それでも二人で汽車に乗って移動するのは楽しかった。一月は慣れているのか駅のホームでも迷わずに景也を引っ張って歩き、大して多くない荷物も奪うように持ってくれた。
「僕だってそのくらい持てるのに…」
 見た目は一月の方が大きくてがっしりしているけれど、景也だって男だからそれなりに力はある(つもり)。
「一泊だけなのになんでこんな荷物が多いんだ?」
 楠原社長からは歯ブラシもパンツもいらないと言われている。
「お土産…楠原さんと、事務所と、倉石さんと…」
 菓子折や名産品だけならまだしも、朝取りの野菜まで持ってきている。
「今日は倉石さんとお友達が社長の家で手料理をご馳走してくれるんだって。だからその材料…」
 久しぶりの大都会。バッグの中に詰め込んでいるから分からないが、人参やかぼちゃやきゅうりを持ち歩いているなんて…
 迎えに来た倉石に野菜入りバッグを持たせ、どこからどうみても格好いい倉石と野菜の滑稽な組み合わせに、一月は「まず一勝?」などとつまらないことを考えてしまい、逆に少し不機嫌になってしまった。
「私の友達が先に到着してると思う。強烈なやつだけど、気にしないでね…」
 友達ってことは倉石と似たようなやつだろうか、それとも正反対?正反対な性格でも根本で似た部分があるから友達でいられるのだ。
 前回見た車とは違う大型のセダンに乗り込み、楠原社長の自宅へ向かう。あまり都会へ来たことがない景也はあまりの人の多さとビルの高さに、車の窓にへばりついたままだった。
「でも、意外と緑が多いんですね…」
 街路樹やら植え込みやら、人が集まるスペースには必ず緑のコーナーがある。大きな公園も多く、東京は都市の中で最も緑の面積が広い街でもある。
「そうだね。うちは社長が一月君のお父さんと知り合いだから、造園は全てそっちにお願いしてるんだよ。景也君も一月君と組んで仕事が出来るようになると良いね」
 もとからそのつもりの一月は運転席の方をちらっと見ただけだが、景也はやたらと嬉しかったのか、夏以来あまり見せてくれなかった小動物のような笑顔を一月に向けた。
(こんな時は…頭ぽんぽんだよな)
 ルームミラー越しに倉石に見られるのは嫌だったが、景也の頭をぽんぽんと撫でてやった。


「大きい方が一月君、小さい方が景也君、こっちが克彦だよ」
 倉石の友人はやたらと綺麗な男だった。
 倉石に寄り添うように立つ姿は清楚な百合の花みたいだったのだが…
「こっちがかぼちゃで、こっちがじゃがいも」
 指をさされたのも、野菜に例えられたのも初めてで…
「克彦、指ささない」
 ばしっと頭を叩く倉石さんも初めて見た。
「じゃがいももかぼちゃも美味しいんだよ!俺が料理したらもっと美味しくして上げられるよ。そっちのかぼちゃくん、野菜をキッチンまで運んでくれる?じゃがいもくんはお茶淹れるの手伝ってね。義童は…」
 言うなり克彦は倉石の首に腕を回し、濃厚なキスを…
「えっ!?ええっ!?」
 叫んだのは景也だった。真っ赤になりつつも目が離せなくて、凝視している。
「ん、義童、お久しぶり」
「…だな」
 今度は倉石のほうから克彦を引き寄せてキス。
「うわ…うわっ」
 景也は金魚のように口をぱくぱくさせて、重なっている二人と一月をかわりばんこに見つめていた。
「景也、キッチンにいくぞ。荷物拾え」
「でも、あのっ…」
 見てる方が不躾だろ…と景也の耳に囁くと、一月はその場に張り付いて動けなくなってしまった景也を無理矢理引っ張って、キッチンに引きずって行った。
「ああいう時は、気を利かせて見なかったことにして退散すんの」
「でも、でも、びっくりして動けなくなっちゃった…」
「キスぐらい…あ、そうか、けいはまだキスもしたことないんだっけ?」
「ないけど…べつにいいじゃん!人それぞれなんだからっ」
「いいけどさ、あの二人、男同士だぜ?それにけいは倉石さんのこと好きだったんじゃないの?」
 突然そんな突拍子もないことを言われ、景也は何をどう言い返して良いのやらさっぱり分からない。好きは好きでも好きの意味が違うけど…でも…自分が三年間悩み抜いて諦めようとしている関係をいとも簡単に見せつけられて、景也は自分の気持ちより一月がどう思っているかのほうが気になってしかたがない。
「僕はっ…倉石さんは優しくて頼りがいがあってお兄さんみたいだなって思ってるだけだよ。それに…好きな人は他にいるし…」
「そうか。ならいい。けいが傷ついてないなら、それで良い」
「なにそれ…」
 一月は今までに見たことがないような男っぽい苦笑いを一つ零し、野菜を冷蔵庫に放り込み始めた。


「おじゃが、義童から聞いたけど、料理できるんだって?」
「…はい、一応…」
 じゃがいも呼ばわりされても何故か反発できないのは、克彦が綺麗すぎるからだ。近くでじっと見つめても、どこもかしこも綺麗で非が見あたらない…自分は田舎者だし、ピッタリのネーミングだ。
「じゃあ、カボチャのポタージュ作れる?取りあえずはカボチャを薄目のスープで煮て裏ごしすればいいから。カボチャは力がいるし危ないから、義童かかぼちゃに切ってもらって。人参ときゅうりは新鮮で美味しそうだからスティックにしちゃって。あとのメニューはラザニアとカルパッチョとスペアリブ。スペアリブは下ごしらえしてあるから後は焼くだけ。カルパッチョは義童にお任せ、俺はラザニアのソース。はい、みんな作業開始!」
 号令にのせられて、みんな何故か一斉に動き始めた。
「けい、貸して」
 大きなカボチャを景也から奪い取り、一月は大きな包丁でカボチャをざっくりと二つに割り、あっという間に扱いやすい大きさに切り分けていく。
「小さくするから、けいは皮むけ」
 克彦は手近にあったきゅうりをおもむろに手に取り、指で弄りながら…
「皮は剥いてもらったほうが…」
「かつひこっ!!」
 さすがに一月もぎょっとした目で克彦を睨む。景也は必死で皮を剥いていて、全く気がついていない。
「綺麗にむけてる………んだ」
 克彦のだめ押しの一声に、倉石と一月は思わず顔を見合わせてしまった。
「綺麗に剥けてるよね?」
 景也のトドメの一言で、倉石と一月は顔を見合わせたまま苦笑いをしてしまった。

 おじゃが、おじゃがと連呼されながらも、次々に料理を取り分けてくれたりコーヒーが苦手な景也にだけローズティを淹れてくれたり、なにくれとなく世話を焼いてくれる克彦に、景也もなんとなく懐いてしまった。
 しかし、後かたづけ部隊が台所に消えて克彦と二人きりになった途端、タダの世話好きでは無いことが発覚して…
「けいちゃんとかぼちゃって、付き合ってるの?」
「え?ええっ!?」
「って、そればっかり。付き合って無くても、けいちゃんかぼちゃがすきでしょ?」
 かぼちゃは美味しい…けど、もちろんそんな事じゃないと景也にも十分分かっている。
「…す、すきですよ、普通に」
「義童とかぼちゃとどっちが好き?義童は俺のもんだからね」
 倉石さん、と答えられない状況をつくってまで一月が好きと言わせたいのだろうか?
「倉石さんも克彦さんも、お兄さんみたいで好きですよ。一月は…幼なじみだし…好きっていうか…好きだけど…」
「じゃあ俺がかぼちゃにせまっても良いの?俺は大人っぽいか年上かがタイプなんだけど、かぼちゃも性格はかなり雄だよね。肉食系」
 基本的なところが間違っている気がする。
「あの…僕たちみんな男なんですけど…」
「だって俺、ゲイだもん」
 そうであることは疑いようがなく質問自体ばかげていたが、悩み抜いた景也としては、もっと複雑な何かが存在して欲しいのだ。あまりにもあっけらかんとカムアウトされ、その上隠していた気持ちを見抜かれ…
「克彦さんは、いつからその…ゲイ…なんですか?」
「んー…たぶん子どもの頃から。俺ってホラ、綺麗だろ?今は体格も男だけど、子供の時はまるっきりお姫様でさ。そのへんの女の子より綺麗だったからちやほやされるの。みんなが俺の言うこときいてくれるの。でも女の子達からは総スカン喰らうし、いじめられるし、酷い目に遭わされたよ。んでますます女嫌いになった。誰よりも綺麗で、しかも男の中の男、になりたいんだよね〜。だからえっちも一応受け・攻めどっちもいけるんだけど、いざ付き合うと受けの方が気持ち良いんだよねー。なんでだろ?」
 そんなこと聞かれても…
「けいちゃんはやっぱり受け専かな?」
「…え…と…わかりません…」
「え、もしかしてまだ?なんでそんなに色っぽいの?」
「へっ!?」
 色っぽいなんて、生まれて初めて言われた。一応、高三男子としてそれ相応の知識はあるけれど、同級生の中では奥手な方だと思う。身体が勝手に反応していることもあり、そのほとんどが一月に対して何かしら思っているときだったので、ひたすら収まるのを待った。
「恋してるオーラかな」
「してないです」
 口だけならなおさら、きっぱり否定するのは簡単だ。
「うそつき」
「…」
「けいちゃん、もうカボチャが好きだって蛍光ピンクで顔に書いてあるよ。気がつかないのは自分くらいじゃない?みんな分かってるけど、こればっかりはけいちゃんが自分で殻を割って出てこないとダメなんだ。まあそれはカボチャも同じだけど。ここで諦めたら産まれるものも産まれない。たまごから孵ってヒヨコちゃんになれたら、お兄さん達もいろいろお手伝いできるんだけどね。卵のままだったら転がすしかできないよ。思い切って出ておいで。カボチャに振られたら義童貸してあげるから」
 最後の一言で本気なのだか面白がっているだけなのだか、分からなくなったけれど、あたって砕ける、これができればどんなに楽になれるか…
「貸すって…そんな」
「俺と義童は今は恋人同士だけど、唯一無二の親友でもあるよ。俺は恋多き女王様だから浮気ばっかりしてるし、これから先義童以外に心底惚れる人が現れるかも知れないけど、それでも壊れない関係だと信じてる」


 景也は一月と同じ部屋に泊まれと言われて最初は嫌がったが、克彦が酔っぱらって眠りこけるまで続いた宴会?の後では眠気に勝てず、色気も出せず、一月と一緒に寝る緊張感すら無くし、風呂にも入らず倒れるように眠った。翌朝目が覚め、一月がまだ眠っているのを確かめると、そっと一月に寄り添う。子どもの頃は何度こうやって眠っただろう。景也を全く見てくれない母親の代わりに、一月は手を握って、抱き締めてくれた。
(このくらい、良いよね)
 一月の手の上にそっと自分の手を重ねて目をつぶると、深い安心感に包まれ、また眠ってしまった。


「けい、けーい!朝だぞ。起きろー」
 頭部やら顔面やらをがしがし撫でられ、びっくりしながら目を覚ました。
「ん…」
「早く起きて、シャワー浴びて来い。朝飯できてるってさ」
 朝ご飯は倉石さんが作ってくれた。ハムエッグとサラダと、おしゃれな見た目のパン。
 社長は用事があるから一足早く出掛けていて、克彦さんは身支度に時間が掛かっているそうだ。
 遅れて登場した克彦さんは、朝から綺麗で、しかもバスローブ姿。でも、起き抜けの感じはなく、髪も綺麗に整えられ、なんだかふんわりと良い匂いがしている。
「ん。けいちゃん今日も可愛いね」
「おはようございます。克彦さんも綺麗ですね」
 ほんの少しだけでも一月のそばで眠って、ゼロになって久しかった一月メーターが回復したようで、景也は何年かぶりに幸せを噛みしめていた。
 心なしか一月に対しても素直になることが出来、自分がそんな態度でいれば一月もそれに答えてくれるようで、いつもよりずっと優しい。腕が触れ合うくらいそばにいると一月は一年前より背も伸び、体つきも僅かであったがまたしっかりなったような気もする。
「一月、去年より身長延びた?」
「ああ…たぶん。けいが小さくなったみたいな気がするもんな」
「ちょっと…どんな比べかただよそれ…でも良い。力仕事はけいに任せるから」
「ああ。そんなの当たり前だ。それよりな、けい。ちゃんと前向いて歩け」
「だってこうしないと一月がちゃんと見えないもん」
 時々一月を振り仰ぎ後ろ歩きをしながら子供のようにはしゃいでいる。
「けい、ほら、急がないと公開講座に遅れる」

 
 しかし、回復したメーターも日常に戻れば直ぐに下がってしまう。どうやら一月は男同士の恋愛に差別的ではなさそうだったが、東京から帰った途端彼女に会いに行ってしまった。

 抱いても、抱き倒しても気持ちは収まらない。
 それでもこうして女を相手にしてからでないと、景也に会えなかった。
 景也が自分の意思で独り立ちするまで手は出すなと言われたのは高校生になったばかりの頃で、しかもそれを言ったのはオヤジだった。俺の頭の出来は大したこともないし家業を継ぐ気満々のようだから好きなように高校生活を送って良いが、景也は血統が良いのだからできるだけ良い大学に行かせたいし建築関係で名を成せば亡くなった父親も本望だろうから、と。
 景也の叔父と父親は、遅くに産まれた子供だったので、兄が弟の学費を出し、それに感謝していた父は学生時代からコンペに入賞していた才能を振り切って大手ゼネコンに就職した。やがて母と巡り会い結婚、景也が生まれてすぐに自殺。自殺する理由など無かったが、黒い疑惑に包まれた死の真相を探るのは危険で、景也と母親が少しでも安全に生きて行くには目を背けるしかなかった。

 景也も一月のことが好きだと、表情や瞳が語っていた。告白して、バラ色の高校生活を送る予定だったけれど、のめり込みすぎて将来を棒に振るかもしれないような事態だけは避けろ、と言われた。進学で自分の元を離れるなどもってのほかで、自分に権力があるなら今すぐにでも景也を監禁して他の誰にも会わせないようにして、自分だけのものにする。そのくらい支配欲と独占欲が渦巻いていたのを、オヤジは見抜いていたのか?
 お前が今まで通り接していれば、景也の気持ちはずっと変わらないはずだとも言われたが、のんびりおっとりした景也が誰かに騙されないとも限らない。もし自分以外の者が景也に触れたら…考えただけではらわたが煮えくりかえる。将来を開かれた景也が自分を置いて何処かへ行ってしまう可能性だって無いわけではない。それは嬉しいことなのだろうけれど、今の自分では喜んで祝福できない。いずれ自分も大人になり、時間が経てば、「あの頃はこうだったよな」と笑って語れる日が来るのだろう。若い日の逡巡も、切なく甘酸っぱい思い出として記憶の隅に追いやられるのだろう。
 それは嫌だ。嫌でたまらない。でも、どうすることも出来ず、ただ時間ばかりが経っていった。


 2次試験が終わった日、一月は景也を迎えに東京を訪れていた。取りあえずはお疲れ様、と言うことで、倉石と克彦が食事に連れて行ってくれることになっている。去年の夏の終わりに知り合ったこの二人は恋人同士だったが、クリスマスの頃には別れていて、またこの春から付き合いが復活するという一月には何とも奇っ怪な関係の二人だ。都会の人間がすることは分からない、どういう神経を持っていれば元彼と今彼の間を行ったり来たりできるのだろう?別れている間もどうやら、普通の友人として会っていたようだ。 そんな奇妙な恋愛をしている人達に景也を近づけるのは反対だったが、楠原社長繋がりではどうにも遠ざけようがなかった。
「けいちゃん、受験、お疲れ様」
 克彦が景也に抱きついてほっぺたにキスまでしている。一月は思いっきり睨んだが、笑顔で答えられてしまった。
「やっと終わりました…春休みですよ春休み!沢山遊んで良いんだー…」
 景也も克彦のオーバーアクションには慣れてしまったのか、自分からも抱きついていく。克彦は景也を抱き締め返しながら、一月にはぺろっと舌を出して見せる。どこまでも喰えないやつだった。
「今日は焼き肉だからね、けいちゃんも一月もお店を潰すくらい食べて良いよ!」
 焼けていく端から景也の口に放り込む様はまるで親鳥と雛のようで、いつか景也も克彦のように美しく育つのだろうか…
 受験前はかなり緊張していたようで笑顔も少なかったが、今は心から楽しそうに笑っている。永遠に自分だけに向けられる笑顔であって欲しいが、それが叶わないのなら、早く東京でもどこへでも行って欲しい。別れの時が迫ってきた一月の胸中は複雑で、何かの弾みで堰を切ってあふれ出しそうな感情の高ぶりを必死で押し殺していた。

「一月君、一緒に風呂にはいらないか?」
 冗談のような事を言われたのは、定宿と化してしまった楠原社長宅に帰り着き、リビングに腰を落ち着けた時だった。言い出したのが景也だったら別の意味で断ったが、意外なことに倉石からの言葉だ。景也は克彦にちょっかいを出されまくってキッチンで笑い転げている…
「え…別に…構いませんけど…」
 身体には自信があるが、倉石のような大人の色気はない。と言うか、そんなことを考えた自分は相当煮詰まっているようだ。男同士で何をそんなに考え込む必要がある?楠原邸の風呂場は洒落にならないくらい広く、四人で入っても大丈夫だ。実際、おっさん達は入浴会なるものをたまに開いている。
「よし、じゃあ入ろう」
 二人並んで浸かるのはなんとなくバカらしかったので、かなり離れてどっかりと座り込む。特注なのか浴槽は五角形で、一人が一辺を占領して全員が足を伸ばしても身体が触れ合わないほどでかい。
「…広いっすね」
 倉石は僅かに微笑みながら同意した。
「ああ。年が行ったら自宅でも温泉気分を堪能したいんだろうな。まあ恋人と一緒に入れそうなのは羨ましいが…」
「…克彦さんと一緒の方が良かったんじゃないですか?」
「ははは…克彦と入ると消耗しすぎるからね」
 何故…と聞くほどバカではないし、赤くなるほど純情でもない。自分も女の子とそういう経験はある。ただしその記憶は澱のように心の底に沈んで、彼女たちにも自分にも、誰よりも景也に対して罪悪感という泥沼を形成していた。
 黙って俯いている一月に対して、倉石はどう思ったのだろう。少しだけ含み笑いをした後、鋭く切り込んで来た。
「一月君は、景也君にもう気持ちを伝えたのかな?」
「幼なじみで親友で、それ以上の感情があることはまだ言ってないです…言えないっていうか…俺が景也の足ひっぱりそうで…」
「景也君はそんなに脆い子かな?」
 脆そうに見えて、そうでないことは一月にも分かっている。
「会えなくなってお互いに心変わりしたり、疎遠になっていくのが恐いんだろう?景也君は誰よりも君が離れていくことを恐れている。だから君が彼女と一緒に過ごしていても何も言わない。君が話さない限り聞かないし、話のネタに上っても深く追求しない。君は君で景也君への邪な気持ちを誤魔化すために女の子と付き合ってるみたいだけど、それで景也君は君を諦めようとしているんだよ。嫉妬で気が狂いそうなのに、もしそこで自分が我が儘を言ったら君に迷惑がられて距離を置かれるんじゃないかってね。二人で同じ事考えて、平行線をたどってる。なんだか可愛そうで見ていられない。克彦も俺も、根っからのお節介者だから」
 景也が、一月は普通に女の子が好きだと勘違いしている事を除いては、すでに二人とも気持ちは通じ合っているのに…
「景也君はご両親のこともあって、我慢することや、なくても平気な振りをする事が上手になってしまったんだね…」
 しかし、二人の関係において平気な振りをさせてしまったのは一月自身だった。


「叔父さんも一応社長なのに、楠原さんとはえらい違いだなー…」
 泊まっているゲストルームの風呂場から、髪の毛をわしわし拭きながら出てきた景也が漏らした。
「そりゃあ…優秀な人を何人も雇って一度に沢山の仕事を平行してやれるから、収入が違って当たり前だろ」
 一月が入っていた大浴場?とは別に各寝室にバスルームがあり、どれも十分な広さを持っている。寝室も広く、一月にとっては地獄だが、二人で寝ても余裕のベッドも置いてある。
「そっか、じゃあ僕も早く一人前になって叔父さんの所でバリバリ働かなきゃだね」
「ああ、そうだな。景也、髪、乾かしてやるからこっちこい」
 子どもの頃は良く一緒に風呂に入って、洗いっこして、髪も乾かしてやった。景也の髪は細くて柔らかく触り心地が良い。
「子どもの頃も、いつも乾かしてくれたね」
 思い出も、ほとんど全てを共有している。
「そうだな。景也の髪は触り心地が良くて良い匂いがしてた」
「それってシャンプーの匂いだよ。おばさんがお気に入りの、ラベンダーの香りがするシャンプー」
 その香りを消してしまうほど強く甘い人工香料を、一月は纏うようになった。景也が何気なく語る思い出の全てを消したのは自分自身だ。それでも景也は、決して一月から離れなかった。一月に小突かれても、じっと見つめていた。いや、離れないでいてくれた、見つめていてくれたと言い換えるべきか…
「明日、どっか寄ってから帰るか?」
 一月が訊ねると、ぱっと景也の顔がほころんだ。
「うん。克彦さんに教えて貰ったお菓子屋さんがあるんだ。一緒に行こうよ。一月、もうすぐホワイトデーって忘れてたでしょ?チョコレート貰ったおかえししなきゃ」
 この3年間、イベント事をすっぽかしたのも一月だ。景也はいつも誕生日やクリスマスのプレゼントを用意してくれていたのに…
 自分の仕打ちに自分でうちひしがれ、盛大なため息をついた一月に、景也はこれでもかと言うくらい気を遣ってくれる。
「忙しいのに迎えに来てくれてありがとう…もう乾いたから、寝よっか」
 タオルやドライヤーをパタパタと片づけ、揃いのパジャマを着た景也と、ベッドに潜り込んだ。


 もう後何日、こうして一緒に過ごせるのかな…家へ帰ったら一月はきっとまた彼女の所へ行ってしまう。僕はどうなる?離れて暮らせば一月への思いは薄れて、他の誰かを好きになることが出来るのかな?
 また誰かが僕の手を力強く握ってくれるのかな?
 もう一度一月に、手を握って貰ったら、寂しさと切なさで狂ってしまいそうな僕を、呼び戻してくれるかな?
 握って貰ったら、きっと安心して一月から卒業できると思うんだ…
 
「一月、手を繋いでも良い?」
 景也はほどよい弾力があるベッドの上で仰向けになって訊ねた。
「ん?良いけど…けい、どうした急に…」
「ん…なんとなく…」
 手を合わせてぎゅっと握ると、景也も軽く握り替えしてきた。
「一月の手、大きくてがっしりしてるね」
「けいのては相変わらず柔らかい…」
「子どもの頃、お母さんに会いに行った後ね、悲しくて泣いていたら一月が手を握ってくれたんだ。悲しくなくなって…安心できて…でも…」
 景也の手が微かに震えているのが伝わってきた。どうしたのかと景也の方に顔を向けると、景也はふと顔を逸らす。安心するどころか、今までためていた感情が思いがけず溢れそうになり、目の奥が痛くなってしまった。
「けい?」
「ごめ…もう、寝るね…」
 声が、震えていた。
「けい、こっち向いて」
「…やだ」
 繋いだ手を振りほどこうとするのを軽く押さえ、背中を向けてしまった景也に覆いかぶさるように顔をのぞき込んだ。
「…一月…あっち行って…一月、なんか…嫌い…」
「けい…」
「かまって…くれなくなった…一月、嫌い」
 

 堰が切れたのは、景也が先だった。そうさせたのも自分で、景也には寂しい思いをさせないと誓っておきながら、寂しがらせて泣かせたのも自分。こんなに不甲斐ないのに、景也はずっと好きでいてくれた。
「けい、好きだよ」
「…嫌い」
「俺は好きだよ」
 背中を見せる景也を、無理矢理こちらを向かせながら抱き込むと、嫌いと呟きながら縋り付いてきた。
「一月…嫌いになった…から……あきらめられるとおもった…けど…」
 時々息を振るわせる景也の身体を強く抱き締める。
「けい…ごめんな。けいの才能や将来を潰してしまいそうで、恐かったんだ。けいと離れて暮らしても自分が大丈夫なように、自分の事しか考えてなかった…けいががまんしているの知ってたけど、優しくしてくれるからつけあがってたんだ。ごめん」
「ちっとも、だいじょうぶじゃない…」
「ああ。でももう大丈夫だから…」
 柔らかい髪や、細い背中を宥めるようにさすり、けいが泣きやむまで好きだと言いながら抱き締める。
「けい、落ち着いたか?」
 すすり泣く声が小さくなり、力が入っていた身体も緊張を解き始めている。
「うん…」
 パジャマの袖口でゴシゴシと目元を拭く様は異様に可愛い。
 くしゃくしゃになった髪の毛を整えてやると、大人しくされるがままだ。 おでこに掛かった髪をそっと払いのけ、小さなキスを落とす。
 一つ、二つ…
 泣きはらした目元にも、頬にも、沢山沢山キスをする。今まで寂しがらせた分を取り戻すには足りないけれど、そのくらい沢山のキス。
「けい、好きだ」
 すっかり脱力してされるがままの景也の柔らかな唇に、そっと自分の唇を重ねると、景也の手がぎゅっと胸元を握りしめ、知らず知らず一月を引き寄せようとする。
「一月…一月」
 キスの合間に呼ぶ声は優しいふれあいをもっと望んでいるようで、キスも自然と深く長くなっていく。
 唇の隙間からそっと舌を差し込むと、少しづつ景也もそれを受け入れ、積極的な一月の動きに途惑いがちに、舌を絡めはじめた。
「ん…ん」
「けい…」
 はやる気持ちを抑えつけ、一月は景也の身体を離し、とろんとした目で見つめる景也に微笑みかける。
「けい、明日はデートだから、今日はゆっくり休もうな…明日から、全部やり直しだ。けいと出来なかったことを全部やろう」
 

 倉石さんと克彦さんの案内で銀座でダブルデートした後、二人は仲よく自分たちの街に帰っていった。夕べ何があったか大人達は聞かなかったが、周囲の目も何のそので手を繋いで銀座を歩く二人を見れば、想像するに難くない。ひとまず丸く収まったということか。
「でもさ、景也君普通に歩けてるからXデーはまだだね」
 二人が乗った汽車にいつまでも手を振りながら克彦がぽつりと漏らした。
「まあ…社長の家じゃ落ち着かないし」
「義童、それ説得力無いよ。ベッドがでかいとか風呂場が広いとか、鼻の下伸ばしてたのは誰?」
 こちらはこちらで、大人の遊びを楽しんだのだろう。


「一月、ホワイトデーのお返しそれだけで良いの?」
 かなりの数のチョコレートを貰ったはずなのに、一月は二つしか買っていない。
「良いんだこれで。しかも一つは景也と一緒に食べるんだぞ?」
 それはそれで嬉しいけど、義理でもお返しを楽しみにしている女の子達がいるだろうに…
「もうひとつは…?」
 彼女のことがずっと気になっているが、景也は言い出せないでいた。確か、受験前もいたはずだ…
「けい、言っておくけど、俺、彼女いないぜ」
「へっ!?冗談!」
「まあ、帰ったらちゃんと話す。だから心配するな」

   

きっかけ 3

一月と景也