「景也、これおばさんに持って行けって、オヤジから」
 一月(いつき)から手渡されたのは、梅の花。一月の家の庭に咲いているものだ。一月の家は造園業を営んでいて、四季折々の花を分けてくれる。月に二回、母に会いに行くときは特に、庭に咲いた丹誠込めた花や可愛らしい実が付いた枝を持たせてくれる。
「いつもありがとう、一月」
「おばさんの調子、どう?来月は俺もついていくからな。けいも大学に受かるだろうから、一緒に報告に行こう」
 景也は照れたように笑いながら、差し出された梅の枝を受け取った。
「一月ったら気が早いよ。まだ試験も終わってないのに」
「けいはこの町一の優等生だろ?受からないわけがない」
 確かに模試では県で一番になったことがあるけれど、全国から集まってくる受験生の中で通用するかどうかは受かってみなければ分からない。
 受かったらそれはそれで嬉しいけれど…一月と離ればなれになってしまう…幼なじみで、子供の時から一月の後ろにくっついてばかりいたのに…
 この三年間悩み抜き何度も諦めようとしたけれど結局無理で、流されてしまえば何とかなるだろうと高校最後の一年は悪あがきすらやめてしまった。
 何も考えないでこのままいけば僕は大学に合格してここを離れる。
 一月と会える機会も少なくなり、流されるのが得意な僕は、きっとそれにも慣れてしまうだろう。


 僕の母は僕が産まれた直ぐ後、父の死が原因で心の病にかかってしまった。それ以来ずっと病院暮らしで、僕は父の兄に育てられた。叔父さんは建築家で当時は会社勤めをしていたけれど、父の死と同時に会社を辞め、田舎に帰って独立した。
 工藤一月の父親は僕の叔父さんの親友でもあり、忙しいときはよく僕を工藤家に預けていた。同い年の一月は僕より活発で小さいときは良くいじめられていたけど、それでも構って貰えるのが嬉しくて、僕は一月の側から離れなかった。
 それなのに…
 一月と離れて暮らすのは初めてで、叔父さんや母と離れるよりも不安が大きい。一年前に進路を決めるとき、僕もここに残って一月と同じ仕事に就きたいと言った。叔父さんは僕の好きなようにしなさいと言ってくれたけど、一月が大反対した。
 仕事に関して言えば、僕は叔父さんが創る建物が何よりも好きだったのだ。洗練されているのに暖かみや優しさが溢れる建物。僕も将来住みたい家のデザインなどを沢山描いていたので、周りのみんなはてっきり建築家になるものだと思っていたらしい。成績もよかったので大学へ進学しないと言うとびっくりされ、一月からはもの凄く怒られた。


「だって…一人暮らしなんて絶対に嫌だ!」
 その時、僕は一月と離ればなれになるのが嫌だとは言えなかった。
 そんなことを言えば何かが変わってしまいそうで、もし何も変わらなかったらそれも嫌で…自分の気持ちが良くわかっていただけに、もし僕と一月の関係が良い方向に変わらなかったら、僕も母と同じ世界に行ってしまいそうだった。
「けい、おまえ、自分の将来とか真面目に考えて結論出したのか?」


 一月は僕と違って造園業の手伝いをしていたせいか体格もがっちりしていて、健康的な浅黒い肌や爽やかな性格で昔から人気者だった。常に僕がいたせいか、中学までは女の子達も遠巻きに見るだけだったけれど、それでも何度かラブレターのようなものをもらっていた。当時僕はそんな一月が誇らしかった。僕が大好きな人が一番だと他の人からも認められているようで、そしてそんな一月が僕のことを大事にしてくれることが嬉しくてしかたなかった。
 高校に入ってすぐ、僕たちのことを知らない他の地域の女の子達が一月の周りに集まってきて、その時から僕は少しづつ、一月への思いが友情ではないことに気がつき、悩み始める。
 同じ高校だったけれどクラスも違うし、一月は就職コースにいたので登下校の時間も合わなくなり、別行動をする機会が多くなっていった。時々、他のクラスの女の子と一緒にいるところに出会って、そのたびに僕は嫉妬でおかしくなりそうなのを必死で我慢して、表面ではにこやかに挨拶したり…

 僕は一月とずっと一緒にいたいと思っていた。一月のお父さんに弟子入りして造園の仕事を学べば、それがかなう。
 でも…本当に、ずっと一緒にいられるのかな?一月が女の子と並んで歩いているだけで僕は胸が痛くなって、呼吸が苦しくなる。もし一月が誰かと結婚してしまったら?僕は笑顔で祝福できるだろうか…できるわけない。
 だからといって自分の気持ちを一月に告白する勇気もない。一月のことだから酷いことは言わないだろうけれど、男に告白されて嬉しいはずがないじゃないか…
 悶々としながら、答えも出せないまま、何も変えられないまま、僕はただずるずると引きずられて日々を過ごしていた。


『英語と古文わかんね。後で行く』
 景也は携帯をパタン、と閉じ、遮光・遮音カーテンが掛かる窓を見つめた。ここはド田舎で外の明かりが眩しいわけでもなく、部屋の様子が外に見えても全く問題は無い。朝日が入れば自然と目が覚めるので普通のカーテンで良かったのだけど、窓の外を気にしてばかりいて落ち着かなかった時期に、叔父さんに頼んで新調してもらった。丁度寒い時期だったので、窓から入り込む冷気が気になるとか何とか理由を付けた。
 本当の理由はそんなことではなく、いつ帰ってくるか分からない一月を待つのに窓の外ばかりを眺めていた自分にけりを付けるためだった。
 彼女らしき相手ができて帰宅時間が定まらなくなった一月が帰ってくるのを今か今かと待つあまり、勉強に身が入らず睡眠時間も短くなってしまい、その結果成績が下がればみんなに色々聞かれるし、またそれであれこれ思い出したり言い訳を考えたりする時間が鬱陶しい。それでちらりとも外が見えないようにして、ヘッドホンで静かな音楽を聴きながら机に向かう習慣を無理矢理付けた。
 一月と会う時間は少なくなったけれど、一月の自分に対する態度が変わったわけではない。イライラや我が儘をぶつけさえしなければ、無くす物も少ないはずだ。
 
 景也はメールの返事も特に急ぎで伝えることがない限り返さない。『後で行く』の後がどのくらい後なのか分からなかったけれど、彼女の門限は22時なので、その一時間くらい後だろう。彼女の家は二十分ばかり離れた、ここよりはずっと街の中にあり、彼女を送った後一旦自宅で着替えて落ち着いてから景也の部屋に訪れるはず。
 景也は英語と古文の教科書とノートを準備し、一月の夜食を用意しに階下の台所へ降りていった。


「お。一月が来るのか?」
 普段は飲まないコーヒーを立て、卵焼きとハムのサンドウィッチを作っていたら、叔父さんが仕事場から出てきた。
「うん。英語と古文。来週から期末試験だしね」
「古文か…俺も全然駄目だったな。けい、一月から家庭教師代と食費もらわなきゃな」
「ふふふ…叔父さんの分もあるから、お腹空いたら食べてね」
「ああ。そうさせてもらうよ、ありがとう」
 叔父さんはそう言うと景也の頭をぽんぽんと優しく叩いた。そうすると、景也は昔からニコニコ笑いながら首をすくめて、それが小動物みたいで可愛いとみんなに言われている。
「あ、そうだ。明後日から楠原社長が来るから。何も用意しなくて良いぞ」
 楠原社長は昔叔父さんが務めていた事務所の社長さんで、年に二度はここに泊まりがけで遊びに来る。
「うん、わかった。冷蔵庫、カラにしなきゃね」
 ホテルか旅館と勘違いしているようで、食事から身の回りの世話から何から何までやってあげないと拗ねるのだ。叔父さんとは若い頃からの親友で、叔父さんも甘やかしている。大きな子供のようで憎めないし、都会の人だけあって新しいことを沢山知っているし、我が儘なようで愛嬌があるので、本人には絶対言わないけれど景也も社長のことは大好きだった。


「なんかムシムシするなー」
 ノックもしないで遠慮無く踏み込んでくるのは一月だけ。もっとも、玄関を閉める音や階段を駆け上る音が騒々しいので、部屋に入る前から誰が来たかは分かっている。
「クーラーつける?」
 一月はどっしりとベッドに倒れ込み、力一杯伸びをする。
「う〜〜〜ん…けいが寒くないなら」
「僕は大丈夫。それより、勉強しに来たんじゃなかった?寝ころんだらダメじゃん」
 ベッドの上でゴロゴロしている一月が手を伸ばしてきたので、景也はその手を取って思いっきり引っ張り、起きあがるのを助けてやった。
「もうっ、一月重たいんだから少しは自分でも力入れてよね」
 ベッドに起きあがった一月の身体が接近した瞬間、甘い香りが景也の鼻孔をくすぐる。
「お風呂はいってきたの?」
「ん?ああ、うちで入ってきた」
 景也はその甘い香りが一月の家で使われている石けんではないことを知っている。一月のお母さんはこだわり派なので、天然成分の優しい自然な香りがする石けんしか使わない。景也もそれが好きで、時々分けてもらっている。どこでその過剰なまでの甘い香りを付けてきたのか…
「じゃ、さっさと勉強するよ。試験範囲は僕の方が広くて難しいんだからね」
「はーい。けいの手作り夜食は?」
「勉強が先!」
「はいはい」
 一月の大きな手が景也の頭に近寄り、ぽんぽんと叩こうとしている。
(笑った方が良いんだよね…)
 いつもと変わらない自分を演出することにもすっかり慣れて、寂しいのだか…クーラーから吹き出す冷たい風が頬をさっと撫で、心の中まで冷たくなるような気がした。


 いつから景也が隣に座っていたのか、俺は覚えていない。古いアルバムを見ると乳飲み子の頃から隣に転がっているようだ。俺の中に残っている景也との最古の記憶は、たぶん、保育園で俺が夢中になって組み上げていた積み木を景也が崩してしまい、頭に来て突き飛ばしたこと?
 昔から俺が何かに夢中になって景也をほったらかしにすると、癇癪を起こしていた。時々それが鬱陶しくて突き飛ばしたり小突いたりしたけれど、景也は泣き出すこともなく、悲しそうな目でじっと俺を見つめるだけだった。
 景也がなぜしょっちゅう俺の家にいたのか理解したのは幼稚園の年長組になった頃だと思う。本当にいつも俺の家にいた景也は家族同然で、オヤジもお袋も景也を息子と言ってはばからなかったので、俺は景也が毎日「叔父さん」の家に泊まりに行っているのは何故なのか理解できないでいたくらいだ。
 景也にはお父さんもお母さんもいなくて、叔父さんと一緒に暮らしてる。 その叔父さんはオヤジの親友で、叔父さんが仕事をしている昼間はうちで預かっている。そう理解したけれど、俺の中で景也は弟分で家族だった。
 景也のお母さんは生きているけど、景也のことが全く分からない、という状況も理解できなかったが、初めて景也と一緒にお母さんに会いに行ったとき、景也が一生懸命笑いかけても話しかけてもうんともすんとも言わず、うつろな目をして一点を見つめているだけの女の人を見て、俺は恐くなってその部屋から逃げ出してしまった。
 たぶんその日の帰り道、俺は泣いている景也の手をしっかり握っていたとおもう。その日からいつも、景也と歩くときは手を握るようになったのだと思う。俺は絶対、景也に寂しい思いなんてさせないと、誓った。

 
 その誓いも高校に上がった途端…破ったわけではない。
 けいに幸せになってもらいたい気持ちはますます膨れあがり、そのためにはいつまでも「一緒」ではいけないと思い始めた。
 もともとの頭の出来も違うわけで、俺は早々に進学をやめて稼業を手伝う宣言を出した。案の定、けいも「一緒」が良いと…けいは成績も良く、望めばどんな大学にも行ける。将来、造園業に就こうが叔父さんと同じ建築関係に行こうが、大学で勉強して悪いことはない。けいが設計して俺が施工することだってできる。田舎で暮らすより、より多くのことを見聞きしてセンスを磨いて欲しかった。
 どんなに言い聞かせてもけいはここから離れたくないと言い張った。と言うか、けいの本音は「一月と離れたくない」だと思う。
 俺だって離れたくない。離れたくないよ、けい。
 

「一月…信じられない。こんなこと、去年まではちゃんと出来てたのに…」
 一月の英単語の小テストが教科書に挟み込まれていたので、それを見た途端景也は深いため息をついてしまった。点数はみな半分以下で、高校になって習った単語の意味はことごとく間違えている。分からなさすぎてふざけた答えを書き込んだ物もある…所々漢字も間違っているし…
「去年は七割くらいとれてたんだけどなー…毎年記憶から抜け落ちてるって感じ?」
 悪びれる風でもなく、あっけらかんと言い放つ。
「俺ほら、就職組だし。日々無事に過ごせれば言うこと無し!」
 だったら期末試験で僕の貴重な時間を奪わないで欲しい…とは景也も言えない。こんな時にしか一月と二人きりで過ごす機会がないのだ。
 二人きりでいるとき、一月は絶対に付き合っている彼女の話をしない。景也も一度も聞いたことが無く、誰と付き合っているのかも知らない。こっそり名前とクラスを調べたことはあるけれど、そうやってこそこそすればするほど墓穴を掘って気持ちが千々に乱れる事に気がつき、完全に無視するようになった。近所の噂好きなおばさんが親切に教えてくれることもあったが、そんな時は適当に相づちを打ってさっさとその場を離れるようにしている。出会いのときめきも、幸せ絶頂期も、別れる間際の修羅場も、一月は一言も景也に漏らさない。いつも景也と共有できる話題しか話さない。だからといって会話がとぎれることもだれる事もなく、縮こまりそうな景也の気持ちを解してくれる。その優しさがまた自分以外の誰かに向けられているのかと思うと悲しくなるが…


「それはそうだけど…一月は僕の将来を心配してくれたよね?僕だって同じ、ううん、一月以上に一月の将来が心配になっちゃう…なんで漢字まで間違うかな…」
『crowd…郡集』
 郡の字に赤鉛筆で大きなバッテンを付けながら景也は一月を睨みつけた。
「頭使うことはけいに任せるよ。俺は身体を使う方。一生二人でコンビ組めばいいさ。オヤジと叔父さんみたいに」
「…うん」
 自分がここで我が儘を言って一月から敬遠されるより、一生このままで良いから二人の時間を二人だけのために費やしてくれる一月でいて欲しい…笑顔の意味は微妙にずれていたけれど、景也は風にそよぐ花のように可憐に微笑んだ。
「けい…お前、最近ますます大人になったな」
「え、なに?急に」
「…うん。子どもの頃はハムスターとかリスとか、ちっちゃい動物みたいだったけど…」
「豹みたいになった?」
「いや……うさぎ??」
 一月をノートでバシバシ叩きながら、景也はせめていつかは山猫くらいになってやる、と意味不明な事を思っていた。


 年に二回訪れる楠原社長は毎回沢山のお土産を持ってきてくれる。それは他愛のないカードホルダーだったり、東京タワーの模型だったり、クラシックカーのミニカーだったり、子供の心を持った大人の男が自分のためにこっそりコレクションするような物で、まだまだ子供の景也と一緒に楽しめるような小物達だ。もうかなり沢山ごちゃごちゃと集まってしまい、「社長コーナー」は景也の部屋では収まらなくなり、廊下やちょっとしたスペースに少しずつ飾るようにすると、まるで猫のマーキングのように家中に自分の存在を臭わせはじめた。とは言え景也もそれなりに楽しめるし、社長の存在は一月に構って貰えなくなった寂しさを紛らわせてくれる。
 今回は、今年新しく入った社員も一緒で、その人は景也が受験する大学の先輩でもある。大学のことを詳しく知るチャンスだ。
「けいちゃん、こっちが新入りの倉石義童」
 紹介された倉石さんは、景也が住んでいる田舎ではお目に掛かることができない都会的なセンスの持ち主で、見た目だけではなく物腰もスマートで優しい。素敵な人で、急に自分の田舎臭さが恥ずかしくなる。
 紹介されてすっと差し出された手はとても綺麗で、握手をする前に自分の手を思わずゴシゴシとジーンズで拭いてしまった。
「はじめまして、景也君。倉石です。よろしくね」
 張りはあるけど柔らかくもある声で笑顔を向けられると、あまりこの年代の男性と接したことがない景也はたちまち照れて、ほんのり頬を染めながら俯いてしまう。
「あ…よろしく、お願いします」
 そっと手に触れると、倉石は景也の途惑いを吹っ切るほどしっかりと握りかえしてくれた。
 倉石が古い町並みや民家を見たがったので、到着したその日の午後から景也が案内して回ることになった。大して重要な建物は無いけれど、古い民家に使われている建具のデザインを集めているそうで、家の中まで入る必要があり、地元で可愛がられている景也が案内すればみな快く倉石を招き入れてくれるだろう。
 何軒か回るうちに景也も倉石にすっかり懐き、兄がいたらこんな感じなのかな?とワクワクする気持ちを抑えられなくなっていった。
 

「どこかお茶でもする?」
 そう言われたけれど、この田舎ではカフェや喫茶店など無い。二十分ほど車を走らせた街中に移動しないといけなくて、倉石が嫌がればうちに帰ることになる。もう少しだけ、二人でいたかった。
 高校生になってある程度自由に出掛けても良くなったが、そのとたん一月と離れてしまい寄り道もせずに帰宅していたし、もちろん女友達や彼女もいなかったので誰かとデートをしたこともない。おしゃれな場所もあまり知らなかったが、一月と何度か行ったことがある喫茶店なら覚えている。
「この辺田舎だから…街まで出ないとカフェとかないんです…」
 残念そうに俯く景也の本音を見抜いた倉石は、車のエンジンを掛けながら景也に話しかけた。
「構わないよ。ドライブがてら街まで行こうか?実はこの車買ったばかりで、運転するのが楽しいんだ」
「はい!」
「うん。良い返事だね。さて、どっちに行けばいい?」
 景也が指さす方向に、倉石は静かに車を発進させた。
「こんなに格好いい車に乗せて貰ったのは楠原さん以外では初めて…」
 車に興味がないので詳しくはないが、エンブレムだけは知っている。
 BMWという車だ。
「社長だからいつも社長っぽい車にのってるよね。私はまだ中古でしか買えないな…」
「鮫の顔みたいで格好いいです」
「ははは。あ、そうだ、ちょっと待って」
 手元のスイッチを押すと、天井がするすると開いていく。
「うわぁ…」

 表情が豊かで、その一つ一つが可愛らしい…倉石は助手席で本当に嬉しそうに笑う景也を見て、そう思った。表情が豊かと言うことは、思ったことが顔に出てしまうので嘘やおべんちゃらが言えず隠し事もできない。
 妙に大人びた所があるけれど、進学で上京して一人暮らしすることに不安があるようなので、知り合いになってもらえないだろうか…そう言われて今回の休暇に同行した。田舎の少年だから特に期待はしていなかったけれど磨けば綺麗な子になりそうで、性格もこんなに素直ならあのオヤジたちが心配するのは当然かも知れない。
 
 
 表通りから少し奥まった場所にあるその喫茶店はすっきりしたモダンなデザインで、倉石の都会的で洗練された様子に良く似合っている。景也はまたここでも洗いざらしのジーンズと白い半袖シャツという何でもない恰好の自分が少し恥ずかしくなっていた。
(だって、こんなに素敵な人とこんな所にくるなんて思ってなかったから…)
 自分なりの言い訳を考えてみたけれど、デートだと分かっていたとしても、服装にもこだわらない自分は倉石に釣り合うような洋服も持っていない。
「東京に行ったら、みんな格好いいのかな…」
「ん?」
 ぽつん、と口から出た言葉に倉石が首をかしげている。
「あ…独り言です」
「そう?景也君は何を注文する?」
 綺麗な写真が載ったメニューを景也に手渡す。
「えと…ここは地元で獲れた果物を使ったパフェとかケーキが美味しいんです…っと、倉石さんは甘い物お好きですか?」
 大人の人は甘い物を食べないかも…と急に心配になる。
「こう見えて甘党なんだよ。新しいカフェやケーキ屋が出来ると並んででも食べに行くタイプ」
「良かった…僕も大好きなんだけど、一緒に行く人がいなくって…」
「そうか…じゃあ東京に来たら色々なお店に連れて行ってあげようね」
 一月からは女の子みたいだと、いつもからかわれていた。コーヒーも苦くて飲めないし、叔父さんが飲んでいたビールを一口味見させて貰ったときは、あまりのまずさに顔をしかめてしまった。のど越しが…とか言っていたけれど、どこがどう美味しいのか景也にはちっとも分からない。
 一月は甘い物が苦手だったけれど季節の果物を使ったケーキセットを頼み、自分はコーヒーだけ飲んでケーキは景也に譲ってくれた。景也がうれしそうに食べている所を見ると和むのだそうだ。じっと見られながら食べるのは緊張したけれど、そんな時間も今はただ懐かしく、恋しい。
「景也君、良かったらこれもお食べ。そのかわり、パフェも一口貰えるかな?」
 一月の場合と少し違ったけれど、倉石とお皿を交換して少しづつ味見をするのも、デートみたいでこそばゆい。東京に行ったら倉石さんと時々こんな事が出来るのかなと思うと、少しだけ一人暮らしが嫌ではなくなった。


「あ…」
 お皿を交換した後、倉石さんは他にも食べたいものがあったらしく、結局もう2種類、ケーキを食べてしまった。さすがに食べ過ぎたことが気になって、暗くなりかけていたけど街の中を少し歩いてから帰ることにした。
 景也は入ったことが無いのだが、ゲームセンターがあり、ちょうどその前を通りかかった時、一月が女の子と一緒に楽しげに中から出てきた。
「一月…」
 先に気付いた景也は倉石の後ろに隠れるように足を止めた。
「景也?」
 景也に気付いた一月は、絡みついていた女の子の腕を外し、景也を後ろに隠すように立つ倉石に鋭い視線を投げた。
「景也、なんでこんな所うろついてんだ?それに、だれ、こいつ」
 倉石の後ろで立ちつくしている景也の腕を掴み、一月は自分の方にぐっと引き寄せた。
「一月っ…この人は、楠原社長の事務所の人で…社長と一緒に遊びに来てるんだ…仕事の資料を集める手伝いをした帰りだよ」
 一月が強く腕を握っているのか、景也は顔をしかめて一月の腕を引き剥がそうとしている。
「君…、一月君?景也が痛がってる」
 倉石が一月の腕をそっと掴むと、一月はしぶしぶ景也から手を離し、それでもまだ倉石を睨みつけていた。
「景也、後でメールするから。用事が終わったら早く帰れよ」
 最後まで倉石を睨みつけながら、一月のただならぬ様子に下がっていた女の子の腕をひっつかむと、ぐいぐい引っ張ってそこから去っていった。
「景也君の友達?」
「…幼なじみで…隣に住んでる工藤一月です…」
「確か…造園会社の?」
 景也は小さく頷きながらため息を漏らした。


 景也は帰りの車の中で誰が見ても分かるくらい落ち込んでいた。
 倉石にも、二人の間に何か行き違いがあったことがありありと分かる。話しかけると僅かに微笑みながら答えてくれるが、工藤一月にばったり会うまでは活き活きしていた笑みもどこか寂しげで、すぐに曇ってしまう。
 それに工藤一月のあの視線。倉石が不審者ではないと分かった後でも牽制するように睨みつけてきた。あの視線の意味するところは…若さゆえの不器用さで、お互いに空回りしている気持ちに気がついていないのだろう。
「さあ、もうすぐつくよ。この辺にいないから叔父さんたちも心配しているかも知れないね」
「一人暮らしも楽しいぞ、って言うくせに、こんな時は心配するんですよね…」
 叔父さんのことを言っているのか、それとも一月の事を言っているのか、たぶん本人にも分かっていないだろう。


 夕方までケーキを食べていたからかその晩は夕食もあまりすすまなかったが、楠原社長が面白い話ばかりするので笑っているうちに小腹が空いてきた。倉石もそうだったようで、景也は軽い夜食を作るために話の輪から離れ、倉石と二人でキッチンへ向かった。
「んー…チャーハンとかで良いですか?」
「ああ。景也君が作ってくれるの?」
「意外と料理得意なんですよ、僕」
 タマネギとピーマン、人参、ハムを切って炒め、ごはんを加え、さっと調味料を加え…手際よく出来上がったチャーハンはシンプルだけど美味しそうだった。
「でも、ちょっと量が多くない?叔父さん達の分も作ったの?」
 軽く四人分くらいのチャーハンだ。
「あ…後から一月も来るから…」
 うちに帰ってからずっとみんなで話していたが、景也が一月と連絡を取り合った気配はない。携帯すら持っているのか分からなかった。この年頃の少年なら、携帯は常に肌身離さず持っているだろうに。
「何時頃くるの?」
「11時くらいかな…」
「彼女と晩ご飯くらい食べるだろう?」
 三枚の皿に出来上がったチャーハンを盛りつけていた手が一瞬だけ止まったのを、倉石はもちろん気がついた。
「さあ…いつもうちに来るときはお腹空かせてるから…」
「そうか…じゃあ一月君は彼女より景也君と一緒にいたいんだね」
「…え?どうして…?」
「景也君は、一日の最後を楠原社長と一月君のどちらと過ごしたい?」


 そんなこと考えたこともなかった景也は、一月の本心がどこにあるのかますます分からなくなり、湯気の立つチャーハンの前でフリーズしてしまった。
「頂いても良いかな?美味しそうな香りがしてる…」
「…一月が…」
「うん?」
「一月が…バター醤油味が好きだから…」
「そうか。いつも一緒に食べてるの?」
「はい…」
「じゃあ、景也君は後で一月君と一緒に食べると良い」
 どうしてそう思うのか、どうしてどちらと過ごしたいかなんて聞いたのか、自分に都合良く考えて良いのか、倉石さんは知っているのだろうか?だったら教えて欲しいのに…大学のことより何より、わだかまっている物がなんなのか教えて欲しい。でもそんなことすら聞いて良いのかも分からなくて、景也はただ呆然と立ちつくすだけだった。
「景也君、私は居間に行ってるからね。たまには叔父さん達のお相手をしなければね…ああそうだ、一月君が来たら…思っていることは素直に言わなきゃダメだよ」

 素直に…か。
 一月のバイクの音がしたので、十分くらいで来るはずだ。
 カシャカシャ……がちゃっ…バターン………ダッダッダッダッダッダ……
 バターン
「うっす!あっちーっ!!」
 門を開ける音がしてここまで三十秒と掛からない。
 景也はTシャツの裾をバタバタ扇いでいる一月のために窓を閉め、クーラーのスイッチを入れた。
「けい、寒くなったら言えよ」
 一月はいつだって自分のことを考えてくれてるじゃないか…
「うん、分かった」
「あいつは?」
「あいつって?」
「昼間の優男」
「…倉石さんだよ。下で叔父さん達と話してるんじゃない?」
 ふーん、と言ったっきり一月はばたっとベッドに寝転がってしまった。
 剥き出しの腕を頭の上に組んで野性動物のように伸びをする。腕の筋肉が綺麗に動き、あの腕に、昼間の女の子を抱くのかなと思うと胸の辺りがずきんと疼く。
「一月は…一緒にいたのは彼女?」
「んー?まあそっかな…」
 違うよ、と否定してくれるのを望んでいた自分と、やっぱりそうか、と納得しつつ気力が萎えて落ちていくような感覚に飲み込まれる自分。まあでもはっきりした分これからどうやって過ごせばいいか答えも出しやすくなったか…
「彼女放り出して来て良かったの?」
 一月はベッドから起きあがるとふて腐れたように口をとがらせ、言った。
「どうでも良いよ。門限10時だし。ヒマが潰れれば良い。それより腹減った!」
「ヒマって…彼女に失礼じゃん…ごはん一緒に食べなかったの?」
「食べたけど、もう消化しちまった。なんか良い香りが残ってるんだけど?」
「うん。僕も倉石さんとさっき食べたばっかりなんだ、チャーハン」
「俺のは!?」
「残ってると思うけど…ちょっと待っててね」
(思わせぶりな言葉で少しくらいいじめても良いよね?本当は一月のために作ったんだけど…一月がいけないんだ…フローラル系の香りをぷんぷんさせながら、消化したなんて言うから…)
 結局素直になんかなれなくて、憎まれ口ばかり叩いてしまう。
 

「あの優男にも手料理食べさせたのか?」
 倉石さんの事はよく知らないくせに、何が気に入らないのか一月は思いっきり嫌そうな顔で『優男』と呼ぶ。
「うん。パフェとかケーキとか奢って貰ったし、大学のことも沢山教えて貰ったもん。僕が東京に行ったら、美味しいお店に連れて行ってくれるって。お世話になるんだしチャーハンぐらい何て事無い」
 一月も昔はいろんな所に連れて行ってくれたのに、高校に入ってからはあの喫茶店くらいしか行ってない。
「資料探しとか手伝ったんだろ?ならケーキとかパフェとか奢ってもらって当たり前じゃないか」
「…そうだけど…」
「都会の人間なんて信用するなよ。優しい顔してどんな下心があるかわかったもんじゃない」
「でも…楠原さんのお墨付きだよ…」
「入ったばかりの新入社員の人柄なんて分かるわけ無いだろ」
「じゃあいい人かもしれないよ?倉石さんが悪い人だって、一言も話したこと無い一月がどうしてわかるの?」
「俺にはわかるんだよっ!」
「なにそれ…ひどいよ一月…東京に知り合いが出来て、一人暮らしも嫌じゃないかもって思えるようになったのに…心細いのがなくなったのに…」
 僕が行きたくないって言ったら放り出したのは一月のほうじゃないか…
「…大学行ってまじめに勉強してたら、忙しくって寂しいのなんか忘れるって…」
 相当長い沈黙の後、一月がそう言った。
「…そうだね…そうかもしれないね」
 本当は喧嘩なんかしてる時間は無い。だから自分から折れる。
「…一月は感も良いもんね。一月がそう言うなら気をつけるよ」
「うん。そうしろ」


「…景也君?」
 こんなに優しい人なのに、どこが悪い人なんだろう…景也はなんとはなしに倉石をじっと見つめて、そんなことを考えていた。
「景也君?見つめられるのはうれしいけど…そのおみそ汁は頂けないのかな?」
「え…」
 おみそ汁をよそって手渡そうとしたとき、出汁の香りが良いと褒めてくれて、具の相性も抜群だねと褒めてくれて、優しい声でありがとうと言われたものだから、がさつな一月に慣れていた景也は面食らって、倉石をぼーっと見つめてしまったのだった。
「あ。お口に合えばいいけど…」
 やっぱり悪い人じゃないよ。一月のバカ。内心で一月に口をとがらせながら、笑顔で倉石にお椀を手渡す。
「昨日のチャーハンもおいしかったよ」
 一月は何も言わずに掻き込んで、昨日はすぐに帰ってしまった。
「おいおい、朝から二人で新婚さんみたいなことやらないでくれるか?独り身の俺たちはもう辛くて辛くて見てらんない」
 楠原社長が言うと全てが冗談だと分かるので照れる必要はないのだが、倉石に好感を持っている景也は顔が熱くなる。
 一月には気をつけると言ったが、結局その日も一日中倉石と一緒で、東京に持って帰るお土産等を買いに街へ繰り出した。昔良く一月と出歩いたが、その時には感じたことのない高揚感があり、倉石のスマートな立ち居振る舞いや自分に見せてくれるほんのちょっとした気遣いなどに胸がときめく。
「新学期が始まったら、オープンキャンパスや学祭があるだろ?遊びに来るといい。案内して、教授達を紹介してあげよう」
 社交辞令かな、と思ってそれなりに言葉は返したけれど、次の日倉石さんが帰る時、オープンキャンパスや学際の日程を紙に書いて渡してくれた。
「忙しくないですか?邪魔じゃなかったら行きたいけど…」
「2,3日くらい何とかなるよ。それに、先輩や後輩も紹介して上げよう。知り合いが多ければ寂しくないし、一人暮らしも楽しくなるからね」
 

「俺もついていく」
 今週末はいよいよオープンキャンパスの日だという火曜の夜、一週間ほど姿を見せなかった一月が久しぶりに景也の部屋に転がり込んできた。景也は倉石とメールの遣り取りをしている最中で、一月がベッドに転がってゴロゴロしている間も返事を送ったり受け取ったりしていたものだから、一月が訝しんでメールの相手を問いただしたのだ。
「…一月手伝いで忙しいんじゃないの?」
 一月のお父さんがぎっくり腰で動けないため、一月はこのところずっと家の手伝いをしている。夜は疲れて早めに寝るかデートに行くかなので、景也の部屋に来たのも一週間ぶりだ。
「オヤジもだいぶマシだし。今週末は大丈夫だろ。けいは方向音痴だから東京ですぐ迷子になっちまう。気がついたら北海道あたりまで行ってそうだ…一人であんな都会に行かせられるか」
「北海道って…そこまで酷くないよ…それに、一月に関係ない場所だし…泊まるところとかどうするの?」
「関係ないことないだろ?けいが行く大学を知ってて損はない。泊まるところもどうせ楠原社長んちだろ?俺も何度か泊まったことあるから大丈夫。部屋は腐るほど余ってる」
「でも…」
「他に何か俺が行ったらいけないわけでもあるのか?」
「……」
「どうせ倉石が案内するとか言ってるんだろ?大学のことは俺もわかんないから任せるけど、それ以外は二人っきりで会うな」
「倉石さんは…一月が思ってるような人じゃないよ…」
「俺が一緒じゃ嫌なのか?」
 一月と一緒なのは嬉しい。嬉しいけど…どうせ離ればなれになるのだ、嬉しい思い出はあまり欲しくない。
 景也はうなだれて首を横に振った。

   

きっかけ 3

一月と景也