「あ…れ??」
目が覚めた亮は見覚えのない部屋の様子に驚き、ぐるりと首を巡らせた。目の端にグレーの長い髪が映り、手を伸ばす。柔らかくてすべすべで…
「あ…シリルだ…」
(昨夜は確か、迅さんの隣で眠っていたような…)
 やっぱりシリルは外国人だなー…と、自分も間違われるくせに思ってしまう。グレーといっても所々白っぽいブロンドが混じっていて、なんともいえない濃淡をつくっている。
「んー…」
ずっと髪の感触を楽しんでいたら、シリルが目を覚ましてしまった。
「…亮?」
「うん。おはよう。おこしちゃった?ごめんね」
 シリルはゴシゴシと目元を擦りながらベッドに身を起こした。
「おはよ…今日も亮は綺麗だね」

『今日も綺麗だね、シリル』
 毎日、おはようの挨拶の代わりにそう言われて頬にキスをしてくれた人の面影がちらりと蘇る。昨夜、迅にあんなことを言われたせいだろうか?ずっと思い出さないようにしていた過去の温かい記憶。思い出さないようにしていたのは、その後の記憶と相まって、辛い気持ちを呼び起こすからと思っていた。けれど、この金色の髪の少年の前で思い出される全ての記憶は、痛みや苦しみや哀しみという負の感情がそぎ落とされてしまったかのように静かで安らかだ。
 身体を傷つけられ、心を引き裂かれたことも覚えているのに、辛くない。 辛いことがあるとすればそれは、会えないことだけ。


『二度とその姿を私の前に晒すな』


 言葉に支配されるなど、バカバカしいかも知れない。けれど、自分を生涯かけて愛し守ると誓った相手の拒絶の言葉は、シリルの心に矢のように突き刺さり、突き抜け、粉々に砕いた。
 そして実際に身体に加えられたダメージで気を失い、辺り一面グレーでどこまでも続く壁に沿ってただ歩いている夢を、ずっと見ていた。どんなに歩いても風景は変わらず、疲れもしない。それどころか、すっかり飽きてしまい、その場に座り込んだ途端、目が覚めた。
 痛みと熱で朦朧としていたけれどそれも数日で収まり、ベッドの背中を起こしドロドロのオートミールを一口すすった日から3日後、スイスに移され…言葉だけでなく、本当に生まれ育った地を追い出されてしまったのだ。
 13才になったばかりの子供では全てを受け入れるのがやっとで、帰ろうと思えば帰ることはできたのだろうが、見ず知らずの自分に居場所を与えてくれた人達の温もりから離れたくなくて、ずるずると居着いてしまった。
 引き取ってくれた老医師はとても優しく、笑顔を無理強いすることも強く生きることを強要する事もなく、ただ淡々と毎日を過ごすことを喜んでくれた。七年後に老医師が亡くなっても生活を変えることなくゆっくりと生きてきた。そしてもうすぐ生まれ育ったフランスで過ごした13年を追い越し、スイスでの生活が13年目に入るこの時期に亮に出会ってしまった。何も変わらないままの生活がこれから先もずっと続いて、いつかここで静かに終わろうと思っていたのに…
 老医師が死ぬ間際にサルマン老人の事を教えてくれた。古い友人なので自分が死んだら彼に知らせてくれと…その通りにしたら、サルマン老人は余計な事まで教えてくれた。久しぶりに開いたヘブライ語の聖書はほとんど意味が分からなくなっていたし、無くした物のことを今更説明してもらっても生活の足しにもならない。
 亮が羨ましいと思う。そしてそう思った瞬間に、やはり自分はもう「光りあるもの」ではなくなってしまったと実感した。光りあるものに負の感情は存在しないのだ。


「まったくもう…あのじいさんにはうんざり!」
 もう少し日本でゆっくり出来ると思っていたのにサルマン老人に、今すぐおいで、と言われて機上の人にされてしまった。亮も一緒なのがとても気の毒だ。迅と一緒にいたいだろうに…
「ふふふ…でも僕はサルマンさん好きだよ?物知りだし、お話しを聞くのが凄く楽しみ」
「亮はまだ子供だから知らないこと沢山あって、だからおじいさんの昔話とか楽しいんだよ。もう俺はあんまり話すことないのに…静かにのんびり暮らしたいのに…」
「シリルの方がおじいさんみたい…」
「おじいさんに育てられたからな」
 老医師とサルマン老人がどんな関係だったかは教えてもらえなくて、もうどうでも良いことばかり教えられた。
「僕はおじいさんと暮らしたことないけど、のんびりできそうだよね」
「サルマンじいさんは元気良すぎてうるさいよ」
 どう話を持っていってもシリルはサルマン老人が苦手みたいなので、亮もそれきり黙ることにした。
 シリルは…サルマン老人個人がどうこうと言うわけではなく、彼によって容赦なく昔の事を思い出させられるのが嫌なようだ。シリルの心の中にある灰色の壁の向こうに何かが隠れていて、それはシリルが自分を守るために自分で隠したものらしい、と迅さんは言っていた。シリルは僕たちに出会って少しだけ光りを取り戻した。だとすると、シリルにはまだ十分力が残っていて、その力をサルマン老人は少しだけ貸して欲しい、と言っていた。そうすれば、ちょっとだけひねくれ者になってしまったシリルももっと幸せになれるし、シリルが係わることでこれから先沢山の人がその恩恵を授かることが出来るかもしれない。
 何をどうして欲しいのかサルマン老人は具体的なことは言わなかったけれど…
 
「スイスは今頃が一番気持ち良い季節なのに…なんでこんな灼熱地獄に…」
 冷涼な気候の中で育ってきたシリルには、サウジアラビアの暑さがこたえるようだった。
「でも日本の夏よりマシだよ…これにじめじめが加わって、生ぬるいサウナみたいな毎日なんだ」
 堪えているとは言え、見た目が爽やかな二人連れは仲の良い仔猫のようにじゃれあいながら、サルマン老人の到着を待っている。
「あ…」
 シリルの長い銀色の髪を三つ編みにしてあげたり、大きな扇子であおぎあったりしていると、シリルが何か気配を感じたのか、ふと戸口の方に視線を止めた。
「サルマンさんかな?」
「うん…」
 サルマン老人の気配の他に、誰かの気配を感じる。シリルはその誰かの気配に、いい知れない不安を感じ始めた。
 懐かしい…でも、何かが違う。
 扉が開かれ、車いすに座ったサルマン老人が現れた。車いすの横には、まだ小さな男の子が付き添っていた。明るい茶色の髪に茶色の瞳、10才くらいの男の子だ。
 シリルはその男の子の顔に釘付けになり、驚愕の表情を浮かべていた。
「その子は…」
「ほぉ…やっぱりお前には分かるようじゃな…」
 サルマン老人が人の悪い笑みを浮かべながら、その男の子と共にシリルと亮に近づく。
「亮も久しぶりじゃな、側へ来て、キスしてくれないのか?」
 満面の笑みを浮かべてサルマン老人に近寄り、両方のほっぺたにキスをする。
「お元気そうで何よりです」
「亮のお陰でね」
 体調を崩すことが多くなっていたところに亮が現れ、サルマン老人はみるみる元気を取り戻したのだ。まだ自分にはやるべき事が、見守るべき世界があると言うことでもある。
 亮とシリルが図らずして出会ったことも縁ならば、予てから気になっていたことを実行するべきだろう。
「シリルも相変わらずひねくれておるようじゃな、元気そうで何より」
「…」
 シリルはじっとその少年を見つめていて、サルマン老人の言葉にも上の空だ。亮はシリルの様子がおかしいことが気になり、シリルの顔を見つめた。
「シリル、どうしたの?その子は知り合い?」
「…爺さん、この子…」
「デビアン卿、ユリアスの子供、アンリじゃ」
「…アンリ…」
 亮より少し背が高かったはずのシリルが小さくなって…シリルはその少年の前に跪いていたのだった。


「シリル…」
 アンリの手を取って、シリルは蕩々と涙を流していた。亮はどうして良いのか分からなくなり、微笑んでいるサルマン老人や、そんなシリルをしっかり見つめているアンリを代わる代わる眺め、言葉を探していた。
「アンリはユリアスとバルバラの子供じゃ。今年10才になる。お前がフランスを出て二人は結婚したんじゃが…元々が政略結婚じゃ。跡継ぎのこの子が生まれて直ぐに別居。この子は親の愛情など知らずに育った。どっちに似たのか強情者でな、気に入った者以外とは口も聞かないし、もちろん言うことなど聞かない。と言うか、わし以外には口を聞いたことがないんじゃ。お陰で障害者と思われておる。勉強もできて賢い子なんじゃが…この五年ほど、わしが預かって育てておったんじゃが、シリル、お前も暇そうだし泣いとらんで、この子の親代わりになってもらえんか?」
 アンリはシリルの手を口元まで持ち上げ、滑らかな手の甲に小さなキスを落とした。
「…はじめまして、シリル…」
 アンリが言葉を発した瞬間、シリルが一層強く輝き始めた。

 シリルはずっとアンリと手を繋いだままだ。アンリに流れる懐かしい人の気が灰色の心に染みこんで、力が漲る。拒絶され、絆を断ち切られ、二度と会うことは叶わないのに、自分の最後の瞬間まで幸せを祈らないではいられない人。
 こんな身体になってまで何故生き続けたいと思ったのか、今頃になって疑問に思い、そして理解できた。ユリアス様と愛し合う運命は、何千年も前から当たり前のように存在していたのだ。絆が断ち切られたとしても想いだけは残り、後生に引き継がれる。ユリアス様の思いはアンリに引き継がれ、いつかアンリにも愛する人が現れた時、同じ不幸を繰り返さないためにアンリを導く…もしかしたらこれが自分の本当の運命だったのかも知れない。

「俺がまだ母のお腹の中にいるとき、小さな姉と大荷物を抱えて歩いていた母を見たユリアス様が家まで荷物を運んでくれたんだって。その時以来、毎日のように手伝いをしにきてくれて、お腹にいた俺に話しかけていたんだって。生まれるときも何故か付き添ってて…それからずっとユリアス様と一緒だった。5歳までは家族で暮らしてたけど両親が交通事故で亡くなってしまった。その後は俺と姉はユリアス様に預けられたんだ。それから3年くらい後かな、姉は進学のためにパリの親戚の所に住むことになった。俺とユリアス様は離れられなくなっていたからそのままユリアス様と一緒に暮らした。13才までね。13才のある日、姉がパリの親戚の家から誘拐されたんだ。俺は誘拐犯の仲間に呼び出されて、一人で来るように言われた。誰かに言ったら直ぐに姉を殺すって言われて、ユリアス様にも内緒で指定された場所まで出掛けていった。そしたら猿ぐつわを噛まされて縄でぐるぐるに縛られた姉がいて…銃で脅されてた。俺はそのまま何処かへ連れて行かれて五日間監禁されてレイプされた。変な薬も打たれて…自分でも良く覚えていないんだ…全部をビデオに撮られて、ビデオと一緒にユリアス様の元へ返された。その後は、今でもどうしてあんな事になったのか良く分からないんだ。俺が男達を誘惑した、みたいになってて…ビデオは見てないけど、そんな風に見えたんだって。激怒したユリアス様に姉が誘拐されたところから話したんだけど、姉はずっと家にいて…誘拐されたことなんてなくて…レイプされたことも、最初の数時間は覚えてるんだけど、その後のことは全く記憶にない。証拠もなにも綺麗さっぱり無くて…元から俺は誰にでも優しかったし、ユリアス様は嫉妬深かった。一番愛してるのはユリアス様なのに、ユリアス様はそれだけではまだ足りないくらい愛してるんだって良く言ってた。ユリアス様と心は通じていたけど俺はまだ子供だったから身体はまだで…ユリアス様はもの凄く大切にしてくれてた。可愛さ余って憎さ百万倍?そんな感じで悪魔になってしまったユリアス様にムチで打たれて、性器を焼き潰されて『二度とその姿を私の前に晒すな』って放り出されちゃった…それから後は亮も知ってるとおりだよ」

 身体の痛みよりユリアス様に信じてもらえなかった事が辛かった。辛かったのも痛みで気を失う前までで、病院のベッドで目が覚めたときは心の中はグレー一色、記憶は確かにあったけれど、感情は欠片も残っていなかった。 輝く太陽のようだった金色の髪はくすんだグレーに、深く澄んだ海のようなブルーの瞳も灰色掛かった色に変わってしまった。
「身体の痛みと変化に慣れてしまったら、あとは淡々と生きていたかな…引き取ってくれた老医師は物静かで優しい人だったから、穏やかな毎日を過ごせたよ。亮に会うまではね」
 空の向こうのフランスにはユリアス様がいる、そう思いながら毎日空を眺めていたけれど、その事実以外なんの感情もわき上がらなかった。ユリアス様も淡々と、公爵家の跡取りとして過ごしているのだろうな、くらいしか思わなかった。心の中のどこを探してもグレーの壁しか見えなくて、でもそれが悲しいとも思わなかった。だけど、亮と迅がカフェに現れた瞬間、壁の中から光りが漏れ始めて…
「急にユリアス様のこと思い出しちゃった。どうしようもないくらい愛しい気持ちが溢れてきて…愛されたことも辛くて悲しかったことも全部思い出して…迅の纏っている炎のようなオーラは昔のユリアス様みたいで、あの中に包まれていた時にどんなに幸せだったか思い出しちゃった。最後に見た、ユリアス様の炎がどす黒いモノに包まれていく様も思い出した。で…亮と初めて口を聞いたときに、嫌なモノがスーッと消えていった」
 13年間、あんなに大切に愛されたのに。何事もなかったかのように淡々と生きているのは何故だろう、といつも疑問に思っていた。ユリアス様と愛し合うことが何千年も前から運命付けられていたなら、それが終わる時は全てが終わる時ではないのか。引き継がれてきた運命の糸も断ち切られ、将来に託すことも叶わなくなったはずなのでは?
「アンリがいたんだね…俺はもう子供を残すことはできないけど、ユリアス様の血はアンリに引き継がれて、もっともっと続いていくんだね。ユリアス様だってまだお子様が生まれることだってあるわけだし…」
 サルマン老人が引き取っていたのなら、もしかしたらアンリには蛇の資質があるのかも知れない。
 それに…シリル自身がアンリの側にいたいと思ったのだ。懐かしさもあるけれど、アンリがどんな大人になっていくのか…ユリアス様の血を分けたアンリが健やかに、幸せに育つよう側で見守りたいと思った。そうなればユリアス様だって安心するはずだ。
「じいちゃん、シリルもこっちの子も、俺は好きだよ」
 こっち、とはもちろん亮のことだ。
「そうかそうか、お前も面喰いのようじゃな。シリルが今からお前の保護者になる。一緒にスイスへ行きなさい。デビアン卿にはわしから伝えておこう。シリル、お前は気の向くままに生きれば良い」
「じゃ、さっさとこんなあっつい国からは退散しよう。アンリ、スイスはこんな砂しかない野蛮な国と違ってとても綺麗なものが沢山あるんだよ。エビアンよりずっと都会でおしゃれだし…」
 シリルは他にも次々とスイスの良いところを話しながら、砂漠の国をけなしながら、アンリを連れて歩き始めた。
「シリル!」
 亮が慌てて後を追う。
「サルマンさん、僕も…来たばかりで申し訳ないけど…スイスかフランスで迅さんに会うことになってて」
「つれないな…まあいい、わしの誕生日には来てくれよ」
「はい!」
 

 エビアン公ユリアスはカジノ経営でかろうじて公爵家を支えていた。かの有名な天然資源からの収益もあるが、国営化されたため元地主として相応の分配はあるものの、13年前に結婚した妻にそのまま渡している。デビアン家が代々受け継いできた事業からも遠のき、役員名簿に名前は載っているがただそれだけの存在に成り下がり、先代までの隆盛は地に落ちていた。
 赤黒い炎に包まれたこの男にはできるだけ亮を会わせたくない、と迅は思った。ユリアス卿が係わる事業のうちの幾つかを紅宝と提携させるために訪れたのだが…そもそも提携する必要もなく、サルマン老人に言われたからそうする、といったところだった。
「あの…」
 どす黒い炎の中でとぐろを巻いているかのようなユリアスは亮も苦手だ。
「サルマンさんから…アンリはジュネーブのあなたの知り合いが育てることになったからと…」
 ユリアスは氷のように冷たいブルーの瞳を亮に向け、組んでいた手を解いて頬杖をついた。
「…アンリか…そう言う名の息子がいたな」
 妻のお腹に子が宿ったと分かった瞬間から妻のこともまだ見ぬ子供のことも忘れ、仕方なくあわなければならない時も決して視線を合わせることがなかった。口を聞いたこともなく、せめてお父さんとでも呼んでくれれば可愛げがあるが…5歳まで共に暮らしていた妻にも、一言も喋らなかったと聞く。蛇の仲間を捜す事が趣味のサルマン老人が預かりたいと申し出たとき、子育てに嫌気が差していた妻はこれ幸いと放り出し、性格も跡取りとしての資質も、どうでも良いと思っていたユリアスもサルマン老人の好きにさせた。勝手に育って、爵位でもなんでも勝手に継げばいい。
「ジュネーブの私立学校に入学させるので…あなたのサインがいると…書類をこちらに送ったはずですが…僕が預かってジュネーブに届けることになってます。先方のご意志で連絡は全て紅宝院かサルマン老人を通してくださいと…」
「私から連絡を取る用事は無い」
「でも…一族の方達へのお披露目の時期も考えて頂かなくては…」
「…口も聞けない障害児を紹介する必要はないだろう。後見人争いは私が死んだ後に勝手にやってくれ」
「アンリはちゃんと話せます…サルマン老人とも、僕とも…とても10才とは思えないくらい利発な少年です。あなたと口を聞かないのなら…それはあなたに問題があるからではないですか?」
 
『あなたに問題がある』
 最後の一言を言うとき、亮の足は少し震えていた。どす黒い炎がぐらっと揺れたような気がして、迅に寄り添う。
「これはまた…気の強い天使だな。蛇の陰に隠れないでも…獲って喰われるとでも思ったか?」
 人の悪い笑みを浮かべながら亮を見つめる瞳はどこか悲しげで、自分が犯した罪を知っていそうな瞳だった。


「迅さん、ユリアスは自分が間違ってたこと、知ってるの?」
「ああ。サルマン老人が証拠を突きつけて間違いを認めさせた。ユリアスが真実を知って探し出した関係者は全て行方不明か殺された後で…最後に残っていたのが自分の妻だった。奥さんのバルバラはどうしてもユリアスと公爵夫人の称号が欲しかった。それで邪魔者のシリルを永久に引き離すために二人の絆を利用するような汚い手を使った。私と亮が引き裂かれたのと似たような手口で。私たちはどうやら突発的に激情を爆発させる性格があるようだね…それで自分の身まで傷つけてしまう。真実が明らかになったときは全てを壊した後だった。シリルを信じてやらなかったことで、ユリアスは自分を許せなくて、このまま滅びてしまいたいと思っている。アンリにはバルバラの血も流れているし、自分自身の忌まわしい血も混じっている。だから息子も滅びてしまえばいいと思っている」
「でもシリルはずっと…僕もシリルも、誰かを恨んだり滅びてしまえばいいなんて、考えたこと無いのに…」
 幸せになりますように…それだけが望みなのに。
「実は少し困ったことになっていてね…」
 全てがどうでもいいユリアスは、公爵夫人バルバラと親族の一部が手を結び、金持ち相手の商売を始めた事を知らなかった。有り余る金を手に入れた連中が最後に欲しがるのが若さと健康だ。そのための人間牧場を作ることは以前の紅宝院でも考えていたことだが、幸いなことに計画だけで終わってしまった。健康な腎臓は10年待ちと言われるヨーロッパでは、臓器売買の先進国でもあるアメリカより需要があり、臓器一つに付き一億以上の値が付けられることもある。一体あたりの儲けはセックス目的の人身売買より大きい。不要になったときの処分にも手を貸してほしいと頼まれることもしばしばだが、ウイルスに冒されていたり損傷が激しく使えない者ばかりで、余計な手間と費用がかかってくる。
「それに、アンリにも問題があってね…バルバラの一族には精神疾患を持った人間が多く存在しているんだ。アンリにもそれが受け継がれているかも知れない。サルマン老人の元で注意深く育てられて検査も受けているんだがまだ確定診断は出ていない。幼児期に親からまともな愛情を受けていない事もあって、これからも注意が必要なんだ」
 ユリアスの血が流れているので蛇の資質も持っている。蛇を正しく導く力を持っているシリルの側で暮らすことは、アンリにとって何よりの治療になるのではないか?
「…じゃあ、シリルもまだ大丈夫なの?」
「今のところはね…シリルは少しひねくれてしまったけど、ユリアスを切り捨てたわけではない。どす黒いオーラでも、まだユリアスが炎を纏うことができるのは、シリルが守っているからだ」


「これ、シリル?」
 物怖じしないと言えば良く聞こえるが、遠慮を知らないアンリはシリルの部屋で色々な引き出しを開け、本棚をあさり、奔放に振る舞っていた。机の引き出しの中にあった古い、美しい装飾が施された革張りの本を見つけたようで、丁寧にめくっている。
「あ…それ鍵がかかってなかった?」
 番号をあわせる鍵が付いていて、確かしっかり掛けていたはず…
「3ケタなら、とうさんの誕生日でしょ…」
 全くその通りだ。
「うん。正解。写真も俺だよ。隣に写っているのがアンリのお父さんで…22才の時。すてきでしょ?」
「とうさんはどうでも良いよ。シリルは金髪だったんだね。目もブルーで…凄く綺麗。文章が…読めないんだけど、どこの言葉なの?」
「古いヘブライ語。毎日ヘブライ語で日記を書いてたんだ」
「何てかいてあるの?」
「容赦のない子だね…今日から少しずつ読んであげる。そしたらお父さんの事をもっと好きになれるかも知れない…」
 

 その日記帳はシリルがフランスを去るときに誰かが荷造りしてくれた物の中に入っていた。いつも大事にしていたので、屋敷の誰かが入れてくれたのだろう。最初のページにはユリアスと二人で写った写真を貼っていて、シリルはその写真のユリアスの表情が一番好きだった。
「知らない人みたい」
 写真の中のユリアスは若さに輝いていて、大らかな笑顔をシリルに向けている。アンリが知っているのは、どこか遠くを見つめていて決して自分を見ようとしない冷たい目と、強張った表情の父親だけだ。
「こっちのユリアス様が、本当のユリアス様だよ。アンリ、日記は後から読んであげるから、荷物を解いて、それから俺のカフェに行こう」
「うん。美味しいカフェオレが飲みたいな…おなかも空いた。ケーキも食べたい」
 シリルが微笑みながら手を差し出すと、アンリはそれをしっかり握った。
「子どもの頃のシリルも可愛いけど、俺は今のシリルの方が好きだよ。髪の色も瞳の色も複雑で神秘的だし…色気ばっちり!」
「はははは…ませた子だね、あはははは」
 

 お前は誰だ?と金髪碧眼の美しい青年に階段の上から厳しい口調で問われ、シリルはアンリをその場に置いてユリアスの屋敷から飛んで帰った。生まれ故郷のエビアンに帰るのも嫌で、ユリアス様の屋敷に入るのなどどんな大金を積まれても絶対に嫌だと思っていたのに、アンリと懐かしい執事に懇願されてのこのこやってきてしまった。玄関ホールで誰かが現れるのを待っていると、真っ先に来たのがその青年。どう見てもユリアスの愛人だ。
 亮から愛人が屋敷で幅を利かせていると聞いていて、それは別に、ユリアス様が何人愛人を囲おうと知ったことではない。でも、いくらなんでも裸同然で客に挨拶するなんて冗談はやめて欲しかった。屋敷全体が嫌な空気に包まれていることも重なって、親族へのお披露目があるアンリだけを放り出して宿泊先のホテルに逃げ帰ってきたのだ。
『シリル様、申し訳ございませんでした。せっかく久しぶりにお会いできるとそれはもう楽しみにしておりましたのに…』
 部屋に着いた途端、待っていたように古くからのデビアン家執事のラザールが電話を掛けてきた。
「ごめんね…俺もラザールにはとても会いたかった…」
 ラザールはユリアス様の凶行を最後まで止めようとしてくれた。確か、ラザールもユリアス様の太刀を浴びて怪我をしたのではなかっただろうか?
『本当に、本当に…お会いしたく…』
 とうとう電話の向こうで感極まって泣き出してしまった。
「ラザール…アンリをお願いします。とても良い子なんだけど、俺以上にひねくれてて…とんでもないことをしそうになったら叱ってあげて。俺はずっとホテルにいるから、何かあったら連絡してね。明日はアンリをここまで連れてきてくれたらとても嬉しいんだけど…」
『もちろんご一緒にお連れ致しますっ!!どうか、どうか一目、この年寄りに会ってやってください。本当に…お会いしたかった…お話ししたいことがそれこそ山のように…』
「うん。待ってるよ。ラザールはきっと昔のままだね。俺は変わってしまったけど…俺もラザールに会って沢山話しをしたいよ…」
 

 アンリがラザールに連れられてダイニングルームへ入ると、人々の好奇の目が一斉に向けられた。言葉を話せない子供らしい…後見人になれば思うとおりにこの公爵家を操れるかもしれない…小声でひそひそと交わされる話の内容はどれも狡猾で悪意に満ちている。ごく普通の10才の子供なら、話の内容が全く分からないか恐ろしいかで尻込みするのだろうが…
「皆様、ユリアス卿ご長男のアンリ様でございます」
 ラザールがユリアスの隣の席、愛人の真向かいの席にアンリを導くと、アンリは椅子の背もたれに手を掛けたまま動こうとせずに愛人を睨みつけた。
「父上。そこに座っていらっしゃる下品な男はどなたですか?私を産んだバルバラには見えませんが」
 愛人が怒りで顔を赤くし、ユリアスを見る。
「父上。そこに座ることができるのはたった一人…私は身の程知らずで品性の欠片もないあなたの愛人と席を共にするほど恥知らずではありません。退席して頂けないのでしたら、私が失礼させて頂きます。思ったほどバカではないと認識して頂けたでしょうから」
 あまりにもあっさり言い放った後、しばらく全員の顔を見渡す。みな面白いほど呆けた顔をしていた。
「ラザール、私と話したいと言うご奇特な方がいらっしゃったら後で部屋にお通ししてください。では…父上、ごきげんよう」
 

「ああ、すっきりした」
 ダイニングの扉をぴったり閉めたあと、そう言ったのはラザールだった。 振り仰いだアンリと目が合い、思わず笑みがこぼれる。
「アンリ様、お部屋でお食事なさいますか?」
「うん。ラザールも一緒に食べようよ。その前にさ、着替えるね。さっき着たばかりだけど」
「ご衣装は良くお似合いですよ」
「そう?でもシリルと一緒の海賊みたいな服の方が楽チンだよ」
「シリル様が海賊の服を?」
「うん。すっごい格好いいんだよ。めちゃくちゃ色っぽくなったし」
「それはそれは…明日お会いするのが楽しみです!」
 ラザールはアンリの側で食事の世話をしながらシリルが子どもの頃の話しをいろいろ教えてくれた。食事の後はシリルが昔使っていた部屋を見せてもらい、少しばかり少女趣味なその部屋にアンリは笑ってしまった。金髪碧眼の、まさしく天使のようだったシリルに、その部屋はとても似合っていたが、今のシリルには…テーブルの上に足を置いて座るシリルには似合わない。クローゼットにはレースやらフリルやら着いたブラウスやリボンが付いたクロップドパンツ、エナメルやベルベットの可愛らしい靴がきちんと仕舞われていた。
「ラザール…きっと今のシリルを見たら気を失っちゃうかも…」
「いつもどんな風に過ごしていらっしゃるのですか?」
「んー…けっこうがさつだよ。先ずね、服は穴が空いたジーンズにヨレヨレの大きめシャツとか…おへそが見えそうなTシャツとか、朝起きが苦手で、お店に行ったらお客さんがお店を開けててくれたり…常連さんは勝手にコーヒー入れて飲んだりしてる。時々葉巻なんかふかしながらブランデー飲み過ぎて、笑いながら帰ってきたり…靴を脱がないでベッドに上がったり…お行儀が悪いったら…」
 ラザールはアンリが話す度に、額に手を当てたり、驚いて口元を隠したり、すっかり気が滅入ってしまったようだ。
「ああ…あんなにお行儀が良くて可愛らしかったシリル様が…」
「くそったれとか、言葉もね…」
「なんてことを…!明日お会いしたら私がご指導しなければ…」
 そんな会話を楽しみながら屋敷の中を見て回り自分の部屋へ戻ると、ユリアスの部屋へ来るようにと伝言が置いてあった。
「怒られるのかな…」
「そうですね。あの愛人はだんな様の一番のお気に入りで、五年以上ここにお住まいです。きっとアンリ様をきつく戒めるようだんな様に泣きついておられるかと…」


 アンリが父親の部屋にはいると、父親は一人でワイングラスを傾けていた。あの愛人が泣きわめいていると思ったが…虐め倒せなくて残念だ。
「初めて声を聞いたと思えば…」
 父親は感情を表さない目でアンリを見つめた。
「親族の集まりに図々しくも同席する方がおかしいと思います」
 アンリも負けずに冷めた態度でやりかえす。
「…どうせ後で根掘り葉掘り聞かれる。話して聞かせるよりその場で聞かせたほうが楽だからな」
「愛人の我が儘など、黙れの一言で抑えられるのでは?」
「子供のお前に、愛人の御し方を習うとはな…」
 呆れたように、でもどこか楽しそうに父親は肩で笑った。
「アンリ…不自由はないか?」
 一度も愛情など示したことがない父親が突然そんなことを言い出したのは、やはりシリルのことが気になっているからだろうか。アンリはその言葉が自分を突き抜けて、シリルに向かっているような気がした。
「…別に」
「お前の生活に掛かる金はサルマン翁に渡してある。必要な時は翁に言え」
「分かった」
「他に何か?」
「特には…ああそうだ、明日一日ラザールを貸してください。一緒に行きたいところがあるので」
「…良いだろう。ゆっくりさせてやってくれ、あれでかなりの高齢なんだ」
 ラザールがシリルに会いたがっている事も気が付いているのだろうか…シリルは最後までかばってくれたラザールに怪我を負わせたことをとても気に病んでいるし、お互いに元気であることを確認できれば心も軽くなる。


 次の朝、食事が終わると直ぐにアンリはラザールと屋敷を出た。
「ラザール…なにその荷物…」
 夜逃げでもするのかと思われるほどの大荷物だ。
「シリル様がお好きだったお菓子に、チーズに、それから今朝焼いたばかりのバゲット、お庭で採れたトマト、こっちはユリアス様が昔プレゼントされた宝石、ああ、これは売ればお金になりますからね、持っていて損はないです。あの下品な愛人がシリル様の部屋を荒らし回っていたものですから、私が預かっておりました。こちらは急いで取り寄せた生地の見本です。とんでもない格好をしていらっしゃるようですから、オーダーして、後ほどスイスまでお届けします。それから極上のワインとシャンパン、最近ユリアス様の飲み方はそれはそれはお下品で…よいワインはお出ししないようにしてるんです。シリル様に飲んで頂けたらワインも幸せでしょう…」
 屋敷から車で10分程の道のりは、荷物の説明で終わってしまった。ホテルに着くと、シリルはロビーまで出迎えに降りてきていた。けれども、自分からラザールに近寄ろうとはしなかった。アンリも、敢えてシリルに近寄らなかった。意地悪なようだが、シリルの不安が津波のように押し寄せてきたのだ。ラザールが変わってしまった自分を見てどう思うか、心配でたまらなかったのだ。
「シリル様!」
 ラザールが荷物を床に置いて走り寄る。
「シリル様!お元気で…大きくなられて…っ…あんなにお小さかったのに、立派になられて…」
「ラザール…なんだか小さくなっちゃった?」
 シリルの顔が笑顔でほころぶ。
「昔はラザールを下から見上げてたのに…ラザールの頭のてっぺん、初めて見たよ」


 あっという間に楽しい時間が過ぎ、名残惜しかったけれど、今からはいつでも会えるからと、ラザールが帰ったのは深夜零時を回ろうとした頃だった。屋敷に帰り着き窓を見上げると、主の部屋の明かりはまだ煌々と灯っている。
「だんな様、ただいま戻りました。何か問題はありませんでしたか?」
「…いや」
 無駄口を叩くのは良い執事のやることではない。仕事以外のことは聞かれたら答えるが、うまく逃げるのも仕事のうち。ユリアスが聞きたそうにしていることは分かったが、今日の休暇扱いのプライベートを自ら話すなど問題外だ。それに…主従は関係なく、人間同士として言わせてもらうなら『壁は自分で打ち破れ』だ。
「では、私はこれで休ませて頂きます。お休みなさいませ」
 シリル様は少しばかり見た目が変わってお行儀も悪くなったけれど、あんな目にあって誰よりも苦しんだはずなのに、だんな様のことは欠片も恨んでいないどころか変わらずに愛していらっしゃって、アンリ様とも仲の良いご兄弟のように接していらっしゃるのに…我が主ときたら…
 主の部屋のドアを閉め、いつになく軽い足取りで自分の部屋に向かう。今頃、隣の寝室に隠れて話しを盗み聞いていた愛人がだんな様をきつく問いつめているところだろう。昨日の夜から姿は見掛けていないが…アンリに侮辱され部屋に引きこもる程度には繊細だったか…
 それぞれの思いの中で眠りについた頃、屋敷は一本の電話にたたき起こされた。


 シリルが投げつけた羽根枕が切り裂かれたのか部屋中に羽毛が飛び散り、ベッドの白いシーツの上には鮮やかな血痕が広範囲に点々と広がり抵抗の跡が忍ばれる。
 腕をナイフで切り裂かれたシリルは見たことがある医者に傷の手当てを任せながら、警察官が部屋の中を調べ回る様をじっと見ていた。
 シリルに怪我を負わせた男は既に捕らえられ、間もなく警察署で尋問が行われると言うことである。シリルも手当が済み次第この部屋で事情聴取があるはずだ。
 一緒に眠っていたアンリは、咄嗟の出来事にシリルがベッドの下に突き落として無事だった。直ぐに床から立ち上がって、シリルに襲いかかる男に掛け布団を投げつけタックルしていかなかったら、シリルはもっと深刻な怪我をしていたかも知れない。そのアンリは別室で事情聴取をされている。
「さあ、これで大丈夫。大きな傷のようだが深くはない。しばらくの間は毎日病院へ消毒をしに来てください。それからできるだけ右腕は使わないこと。痛みはどうですか?」
 ひりひりするが、我慢できない痛みではない。
「このくらいだったら、大丈夫です」
「念のため鎮痛剤を差し上げておきますので、無理せずに飲んでください。それから…気持ちは落ち着きましたか?もう恐いことはないですからね、安心して休んでください」
 優しく微笑みながらその医師は言った。昔も、この人はこんな微笑みを与えてくれたような気がする。この優しさに応えなければ、と痛みと混乱に打ち勝つ力を与えてくれた。
 その時、捜査の都合で開け放たれていたドアの向こうが一段と騒がしくなり、ドタバタと人が近づいてくる音がした。
「シリル様!!」
 血相を変えたラザールだ。
「ラザール…」
「大丈夫ですかっ!ああ、なんてことに…おけがの具合は!?ああ、早く、横になって!」
 ラザールの慌てぶりは嬉しくもあり、おかしくもあり、シリルは横にならなければいつまでも小言を言われそうだったので横になれそうな場所を探すが…ベッドは犯行現場だしソファーは捜査員の荷物や道具でうまっているし。ラザールもそれに気が付いたようだった。
「大丈夫だよラザール、怪我したのは腕だけだし、痛みも無いから…」
「…ああ、こんな時くらい役に立っていただかなくては!」
 ぽん、と手を叩き、携帯を取りだす。
「私です。今どちらですか?ええ。そうですか。お願いがございます。直ぐにホテルに電話してお部屋を取ってください…良いお部屋を…ご自分でお確かめ下さい。では」
 ラザールはにっこり笑い、たまには人を使うのも楽しゅうございますね、などと言いながらシリルを立ち上がらせると、そっと寄り添い支えながら新しい部屋に連れて行ってくれた。
「お荷物も直ぐに運ばせます。アンリ様もこちらにご案内します。それから…署の事情聴取が終わり次第、だんな様もこちらに来られます。お心づもりを…」
 シリルの瞳が揺れる。
「今回のことは、だんな様の愛人が絡んでいるようなのです…」
「あの…アンリが侮辱した?」
「非常に気が強い方なのに、えらく大人しくしていらっしゃると思ったら…」
 警察が犯人を取り押さえ連行する際、デビアン公の愛人に頼まれてやったとわめき散らしていたそうだ。しかも狙ったのはアンリで、先に目を覚ましたシリルが暴れ始めたのでアンリには傷を負わせられなかった。
「そうか…アンリが狙われていたんだね…アンリが無事で良かった…たんこぶ作っちゃったのは俺のせいだけど」
 そう言って微笑むシリルをラザールは直視できなかった。どうしてこの人だけが…何も言葉を返せずに俯くしかできなかった。
「シリル!大丈夫!?」
 駆け込んできたのはアンリだった。その後ろからアンリから話しを聞いていた警察官が入ってくる。
「俺は大丈夫。アンリは?たんこぶ痛くない?」
「もうっ!このくらいなんでもないよ。それよりシリルの腕の傷は?病院に行かなくて大丈夫なの?さっきの医者、藪医者じゃないの?警察の人は明日にしてもらう?」
 矢継ぎ早に質問され答える隙もなく、シリルは笑いながら頭を縦に振ったり横に振ったりするしかなかった。
「あー…お取り込み中すみませんが…ちょっとお話しを聞かせていただいてもよろしいですか?」
「ラザール、アンリと向こうの部屋で待っていてくれる?」

 
 特に大した質問もなく、自分の身に降りかかったことを細かく話しただけだった。愛人にとってアンリは邪魔な存在かも知れないが、愛人の座すら危うくなる、デビアン家の唯一の跡取りを本気で殺すようなバカな真似はしないだろう。先に侮辱したのはアンリだし…
「愛人の…ヴァンサンは…どうなるのですか?」
 ユリアス様も、お気に入りの愛人を突き放しはしないはず、そう思って自分がされた仕打ちをちらっと思い出したが、きっとあの愛人はシリルにはできないような態度や行動でユリアス様を懐柔してしまうのだろう。
「さあどうなるか…一番の被害者はあなたなので、あなた次第でしょう。込み入ったことをお聞きしますが…あなたはその、アンリ君の…」
「保護者です」
「立派なお家でご両親ともいらっしゃるのに?」
「ご両親ともお忙しすぎて…子供が育つには良くない環境だと思いませんか?」
「つい最近までアラブで育てられていたとか?なんでまたスイスのあなたの所に?」
「アラブのサルマン老人は私とデビアン家共通の知り合いで…私も子どもの頃デビアン家のお屋敷で育ちましたから、ご恩返しができたらと…」
「ああ、それでラザールさんともお知り合いなのですね。あのがんこ爺さんがあなたを下にもおかないように丁寧に扱っているのが珍しかったものでつい…」
「…アンリの愛人とでも思われましたか?」
「はははは…貴族様の常識は分からないもので…はははは」


「笑い声がしてたけど…」
 刑事と入れ違いに部屋に飛び込んできたアンリはシリルの隣に座って心配そうに見上げている。
「うん。まあね。ちょっとおかしかったかな」
「何、教えて」
「だめ。捜査上の秘密」
 アンリの愛人と勘違いされていたなんて…思い出すとにやけが止まらない。貴族の、と言うよりフランス人の思考回路のほうが信じられない。
「ふーん…ま、いいや。お父さんがもうすぐ来るけど…良いの?」
 良いわけない。
 一瞬で気が重くなり、身体のそこからわき起こる不安と恐怖に押しつぶされそうになる。
「シリル?」
「…ごめん、しばらく一人にしてくれる?」
 アンリが部屋を出て行ったけれど、別に一人になって考えることや準備することなど何もない。怪我だって大したことないし…ベッドでぼーっとしていると、部屋の外からラザールが声を掛けてきた。
「シリル様、せめてお召し替えを…髪も綺麗にしませんと…」
 言われてみれば、治療のために袖を破ったパジャマ姿で、寝込みを襲われたので髪もぐしゃぐしゃだ。
「ラザール、手伝っ…」
 隣室へのドアを開けると、そこには既に、ユリアスがいた。

 ドアを閉めたときに「くそったれ」と言ったかどうか覚えていない。ホテル備え付けのガウンを持って入ってきたラザールがため息をつきながらガウンをきっちり着せ、もつれた髪をブラシで丁寧にとかしブルーのリボンで束ねる。
「よろしいですかシリル様、お行儀良く、ですよ。言葉も気をつけて」
 ソファーに座るシリルを上から下まで眺め、最終チェックを済ませると、ラザールがユリアスを招き入れた。

 シリルは俯いたまま、懐かしい人の気だけを感じていた。アンリと出会ったときとは比べものにならないくらい懐かしく、引きずり込まれそうな強力な力がある。体中が熱くなり喉が渇きを訴えたが、目の前にあるコーヒーカップに腕を伸ばすこともできない。話すなどもってのほかで、ただじっと時間が過ぎるのを待っていた。
「…具合が悪いのか?」
 久しぶりに聞いた声は記憶していたそれよりずっと低く厚みがあり、緊張していた身体を少しだけ解してくれた。
「…いいえ…」
 声が擦れたので、首も横に振った。
「…これから先も似たようなことが起こらないとも限らない。サルマン翁に護衛を出してもらえるよう手配した。怪我の治療費と慰謝料は、十分な額を用意する。足りなければラザールに連絡しろ。ヴァンサンは私とお前の関係を知らない。気付かれないためにも慰謝料は受け取ってくれ」
「…ヴァンサンは…彼には恨みもない。アンリが先に侮辱したと聞きました。ヴァンサンの立場も考えて上げてください…」
 自分がユリアス様に対してこんな事を言うなんて、考えたこともなかった。そもそも、二度と会う機会など無いと思っていたから…
 『二度とその姿を私の前に晒すな』
 そう言ったのはユリアス様だったのでは?それなのに、わざわざ会いに来てくれたことが純粋に嬉しかった。そして何よりお元気で、亮が言ったようにユリアス様の炎は暗い色をしているけれど悪意に満ちたものではない。
「ヴァンサンには2、3日留置場で頭を冷やすように言ってある」
 そうやって優しさを取り戻していけばいずれまた炎も浄化される。アンリが良い若者に育てば、ユリアス様の気持ちも落ち着かれて昔のデビアン家の隆盛を取り戻すだろう。少しでもそのお手伝いができるなら…
「早く迎えに行ってあげて…不安だろうから。アンリにはどんなときも人を貶めるようなことはしないように言い聞かせておきます」
 もうこれ以上話す事もないだろうと思ったシリルはゆっくり立ち上がり、ユリアスの退出を促した。
「遅くまで付き合わせて申し訳ありませんでした。お…私はもう大丈夫なので、お休みになって下さい」
 ドアを開けるとラザールが心配そうに歩み寄ってきた。
「シリル様…お話しはもうお済みですか?言いたいことはちゃんと言われましたか?」
「ふふふ…ラザール、大丈夫だよ。さあ、だんな様をお屋敷に…今日はもう遅いから。アンリ、お父様にご挨拶を」
 アンリの手を握ると、しぶしぶと言った声色で、
「…お休みなさい」
 と言った。
「シリル様、アンリ様、明日はゆっくりお休みになってください。護衛の者が到着しましたら私が連れて参ります。そのあと一緒に病院へ行きますので決してお一人で外に出ないように。よろしいですね?」
 後ろを何度も振り向きながら去っていくラザールに何度も手を振り、エレベーターに乗り込んだところでシリルは大きなため息をついた。
「ああ疲れた…」
 アンリが横でぷっと吹き出す。
「すごい猫をかぶってたね」
「まあね…久しぶりで超緊張」
「でも…シリルはお父さんの恋人だったんでしょ?」
「子どもの頃の話しだから…恋人と言うより、弟か本当の子供のようにおもってたのかもしれない」
 実際、抱き締められたりキスされたりは当たり前だったけれど、シリルが幼かったためそれ以上の事は無かった。不具な身体のせいか性的な欲求がどんなものか知らないので、ユリアス様に対する思いが恋愛感情なのかどうかも分からない。人も動物も生き物は全て好きだし、自分のことを嫌う人間ですら嫌いになりきれないところがあるので、尚更特別な感情に疎かった。
「シリル、お父さんと会ってすぐにぴかぴか光り始めたよ」
 確かに、心の中の壁の内側から光りが漏れているのが自分でも分かる。亮と出会ってからずっと感じていたことだけど、アンリと出会いユリアス様と再会してからは、より強く温くなった。
「妬けちゃうな…」
 と言う割に、アンリはニヤニヤ笑っている。
「アンリ、大丈夫だよ。アンリに煙たがられるまでずっとこうやって手を繋いでいてあげるから」

 言われなくても昼近くまでぐっすり眠っていたシリルとアンリは、ラザールに起こされた。
「さあ、お二人ともお起きになって!アンリ様はこちらのバスルーム、シリル様はあちらのバスルームで腕を濡らさないようにシャワーを浴びてください」
 無理矢理バスルームに追い立てるのは昔と全く変わっていない。手早くシャワーを浴びている間に着替えを置いてくれたようで、シリルは見たことがないブラウス(フリル付き)とスリムなスラックスを身につけた。
「ラザール、俺の服は…」
「私、私の服、ですか?こちらにいる間はもう少しまともなお洋服を着てください。アンリ様もですよ!」
 アンリを見ると、おぼっちゃま定番のセーラー服を着せられていて…お互い顔を見合わせて笑ってしまった。
 部屋で食事をした後、護衛を紹介され、全員でシリルの包帯を換えに病院へ行って…また部屋に帰ると、シリル宛にプレゼントが届いていた。
「ふふふ…お父さんからだよ。昨夜のお詫びにって」
 添えられていたカードを見てアンリが意味ありげに笑っている。
「アンリ様、人様宛のカードを盗み読まないように!」
 ラザールが素早く取り上げてシリルに渡す。
 それは日記帳だった。
 立派な革の装丁にデビアン家の紋章が刻印されている。
「今度は俺のことも沢山書いてね」
 アンリが言った。
「そうだね…」
 ユリアス様と一緒に日記を書いた楽しい日々が思い出され、それを覚えていてくれたことがとても嬉しかった。もう一生交わることがないと思っていたユリアス様の人生に別の形ではあるが係わることができ、ユリアス様の面影を偲ばせるアンリと暮らすことができて…
「シリル、涙は悲しいときにこぼすんだよ」
 いつの間にか頬を伝っていた涙を、アンリが指で拭ってくれた。

 

16
光りある者