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緩やかなり、萌芽㈼

夜叉と牧師

前】

 黒瀬の姐さん、黒瀬の悪戯小僧、黒瀬の金看板、黒瀬の…幾つもの『黒瀬』を冠に戴く黒瀬の至宝、克彦が現れない日の黒瀬組事務所にはそれなりの緊張感が漂っている。克彦がいてもいなくても仕事の内容は変わらないのに、いなければ強面達の表情が緩むことがないからだ。
 数週間前と少し変わったところがあるのだが、誰もその変化について口に出す者はいない。
 目の前にある花が活けられた花瓶。一輪挿しという種類だそうで小振りのスマートな花瓶は、小さいくせにえらく値が張るらしい。そこに今活けられているのはガーベラという花だそうだ。緑の葉っぱとかすみ草が申し訳程度に添えられている。
 こんな、花が活けられた花瓶が黒瀬組事務所の人が集まるところに出没したのが二週間前。黒瀬組の夜叉と言われる吉野本部長が持ってきて、毎日水を換え茎を洗い、一日おきにほんの少しだけ茎を切るようにと指示していった。幹部が言うことは絶対で、疑問すら持ってはいけない。なぜ花で、なぜ吉野幹部が…聞きたいことは山のようにあるが誰も聞くことができず、ただ言われた通りに黙々と仕事をこなす。
 吉野幹部がおかしい。
 誰もが胸の中で叫んでいた。

 
 克彦がいないので昼食を摂りに外出することもなく、幹部達は組員に買いに行かせた弁当で済ませることにした。なんの変哲もない日替わり幕の内で、漆器もどきのプラスチックに詰め込まれている。
 吉野千草は弁当の蓋を開け、ありふれたおかずが並ぶ小さな仕切りを順番に、熱心に眺めたあと、弁当をテーブルに置いて立ち上がった。
「沼田さん。お願いしたいことがあるのですが」
 携帯片手に箸を動かしていた沼田が吉野を見上げた。
「どうした?」
 ちょっと待っててください、と吉野は言うとスタスタと部屋から出て行き、暫くして、小皿を幾つか持ち帰った。
「これに、私のお弁当の中身を移してもらえませんか?」
「…は?」
 言いたいことは分かったが、なぜ今更そんなことを…と聞いても無駄なような気がして、沼田は言われたとおり、弁当の中身を皿に移し替える。
「まあ、確かに移し替えて食べた方が美味そうな気がするが…」
 なんで、どうして、沼田の頭にも疑問符がわき起こる。
 吉野は椅子に座って沼田の作業をじっと見つめていた。
「っと…こんな感じで良いか?」
 弁当箱に詰められていた状態をなるべく崩さないように移したので、見た目もそれなりに良い。
「有り難うございます」
 そう言って吉野は、皿に盛られたおかずを、吟味するようにゆっくりと食べ始めた。
「うまいか?」
「…いいえ。期待したほどは…」
 せっかく皿に移してやったのに、その言いぐさはないではないか。むかつきついでに沼田は吉野の皿を取り上げ、自分の弁当を吉野の方へおしやった。


 たかが弁当だが、幹部が食べる物はそれなりの値段がする。今まで特に美味しいと思ったことはなく、まずかったこともない。
 克彦の兄、光太と食事を共にしたときは、この弁当よりもっと質素だったのに比較にならないほど美味かった。いつもは自分が組や本田のために動いているので、他人に何かをやってもらうことに慣れておらず、だからこそ光太があれこれ気を遣ってくれた夕食が楽しく満足できるものだったに違いない。そう思い、沼田で試してみたのだが…なんの驚きも感動も湧かないのはどうしたことだ?他人であれば誰でも良いわけではないのか?
 

 いつでも訪ねて良いと言われたものの自分も忙しく、先日の食事や花のお礼もできていなかった。幸い今週は煩わしい仕事や急ぎの仕事もないので夕方から暇をもらって訪ねてみるか…
 吉野は何かあったら携帯に連絡するよう部下達に伝え、本田には正直に行き先を伝え、事務所を出た。何か気の利いた土産でも…と思って目指したのは、某有名デパートのデパ地下だった。
 日頃から仕事上の付き合いで贈り物をする事が多いので、それにふさわしい物がどこにあるか知っている。もっとも、電話で馴染みの店員に指示を与えるだけで、あとは組員が受け取りに行くので名前と声しかお互いに知らないが…この機会に店員と顔を合わせておくのも良いかもしれない。
 夕刻のデパ地下は圧倒的に女性の数が多く、目的地に着くだけでも一苦労だった。先ずは以前自分も食べて美味いと思ったイベリコ豚を手に入れようと肉屋へ直行。本田がこの肉屋を通じて丸々一匹仕入れ、丸焼きにしてくれたことがある。その後も本田の自宅で食べる肉類は全てこの店で買っている。
 が…。
 生肉など触ったことがほとんど無いので、ショーケースの中に美しく並んでいる肉を見ても何が何やら。ケースの前に突っ立って端から肉の種類と値段を確認していく。その間にも買い物に慣れた女性達が次から次へと注文し、受け取るまでの間吉野をちらちら見て、去っていく。スーツを着こなしたエリートサラリーマン風の男が肉屋のショーケースの前で佇んでいるのである。目立たない方がおかしい。しかもモデルかと思われるほどの長身の美男。真剣に肉を見定めている吉野にアドバイスしようかどうか迷う客も少なくなかったが、声を掛けるのも気が引けるくらい真剣な様子に見惚れていて、おしゃべりな口も貝のように閉じたままだ。
「何かお探しですか?」
 男性店員が声を掛けてきた。男同士なら、気恥ずかしさがあっても色々アドバイスできるものである。
「はい。以前こちらでイベリコ豚を注文した事があります。美味しかったので今日もあればと思ったのですが…」
 男性店員は少し考えた後、思い出したのか表情をぱっと明るくした。イベリコ豚以外にも高級肉を大量に注文してくれる客を覚えていないわけがない。
「黒瀬コーポレーションの吉野様!」
 黒瀬コーポレーションは堅気の世界で名乗る社名だ。吉野はその会社の副社長ということになっている。
「はい…覚えていてくださって助かります。何を買えばいいのか迷ってしまって…」
「どういったお料理でしょう?焼き肉、ロースト、シチュー…オードブル用にハムもございますが…」
 そう言えば水口牧師はハムの固まりを切っていた。
「オードブル用のハムは、焼いても良いのですか?」
「軽く焼いて頂きますと、いっそう美味しくなります。イベリコ豚を気に入って頂けたのでしたら、最高級のハモン・イベリコをお勧めします!」
 指さされたショーケースの中に大きな固まりが鎮座していて、けれどもそれは端っこが少しスライスされていた。
「…端が欠けていますが…」
 吉野が指摘すると、店員はにっこり笑って奥から丸々一本のもも肉ハム固まりを抱えてきた。本来はそれをスライスしてグラム売りするのだが…そこは商売上手である。一本15万の生ハム。値札をそっと吉野に見せて表情を確認したが、変わらないところを見るといけそうである。
「ではそれを頂きます」
 そう言って財布からカードを出そうとして、ずらっと並んだカードをしばらく見つめてしまった。こっちにしようかあっちにしようか…迷った挙げ句、組のカードではなく、自分のカードを取り出す。組の経理は吉野が担当なので幾らでもごまかせるのだが、水口牧師へ渡すプレゼントに、組の、出所がアレな金を使うのは間違っている。自分も黒瀬組から給料を貰っているので結局は同じなのだが、これでも真面目に働いて得た金なのでマシに決まっている。


 次に向かったのはワイン売り場。
 キリスト教の牧師なので、ワインはキリストの血と言うこともあり、よく飲むだろう。先日も二人で一本開けた。『贈り物ならロマネ村』と決まっているがこれはいずれ、教会や水口牧師の特別な日に贈るとして、今夜は普通の物で良いだろう。五大シャトーのワインは値段的にも丁度良いし、必ず置いてあるだろうから…とワイン売り場を歩く。
 が、やはりここでも何がどこにあるのか良く分からない。
 奥の方に見るからに特別な物を置いているらしいコーナーがあるが、真面目な吉野は端からきちんと目で確認しなければ気が済まないのだ。この並びを少しでも覚えておけば、後日役に立つかもしれないし…
「何かお探しですか?」
 蝶ネクタイをはめ、長いエプロンを腰に巻いた店員が、隅から順番に棚を見て回る吉野に声を掛けてきた。
 吉野もワインに関してなら、肉より知っている。
「シャトー・ラフィット・ロートシルトを…年代はこだわりません」
 とは言ったものの、あまり古すぎるのも新しすぎるのも…と思っていると、三本ほど年代が違う物を持ってきてくれた。その中で最も新しい2003年を選び、木箱に入れて貰う。
 

 このくらいで十分だろうか…克彦さんは甘い物がお好きだが、水口牧師はどうだろう…先日はデザート無しだったが、急にお邪魔したのでたまたまなかっただけかも知れない…いや、甘い物好きなら必ず何か常備しているはずだ。
 お菓子のコーナーに向かっていると、吉野の視界に花屋が過ぎった。
 お花…水口牧師は花が好きだ。これは確定事項だろう。こればかりは迷うことなく、吉野は確たる足取りで花屋に向かった。


 花を貰ったあと花瓶を買い、花瓶があるので花を活けることにした。下の者に毎日続けられる仕事を与える事は彼らの修行にもなるので、下の階の事務所にも一輪挿しを置いている。花は、組の近くに売っているところがあり、小さな花束にして売っているので花瓶の数だけ買うことにしていた。だが、水口牧師にはもう少し選んで贈った方が良いだろう。仕事で贈るときは迷わずその店で最も値の張る、ほとんどの場合蘭の種類だが、その花を贈る。今この店にも見慣れた胡蝶蘭の鉢植えがあるが、水口牧師には豪華さより温かさや優しさを感じるような花が似合いそうだ。
 先日頂いた桜草の印象が残っているのか、薄いピンク色の花に視線が行ってしまう。ピンク色の花ばかりで花束を作って良いのだろうか?店頭に飾られたアレンジには色とりどりの花が使用されているが…どれもセンスが良いと思えるが、こちらの思惑通りに、ピンク色が映えるアレンジを作ってもらえないだろうか?
「すみません…」
 ピンクが良いと思ったらピンク色しか目に入らなくなり、とても自分一人では注文できそうになかったので、店の奥からそっと吉野を見ていた若い男性の店員に、思い切って声を掛けた。
「はいっ!」
 心なしかぎくしゃくした動きでその店員はやってきた。
「花束を贈りたいのですが…どう選べばいいのか見当が付かなくて…」
 
「えっと…お祝いですか?」
「…いいえ…特にそう言うことでは…」
「お相手の方がお好きな色をご存じですか?」
「…桜草を、沢山育てていらっしゃいます。薄いピンク色の小花が沢山付いた…」
「そうですか…では、優しいイメージのピンク色の花束になさいますか?」
 それはまさに吉野がそうしようと思ったイメージだ。
「はい。よろしくお願いします」
「ご予算はいかがいたしますか?」
「…失礼がない程度だと、幾らくらいが良いでしょうか…」
「そうですね…桜草がお好きな方でしたら、大きくなくても十分に喜んで頂けると思います。3千円から五千円くらいまでで十分かな…」
 店員も真剣に考えているのか語尾は呟きのようになっている。
「あ…先ず三千円で作ってみましょうか?それを少しずつ大きくしていくこともできます!」
 高い物が売れた方が良いだろうに…イメージにぴったり合うような花束を作ろうと一生懸命な店員の態度を、吉野はとても気に入ってしまった。にっこり笑って頷くと、店員は嬉しそうに、吉野が最終的に選べるように分かり易く説明をしながら花束を作っていく。
 優しいピンク色で花びらの先がフリル状になっている薔薇と、小さな黄色いボンボンが沢山付いたミモザという、小さな太陽が沢山集まったような花。これにシルバーレースという銀色の葉を添え、期待通りの柔らかく優しく温かい花束が出来上がった。
「イメージ通りだ…ありがとう」
 吉野が微笑むと店員も少しばかり顔を赤くしながら微笑んだ。
「いいえ。お客様にこんな花束を贈ってもらえる方は幸せですね」
 幸せ…吉野はふと考えてしまう。仕事がらみで星の数ほどのプレゼントを贈ったが、相手のために親身になって選んだこともなければ、相手がどんな反応を示すか気にしたこともない。黒瀬組の面目と見栄を張るためにできる限り高級な物を贈っただけである。克彦と沙希には気を遣ったが、今この花束ほど神経をすり減らしながら選んだかというとそうでもない。
 初めて選んだ花を、水口牧師は気に入ってくれるだろうか?牧師という職業柄、あからさまに変な顔をしたり迷惑だ等とは言わないだろうが…自分が桜草を貰った時のように大切に扱ってくれるだろうか?
 心配で、心配で…このまま家に帰ってしまおうかと一瞬思うほど緊張したのだった。


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