 保育園はもちろん幼稚園にも通わなかった僕は他の子供とも遊んだことがなかった。言葉もうまく話せなかったし…僕は五歳になるまで言葉が出てこなかったのだ。いつも頭の中で呪文のような響きが轟々と渦巻いていて…両親の言葉は理解できたし、心の中で返事はしていたけれど…やっと外に解放できたとき、両親は喜んだと同時に、複雑な表情で顔を見合わせていた。それからは良く話すようになったのだけれど、やっと子供らしい会話が出来るようになったのは数ヶ月後のこと。両親が失踪する少し前のことだった。
 そして、僕の容姿。金髪に青い瞳…両親とも日本人であるにも係わらず、産まれた僕は金髪碧眼だった。それ故、どこに行っても両親の子供とは思われなかったし、例えそう信じてくれても、身体障害者と思われる。
 お兄ちゃんはいつも僕に、
「亮は天使の生まれ変わりだから、良いんだよ」
 と言ってくれた。
「背中に羽も生えてるだろう?」
 僕のバースマーク。片翼だったけれど、背中の中心に畳んだ羽のように見える痣があった。両親からは何も言われなかったので、お兄ちゃんに言われるまで、天使の羽だとか意識したことはない。自分でもはっきり見たことがなかった。お兄ちゃんと一緒にお風呂にはいるときに、背中を鏡に映して、一生懸命身体をねじってみた事はある。そうするとお兄ちゃんが手鏡を使って、よく見えるように上手に角度を合わせてくれた。
 

 その羽は、もう無くなってしまったけれど…

「何をいれようかなぁ…」
 亮は辺りを見回しながらロケットに仕舞う大切な物を探す。大切なもの、ずっと身につけていたい物…形ある物。でも、今の亮には何もない。両親と、迅の思い出以外は。
「亮が今一番好きな物は何?」
 そう言われた瞬間に思い立ったのは目の前にいる人の事。
「…お兄ちゃん」
「あはは。僕は大きすぎて入らない」
 そんなこと分かっているけれど。
「じゃあ、ちょっと待ってね」
 迅はそう言うと、立ち上がって部屋の隅にある小さなライティング・デスクの引き出しからはさみを取り出した。少し長めの前髪を一房、ざくっと切る。プレゼントに使われていたリボンも細く切り取ると、切り取った髪の毛を輪にして、そのリボンできっちり留めた。小さなロケットにぴったり収まる。
「どんなときも、亮と一緒だからね」
 そう言いながら、亮の首にロケットのチェーンをはめる。
 亮は小さな両手の平でそっとロケットを持ち上げると、しばらくの間じっと見つめていた。その姿は、まるで、祈りを捧げる天使のように、迅の目には映った。
 
 本当は、迅も泣きたかった。ある日突然両親が失踪。屋敷の使用人から何から、自分以外の人間が全て消えてしまったのだ。亮を探しに行ったあの日、父から携帯に連絡があり…授業中だったのでもちろん受けることは出来なかったが、留守電を聞くと、取り乱した父の声が長々と録音されていたのだ。初めて聞く父の震える声。ただならぬ声色。声に出せない痛切さを帯びた空気感に、自分の足が震えるのを感じた。
 …今すぐに花月院へ行け!庭の東側に物置がある。そこにある自家発電機の赤いスイッチを素早く三回押せ。隠し扉の鍵が開くから、中に入り、扉をきっちしめろ。各部屋に何かしら電気器具があり、赤いスイッチが付いているので同じ事を繰り返せ。幾つ目かの部屋に、亮がいる。見つけたら、落ち着かせて、一緒に先へ進め。2キロほど先の公園の神社の床下に繋がっているから、暗くなるまでそこで待て。その後は…その後は、お前の判断で行動しろ!本家も、花月院を名乗る者も、自分以外は信用するな!亮を、守れ!!真実を見極めろ!!…
 迅は呆然と立ちつくした。ワケもわからずどうしろと言うのだろう?真っ白になった頭を抱え、それでも策をひねり出す。最初にする事は?なんだ?どうすれば良い?
 

 誰にも見つかってはいけない。父は本家を先ず最初に指定した。一年に一度も会いたくない人間達だ。本家が絡んでくるなら、どう出るべきか?
 迅は携帯から本家に電話した。
 ワンコールで秘書が電話に出た。 
「あの、迅です。紅宝院の…」
「今どこにいらっしゃいますか?」
「学校から帰る途中です。父から電話があって…」
「どのような?」
「えっと、花月院に不幸があったのですぐ来いと…でも、どうやって行けばいいのか分からなくて…父とも連絡取れなくて、何度も自宅や会社に掛けたんですが誰も出なくて…本家に聞いたら分かるかなって…」 
「そのまま自宅に帰って待機して下さい」 
 言うなり電話は一方的に切られた。どこまで信じてくれるか分からないけれど、相手の気をそらすくらいはできただろうか?五時間、そのくらいで良い。五時間あれば、亮を隠せる。迅は花月院家に向かうために走り出した。走りながら自宅に電話する。誰も出ない。誰も出ないはずがないのに。両親が出掛けたとしても、使用人が少なくとも十人はいる。誰かが手近な電話を取るはずだ。何度試しても、誰も出ない。留守電にも切り替わらない。もっとも、物心付いてから今まで、我が家が留守電に切り替わった事はない。一体、何が起こっているのだろう…父の会社に至っては、お客様の都合により…という無機質な音声が返って来た。
 

 そんな状態で、次に何をやるべきか考えなければいけない。順番を間違えばどうなってしまうのだろう?亮を守れなければどうなると言うのだろう?本家に全て話すべきではないのか?
 一瞬、そんなことを考えた自分に愕然とする。本家は、本来であれば迅の父が継ぐはずであった。極単純な話しであるが、父の方が父の兄である者達より優れた人間だったから。優しさも上回っていた。祖父亡き後、絶対である祖父の遺言を覆した兄達の狡猾さが如何ばかりのものであったか、迅は教えられていなかった。恐らく父の配慮だろうと思う。父自身は憂いていても、恨み憎んでいたわけではなく…他人を貶めてまで富や権力を手にしたいと思う人間ではなかった。
 盆と正月には儀礼的に本家参りをしていた。その一方、花月院家には、亮の誕生日を祝いに行く日をとても楽しみにしていた。迅の誕生日以上に。亮が産まれた日、花月院から連絡を受けた父は当に「嬉しさに打ち震えながら」馳せ参じた。少し遅れて到着した迅は、見たこともないくらい浮かれた父の姿を見て呆れ返った事を鮮明に覚えている。色が白く、金色の髪をした赤ん坊。どこかの子供をさらってきたのかとも思えて、一瞬不安になったことも…そのうち、目が開くと、蒼い瞳であることも分かった。なんのイタズラか…
 それから毎年、亮の誕生日には必ず会いに行くようになった。迅も、語学を習得するために留学するまで3年間は同行させられた。
 そのくらい、父にとっても大切な子供だったのだ。
 父の言葉を信じなくてどうする。
 迅は一切の疑問をかなぐり捨てて、花月院家へ向かった。

 

 亮はプレゼントに夢中だった。
 ロケットを何度も開けて中身を確認する。そして両手でそっと包み込む。迅と一緒にベッドに収まってもまだ同じ事を繰り返していた。
「亮、あのね、本物がここにいるんだけど?」
 自分があげたプレゼントに、嫉妬。
「うん。でも、嬉しいから…」
 天使もここまで愛らしくないだろうと思えるくらい、極上の笑顔を向けられる。
 たまらなく心が疼いて…迅はいつもより強く、亮を抱き寄せた。柔らかな金色の髪が迅の頬に絡みつく。どうして子供はミルクの香りがするのだろう?なつかしい。自分にもこんな時期があったのだろうか?心に導かれるまま、迅は、そっと亮の頭に唇を寄せた。
 その瞬間。窓の外でいくつもの光が交差した。
 遠くから車の近づく音がする。両親が帰ってきた?ベッドから飛び出ると、窓の端からちらっと外を覗く。ワンボックスが一台にセダンが四台。怪しすぎる。
 迅は亮を抱きかかえると、一目散に屋根裏部屋へ向かった。いつもの部屋ではない、その真向かいの部屋のクローゼットに大きな箱を用意していた。そこには冬の間に使うムートンの敷物を入れてある。その下に亮を隠す。
「何があっても出てきちゃだめだよ。人が入ってきたら息も止めて!」
 いつも、何かあるときはこうするんだよと教えていた。どこまで守れるか…気にはなるが、自分も何事もなかったかのように振る舞わなければならない。
 複数の人間の声がする。玄関の扉は頑丈な上、幾重にも鍵が掛けてあるが。あの扉が開く前に、せめて2階の踊り場まで戻らなくては…1階へ下りる階段へ足を踏み出した瞬間、男達が、なだれ込んできた。
「父さん!?父さんなの?」
 用意しておいた台詞は、上手く吐けた。
 一斉にライトが向けられ、眩しさに腕で顔を覆う。

「ほ〜ら、かくれんぼはもうお終いだよぉ…」
 間の抜けた、卑しい声で隠れている亮を誘う。
「早く出てこないと、お家が火事になちゃうよぉ?」
 何人かの男は、発煙筒を炊きながら廷内を探し回っている。火災報知器は既に切断されていた。
 迅は猿ぐつわを咬まされ、後ろ手に縛り上げられていた。幼い頃から武道を習得していたが、大の男十数人相手にはさすがに太刀打ちできなかった。その上、屈強な男に口元を覆われ呼吸さえままならない。
(出てこないで!亮、出てくるなっ!)
 心の中でわめき散らす。
 怖くないから…あと少し、我慢すれば、大丈夫だから…祈るように何度も心の中で繰り返す。
 

 しかし…数十分後、激しい咳き込みと共に亮は隠れていた箱から転がり出てきた。迅の元に連れてこられた時も、涙を流しながら、激しく咳き込みながら、藻掻き暴れていた。
 どうかこの子を楽にしてあげて…そう願いながら、迅は抵抗していた動きを止め、身体の力を抜く。目で、周りの大人達に訴えかける。猿ぐつわだけはなんとか外してくれたが…
「苦しがってるだろうが!なんとかしてやってくれっ!」
亮自身が落ち着くまで、何ともしようが無いのだが…
 誰かが、タオルを持ってきて、涙と鼻水とヨダレでぐしゃぐしゃになっていた亮の顔を拭いている。
「誰に言われた?その子をどうする気だ?」
 怒りと憎しみの全てを込めて、声を絞り出す。
「さあ?このガキを連れてこいと言われただけだ」
「僕、このお兄ちゃんにさよならを言っておくんだな」
「全員車に戻れ!行くぞ!」
 男達は、じたばたとあがく亮を羽交い締め、連れ去る。

 「おにいちゃんっ!おにいちゃん、助けてっ!!いやだーーっ!」
 ガラスを引っ掻くような鋭い声で悲鳴を上げる。堪らず、男の一人が亮の口元を手のひらで塞いだ。
「ちくしょう!はなせっ!亮!」
 渾身の力を込めて足掻く。
「亮!必ず助けに行くからっ!待っていろ!必ず…」
 最後は言葉になったか分からない。叫ぶのと、首筋に鈍い痛みを覚えて気を失うのと、ほぼ同時だった。
 亮の美しい蒼い瞳が大きく見開かれ、極限まで涙を湛える。それがあふれ出した瞬間を迅は見ることが出来なかった。首筋に手刀を受けてくずおれていく迅。その姿を見つめながら、亮は悲鳴を飲み込む。瞬きもせずに、ただ涙を溢れさせながら、迅の姿を記憶に焼き付けるように、部屋から引きずり出されるまでただ見つめていた。

 

 カナラズタスケニイクカラ
 
 

 あの日から十年。僕はお兄ちゃんの言葉だけを信じて生きて来た。だから、今こうして、思い出深い屋敷のベッドの上に、自分の吐瀉物にまみれて横たわっていても、それはそれで幸せだった。助けにきてくれたもの。
 今日の午前中、数人の知らない男の人達がまた僕をここに連れてきた。連れ去られたときと違って、その人達はみな優しかった。紅宝院の家から出るときは、大抵いつも鎖に繋がれていたけれど、今日は清潔ですっきりした服を着せられて、僕を縛る鎖は全て外されていた。もう何年も前から逃げる気力もなく、鎖は縛り付ける物というよりアクセサリー代わりのような物になっていた。
 何処へ連れて行かれるのか興味もなく、外の景色もぼんやりとしか見えていない。季節も時間もどうでもよかった。
 

 その門を車がくぐって…
 フロントガラス越しに、大きな屋敷が僕の視界に入る。
「ここ…」
 僕は気が付かないうちに声を出していたらしい。隣に座っていた初老の男が、静かに応えた。
「紅宝院迅様のお屋敷です」
 なぜここに?
 あの日。僕は車に閉じこめられて視界が閉ざされるまでずっとこの屋敷を見つめていた。ありったけの力を出して藻掻きながら、拘束する男達の腕を振り払おうとしながら、見つめていた。
「…どうして…ここに…?」
 その問いに答える前に、車寄せに付いた。初老の男は素早く車から降りると、僕が座っていた側の扉を開けてくれた。
「お帰りなさいませ。今日からここが、亮様のおうちですよ」
 そっと手がさしのべられる。
 僕は、わけが分からないまま、その手をとった。

「だんな様は夜にご帰宅なさいますから、それまではご自由にお過ごし下さい。屋敷の外にお出になるときは私に声を掛けて下さいませ。敷地の外にはお出になりませんように」
 屋敷の中のことは良く覚えていなかった。お兄ちゃんの部屋と屋根裏部屋、そこが僕の生活圏で、他の部屋には入ったこともない。
「あの…お兄ちゃんの部屋へ、行っても良いですか?」
「だんな様のお部屋ですか?構いませんが…昔とは変わっていると思いますよ」
 二階のその部屋は、五年前に改装してしまったとの事だった。
 アンティークな雰囲気は一掃され、白がベースの現代的な内装になっていた。書斎の隣にあった寝室もなくなり、オーディオ類やカウンターバーなどが設置されたプライベートな空間になっている。
 思い描いていた場所と変わってしまったことに、心のどこかがきしむ。変わったのは、僕だけではないのか…
 でも、思い出は変わらない。
 ここでの温かい幸せに満ちた日々の思い出は、誰にも、何にも壊されることはない。
 助けに来てくれたもの。

 

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光りある者