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緩やかなり、萌芽

夜叉と牧師

後】

 他愛もない会話に、質素な食事。
 黒瀬組で食べる食事はそれなりの物で不味いと思ったことはない。   仕事メインの会話も嫌いではない。いや、それが普通で、堅気の日常などあまり接したことがなく気になったことも、ましてや知ってみたいと思ったこともない。
 何と言っても楽だったのは、吉野から振らなくても話しが進むことで…主に克彦の話しだったけれど、赤ん坊の頃の話を聞けてとても楽しかった。恐らく、本田も知らないような話しで…克彦はハイハイをはじめた頃、後ろにしか進めず、前向きな性格なのに頭の中では後ろ向きの考えをしているのはそのせいなのかとか、興味深い話しをしてもらった。
「空腹は収まりましたか?」
 出されていた食べ物が綺麗になくなり、ボトルに残っていた最後のワインを均等に注ぎ分ける。
「はい。とても美味しかったです」
「それは良かった。大したことないメニューでしたが、一人で食べるご馳走よりずっと美味しいと思いました。平日はもう少しマシな料理を作るので、もし良かったら、また食べに来ませんか?」

 吉野にとってそれは思いがけない申し出で、たとえ社交辞令だとしても嬉しかった。それに、この人なら吉野が社交辞令を真に受けて訪れても温かく迎えてくれそうな気がする。いや、牧師は社交辞令など言わないか…
「また来ても、良いのですか?」
「水曜日は聖書の研究会があるのでちょっと忙しいですが、他の日なら夜はできるだけ教会にいるようにしています」
 穏やかに、牧師が微笑んだ。克彦が本田に抱き寄せられて寛いでいる時の表情に似ていて、どきりとする。
「あ…ですが…いつも何時頃お休みになられますか?私は仕事の時間が不規則で…」
「いつでも。気になるのなら、電話をしてください」
 キッパリとした口調が、単なる社交辞令ではない事をうかがわせる。
 吉野はグラスに残ったワインをぐっと飲み干し、テーブルの上の皿を重ね合わせた。本田の家でご馳走になるときは部下が後かたづけをやってくれるので、見よう見まねだったが…
「あ…水口牧師、食後のお祈りは?」
 無宗教でもごちそうさま、と言うくらいだから、食前の祈りに似たような物があるのではないかと思った吉野は、皿を重ねる手を止めてきちんと座り直した。
 祈るときの牧師の声は、耳に心地良いので、聞くことはやぶさかではない。
「忘れていました」
 言いながら笑っているので冗談だろう。吉野もふっと、釣られて笑ってしまった。
「意外とおっちょこちょいなんですよ、私は」
 ウィンクを投げてくる牧師など、この人以外いないのではないだろうか?
 しかもそのウィンクは日本人が良くやる、ぎゅっと片目をつぶる物ではなく、片目を瞑るか瞑らないかの軽いやつだ。端正な顔の男がやると色香が放出される。
 何をバカな…吉野はほんの少しだけたじろいだが、放たれた色香を持ち前の精神力で一刀両断し、祈りを捧げるポーズをして目を瞑った。
「主よ、この糧に感謝します。ごちそうさまでした。アーメン」
「………」

 あまりにも短すぎて吉野は直って良いのか分からず、じっと目を瞑っていた。数十秒の沈黙…どうすればいいのか分からない焦りがあっても良いはずなのに全く苦ではなく、じっと、牧師が導いてくれるのを待つ。
「…さあ、片づけましょうか。あなたを早く帰してあげないと、明日からまたお忙しいのでしょうから」
 何か違和感を覚えたが、吉野は食器を持って立ち上がった牧師の後に付いてキッチンへ向かった。自宅ではエプロンなど使わないが、ここは牧師を真似して先ほど自分が使っていたエプロンを腰に巻く。面倒だと思って使わなかったのだが、ちょっと手を拭くのに便利が良かったり、水が跳ねるのを気にしなくても良い。暇なときに買ってみるのも良いかもしれない…
「克彦は、手が荒れるからと言って食事の後かたづけにはゴム手袋をはめていたのですよ。替えがないと家事の手伝いは一切しませんでした。あの子は迷惑を掛けずにちゃんとやっていますか?」
「後かたづけは部下の役目ですから…ああ、それに、確か本田の家にも克彦さんの家にも食洗機がありました。必需品、だそうです」
 牧師は苦笑いながら甘やかさないで下さいよ、と呟いた。
「克彦さんは存在そのものが本田と黒瀬組に無くてはならないものです…爪の先まで、誰よりも美しくあって欲しいと皆が思っています。皿洗いなど、させられません」

 初めて本格的にやったが、食器洗いも存外楽しいではないか。

「見た目など、年とともに衰える。多少長引かせたと言って、いずれは…」
「確かに。初めは本田も克彦さんの見た目に惹き付けられたようですが、あの美貌を裏切る気性の激しさと芯の強さ、真正直で曲がったものは金槌で叩いてまっすぐに伸ばすような男っぷりに惚れているのです。その裏に隠された、誰よりも淋しがりで愛情を求めている部分にも…ですから心配ご無用です。克彦さんが克彦さんらしく在るために、と言うのはもはや黒瀬組の社訓です」
「困った人達だ…どうかあの子を見守ってあげてください。そして、あなたたちみんなが幸せになれますように」


 帰りのタクシーの中で吉野は、別れ際に握手をした右手をじっと見ていた。5分経っても、10分経っても、少し荒れているけれどじんわりとした温かな感触が消えない。自分は面倒くさくて使わないし、余っているからと克彦さん用、本田用、そして自分にまでゴム手袋をくれた。そして美しく手入れされた花壇に咲いていた花も…今日差し入れたクッキーのお礼に…
 桜草、と言う薄いピンク色の小さな花が沢山集まった花だ。ガラスのコップに入れて毎日水を換えれば長持ちするらしい。初めは寄せ植えの大鉢を持って帰れと言われたのだが、せっかくここまで育ったものを枯らしてしまいそうなので辞退した。その代わりに10本ほど花を切ってもらったので、明日、少しだけ事務所に持っていっても良い。花など愛でる人間がいないのが残念だが…

 ゴム手袋と桜草、これが、吉野が今年手に入れたホワイトデーのプレゼントだなんて、本人は気が付きもしない。バレンタインにチョコレートを渡さなかったからホワイトデーにお返しがないとは限らないのである。この日からはじまる関係があっても良いではないか…

 翌日、黒瀬組事務所の車寄せに滑り込んできたメルセデスの助手席から、吉野がピンク色の可憐な花を持って降りてきたときは居並ぶ組員の視線を一瞬釘付けにしたが、克彦さんが一緒であれば克彦さんの持ち物だと組員達は思った。しかし、後部から降りてきたのは組長一人で、ピンクの花を持った吉野にまたぞろ視線が集中する。
 初めて克彦が事務所に現れたとき、園部が沙希を抱きかかえて来たとき、三度目となれば組員も多少のことには慣れているはずだが、吉野とピンクの花束の組み合わせは幹部が宝物のように扱う恋人達とはまた違い、組員の背筋に戦慄を走らせた。それが異様な組み合わせならまだしも、似合っているのが何とも言い難い寒気を催すのだ。

 早朝にピンクの花束を持って吉野が出迎えに来たとき、本田も玄関で硬直した。昨日のいきさつを沼田から報告済みだったので、「克彦さんのお兄様に頂きました」と言われまあ納得したものの、ブリーフケースは組員に持たせるくせに花だけは自分で大事そうに抱えている姿は、近いうちに大地震が起こって首都壊滅という事態になってもおかしくないくらいの怪奇現象?だと思える。
「毎日水を換えると長持ちするそうです」
 本田のデスクに小振りの花を一輪、残りを応接テーブルの上に置きながら、吉野が言った。心なしか表情や醸し出す空気がいつもより柔らかく、「吉野が懐いている」貴重な人物の噂で、その日は仕事に差し障りが出るほどだった。

 吉野は何気なくコップに活けた花を見つめ、この花が枯れないうちに花瓶を買わなければ、と思った。繊細で可憐な花には細工の美しいクリスタルの花瓶が似合いそうだ。カットグラスとエッチング、どちらが良いだろう?ガレやドームの複雑な色合いのアンティークも良いかもしれない。

「組長、今日は少し早めに上がらせてもらいます。花瓶を…買いたいので」

 本田はふと仕事の手を止め吉野を見やったがすぐに手元の書類に視線を戻し、分かった、と一言だけ言った。春の柔らかい日差しが映えるこの男の砂と血にまみれた記憶がいつの日にか浄化され、新たな一歩を踏み出せる日が来ることを、本田は心の底から願ったのだった。

End.

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吉野さんと牧師の恋?の予感です。だって春だから…(笑)この二人は非常にゆっくりと気持ちを高めていくと思います。なにしろ吉野さんには辛い過去の記憶がありますから…二人の立場を考えると、他のカップルより多難でしょうね…