「誰でも簡単に銜え込むそうだな」
 ヘッドボードに取り付けられた、そこだけ妙に新しい金属性の引き環。バスローブの紐で、両腕を頭上で一括りにし、その端を引き環に通しながら、迅は低く冷たく囁いた。
 白刃を思わせる鋭い光を放つ切れ長の瞳に射すくめられ、亮は声も出せずにいる。

「最初に言っておこう。私はお前を助けたわけではない。お前は払い下げられただけだ。」
 パジャマの第一ボタンに手がかかる。ごく普通に外そうとした手がふと止まり、ほんの少しの、沈黙。
 しかし、次の瞬間、襟元に両手をかけると一気にボタンもろとも引き破った。
「な…!なにを…っ!」 
 荒々しく上半身を晒され、亮は息を詰めて恥ずかしさに耐える。身をよじって隠そうとしても無駄なのは分かっている。けれど、見られたくなかった。
 

 左胸の傷跡。
 乳首があったであろう場所の、一筋の、刀傷を。
 最後に抗った時に受けた罰。
 それが何時だったのかは忘れたけれど。
 迅の視線が何処に注がれているのか、その視線を追う必要はなかった。心なしか冷たい空気に晒された胸元に鳥肌がたつ。寒さになれるまで少しだけ時間がかかり、その間、迅は微動だにしなかった。
「ふ…使い物にならないとは聞いていたが…まあいい。愛でるために連れてきたわけではないからな。」
 脇腹に、冷たい手が伸びる。逆撫でるような動きに、亮の神経が研ぎ澄まされて行く。ざわざわと背筋をはい上がる氷のように冷たい感覚。
「これからお前が花月院を継ぐまでの4年間、お前を買った。私の両親を殺し、私を本家の足元に跪かせた花月院に復讐するために」
 

 買った?復讐?両親を、殺した…?
 亮は美しい蒼い瞳を迅に向ける。この人は本当にお兄ちゃんなのだろうか?切り裂くような眼光を放つ眼は記憶の何処にもない。ただひたすらに信じて、待ち焦がれた人ではないのか?
 脇腹をざわざわと撫でていた手が右の乳首ににじり寄る。
 そこには触れず、周囲をそろそろとなぞる指先。次に何をされるか、本来ならば不本意ながらも与えられる快感に鼓動が速くなるのだろう。けれども、亮が感じるのは、自分の体温が下がる前の、独特な不快感だった。
 敏感な突起を避けて動く指先。ゆっくり執拗なくらい時間を掛けて動いていた指先が、いきなり突起を摘む。
「あ…っ!」
 恐怖心を煽るように、徐々に力が込められていく。
「ああっ!」
 潰されそうな恐怖に身体を丸めようとするが、両腿に馬乗りされているためにびくとも動けない。
 指先は、潰れそうになる寸前に力を緩め、また力を加えたりねじったりを繰り返す。そのたびに、叫び声が上がる。
「あっ!…はぁっ…!」
 この十年間、いやと言うことを禁じられていた。否定や拒絶の悲鳴をもらせば、もっと酷く痛めつけられた。その結果が乳首の欠損や、背中に残る傷跡だった。
 

 何よりその傷跡を見られることが辛かった。
 天使の羽が、醜い傷跡に変わってしまったから…白い背中にあった薄紅色の羽。天使の生まれ変わりなんだよと、くすぐったい言葉をかけてもらったバースマーク。はじめて複数の男達に身体を開かされた日に、皮膚ごとはぎ取られた。
 忌まわしい記憶に残っているのはしかし、痛みの記憶ではなかった。  痛みは、傷が癒えると共に忘れる。次第に下半身へ伸びてくる迅の手の動きを感じながら、鼻の奥につんと沸き立つ痛みを覚え、それを必死でかみ殺す。痛くて、気持ち悪くて、どんなに泣きわめいても聞き入れられたことはなかった。相手の言葉通りにしていれば早く開放される、そうと分かっていても、諦めるまでの時間は辛い。
 

 迅の手が性器に触れるのと、蒼い瞳をぎゅっと閉じたのはほ同時だった。
 優しさは微塵もない、動き。頭を撫でてくれた優しい手も、頬に触れた優しい指先も、甘い声も、無くなってしまった。自分が知らなかっただけで、それは普通のことなのだろうか。
 知らない迅の手が下着の上から両方の珠ごと性器を掬うと、乱暴に揉みしだく。
「はっ…ぐぅ…!…んんっ!」
 悲鳴を荒い息で隠すように呻く。
 と、迅の指が微かにそれに触れた。とまどうようにその形を指先が探っている。
 迅は下着を荒々しく引き下げると、性器をまじまじと見つめる。尿道から裏筋に抜けるように貫かれたピアスが冷たく光っていた。
「…プリンス・アルバートか…本家も趣味が悪いな…」
 亮の性器に施されたピアスを軽く引っ張りながらつぶやく。
「良かったな。これは私の趣味ではないので外す。もっとも、嵌めていたければ私が留守の間だけ嵌めておけ」
 

 亮には嗜虐趣味も肉体改造趣味もない。性欲すらも無い。少しでも元の姿に戻れるのなら、その方が良かった。迅は慣れた手つきで留め金をくるくる回し外すと、一息にピアスを抜き去る。その瞬間の、得も言われぬ衝撃に亮は息を飲む。
「自分で足を開け」
 次の瞬間の言葉に、亮はぴくんと全身で反応した。羞恥心からではない。そんなものはとっくの昔に無くしてしまった。というより、子供の頃から身体の隅々までさらけ出す事に慣れていたためか、はじめから性に対する羞恥心は無かった。身体が反応したのは、これから自分の身に起きる変化への拒否反応。
 視線を逸らすために顔を横に向けながら両足を開き、性器と肛門を晒す。腰を少し浮かせ、さらに、開く。
 

 迅はその従順さに眉をひそめる。
 ここまで堕ちていては復讐の意味が無い。
 五年前、両親の死の真相を本家から伝えられ、殺される瞬間の映像まで見せられ、それまで自分が護り通さなければいけなかった者を切り捨てる決心をした。
 腕を切り落とされ、茫然自失した母をかばいながら素手で立ち向かっていたのは父だった。その父に長剣を振り下ろしていたのは…父の幼なじみで、親友であった花月院。亮の父親だった。音声こそ無かったが、ロングショットで撮られたビデオで修正の痕跡もない。
 亮を四年間貸すと言われた時、迷わなかったわけではない。本家に置いておけば、そのうち死ぬだろう。金を払ってまで借りるほどのことだろうか。だが、せめて自分が味わった苦しみを思い知らせてやりたい。両親が殺されたことだけではない。本家の駒として、自分も飼われるようになった。欲にまみれた本家の言いなりにならざるを得す、自尊心を踏みにじられる憤怒。
 

 目の前で恥ずかし気もなく下半身を開く亮に、快楽など与える気はない。
「随分と浅ましい色になったな」
 言い終えるよりはやく、まだ固く閉じている部分に指を二本、ねじ込む。
「はっう…!」
 抉られた痛みに激しくのけぞる。なんの準備もなく、いきなりの挿入。苦痛に腰がひける。少しでも遠くへ逃げようと、縛られたままの両腕で身体をずりあげる。
「うぐっ…ああっ…!あっ…!」
 容赦なく抽挿を繰り返す指。その反動で亮の細い腰が激しく揺れる。身体はもうヘッドボードに阻まれて逃げ場を失っている。腰が跳ねる動きに合わせて、迅は自分の身体を亮の背下に潜り込ませると、亮の腰を一層高く持ち上げた。
「ひっ…くっ…」
 身体をくの字に曲げられて呼吸もままならない。後孔の痛みは、切れて流れる血によって滑りが良くなったのか、それほどでもなくなってきた。むしろ、その後に襲って来るであろう不快感を思うと…
 

 迅は出血に構うことなく、三本目の指を突っ込んだ。亮の性器が少しずつ、硬度を増す。
 見た目にもその反応が現れたことに、迅は眉根を寄せる。
 (痛みも、無駄か…)
 激しく動かしていた指を引き抜くと、乱暴に亮を裏返した。両手で、そこだけは傷一つない白い尻を極限まで押し開き、有無を言わさず、自分の猛った雄を一気に奥まで突き刺す。
「ぐああああっ……!」
 ひときわ高く上がった悲鳴を消そうと、亮の顔をベッドに押しつける。息が出来ない苦しさに、亮は力を振り絞って頭を振り乱す。窒息寸前に頭部は解放されたが、その手はもっと苦痛を与えようとするかのように太ももに当てられ、うつぶせのまま腰から下だけ持ち上げられた。挿入の、深さが増す。流れる血が、ぐちゅぐちゅといやらしい音を立てる。

はっ…んっ…んっ…」
 亮はどうしようもない寒気に襲われていた。下半身からぞくぞくと登ってくる寒気。迅の荒れ狂う雄から伝わる熱も、すぐに寒気に変わる。忌まわしいくらいの不快感。打ち付けられる速度が速くなればなるほど、体温が失われていく。全身の毛穴から、冷たい汗が噴き出す。
 迅は、どこからか伝わってくる冷たさを感じながらも、己の精をぶちまける事しか考えられなくなっていった。もっと深く繋がろうと、亮の肩を押さえる。そしてぎりぎりまで引き抜くと、渾身の力で強く、強く腰を打ち込み、射精を終えた。
 
 

 迅が早々にこの部屋から立ち去ってくれたのは幸いだった。たとえ両手を繋がれたまま、傷だらけの身体を隠すことはもちろん温めることもできないまま、放置されても。
 冷たい汗に濡れた髪が顔や身体にまとわりつく。
 亮は気を失いそうになりながらも、最後の理性を振り絞って身体をできるだけベッドの端に移動させた。できるだけ遠くに。吐いても、身体を休めるスペースが取れるように。
 吐かなければ、身体の辛さが長引く。吐くことで、勃起も収まり体温が戻ってくる。そうして眠りに就けば、心の傷も軽くなる。
  
 

 翌朝、凄まじい状態で眠っていた亮は、慌ただしさの中で目を覚ました。亮を起こしに来たメイドが小さな悲鳴を上げて廊下に転がり出たのだ。吐瀉物と血で汚れたベッドに、手を縛られた全裸の少年が死んでいたから。正確には眠っていただけなのだが、周囲の惨状は色白の少年を死体と思わせても可笑しくない。執事が慌てて部屋に入ったとき、亮がうっすら目を覚ました。
「……ん」
 微かに身じろぐ。
「なんという事を…」
 言うが速いか執事は両腕の拘束を解く。何事かとのぞき込む召使い達をひと睨みし、部屋のドアを閉じると、クローゼットの中から新しいリネンを取りだし、亮の身体に手早く巻き付けた。
 隣接するバスルームのバスタブに勢いよく湯を張る。
 その間、ドアの外で何事か興味津々で聞き耳を立てているであろう召使い達に向かって、力のありそうな男を一人連れてこい、と声を掛けた。年老いた自分では、亮を抱き上げて湯に入れることは不可能だったから。

「あの〜…」
 しばらくしてやってきたのは、若い料理人だった。
「亮様を抱えて、バスタブまで運んでくれないか?」
 血と吐瀉物の匂いに眉をしかめながらも。リネンにくるまれた亮を軽々と抱き上げると、バスルームへ運ぶ。
「後は私がやるから、お前はおかゆでも作って持ってきなさい。メイド達には汚れ物をすぐに片付けるようにと」
 バスタブにつけ込むと、しばらくして亮の意識がはっきりしてきたのか、湯の中でまとわりつくリネンをどかそうともぞもぞ動き始めた。
「……あ、の…」
 温かい湯の中で、何が起こっているのか分からない様子で執事を見つめる。
「亮様、お目覚めになられましたか?」
「あ、はい。おはようございます…」
「さあ、髪を洗ってさっぱりしましょう。その後は、ご自分でされますか?」
 亮はリネンにくるまれたままバスタブに漬けられた自分の身体に気が付いた。その気遣いに、心も温かくなる。
「…はい」
 そう答えた亮の瞳は蒼く澄み、柔らかく輝いていた。そして髪は既に泡だらけ。

 

 ゆっくりと湯船を使った後部屋に戻ると、ベッドのシーツも部屋の空気も、昨夜の痕跡を全く残していなかった。ベッドの脇に用意された小さなテーブルの上には、湯気の立つ朝食。亮は自分が何処にいるのか分からなくなってしまった。
「御気分はいかがですか?」
 執事が優しく問いかける。
「あの…大丈夫です」
「そうですか、では、朝食をお召し上がりになれますね?」
 ムリにでも食べろと訴えている。
「あ、はい」
 吐いたことを気にしてくれたのか、胃に優しそうな物ばかり、沢山の種類の物が並べられている。
「…こんなに沢山、食べられません…」
「無理にとは言いません。ですが、食べられるときに食べておきませんと…食べられそうなものだけで構いませんよ」
 

 何もかもが驚くことばかりだった。一つの皿に手を伸ばすと、何処産の食材を使った何とかです、他の皿に伸ばせば、また詳しい説明がいちいち為される。亮は、小さな赤いシワシワの実と大きなゴマが入ったおかゆ、黄色い幕が張った濃厚な牛乳、透き通った薄いハム、親指くらいの小さなバナナを食べた。そして爽やかな香りのする紅茶。
「ごちそうさまでした…」
 食後の挨拶なんて、何年ぶりだろう。封印していた記憶をこっそり覗く。お父様とお母様、三人で暮らしていたとき以来かもしれない。お兄ちゃんと一緒の時も…子供の頃の記憶は少ししかない。どれも優しくて心が満たされる物ばかりだ。辛いことや苦しいことの方が多かった。けれど、それでも壊れることなく、今まで生きて来れたのは、父と母の思い出と頭の中に呪文のように繰り返された、お兄ちゃんのあの言葉があったから。みんな居なくなっても、その事実だけは変わらない。僕が昔のような僕でなくなったように、お兄ちゃんも変わってしまった。でも、「必ず助けに行くから」という言葉は、絶対に変わらない現実となった。

 

 食事の後ひと心地着くと、執事が着替えを持ってやってきた。柔らかい素材のガウンを脱がそうとされた。
 傷を、見られてしまう…
 その事が気になって、思わずガウンの胸元を握りしめる。
「じ、自分で着替えますから…」
 躊躇していると、 
「大丈夫ですよ。お任せ下さい」
 そう言って素肌を晒す事無く、てきぱきと着替えさせられてしまった。
「後でお医者様がいらっしゃいますから、それまではご自由にお過ごし下さい」
「お医者様?」
「はい。傷の手当てをなさいませんと…」
 夕べの…
 僅かに残った痛みと共に、夕べの行為を思い出し、目を伏せる。微かに揺らいだ気持ちを察してくれたのか、沈黙を破って語り続けてくれた。
「お屋敷の中を見て回られても結構ですよ。旦那様のお部屋以外は、屋根裏部屋も昔のままですし」
「屋根裏も?」
「はい。そのままに」
 

 僕は急いで四階に向かった。
 右から二番目の部屋だ。
 子供の頃は感じなかったけれど、他の部屋の扉よりも少し小さい。僕でも少し身をかがめなければ頭を打ちそうだ。
 部屋の中には…昔遊んだ木製の汽車の模型や積み木、そしてテディ・ベア。あの頃、いつも語りかけていた。懐かしさに、ぎゅっと抱きしめる。小さかった頃は、このぬいぐるみも僕には十分大きくて、逆に抱きしめられているような感じだったなぁ。
 そして、小さな窓。昼間は窓に近寄ってはいけないと言われていた。
 近づいて、外を観る。
 小さな窓から、緑の芝生の中に木々が品良く点在する広い庭が見晴らせた。
「お懐かしいですか?」
 いつの間にか、執事が後ろに控えていた。
「窓から外は見たこと無かったんです。こんなに、素敵な場所だったんですね」
「ええ、ここから見える風景は前庭なので大した事ないのですが、バックヤードは素晴らしいですよ。午後はそちらでお茶の時間を持ちましょう」
 その時、車が砂利を踏む音が聞こえてきた。
「お医者様がいらっしゃったようですね。お部屋でお待ち下さい」
 
 

 自分にあてがわれた部屋に戻ったが、医者はなかなか来なかった。亮には知らされなかったが、執事が昨夜の惨状を包み隠さず報告していたのだった。肛門からの酷い出血、嘔吐、そして体中の痛ましい傷跡の事。傷跡は古い物だったのでこの家の主人による物ではないが、あれだけの傷を負って、心まで壊れているのではないかと言う心配。診察の時も、くれぐれも配慮するようにと付け加えられた。
「こんにちは、始めまして。ホームドクターの久実と言います」
「はじめまして…花月院亮です」
 本家の医者とは全く違うタイプの医者だった。本家の医者は、見た目は紳士だったが治療と称して体中をまさぐるような人間だった。ただし、嗜虐嗜好の叔父の犠牲者を殺さないだけの腕は持っていた。そんな経験から、医者に対して良い印象は持っていない。
 しかし久実先生は、様子が違った。穏やかな口調で、亮が嫌な気持ちにならないような問診を行った。
 

 今朝は美味しく食事を摂りましたか?
 朝食の跡気分が悪くなったりしませんでしたか?
 昨夜の食事はどうでしたか?食べるときに緊張していませんでしたか?
 夕食の後すぐにジョギングしたり、暴れ回ったりしませんでしたか?
「あの、いつも吐くんです…」
「いつもと言うと、毎晩ですか?」
「あの…毎晩というか…セックスの後、吐くと射精できて身体が楽になるので」
 一瞬の沈黙。
「吐かないと、どんな風に苦しいのですか?」
「寒気がして、体中が冷たくなって、冷や汗をかいて、それで吐き気も止まらなくなるから…」
「それは、いつ頃から?」
「覚えてません。時間とか、日にちの感覚もあまりないので」
「毎日飲んでいた薬はありますか?」
「特にないです」
「では、時々飲んでいた薬は?」
「身体が、変になる薬は時々。注射も」
「それは、セックスの前に?」
「はい。飲まない時とは逆に体中が熱くなって…吐かないんだけど…何度も射精させられるから、いやだった」
 再びの沈黙。久実は持っていたペンを器用にくるくる回している。
「たぶん…熱くなる薬はもう使わないと思うよ。でも、吐き気は…吐き気を止める薬が欲しいと思うかな?」
 亮はしばらく考え込んだ。
「吐かなかったら、どうやって身体を元に戻すの?」

 
「旦那様、今夜はお渡りにならない方が…」
 迅はしげしげと執事の悠木を眺めた。
「お渡り…お前、それは何時の時代の台詞だ?」
 そう言った時は確かに心底面白そうに笑っていたが。
「今朝、久実先生から亮様には心のケアが必要だと…」
 次の瞬間には苛立ちに変わっていた。
「悠木、私はアレを救うために大枚はたいたわけじゃないぞ」
「しかし、昨夜の傷も癒えておりませんし…」
「悠木っ、お前も私の両親がどうなったか知っているはずだ。その後の私の生活も。飼い犬に成り下がって、本家の馬鹿どもの言いなりだ。私はこのまま引き下がるつもりはない。アレも今の生活が嫌なら、自分で何とかするべきだろう?」
 そして、確固たる意志を湛えた表情に。

「大旦那様は、亮様は天使の生まれ変わりだと…」
「悠木。お前、そんな戯れ言を信じているのか?この時代に?」
 蔑みの一瞥。
「そうならば、奇跡でも起こして飛んで逃げれば良い」
「けれど、あのお姿は…」
「母親が浮気でもしたんだろう。父の代から仕えているお前なら、心当たりでもあるのじゃないか?」
「決してそのようなことはございません。大旦那さまと花月院様はご幼少の頃から…」
「もう良い。聞き飽きた」
 迅は忌々しそうな口調で吐き捨てた。
「大旦那様からは、旦那様と同じくらいに亮様を大切にお守りしろと言われております。旦那様も亮様も、この十年に受けてこられた仕打ちだけで十分ではありませんか?」
「アレを買ったのは、個人的な恨みからだ。本家の目的など私には関係ない。お前が守りたいなら、私から奪って何処へなりと出て行け」
「私に、出て行けと…」
「これ以上アレのことで私に歯向かうならな。だが、それ以外のことでは、お前にはどんなに感謝しても足りないと思っているよ」
 

 本来迅は優しく正義感に溢れた人物なのだ、と悠木は知っている。五年前、迅が成人したときに両親の最後を見せられる前までは、いつも亮の事を考え、助ける機会をうかがっていた。狡猾で強欲な本家から奪い取り、平和に暮らす事は難しい。何も持たない学生の分際で実現は不可能だった。当時未成年だった迅の後見人になり、迅の遺産は全て本家の管轄下に置かれたため、生活する以外は不自由を強いられていた。もちろん、今は違う。今では本家のぼんくら息子達に変わって紅宝院家の事業の多くを担っている。そしてその強大さを熟知している故、敵に回すには、迅一人では困難であった。大旦那様はなぜ、本家から出たのだろう?何故花月院を必死で守ろうとしたのだろう?親友でもあった自分にさえ、何も話されなかった。時が満ちたら、分かるからと。
 悠木は深いため息をついた。
「そこを、退け」
 亮の部屋の扉の前で立ちはだかっていた悠木は、仕方なく、目を伏せて、退いた。
 ドアを閉めながら、悠木は今できることを、考えていた。

 

2
光りある者