その白いメルセデスが修理工場のガレージ内に滑り込むと、いつものように全てのシャッターが下ろされた。
 完全に外部からの視界がシャットアウトされたのを確認しているのだろうか、メルセデスが完全に停止しても人が出てくる気配がない。やっと助手席のドアが開き出てきた男は知性溢れる品の良い長身の男で、この男が秘書だとすれば、後部座席にいる人物はそれ相応の社会的地位を持った人物であるはずだ。
 修理工場の知り合いをからかって暇を潰していた新進気鋭のインテリア・デザイナー水口克彦(みずぐちかつひこ)は、自分好みの紳士が下りてこないか期待を込めて見つめていた。
「あ、組長!」
 克彦の暇つぶし相手でこの工場一の修理工、高津雷(たかつらい)が親しみのある笑顔でメルセデスに走り寄る。
「おう、雷。車できたか?」
 重低音ヴォイスと共に車から降り立ったのは、あの秘書には不釣り合いな、いかにもヤクザなオーラを振りまく男だった。日本人離れした長身でほれぼれするような美丈夫だ。ただ、鋭い目つきや見方によっては酷薄そうにも見える薄い唇で、甘さが一切排除されている。
(あーあ。ヤクザじゃなかったらいい男なんだけどね)
 元恋人のオフィスで一度見掛けたことがあるそのヤクザなオーラを振りまく男は、広域指定暴力団の組長というそのものズバリのヤクザだった。ヤクザは、嫌いだ。

「克彦さん、ここで組長に待って貰うから…」
 あまり知り合いたくない人種だ。克彦はさっさと待合室に移動してコーヒーと持参した焼き菓子をぱくついていたのだが、あの男と狭い待合室で膝をつき合わせるのもぞっとしないのでさっさと退場することにした。出て行きしなに組長から腕を掴まれたときは内心びびりあがったのだが、ほっぺたに付いたお菓子の屑を払ってくれただけで、びびりあがっていた心臓も元の傲慢さを一瞬で取り戻し、恥ずかしいのも重なって礼も言わずその場を立ち去った。
「克彦さん、すげぇ迫力…」
「克彦って言うのか?」
「あ、はい」
「建築家先生の事務所でも見掛けたな」
「義童さんの元彼です」
「ふーん…」
 そのヤクザ、誠仁会系・黒瀬組組長、本田雪柾は面白そうに口をゆがめると、克彦の去った方向をいつまでも見ていた。
「男にしておくのはもったいない美人だな」
「でも性格は最悪です」
 雷はかなり最近克彦に浴びせられた罵詈雑言の数々を思い出し、唇を尖らせた。
(お前のものなんて此所には何一つないんだよ?自分の小屋に帰れば?なにぼんやりしてるの?早く出ていけって。手切れ金でも欲しいの?義童もお前の身体には満足してるみたいだし、半年間ご苦労様って意味でお小遣い上げても良いよ?義童は俺みたいに色気のある大人がタイプなんだけど知ってた?お前みたいなチビ猿は趣味じゃないんだけど。若い身体以外何も持っていないチビ猿は直ぐに飽きられちゃうから、捨てられる前に消えた方が賢いと思うんだけど?)
「お前も表情豊かになったな」
 本田は意味ありげで意地悪そうな笑みを浮かべると、雷の頭をくしゃくしゃ撫でた。
「もうっ!ガキ扱いしないでくださいよっ!」
 雷は本田の大きな手のひらから逃れると、本田が趣味で乗っている車の仕上げをするべく待合室からかけだしていった。

「ごめんなさい…」
 雷は亀のように首を引っ込めながら本田に謝っている。本田のマセラティの特殊コーティングを乾かしている途中、どうやら克彦が手の跡をべったり付けてしまったようなのだ。克彦の美意識では、マセラティにヤクザが乗るなんて考えられないことだった…らしい。美しく官能的なイタリアン・デザインの車を乗りこなすにはそれなりの人格も備わっていて欲しい…らしい。
乾くまえにコート剤を塗布しながら磨けば直ぐに取れるのだが…手の跡を付けたまま乾いてしまったので、もう一度やり直すか、次回コーティングまでそのままにするか、どちらにしても時間がかかってしまう。
「一時間くらいで直せるけど…」
 本田は決して傍若無人で横柄な人ではないけれど、それに甘えるのはプロとして恥ずかしかった。悪戯されるのを見落としていた自分も悪いのだ。
「いや。構わない。あの美人の手形だろ?」
「はい。たぶん…」
 本田は喉の奥で笑いながら、助手席側のドアにくっきり浮かんだ克彦の手形を指でなぞった。
「しばらくこいつとドライブするのも悪くない」

 

 立場が立場なだけに、本田は独りで気ままにドライブすることなど滅多に出来ない。それを楽しみたいときは、護衛付きのメルセデスで帰ったように見せかけ、小一時間工場で暇を潰してからプライベートな車でこっそり出て行くのだ。一応、防弾仕様にしているし、それなりの運転技術も持ち合わせているので遠出をした先で襲われてもテリトリーに帰ってくる自信はある。GPSでの追跡と護衛の車もいることはいるのだが、独りで運転を楽しみたいのでその事は極力意識の中から遠ざけ、好き勝手に走る事にしている。走ることが目的なので、助手席には誰も乗せない。もちろん手を付けた女達を乗せたこともない。克彦の手形は、ある意味、初めて乗せた他人の意識だ。それがただのいたずらでも、いや、いたずらだからこそ何時になく楽しいのか?
 どんなに美しく豪華な女にも引けを取らない美貌の青年、しかも誰からも恐れられる自分に向かって氷のような侮蔑の視線を送る男の存在が楽しくてならなかった。
 修理工の雷の話しによれば、どうも男が好きな人種らしい。自分にはそっちの趣味はないが、あの美貌なら考えられない事もない、むしろ着飾ってあからさまに誘う女達よりよほど潔い。などと、厳つい取り巻きを眺めながらほくそ笑む。

 

 建築家の倉橋義童は恋人の雷の紹介で本田雪柾が経営する表の会社の新社屋を設計することになっている。いわゆる経済ヤクザだが、頭脳の優秀さに加えて武闘派の一面も持っていた。育った環境さえまともであれば今頃は堅気の世界でもかなりの要職に就いていたのではないだろうかと言われる。血の繋がった親は一介のちんぴらでさっさと死んでしまったが、大人びて腹の据わった雪柾を気に入った先代が跡継ぎとして育て上げた。雷は本田が趣味で乗り回す車の整備を一切任されており、義童が雷と結ばれて元彼の克彦と揉め、修理工の仕事を休ませた時に、自分の車がいつまでも仕上がらないことに業を煮やした本田が義童の所属する事務所に乗り込んできた(ただ様子を見に来ただけなのだが)。義童の腕の中でのんびりお菓子を食べている幸せそうな雷を見て出鼻をくじかれたばかりか、半ば決まりかけていた設計を白紙に戻して、義童に任せることにしてしまった。
 全てお任せする、と本田側には言われているが、何しろ相手はヤクザなので、話し合いは綿密にしておくべきだろうと思った義童は、今回のスタッフを連れて打ち合わせにうかがうことにした。本田が克彦に興味を示しているらしいことを雷から聞いていたので、克彦には内装に係わって貰うことにする。
「義童…ここって…あのヤクザの事務所じゃん…」
 桜色の薄い唇をつんと尖らせて、克彦は義童を睨みつけた。
「ああ。表の仕事の会社らしいから引き受けたんだよ。悪い人でも無さそうだし」
「そんなの上辺だけだってば。所詮ヤクザはヤクザで一皮剥けば人間のくずなんだから」
 はばかることなく施主の悪口を言いながらロビーを横切る。何人かの社員(組員)がガンを飛ばしてきたが、克彦はそれさえ鋭い視線で睨み倒していく。この口の悪ささえ無ければ、どんな男でもよりどりみどりで、今頃は玉の輿にでも乗って幸せになれていただろうに。決して腹黒いヤツではないし、子供の頃から美しい見た目につけ込まれて嫌な目にも数多くあってきたと聞く。華奢な体つきで運動能力もあまりなかったので、言葉で武装しているような感もある。好きになった相手には極上の笑顔を見せてくれるのだ。情も厚く、惚れたら一直線。尽くしすぎてうるさがられて最後に捨てられるのはいつも克彦の方だった。
「あ、ヤクザにしておくには勿体ない秘書の吉野さんだ」
 克彦が指さす先にいたのは、メルセデスから最初に出てきた品の良い顔立ちの長身の男で、吉野千草、本田が他所の会社から引き抜いて常にその傍らに置く男だ。肩書きこそ秘書だが、スケジュールの管理から交渉・取引までなんでも完璧にこなす切れ者。
「克彦、指さすな…」
 義童は克彦の腕をばしっと叩いて注意する。しかし、普段の張りつめた雰囲気の事務所とはかけ離れ、花が咲いたような華やかな義童一行に、吉野の頬も僅かに綻ぶ。
「お忙しいところをご足労頂きましてすみません。社長が上でお待ちですので、ご案内いたします」

「倉石先生がお見えです」
 扉を開け、社長室の中に通される。そこはごく普通のオフィスで、克彦が期待していたような日本刀や風林火山の書など飾られておらず、機能的かつ落ち着いた雰囲気の上質な空間だった。ただそこにいる人間達の醸し出す雰囲気は普通ではなかったが。
 本田は、義童とそのスタッフにゆっくり視線を巡らせ、最後に克彦を捉えると長い間じっと見つめていた。 見つめられている本人は気が付いているのかいないのか、プロ意識と好奇心とが混じった目で室内に置かれた家具を見回し、メーカーと総額をはじいている様子。案内されて腰を落ち着かせると、吉野が全員に新社屋の設計に対する要望をまとめた書類を配りはじめた。義童がちらりと本田を見ると、やはりその視線の先には克彦がいて、本田の鋭い表情が幾分軟らかいものになっていることに気が付く。
(相当気にいられたかな…)
 克彦は一途で健気なのだが、我が儘も強気も筋金入りなので、すべてを受け入れてくれる度量の大きさを持った男でないと続かない。ただ今回は、克彦が全く興味を示さないどころか毛嫌いしている。本田がどれだけ本気で克彦に挑んでくるのか見物ではあるが、大荒れに荒れる予感もする。面白がっているだけではなく、最悪の事態になったときのことも考えるべきだろうか?たかが色恋沙汰で命の危険にさらされることはないと思うが、なにしろ相手はヤクザである。
 吉野が出してきた条件は大して難しい物ではなく、前もって調べておいたヤクザがらみの物件を受けるときに必要なセキュリティ上の知識で十分対応できる物だった。使途不明の隠し部屋ももちろん含まれていたが…。その話しに目を輝かせたのはもちろん克彦。待ってましたとばかりに話し始める。
「そこはもしかして俺の担当?X字架とか吊り用の梁とかフックとかラブホ仕様じゃなくて本格的なの…」
 ばしっ!
 義童が手元のファイルで思いきり殴る。
「痛いよっ!」
 義童が急いで誤ると、本田は煙草を持った手で口元を隠すようにしていたが、肩が震えていたところを見ると、どうやら笑っていたらしい。いつも涼しいポーカーフェイスの吉野も口を覆っていた。

 

 義童がその吉野から電話連絡を受けたのは次の日の午前中だった。
『もう一つ頼みたい仕事があるのですが』
 その夜に吉野と会う約束になり、指定の場所を訊ねる。会社ではなく、バーで会うと言うことはプライベートな事も多少は含まれるのかも知れない。バーの前でタクシーを降りると会社で見掛けた顔の社員がドアの前で待っていた。丁寧に中へ通されると、吉野が出迎え、カウンターへ誘導される。
「急にお呼びだてして申し訳ありません」
「いいえ、煮詰まりかけていたのでちょうど良かったです」
「お仕事のことで?」
「ええ。3日おきに気持ちを変えるクライアントに振り回されて…ああ、すみません愚痴を聞いて貰うために来たわけではありませんね」
「構いませんよ。倉石さんのお時間が大丈夫であれば」
「いえ。それより先に仕事のご依頼の件ですが…」
 吉野は少し困った表情で話し始めた。
「本田社長が、今の事務所とご自宅のイメージチェンジをしたいと言い始めて…昨日ご一緒だったインテリアデザイナーの水口様を紹介して頂けないかと…」
 やはり…と義童は思った。しかし、デートのお膳立てならともかく、仕事が絡んでいるならまだマシかもしれない。いっそのこと、克彦と懇意になりたいならなりたいと、はっきり言って貰った方が話が早いのだが…
「いい話だと思うのですが…克彦は…本田社長のことを嫌っているというか眼中にないというか…。仕事を受けない可能性もあります。受けても、性格的に問題が大ありな男なので社長の機嫌を損ねるかも知れない。そうなった時の事を考えれば、私もはっきりいって怖いです」
 相手はヤクザ。これ以外に恐れる理由はない。しかも素人の自分にはヤクザに対抗する手だてなど持ち合わせていない。最悪の場合のことを考えても、笑うしかなかった。
「倉石さんの心中はお察しします…」
 吉野はやはりヤクザである。
「社長の意は私の意。社長がなぜ水口さんに依頼したいのか、義童さんは恐らく分かっているでしょう?いつもよりは遙かに回りくどい様子ですから強引に事を進めることは無いと思います。しかし社長が望めば、私はそれに従うだけです」
 冷たい声が義童の全身に突き刺さりグラスを持つ手が震える。拒否できないと言うことか?
(でも、克彦には似合ってるんだよな…強引そうなところとか…)

「あんまり脅かすなよ」
 カウンターの下からいきなり男が出てきた。
「うわぁぁっ!」
 心臓が口から出そうなくらい、義童は驚いてしまい、手にしたグラスも思いっきりひっくり返してしまう。
「脅かしてるのはお前だろう…」
 言うが早いか吉野は、カウンターに零れた酒を素早く取り出した白いハンカチで拭う。突然カウンターの奥に生えた男を押しのけて、バーテンがダスターで加勢を始める。慌てて駆け寄ったボーイもカウンターの二人の服が汚れていないか確認し始めた。
「お前、いつからそこに隠れていたんだ?」
「最初から」
 吉野は汚れたハンカチをバーテンに渡し、義童に頭を下げる。
「驚かせて申し訳ありません。この男は一応これでも若頭の沼田和希です。お顔を会わせることがあるかと思いますので紹介させて頂きます」
「俺の驚かし方はタダのどっきりだ。お前の方がタチがわるいだろ」
 沼田は満面に笑みを浮かべて手を差し出し、義童は慌ててその手を取った。
「倉石義童です。よろしくお願い致します」
「組長が珍しく男に興味持ったんだってな」
「沼田…いきなり言うか!」
「持って回った言い方して先生の時間を邪魔すんな。それに、組長は堅気には手をださんよ。そのくらいの分別はある」
 それでも吉野はまだ言い足りないことがあるようだ。
「しかし…それは分かっているが…」
 吉野は本田の、あんなに温かい表情を見たことがなかった。沼田がこんな調子なので普通に笑う事はある。だが全くの他人でしかもいくら美しいと言っても男に、長時間柔らかい眼差しを注ぐことなどあり得ない。常にないことが起こると本田の足元が危うくなるかも知れない。
「あの…」
 倉石はおずおずと話しかけた。ヤクザの視線が自分に向けられている…
「克彦は…性格も口も悪いですが、それは素直であるからこそ、なんです。見た目があれなので誰もが最初は自分の容姿や身体しか見てくれない。それが悔しくて、最初は相手を試しているんです。はっきり意図してやっているわけではないんですけどね。小さい頃から自然と身につけてしまったんでしょう」
「あとは組長次第…てか?」
 沼田がにんまり笑う。
「仕事で正統な評価がいただければ克彦は満足しますよ。組長に対する印象もマシになるとは思いますが…堅気には手を出さないとおっしゃいませんでしたか?」
「そりゃ例外もあるだろ」
「もうすでに克彦さんはイレギュラーな存在ですよ」

 

 克彦は義童に頼まれて嫌々本田の会社に出向いた。
 秘書の吉野は義童と会った次の日に、さっそく克彦の作品やコーディネートの資料を集め本田に目を通すように伝えたのだが…ちらっと見ただけで放り出してしまった。
「で、俺にどうしろと?」
 社長室のソファーに足を組んで座り、克彦によく似合うコーヒーカップからコーヒーを一口啜る。どこから情報を仕入れたのか、カップは克彦が大好きなジノリの銀巻ローズ、コーヒーは酸味が少なく甘みが感じられ、これも克彦の好み。お菓子は…いしだ洋菓子店…克彦が好きなお店だが、別に好きな店はここだけではない。サクサクのパイ生地に包まれた季節物のパイは大好物だが、パイ生地が散らかるので人前で食べるのが微妙に恥ずかしい。なので、人前で食べるときは逆に、おもいっきりかぶりついて漢な食べ方をする。食べかすは盛大に床にまき散らす。
 見た目に似合わない豪快な食べ方に本田は目を細めている。吉野と沼田は驚きの表情で二人を見ているが、それは本田が既にここまでこの美貌の青年を気に入っていると言うことと、美青年らしからぬ漢な克彦の性格に驚いているのと半々だった。
「俺の性格や好みにあった物を作るなりコーディネートするなりしろ。暫く俺についていたらそのくらい分かるだろう」
 挑戦的な目で克彦に言い放つ。克彦は少しだけむかついた表情を見せたが、直ぐに氷のような冷たい視線を返しながら言った。ただ一言。
「わかった」
 それから暫くの間克彦は沈黙し、じっとコーヒーを見つめながら座っていた。何かを考え込んでいる風で、吉野も沼田も緊張した面持ちで見守っている。本田だけは口元に笑みを浮かべながらじっと見つめていたが…十分ほど経った頃、克彦は優雅に立ち上がり、ポケットからメジャーを取り出しながら本田の方へつかつかと歩み寄っていった。
 本田に人差し指を向け、指一本で『立て』と促す。
 本田がゆっくりと立ち上がると、ぐいっと腕を掴んで後ろを向かせ、尻の下にしっかりメジャーの端を押し当てて床までの距離を測る。次は素早く肩幅を測り、正面にむき直させた。まっすぐ向かい合って、ゆっくりと視線を本田の頭のてっぺんに移動させる。
「187?8?」
「8だ」
「そう。じゃ、ヒマなときに来る」
 それだけ言うと克彦は踵を返そうとした。が、またしても本田に腕を掴まれたのだ。最初に会った時のことを思い出し、克彦は思わず口元を拭った。
「そっちじゃない」
 そう言って本田は笑いながら克彦の肩まで伸ばされた細く柔らかく手入れの行き届いた髪に手を触れ、菓子屑を取り除いてやった。
「子供みたいに手がかかるやつだな」
 克彦は顔を赤くしながらもぎりっと睨みつけ、居丈高な足取りで部屋を横切る。
「お送りしろ」
 背後から重低音ヴォイスが響き、はじかれたように沼田がドアを開けた。
「お車でお送りしますよ?」
「下品仕様のメルセデスより縞々のタクシー」
 それでは階下まで…と言う声を無視するかのようにつかつかと歩む克彦の少し後ろに、沼田は付き従った。

 

 克彦は沼田が呼び寄せた縞々模様のタクシーに乗り込むと、沼田が差し出したタクシーチケットをひったくり、行き先を告げた後は拳を握りしめて目を閉じていた。悔しくてしかたがなかった。義童からこの仕事の話しを聞いたときに、断らなかった自分が情けなかった。そして引き受けた一時間後には、本田が座る専用のソファーのデザインが頭に浮かんでしまった。そして今日は、お気に入りのカップとコーヒーとお菓子だったことも気にくわなかったし、メジャーを宛てる前から座高や身長や肩幅が分かってしまったのも最悪だった。少しでも気に入らないところがあればびしっと断るはずだったのに、克彦のプロ意識を煽るような頼み方をして最初から牽制されたのもむかつく。
 克彦はイライラをなんとかしたくて義童に電話してみたが、今日は雷と約束があるからとすげなく断られますます頭に血が上り、家に帰る気も失せ良く行くバーに寄って誰でも良いから怒りや憤りを沈めてくれる相手を探すことにする。

「すげぇな…」
「そうですね」
「指一本で立ち上がらせたぜ」
「そうですね」
「いきなりケツにも触ってた」
「そうですね」
「タクシーチケットひったくったぜ」
「そうですか」
「良い姐さんになりそうだと思わないか?」
「どうでしょうね」
「あれ今晩男くわえ込むな」
 それまで沼田と吉野の会話など耳に入らないかのように、いつもの冷徹な表情で書類に目を通してはサインをしていた本田が沼田の最後の台詞に顔を上げた。
「吉野。克彦の居場所を探せ。これから行く」
 吉野は確信犯的な笑みを口の端に浮かべる沼田をじろりと睨む。
「見当はついていますが、社長がお出ましになるのは火に油を注ぐようなものかと。それにその決裁書類は今夜中に終わらせて頂かないと」
「この書類はお前も目を通したのか?」
「はい。一応」
「問題は?」
「特に見受けられませんでした」
 答えを聞いた途端にサインのスピードが速くなった。 必ず全ての書類に目を通してサインをするのだが、惚れた相手が他の男とどうにかなるのが嫌なようで、読みもせずにサインしていく。自分が惚れたからと言って、相手も同じ気持ちとは限らない。なにより克彦は素人だ。産まれたときから極道の世界に生きてきた本田は何も知らない相手に裏の世界を見せたくなかったし、お互いに命取りになる危険性も良くわかっている。ちんぴらならいざ知らず、自分ほどの地位にいれば組が潰れる可能性も出てくるのだ。そうなれば、残された道は死のみ。自分が死ねば克彦にも制裁が下される。
 

 それでも欲しいと思った。
 

 ものの分かった玄人女は掃いて捨てるほどいる。素人っぽさが売りの女もいる。男が試したいならそう言えばいい。決まった相手を持つことが煩わしい方なので、性欲処理が必要になったときはそう言えば極上の女が出てくる。セックスに心は必要ないし、心はすでに組に捧げている。それなのに、あの日、性別などどうでも良いと思えるくらい美しく、傲慢不遜な態度をとるくせに菓子屑を顔に付けたままという、なんとも奇妙な男に魅入られてしまった。気位が高いだけの我が儘王子かと思えば、気に入った物には素直に喜び、仕事の手際も良さそうだ。男は圏外だったが、克彦が他の男をくわえ込むと聞いただけでどうしようもない嫉妬心と独占欲が芽生えてしまった。
「そのスピードでサインされても間に合いませんよ。私か沼田が行って止めさせますので、社長は安心して残業して下さい」
「…分かった。和希、お前が行って来い。いざというときはお前の方が安全だろう。酔いつぶしたら連絡しろ」

 

 

1
きっかけ2

雪柾と克彦