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緩やかなり、萌芽㈼

夜叉と牧師

後】

 いつもの吉野なら訪ねる前に確認の電話を入れるのだが、車に乗った途端、それすら忘れていたことに気が付く。慌てて電話をしようと思ったが、もしダメだったらこの荷物は一体どうすればいいのだ?ハムとワインは保存が効くので次回に持ち越せるが、全身全霊を込めて選んだと言っても過言ではない花束は…組に持っていっても良いが、花が枯れるまで自分の失敗を見せつけられるようで御免被りたい。自宅に置きっぱなしと言うのもますます気が滅入るだろう。
 水口牧師はいつでも良いと言った。水曜日の夜は聖書の研究会で忙しいが、他の日であれば遅くなっても良いと言ったではないか。今日は木曜日だ
 吉野は携帯のメモリーを呼び出し、緊張しながら選択ボタンを押した。
『もしもし?東京南バプテスト教会です』
 人柄が滲み出るような低く柔らかい声は、水口牧師その人である。
「あ…黒瀬組の吉野千草です。突然お電話して申し訳ありません」
『ああ、吉野さん?こんばんは。どうされました?』
「先日のお礼に、今からお伺いしようかと思ったのですが…お邪魔ではないですか?」
『とんでもない。今夜は自宅でゆっくりしていますので、ぜひいらっしゃい。一人で過ごすより、二人で過ごす方が楽しいに決まっています』
「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて…あと二十分ほどでそちらに着くと思います」
『お待ちしていますよ。お気を付けて』
 誰にでも言うであろうその一言が、吉野にはとても嬉しかった。黒瀬の夜叉と呼ばれる自分は殺されても死なないとでも思われているのか、誰からも気をつけろだ等と言われたことがない。夜道を歩けば、危ないのはすれ違う他人の方と思われている。もしかしたら本田くらいは言ってくれたことがあるかもしれないが、記憶に残っていないのでたまたま口が滑った程度の気持ちしか込められていなかったのだろう。
 駄目だ。考え事をしていて交通事故でも起こそうものなら、余計な手間が掛かってしまう。自分の職業を考えたら暫く留置場に引き止められるかもしれない。
 吉野は目的地までの道順をしっかりシュミレートし車を発進させたが、途中で今日はワインを持ってきたことに気が付き、自家用車で来るという失態を起こした自分に呆れ返ってどんよりとため息をついてしまった。
 途中で車を捨て、組員に回収するように指示を出した後、タクシーに乗り換えて水口牧師が待つ教会へ。やっとの思いでたどり着き、牧師館と呼ばれる執務室兼自宅のチャイムを鳴らす。
「いらっしゃい」
 久しぶり…と言っても二週間だが…の笑顔は重なる失態で這々の体だった吉野の気力を一瞬で回復するほど強力だった。


 いかにも手みやげです、といった荷物を持ったまま居間に通され腰を落ち着けたは良いが、ほっとしすぎた吉野は花を渡すタイミングを逸してしまい、ソファーに腰掛けて花を抱きかかえる体勢になってしまった。その上、自分が心を込めて選んだから、ではないが牧師の笑顔と明るい配色の花束はよく似合っていて、花束と牧師を交互に見ていると飽きない。
 自分が楽しむためではないだろう、と片隅に残っていた理性の固まりのような吉野千草が囁き、やっとのことで花束を牧師に向かってつきだしたのだった。
「突然お邪魔して申し訳ありませんでした。これは…あ…」
 女性に渡す場合なら、似合う花があったから、等と言えるのだが…渡すときの台詞を何も考えていなかった。
「綺麗なお花ですね。それはもしかして、私のために?」
「はい。先日の桜草のお礼に。お花がお好きのようでしたので…」
「ミモザですね、薔薇やシルバーレースは頂いたことがありますが、ミモザは初めてです。うれしいな…。色合いが優しくて、吉野さんにも良くお似合いですよ」
 そんな言葉も初めてで、なおかつ答えに困り、焦った吉野はもう片方の手に持った荷物も突き出す。
「美味しそうな生ハムを見掛けたので…それに合いそうなワインも…」
「生ハムですか!暫く食べていませんね。では一緒に頂きましょう。…おやおや…すごく大きな固まりですね。切れる包丁があったかな…」
 そう言いながら受け取った荷物と共に台所へ向かう牧師の後を、吉野も急いで追いかけた。物を切るのは得意である。生身の人間は良く切る。
「水口牧師、私が切り分けましょうか?切るのは得意です」
「そうですか、ではおまかせして、私は頂いた花を活けましょう」
 キッチンにあった包丁ラックには様々な種類の包丁が収納されていた。吉野は一つ一つ抜いて刃の具合を吟味するが、やはりどれも一般家庭用なのか鈍そうなものばかりだ。一番切れそうな長い包丁をハムの固まりに押し当てると、いつもとは違う感触だが、伝わってきて、やや興奮気味の気持ちがすっと落ち着いていく。
 薄切りの生ハムを何枚か切ったところで、牧師が横から手を出して切り身を一つ摘み食いした。
「美味い!これは上等な生ハムですね、こんな美味いものは食べたことがありません。ほら、吉野さんも食べてみて」
 そう言って牧師はもう一枚摘むと、吉野の口元にハムを近づけた。
 これは。
 誰に見られているわけでもないけれど。
 とっさに口を開けた自分に、吉野は驚く。
 

 克彦さんと沙希ちゃんは、よくお互いの口に食べ物を放り込んでいるし、本田と園部もそれぞれの恋人達に箸や指で餌付けをしている。微笑ましい姿だが、自分にされるのがこんなに恥ずかしいものだとは…水口牧師は相当美味かったのか、うれしそうに美味い美味いと連呼している。が、吉野は頭の中が真っ白になってしまい、ありきたりの生ハムの味しかしない。
 美味いでしょう?とにこやかに尋ねられ、味など分からなかったが、咀嚼しながらこくこくと頷く。
「シャトー…ラフィテ…ロスチャイルド…これは吉野さんのお薦めワインですか?」
 ラフィット・ロートシルト、なのだが訂正して良いのだろうか?いつかこのワインの話しになり、間違った読み方で恥ずかしい思いをさせるのは本意ではない。やはり正しい読みを教えておかなければ…
「確かに、英語読みだとそうなりますね。フランスではシャトー・ラフィット・ロートシルト、と読みます。とても美味しいワインで、本田が何本か持っていたので安くわけてもらったのです」
「ラフィット・ロートシルト、ですか。シャトーはフランス語でも見慣れているので直ぐに読めましたが、その先を英語読みしてしまったことすら気が付きませんでした。ああ、ボルドー、も読めますね。勉強になりました、ありがとう」
 屈託のない笑顔をむけられ、吉野もほっと微笑んだ。
「生ハムはこのくらいでいいでしょうか…薄く切ると、増えたように見えますね」
 20枚ほど切ったが、枚数以上に多く見え、残りの固まりを全て切れば元の大きさの数倍にも膨らむだろう。
「普通はオードブルで2,3枚食べるだけですから、贅沢できて楽しみです」
 吉野から見れば、酒の摘みが山盛りの生ハムだけという状況は贅沢とは言えない。本田と克彦が座るテーブルにはいつも食べきれないほど色とりどりの豪華な、手の込んだ料理が並ぶ。それに比べればただ切っただけの、色気もくそもない食べ物を前に嬉しそうにはしゃぐ牧師の姿は、吉野が忘れていたささやかな日常を思い出させる。たしか、恋人でもあった師匠と鍛錬の後、干し肉を囓りながら冷えたビールを飲んだ。干し肉は師匠が作った物で、サバイバルナイフを器用に動かして、吉野のために切り分けてくれた。
 水口牧師にサバイバルナイフは似合わないが、先ほどのように指で摘んで口まで運んでくれた姿はとても自然だった。
 きっと誰にでも人なつこく、ああいう行為にも慣れているのだろう。


「そうですか、克彦はこんな物を普段から食べているんですね?あまり贅沢をさせないように、本田さんにも伝えてください」
「はい。けれど、克彦さんと知り合えたお陰で組全体が良い方に変化しているのも確かです。私は経理も担当しているのですが…経費もずいぶん節約するようになりました。私はごく普通の家庭に育ったので庶民の暮らしぶりも知っているはずだったのに、いつのまにかそれも忘れていた。私たちの職業はメンツをかけて見栄を張るのも仕事のうちで、贈り物なども日常茶飯事なのですが、選ぶと言うよりその場で最も値が張るものを贈ります。相手の好みも一応覚えています。でもそれは相手の気を引くための道具にしか使いません。先日、水口牧師に桜草をいただきましたね?あなたが丹誠込めて咲かせた花を分けて頂いて、とても嬉しかった。ですから今日は私なりに手みやげを選ぼうと思ったのに…ひとりではうまく選べなくて…肉屋と花屋の店頭で立ちつくしてしまいました」
 

「今日は失敗ばかりしてしまいました。ここにたどり着いたのも驚きです。いつもの私なら途中で引き返していたかもしれません。でも…」
 花束がもったいない?とんでもない。
「私が選んだ花束をあなたに見てもらいたくて…」
 せっぱ詰まりながら出てきた台詞がそれで、言うやいなや恥ずかしくなった。
 まるで、褒めて貰いたい子供じゃないか。
 水口牧師を見ると、本田が良くするように口元に手を当てて笑いを堪えている。吉野はいても立ってもいられなくなり、もう帰ろうと、結局立ち上がったがワイングラスを持ったままだったのでせめて自分のぶんは洗って帰ろうと、キッチンへ向かう。
 今度は水口牧師が追いかけてきた。
「すみません、笑って。でも、あなたがあんな可愛らしいことを言うなんて…驚いてしまって。さすが克彦が選んだ家族です」
 

 吉野さんは…クールビューティ?モデルみたいな容姿で仕事もできて、凄く気が利くし。
 前回初めて吉野と食事を共にした後、光太は克彦と電話で話す機会があり、吉野のことをあれこれと克彦に聞いてみたのだった。見た目は抜群だがそれほどクールではなく、どちらかというと世慣れない学生のようなぎこちなさがある。仕事はできるかもしれないが、日常生活を一人で営めているのかどうかはなはだ疑問だった。
 一人で放っておけない危うさがあり、世話を焼かずにはいられない。
 構って欲しいのに素直になれない。
 何事にもひたむきで加減すら分からず、生ハムと花束はうまく行ったがワインが入った紙袋にはレシートが入っていた。気を利かせたつもりで、抜けている、そんな吉野がクールなはずがないではないか。
 それとも自分にだけそんな姿を見せてくれるのなら、年上の人間としては嬉しいばかりだ。もう少しだけ素直に甘えてくれると良いのに…
 牧師は自分のグラスと生ハムを入れた皿もシンクに置き、吉野が神経質なまでに丁寧に洗った食器を適当に拭き上げた。
「あ、しまった…私も今日は大失敗しました」
「どうされましたか?」
「頂きますとごちそうさまのお祈りを忘れていました…」
 それをしなければ天罰が下るとでも思ったのか、ここは一緒に笑うところなのに、吉野は真面目な表情で牧師を見つめた。
「今からでは、遅いですか?」
「いいえ…でも、私たちは不完全な人間ですから、毎日失敗の一つや二つあってこそ、成長できるのですよ」


 失敗は死に繋がる。そう教えてくれたのは師匠だ。けれどもプライベートでは何もできない吉野を叱ることなく、甘やかせてくれたのも師匠。あの頃に比べれば黒瀬組での日々はぬるま湯同然で、金を使える身分になった今は部屋の掃除から食事まで、できないこと、したくないことは金で解決できる。
 そんな生活を送ってきた自分を、虚しいと、初めて感じた。
「水口牧師…」
 思い詰めたような表情で吉野は言った。
「明日から…いえ、今夜から、今までできなかったことを、少しずつやってみようと思います。私に、色々教えて頂けますか?」
 本田や沼田に言えば馬鹿にされるか笑われるか…でもこの人なら…
「よろこんで。どんなことがやりたいですか?」
 やりたいこと…沢山あるようで、いざ聞かれると見当も付かない。
「あ…そう言えば…水口牧師に頂いた桜草、言われたとおりに毎日水を換え、切り口を洗って時々はさみで切っていたら、ずいぶん長持ちしました。あの後また花を買って事務所の至る所に置くようにしたのです。部下にも取り扱い方法を教えて…毎日欠かさず何かを成し遂げる事は、良い鍛錬になりますから。もっと…花を管理する高度なテクニックはありますか?」
 

 光太は吉野が真面目で可愛らしい一面を自分に見せてくれた事が異様に嬉しかった。
「そうですね…では、次は育ててみませんか?今は丁度花を植える次期なので、順を追って、四季を追って世話をする方法を勉強できます。そうすると、毎回切り花を買わなくても良くなる。経費も安くなります」
「それは良いことですね。何を準備すればいいのですか?」
「まだ帰らなくても良いのなら…お教えしましょう」
 先ほどまでは一刻も早く帰りたがっていた吉野が、胸ポケットから手帳を取り出した。


「揃える物は以上ですが…苗を鉢やプランターに植え替える作業は一緒にやった方が良い。吉野さん、今度の日曜日はお暇ですか?」
 日曜というと、明後日である。特に出掛ける予定はない。事務所に顔は出すが、自分が関わっている仕事はない。あっても、明日までに片付ければいい話だ。
「昼間は大丈夫です」
「では、今書き取った物を持って、15時頃ここへ来てください。その日の日曜学校が終わった後、みなで花壇の手入れをしましょう」
 

 翌朝、清々しい表情で現れた吉野に昨夜の事を尋ねた本田は、ひっそりと頭を抱えた。オフの時は色気など皆無なので、吉野がその気になるまで時間が掛かるだろうとは予測できた。そうなるまでに何かが起こることも想定済み。花を飾るくらいなら克彦のおやつタイムと大して変わらないが、本格的な園芸となると…まあそれで人間らしさを取り戻せるのなら…などと言っている場合では無さそうである。
 花が溢れる黒瀬組…そんな事態にならないよう毒でも撒いて枯らし、気落ちした吉野を牧師が慰めていると、雰囲気に流された吉野が目覚めて牧師を襲う。結婚を前提とした付き合いしかしないはずの牧師は責任を感じて(何の?まあとにかく責任だ、責任)吉野と結婚する。めでたしめでたし。
 吉野が幸せになれば、それで良い。
 そんなことを考えながら、本田は吉野が今日中に仕上げろと積み上げた書類の陰で頭を抱えていたのである。


END


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吉野さんと光太の第二弾です。まだまだ!そう簡単にひっついてもらっては、色々な楽しみが無くなります。ありきたりの日常の中で、ゆっくり愛情を温めてくださいね。

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