吉野の報告書にあった克彦行きつけの店に入ると、沼田は克彦からは見えない位置に座り、暫く観察することにした。沼田の位置からは後ろ姿しか見えない。昼間、憤懣を背負っていた後ろ姿とは打って変わり、男を誘う色気を発散させている。沼田は老若男女来る者は拒まずの博愛主義者なので、組長のお気に入りでなければ自分が喰ってしまうのに、と残念に思いながらそのフェロモン垂れ流し背中を凝視していた。
 その店に初めて現れた沼田にも熱い視線が送られている。何しろモデルか俳優かと思われるくらいの男前だ。身につけている物も一流品だし、グラスを傾ける仕草にも男らしい色気が溢れている。沼田にしても自ら罠にはまろうとしている獲物を捕まえるチャンスを逃す気はない。今日は無理でも携帯番号とアドレスくらいはゲットしておこうと、話しかけてきた男達を視界の半分に入れ、後の半分で克彦を見張っていた。

(駆け引きくらい楽しませてやらないとな)
 組長が素人に手を出すかどうかはまだ分からない。だが、手を出さないとしても、今後滅多な男は近づけさせないだろう。身元や過去や性格を全て考慮して、克彦を任せても良いと思われる男が現れるまで邪魔をし続けるかもしれない。組長に良心があれば、無理矢理手を出す事はないだろうが…はたしてあの男に良心などあっただろうか?克彦を見つめる視線はあり得ないほど優しい。冷血漢にももしかしたら温かい血が流れ始めたのかも知れない。
 などと考えながら監視しながら獲物を物色しながら小一時間。気位が高く好き嫌いが激しい女王様は四人目に言い寄ってきた男が気に入った様子で、時々見える横顔には笑顔が見られるようになってきた。そろそろか…
 

 沼田は目の前にいるオネェ言葉の若者からさっさと連絡先を聞き出すと、知り合いをガードしなくてはいけないので、と嘘とも冗談とも取れる真実を伝えて席を立ち、女王様の元へ向かった。克彦の隣に座るその体育会系男の襟首を掴んで止まり木から引きはがす。
「克彦君、ごきげんのようだね」
「なんであんたがここにいるんだよっ!」
 さっきまでの色気全開モードが瞬時に切り替わり、昼間のお怒りモードになってしまった。
「まあそう怒るな。俺もお仲間って事だ。両刀だけどな。克彦君を見て今日はバリタチモードになってしまったんだよ。良かったら暫く一緒に飲まないか?仕事の話しは抜きで」
 克彦は沼田を上から下までじっくり眺める。昼間、仕事上必要だったので組長を上から下まで眺めていたが、あの時の視線とは全く違う種類のものだ。最後に、まっすぐに瞳を見つめて微かに微笑む。
「合格?」
「まぁ…ね。でも、あんたもやっぱりヤクザだ。しかも若頭って…組長の下だろ?」
「おや、よく知ってるな」
「誰でも知ってるよ。ばーか」
 酒が入っているからだろうか、すっかり機嫌もなおってばーかと言う顔は綻んでいた。

「その若頭に向かってばーかと正面切って言える克彦君も相当なばーかだな」
「ふふふ…だってあんた怖くなさそうだもん。吉野さんも格好いいよね」
「お?千草も圏内?」
「千草さんって言うんだ!知的で物腰とか素敵で凄く上品だもん。俺そういう人好き」
「その割にはさっき気に入っていたヤツは体育会系じゃないか?」
「…やるだけの相手ならそれでいいじゃん」
 意味ありげに沼田を見つめる目にはちらちらと情欲が見え隠れしている。
「克彦君、もしかしてその目、俺を誘ってるのか?」
「へっ?」
 心底びっくりしたような表情に切り替わった。
 無意識でフェロモンビームを垂れ流しているのか?
「だからーヤクザはお断り。千草さんは職業間違ってるんだよ。転職したらいいのにねー?」
 吉野さんから千草さんに、呼び方が変わってるし。
「あいつはやめとけ。俺より雪柾に心酔してるからな。雪柾のためなら可愛い克彦も殺すぞ」
「うっそー…で、雪柾ってだれ?」
「組長だよ。知らなかったのか?」
「興味ないからあんなやつ。圏外の地球外の銀河系外!」

「潰しましたよ…」
 克彦がカウンターに突っ伏して眠りこけたのは二人で飲み始めて三時間後だった。かなり早くから酔っぱらってはいたのだが、前後不覚にしておかないと千草と組長が現れたら大変なことになりそうだった。千草、千草と名前を連呼するのを組長が聞けば、どうなることやら…組長の怒りよりも、千草の詫びの入れ方を想像すると恐ろしかった。手を出したわけでも下心があるわけでもないのに、指どころか、腕の一本くらい差し出すかもしれない。
 連絡を入れて五分も経たないうちに二人が現れた。店の近くで待機していたのだろうか?それくらい、本田雪柾は克彦の事が気がかりだったのだろう。眠りこける克彦を抱き上げて車まで運び、車内では膝枕で休ませ、克彦のマンションに着くと部屋まで抱きかかえて運び込む。ジャケットを脱がせ、ベッドにそっと横たえると、しばらく寝顔を眺めていた。触れもせず、ただ眺めるだけ。明かりを消していたので確認できたわけではないが克彦を見つめる双眸は優しかった。が、時折、眉間に皺を寄せていたようでもある。手に入れたいが手に入れてはいけない、本田の心のうちでどのような葛藤があるのか、二人の部下には推し量ることが出来なかった。

 

 本田がいつもの表情で克彦のリビングに戻ると、ミネラルウォーターと鎮痛剤をテーブルに準備し終わったところだった。
「帰るぞ。沼田、洗いざらい報告しろ」

 

 二日後、克彦は仕事が早く片づきそうな社内の幹部室以外を見て回る事にして、沼田に連絡を取った。仕事の連絡は吉野と付けるようにしていたが、一昨日の夜、前後不覚になって眠りこけてしまった克彦をマンションまで送り届けてくれたのは沼田だと店のマスターから聞き、沼田とは楽しく飲めそうだったし暇つぶしとお礼がてら今夜も誘ってみようと思ったからだ。
 沼田はもちろん誘いに乗ってくれたが、できれば仕事の連絡だけは吉野にするように言われた。結局段取りは吉野が付けるし、組長の許可も常に傍らに控えている吉野のほうが早くとれるし、仕事の話しはなによりめんどくさいので遊びの連絡だけしてくれ、と…
(やっぱ遊ぶなら沼田さんかな?見た目もいいしね。千草さんは大好きだけど緊張するもんな)
 緊張を通り越して嫌悪している人物の事など頭の隅にも思い出さない克彦だった。
 

 克彦が会社を訪ねたときは本田も吉野も沼田も不在だったが、話しはもちろん通されていて、世話係の下っ端が案内してくれた。
「ロビーから、この階までの間は自由に行き来してもらって結構ですんで。あの、どちらから行きますか?」
 いかにも安っぽいスーツを着て派手なシャツを着たこの男は好みではなかったが、姿勢が低くへこへこしていて、それは克彦の優越感を十分に満足させる態度だった。ヘンな服装はそっち方向を見なければ良いだけの話しだ。
「ざっと見て歩いてから、考える」
 克彦がいつも通されていた六階と五階は幹部専用でそれなりの落ち着きと高級感が漂っているが、一階から四階まではごく一般的な事務所なので既製品をコーディネートするだけでよいだろう。克彦は一階のロビーの一角に置かれた椅子に座り込み、何もない殺風景な空間を眺めた。これが堅気の会社なら思い切って人が集まる空間にしても良いのだろうが…受付に座る2名の女性、と脇に立つ強面。強面の方をもう少し弄って執事風にしてみたり…野郎社員の中からまともなのを選んでボーイがきちんとサービスしてくれるカフェとかつくったり?
「あの…インテリアの先生…」
 どのくらいそこに座っていたのか、すっかり忘れていた世話係がおずおずと声をかけてきた。下っ端のようだが、煩くないし視界に入ることもなかったし、躾は良い。だいたい何処の仕事場を訪れても、見れば分かる室内の様子を自慢げに説明して、やたらとコミュニケーションを取りたがる蠅がまとわりついてくる。にこにこ笑って仲良くなれば良い仕事をしてくれると思っているのだろうか?
「ん?」
 

 足を組んで、考える人のポーズをとっていた克彦は、目線だけ下っ端に向ける。下っ端は、腕をびしっと身体の横に沿わせて45度傾けた姿勢で話しかけていた。
「あと十分程で組長が戻られますが、お仕事の区切りがよろしければ応接室でお待ちになりませんか?」
 克彦には視線を向けず、下を向いたまま話している。 ちんぴらならよく知っているが、今まで見てきたやつらの態度と違って、幹部からの口利きが入るとこんなにも対応が違うのか…
「いいよ。だいたいまとまったし」
 克彦を案内するために先導する下っ端の歩き方になんとなく違和感を覚えたのでよく観察してみると、右手と右足が同時に前に出ていた。

「ねえ、これ誰の趣味?」
 リモージュと覚しき手書きの薔薇に金彩がほどこされたダブルハンドルの可憐なカップで紅茶を出された。ここに来るたびに見るカップはアンティークなものばかりで、ヤクザの事務所には似つかわしくない。千草さんの趣味でも無さそうだ。
「えーと…組長が最近こり始めて…」
「はぁ?」
 本人が居ないので面白くないが、思いっきりバカにした態度をとったつもりだ。似合わないにも程がある。
「あの…先生が来られたらこれを遣うようにと…」
「…」
(俺にピンクの薔薇?カップは綺麗だけど…嫌みか?)
 最後の一口を飲み終わり、そっとカップを置く。
(まあ、それなりに気を遣ってくれたのなら良いか…)
「ねえ、十分ほどって言ったよね?」
 もう十五分経っていた。ヤクザの都合に合わせる気などさらさらない。
「あ、はい。連絡してみます」
「いいよ。もう帰る。プランをまとめて報告するから。よろしく言っといて」
 克彦は下っ端が必死で止めるのも振り切って、事務所を後にした。
 

 克彦からの誘いは断るな、酔いつぶしたら連絡しろ、邪魔してもしつこく言い寄ってくる男は調べ上げて報告しろ。
 そこまで言うなら喰ってしまえばいいのに、と沼田は思う。ヤクザとは言え、そこらのタチの悪い堅気より本田の方がよほどこの美しくて危うい男を幸せに出来る。
 嫌悪されて当然の職種だが、嫌いと言いつつ自分や吉野には好意を寄せてくれていて、ヤクザ全般を嫌う理由が良く見えてこない。
(まあ、俺や吉野千草はヤクザには見えないけどな。裏の顔を知ったらやっぱ盛大に嫌われるか?)
「克彦はなんでヤクザ嫌いなんだ?」
 普通に暮らしていたら、関わる機会などそうそう無い。もしかしたらヤクザがらみで嫌な目にあった事があるのかもしれない。
「んー?」
 磁器のように白く滑らかな頬が酒のせいでほんのりピンク色に染まっている。薄い桜色の唇は、飲んでいるワインで微かに赤く染まり艶々と煌めいている。
「むかし、ちょっとねー」
 むかし、を思い出して伏せた瞳は優しく笑っていて、どこにも曇りはない。軽く微笑んだ口元も無理に作ったものではない。
「でもさー、千草さんや和希さんはなんかー雰囲気違うんだよねー…怖くないのー。くみちょと俺が知ってるちんぴらは、ヤクザっつうかー…どっちもぞっとすんの」
(組長とちんぴらが同列かよ…)
 へらへら笑いながら、克彦はカウンターにゆっくり倒れ込んでいく。沼田和希は微笑みながら眠りに就いた克彦の繊細な指先からワイングラスを抜き取り、吉野の携帯を呼び出した。

「今回はちょっとだけ眠れる薬を使いましたよ」
 後部座席で克彦の髪を撫でている本田をルームミラー越しに眺めながら、沼田は報告を始めた。
「昔、ヤクザの下っ端となんかあったみたいです。酔っぱらっていたからかも知れませんが、深刻そうな顔はしてなかったです。が…調べた方が良い」
 正気で何人でも人を殺せる血も涙も通わない鬼、と恐れられる本田が克彦にだけ見せる優しさを、こうやってのぞき見ることが出来るだけで、沼田は自分も救われるような気がする。おそらく吉野も同じ気持ちだろうな、と横顔をちらりと見る。実は夜叉と呼ばれて本田の部下の中ではもっとも恐れられている吉野の表情にも、最近では柔らかさが加わったと噂されているのだ。
 もしまだ、克彦の言う『ちんぴら』がうろちょろしていたら…

 

 寝起きは最高だったが、いつどうやって家に帰ってパジャマに着替えたのか、記憶がない。
(また沼田さんに迷惑かけちゃった?)
 作った覚えのないみそ汁を啜りながら、お詫びのメールをいれると、速攻で返事が来た。
『今夜か明日の夜、空いてたら付き合ってもらえないか?酒じゃなくて、メシ。しかも仕事半分』
 今夜はさすがに疲れそうなので、明日なら、と返事。
 今日中にコーディネイトのプランを仕上げられそうだったから、その事も話せて一石二鳥かも知れない。
「でもこのみそ汁、美味しい。沼田さんもヤクザやめてお婿に行けばいいのに…」
 実は克彦も料理が得意だったりする。元彼の義童と一緒に住むはずだった部屋には、克彦が使いやすいようにデザインしたキッチンがあったのだが、とうとう一度も使うことはなかった。新居に入る前に別れてしまったから…義童は克彦が初めて好きになった男。もちろんその前にも数だけはこなしていたが、義童ほど克彦のことを想ってくれた相手はいなかった。何度も別れたけど、気が付いたらまたよりが戻っていて…お互いに特別な存在だと思っていた。傲慢で我が儘な自分の心のそこにあった孤独を分かってくれた、ただ独りの人間だった。
(ま、じぶんから浮気したんだし…義童は今、幸せそうだもんな。雷もいいやつだし)
 つきん、と心が痛むこともある。けれど、それで壊れてしまうほど弱くないし、壊れないで生きていけると言うことは、そのくらいの恋だったんだ、きっと。
 顔を上げて、背筋を伸ばして、言いたいこと言って、でなきゃ女王様の面目丸つぶれ。綺麗な顔と才能はじゃんじゃん使わなきゃね。
 克彦は玄関の前に置いた大きな鏡で出掛ける前の最終チェックをして、勢いよく出掛けていった。

 

 大きな見本帳を四つも抱えた克彦を見て沼田と吉野は車から飛び出し、その華奢な腕から荷物を奪う。
「言ってくださったら中まで迎えに行ったのに!」
 いつもはもっと多くの見本帳をカートに乗せて歩き回っているが、今日は車で迎えに来てくれるというのでカートは置いてきた。
「慣れてるからだいじょうぶ。車に乗ったら関係ないし」
 その車も、下品仕様のメルセデスではなく、ベントレーだ。華奢な克彦には広すぎるスペースも、大柄な吉野と沼田と本田にはしっくりと嵌っている。そう、克彦が滑り込んだ後部座席には本田もいた。
(げー…千草さんと和希さんだけかと思ったのに…)
 あからさまな嫌悪の表情を向けられ、本田は苦笑いをしている。ゆったりと肘掛けにもたれ掛かかり、頬杖をついた本田の視線の先に自分がいる。克彦はその視線を強烈に感じながらも、まっすぐ前を向き氷のような態度を崩さなかった。
(こいつ…なんて目でみるんだ!)
 色目ならいつものことなので直ぐにわかる。が、本田の目にはどこか暖かみがあり、克彦は見下されたような気になるのだ。
 後部座席から漂う冷気で凍り付く前に、車はあるマンションの駐車場に到着した。
 

 吉野と沼田は見本帳を両手に抱え、それでも克彦や本田のためにドアのたぐいは全て支えてくれる。カードキーに暗証番号の入力、エントランスからエレベーターから、ドアというドアにはセキュリティーがもうけられている。
 最上階のその部屋に入ると、玄関から誘導するように次々と明かりが灯る。男達に案内されて入ったリビングは克彦の部屋二件分は悠にありそうなほど広く、大きなガラス張りの窓から見渡せる夜景が素晴らしかった。
「ここ、どこ?」
 答えは分かっているけれど、聞かずにはいられない。
「俺の家」
 夜景に見とれていた直ぐ後ろから響く重低音に、克彦はびくっと反応してしまった。そんなに近くに立っていたわけではないが、ここが本田の自宅だと言うことで、本田から発せられる威圧感は普段の何倍にもふくれあがり、克彦の身体を硬くする。そこから逃れようと足を踏み出すと、本田もふっと踵を返し、ジャケットを脱ぎながら奥の方へ歩き去った。引きつけて、突き放す。克彦も時々使う手管だが、本田がどんな感情を自分に持っているのかイマイチよく分からないので、それが本田の手管なのかたまたまそうしたのか判断がつかなかった。
「克彦君、こっちこっち」
 沼田が呼ぶ方へ行くと、そこはダイニング・キッチンだった。六人がけのテーブルを置いてもまだゆとりがある。キッチンの設備は一般家庭用とは言えない、プロ仕様。
「沼田さん、料理するの?」
「まさか!俺も千草もからっきしダメ」
 じゃあ誰が…まさかの人物がエプロンを腰に巻きながら登場。
「え…」
 驚きを隠せない克彦に向かって、本田はお揃いのエプロンを投げて寄越した。
「沼田と吉野は近づくな。克彦、お前料理できるな?」
「いや、ま、いちおう…」
 慌ててエプロンを広げながら本田を見上げると、見たこともない笑顔で、克彦を見下ろしていた。

 

 

2
きっかけ2

雪柾と克彦