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緩やかなり、萌芽

夜叉と牧師

中】

 水口光太は子どもの頃から勘が良かった。人の心がすらすら読めるとか、予知ができるとか、そう言った類のものではないが、相手が何を望んでいるのかある程度心の底を見ることができた。
 目の前の美しい男、吉野には、不思議なほど何も無い。それが真実なのか、今までに感じたことがない完璧な鎧のようなものを身に纏っているのかすら分からない。

 ただ、こうして話すことも嫌では無さそうだ。

 今しかない、そんな感じではあったけれど。
 少し話してみれば、育ってきた環境や生活の様子が見えてくるものだが、吉野の様子からはそんなものがまるで見えなくて、今のこの姿のまま産まれてきたかのような錯覚を覚える。
 過去がない、未来も変わらない。今だけの、そんな人生を送っているかのような。                     

「私は、集団でやるスポーツは苦手です」
「そうですか?合気道も空手も、相手がいなければただの華麗な舞のように思えますが…相手の心を読んで動きを見きるのはボールや道具を操るより難しいし、より人間的なスポーツですね」
 スポーツ…それこそ違うのに…と吉野は思ったが、人を殺すための手段として会得したなどとこの人に言えるはずもなかった。
「私はまだ極めたわけではないので…」
 導いてくれるはずの師匠はもういないので、永遠に極めることなどできなくなった。武術に関しては八方ふさがりの状態で、ひたすら自己鍛錬する以外にないと思っている。こんな自分でも黒瀬組にとっては必要な人間であることだけが、吉野の生きる糧のようなものだ。
 地位も金も、それを得るための仕事も、暴力沙汰も、全て満足させてくれる本田や沼田とは死んでも親友であり続けるつもりだ。本田と沼田に対する気持ちとはまた別で、ヤクザで人殺しの自分たちを心の底から慈しみ、家族同然に慕ってくれる克彦は、強いと思っていた黒瀬組の絆をより明確にくっきりと、誰の目にも明らかになるように浮かび上がらせてくれた。日陰者のヤクザ世界には眩しいくらいに…
 そして、そんな克彦を育てたご両親とこの兄も、穏やかに自分たちを包み込み、なんの躊躇もなく迎え入れてくれた。
 この人の側は、居心地が良い。
 そんな初めての感覚に戸惑い、損得感情抜きにカフェで売られていたホワイトデー用のクッキーを、教会への差し入れにしようと買い占める勢いで注文するあり得ない自分に、憮然とする吉野だった。


「なごんでますね、吉野さん」
「ゆきちゃんもそう思うか?」
「はい。真面目モードの時はあまり人を寄せ付けない吉野さんが、自分からふらふら付いて行くなんて…面白そうですけど…千草スイッチが入ったらどうなるんですか?」
「さぁ…牧師だし…優しそうだし…上手くあしらってくれるんじゃないか?」
「超迷惑な話ですよ…」
「まぁな。俺が忙しいときは他に見張りを頼んでるし…スイッチ入りそうになったら撤収するさ。それより、あいつが無意識のうちに和んでると言うことの方が大事だ」
「…そうですね。大事なことです」


 子供達にすっかり懐かれた沼田と山崎、吉野に懐かれた牧師は、公共の交通機関で教会へ向かった。日曜日だからかそれほど人波は多くなかったが、いつも車で移動している吉野がイライラするには十分な人混み具合だ。
 いつものクセで、守るべきものが進む道を確保するのは自分の使命だ、とばかりに先頭を歩こうとするのだが…あまりにも人が多すぎるのかいつものように人垣が崩れない。
「吉野さん、眉間に皺が…」
 後方で、人波にさらわれがちになる子供達を拾いながらぼちぼち歩いていた山崎が、沼田に呟いた。
「今日は私服だしな…ださい方の。ただの美男子だから逆に人が寄ってくる」
「いつもはヤクザなスーツで、集団作ってますからね〜」
「ゆきちゃん達も似たようなもんだろ?」
「あ、うちは人混みには入らせませんから。亮さんは目があった人にも挨拶しまくって大変なことになるんです。ですから、どこへ行くにも車で現地集合が基本です」
 二人でのんびり話しながら子供に目を光らせながら歩いていると、前方から吉野の視線が突き刺さる。
 ゆ・く・り・あ・る・け
 と、沼田が口をぱくぱくさせると、吉野はしばし立ち止まって、仕方なさそうに頷いた。
「吉野さん、疲れましたか?」
 吉野の直ぐ後ろを歩いていた牧師が、ぴたっと停まってしまった吉野を気に掛けて、両手に持っていたカフェの大きな紙袋を取り上げた。
「あ…私が持ちます。疲れたのではなくて…子供達が…」
「ああ、大丈夫ですよ。しっかりした子達なので、乗り場も分かっているし、ホームで集合すれば良い。これだけ沢山の目印が歩いていたら、あの子達も安心でしょう」
「目印?」
「背の高い、格好いいお兄さん」
 ウィンクをされ、吉野は少しだけどきっとしてしまった。
 格好いいとは言われ慣れているし、周囲にも格好いい人間だらけだ。けれども、この牧師のように自分の心を和ませる相手は珍しい。
「…その中には…あなたも含まれていますよ」
 

「え…それは黒瀬組に持っていく荷物ではなかったのですか?」
 教会の、牧師の執務室に通された吉野は全ての紙袋を手渡そうとした。
「いいえ。組の者がいつも克彦さんからお菓子を頂いているので…こちらの教会の方にも召し上がって頂ければ…」
「そうですか…では信者さん達におすそ分けしましょう。けれど…いつも過分なものを頂いているので…正直、申し訳ないです」
 過分なもの…それは恐らく。
 本田は克彦名義の口座を本人には秘密でいくつか持っており、克彦名義で投資した儲けは分散して預けてある。そこから毎月一定額を父親と兄の教会に寄付しているのだ。父と兄には事情を説明して、克彦には時期が来るまで黙っていて欲しいと伝えてある。
「私たちは…いつどうなるか分からない身の上です。それに、私たちの存在はあなた方の迷惑にもなりかねない。申し訳ないのはこちらの方です。それなのに、受け入れてくださって…こういう形でしか感謝の気持ちを表せないのは悔しいです。ただ、あのお金は汚れたものではありません。それだけは安心してください」
「では…今夜はあなた方のために祈りましょう。その前に、夕食をご一緒しませんか?今日は怠けて良い日なので大したものは用意しませんが」
 怠けて良い日、その言いようが可笑しくて、吉野は微笑みながら素直に頷いた。

 これはやはり、手伝えと言うことだろうな…手渡されたエプロンを見て、吉野は暫く硬直してしまった。自分の短所をあげるとしたら、実生活においては「料理が全くできない」だろう。パンを焼く(トースターで)バターを塗る、コーヒーを淹れる、くらいはできるが。
 取りあえず腰に巻き、冷蔵庫から取り出される物を受け取る。きゅうり、シーチキンの缶詰、トマト、マヨネーズ。牧師はキャベツと何かが入ったタッパウェアを持っている。
「吉野さんは…缶詰を開けて、そこの大きなボウルに入れて解してください。きゅうりとトマトは洗って」
 牧師は大きなキャベツをざくっと半分に切ると、更にざくざくと細く切り始めた。
「吉野さんは料理などするのですか?」
「いいえ、全く…」
 ぱかっ…と音をさせながら缶詰を開け、言われたとおりにする。
「では毎日外食?」
「ええ…あとはたまに作っていただいたり…」
「ああ、作ってくださる方がいらっしゃるのですね?恋人?」
「いません」
 トマトを丁寧に洗いながら即答してしまった。
「…ええと、克彦さんと本田が良く食事に誘ってくださって。本田は料理が趣味なんです。克彦さんも料理はお得意のようですね」
 慌てて付け足すと、牧師は少し驚いたようだった。
「それはまた勿体ない。おもてになるでしょうに…」
「仕事が忙しくて…いや、楽しくて。それに、本田が落ち着くまでは…克彦さんもようやく本田の気持ちを信じられるようになったばかりですし」
「あの子を一人で頑張らせてしまったのは私たち家族の責任でもあります。言い出したらきかないと諦めていたのも事実ですし…これで牧師ですからね、反省しています」

 千切りにしたキャベツをボウルにためた水の中に放り込み、吉野からきゅうりを奪い取ると、薄く斜めに切る。
「シーチキンにマヨネーズをぐるぐると4周かけて、よく混ぜてください」
「あ、はい。…こうですか?」
「そうそう」
 キャベツの水気を切るためにザルにあげ、何度も振る。粗方水を切り終わったところで、吉野が持つシーチキンにざばーっとキャベツを加えた。
「よく混ぜてくださいね」
 吉野が丁寧に混ぜている横から黒胡椒を挽きながら加え、先ほどのタッパを開け、美味しそうなハムの固まりを取り出した。厚めに切り、レンジでチンする。
「日曜日は火を使わないようにするのですが…さすがに、少し温めた方が美味しいですからね」
 笑いながら牧師がハムを取り出し、洋皿に置く。キャベツとシーチキンのサラダをよそい、きゅうりとトマトを飾る。
「信者さんからオーガニックのインスタントスープを頂いたので、それも出しましょうか。吉野さん、ワインは飲めますか?」
「はい…」
 スープにお湯を注ぎ、ワインの栓を抜き、フランスパンを適当な大きさに切って…あっという間に食事の用意ができてしまった。

 もしかしたら、黒瀬組以外の人間に作ってもらった初めての食事かもしれないな…吉野は記憶の糸をたどるが、未成年の頃、母親に作ってもらった事しか思い出せない。吉野がヤクザになってからは親子の縁を切られてしまったのでもう随分あっていない。子どもの頃の好物は思い出せないが、様々なものが所狭しと並んでいたように思う。本田と克彦の作る料理は本格的で器や盛りつけにも凝っていて、見た目も美しい。
 今、目の前に並んでいる料理は、料理と言えるのかどうか分からないが、とても質素で、でも何故か食べるのが待ち遠しい。自分も加勢したからだろうか?自宅で一人の時、こうやってハムを皿に盛って食べたりするが、何の期待もせずただ空腹を満たすためだけに口に放り込み、食べる楽しみなど感じたことは無い。誰かに盛りつけて貰うと違うのだろうか?今度沼田に盛りつけて貰おう。そうすれば、また何か違う発見があるのかもしれない。
「吉野さん?」
 ワインのボトルを差し出されていたのに気が付かなかった。
 吉野は慌ててグラスを取り、トクトクトク…と心地よい音を立てて注がれるワインを見つめる。
「ありがとうございます」
「食事の前の祈りに付き合って頂けますか?」
 そう言えば、この人は牧師でここは教会だったな…
「私は無宗教ですが、一緒に祈っても良いのですか?」
 何度か仕事でここに来たことがあるが、水口牧師が牧師らしい仕事をしている場面は見たことがない。人殺しの自分に祈りの言葉ほど似合わない文句はないだろう。後ろ暗いことは承知していて、それでもやめられない、やめたくない。夜叉と呼ばれている自分は水口牧師の包み込むような大きくて慈悲深いパワーで消滅してしまうのではないだろうか…そうなったらなったで仕方がない…恐くはない、が、この人に自分の正体を知られるのは嫌だ。
「ええ。では、こうやって手を組んで、目をつぶって聞いていてくださったら良いですよ…

天にまします我らの父よ
願わくは
み名をあがめさせたまえ
み国を来たらせたまえ
み心の天に成る如く地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を今日も与えたまえ
我らに罪を犯す者を我らが赦す如く我らの罪をも赦したまえ
我らを試みに遭わせず悪より救い出したまえ
国と力と栄えとは限りなく汝のものなればなり
アーメン

 さあ、頂きましょうか」

 祈りの言葉の意味はとても簡単で、水口牧師の優しいが張りのある声で唱えられた文句は不思議なほど抵抗無く吉野の心の中に滑り込んだ。恐くない。むしろ、清々しい。
 キリスト教のことは分からないけれど、祈りの言葉を聞いただけで許されたような錯覚に陥り、錯覚と分かっていても心の澱が軽くなる。

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