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兆す、銀

ユリアスとシリル

光りある者・番外

 滑らかな手触りの革に金で箔押しされたデビアン家の紋章が重厚さを誇示する日記帳を閉じると、アンリが横からそれを遠慮無く手にとって書きしたたまれた日記を読む。まだこの日記帳を使い始めて3日と経っていないが、恐らくそのアンリの行為は常習化するだろう。


「…ねえシリル、最初のページに写真を貼ろうよ。俺とシリルのツーショット」


 今日の日記を読み終わり日記帳を閉じたアンリは、シリルにそれを手渡しながら楽しそうに言った。それがさも当然のように。


「アンリの写真を貼るのは良いけど…俺のはね…この年で日記帳に自分の写真貼るなんて照れくさいよ」
「なんでさ?二人で海賊のコスプレして撮ろうよ。だったら面白いし良いだろ?それとおぼっちゃまコスプレに普段着のラフなヤツとかも…いっそのこと毎日写真撮って写真日記にするとか?」
「それこそ面倒くさい…あんまり凝ったことすると長続きしなくなる」


 子どもの頃日記を書くのは楽しかった。ヘブライ語で書いた後、ユリアス様の膝の上に乗って訳しながら読んで聞かせると、何か一言書き込んでくれた。どんなに忙しくてもシリルが眠たくなる前に帰ってきて、日記を書いてお休みなさいのキスをした後、また仕事に戻ることもあったらしい。


「…でも、写真は撮っておこうか?海賊のやつ。記念になるし」
「うん。明日さ、ラザールに内緒で撮りに行こうよ。話したら、またそんな汚い格好でって小言言われるのがオチだから」
「ははは、そうだけど、こっそり出掛ける方がやばいよ。明日も病院だからおぼっちゃま服着て、海賊の衣装をコッソリ持っていって着替えればいい」
 

 毎年シリルの誕生日に記念写真を撮った。ユリアス様が選んだ綺麗な衣装を着て、二人で並んで…毎年それは大騒ぎで、撮影の後のパーティーが始まる前にはすっかり疲れていた。それでも楽しくて楽しくて…沢山のプレゼントに囲まれて、ユリアス様にプレゼントの包装を解く手伝いをして貰って…でも最後の二つ、ユリアス様からのプレゼントは自分で開けた。その時一番欲しかった物と、ユリアス様がプレゼントしたいと思ったもの、その二つを開けるときが一番嬉しかった。


「OK、じゃあそうしよう。忘れ物がないように準備しとかなきゃだね」
「ああ。こんな楽しいことは忘れないだろ、きっと。明日の朝準備しても良い。今日はもう遅いから寝よう、アンリ」


 日記帳を閉じたらベッドまで運んでもらい、おでこと左右の頬にお休みなさいのキスをしてもらって、シリルが眠るまで手を繋いだり添い寝をしてくれた。朝はラザールに起こしてもらった後、とりあえず顔を洗い、ラザールに言われたときだけユリアス様を起こしに行った。子供の頃は分からなかったけれど、だんな様を起こしに行ってください、と言われないときは愛人が来ていたのだと思う。シリルがそれらしい人を見掛けたことはなかったけれど…健康で、しかも見た目の良い大人の男が毎日毎晩、宝物のように大切に愛してくれたとは言え、子供の相手ばかりで我慢できるはずがない。それはそれで仕方のないことだ。
 遠慮などする気もないアンリはシリルと一緒に眠る。不虞の身体では困ることもないし、側にいるだけで身のすくむような強烈な存在感を放っているユリアス様に比べると格段に弱いが、アンリの気は懐かしさで温かい心地よさだけを与えてくれる。


「お休み、シリル」
「お休み、アンリ」


 夢でうなされることも無くなった。夢すら見なくなっていたのに…アンリは穏やかで楽しい夢を与えてくれたのだ。


 怪我の治療のため最低でも一週間は滞在してくれとラザールに泣きつかれたが、一週間経ってみれば、アンリの学校は夏期休暇に入ってしまった。そしてまたラザールに泣きつかれ…


「ラザール…アンリのためにはここで過ごした方が良いのかもしれないけど…俺は仕事もあるし…これでも人気者なんだよ?俺が帰らなかったらみんな心配するし、美味しいコーヒーも飲めないよ…」
「シリル様、だんな様とあの小賢しい愛人は隔離しておきますから、どうぞお屋敷で気兼ねなくお過ごし下さい。カフェには人をやって張り紙をさせましょう。お願いです、もうしばらく、この年寄りの我が儘を聞いてやってください」


 年はとっていても、誰より元気そうなのに…懐かしさと負い目で、シリルはもう少しだけ滞在を延ばすことにした。
「ラザール…じゃあ少しだけ。その代わり、行儀悪くても怒らないでね?服も好きなの着るよ?堅苦しいの苦手になっちゃったんだ」
「ええ、ええ、シリル様は少々お行儀が悪くてもお育ちの良さが滲み出ていますから。早速お部屋の手配を」
 どうやらラザールははなからシリルの言うことなど聞く耳は持たないらしい。アンリと目を合わせ、やれやれ、と苦笑いするシリルだった。

 通された部屋はお屋敷の中でも二番目に良い部屋で、ユリアス様の居室からも適度に離れた所にある客室だった。昔使っていた部屋は何もかもが可愛らしく小振りに作ってあり、さすがに大人になったシリルが使うには何かと不便なのだ。客室のバルコニーからは手入れの行き届いた美しい裏庭が見渡せ、遠くの方にはシリルがよく遊んでいた四人がけのブランコや木製ジャングルジムが見える。ユリアスが仕事でいない昼間は良くそこで召使いの女の子と遊んでいた。


「最近は誰もお使いにならないので、安全点検をしてからでないと…」


 残念そうにラザールは言うが、まさかこの年で遊ぶわけがないではないか。


「ははは、ラザール、さすがに俺はもう使わないよ。でもアンリに将来子供ができたら使うかもしれないね」


 アンリはちらりとシリルを見ただけで興味は無さそうで、部屋のあちこちの引き出しを開けたり閉めたりしている。


「それはそうと…ラザール、ヴァンサンはどうしてるの?」
 この一週間ほど一言も彼の話しを聞いていない。


「…今朝早く拘置所からお帰りになって、お部屋に閉じこもっていらっしゃいます。あんなどこの馬の骨ともしれない愛人をこのお屋敷に住まわせるなど…」
 

 ヴァンサンの部屋はユリアスの書斎の直ぐ隣で、書斎からも通じている。シリルが子どもの頃使っていた部屋は主の部屋からは遠く離れていたので、自分よりよっぽど望まれているのではないか?しかも、その部屋はいつも鍵が掛かっていて子どもの頃のシリルも入ったことがない部屋だ。ユリアスの書斎に入って左側にある扉が寝室へ続く扉で、右側の扉の向こうに何があるのか興味津々だった。ユリアスに聞くと、使ってない書庫だから暗くてほこりっぽくてお化けが出るかもしれない、と脅されたこともある。本当は愛人の部屋だったなんて…


「何か用?」
 眠っていたのか、素肌にシルクのガウンを纏っただけの格好でヴァンサンは扉を開けた。


「話しがあって…」
「ここを出て行けって話しなら聞かない。ユリアスにも許して貰ったからね」


 きつい口調と鋭い眼差しは、美しい姿にとても不釣り合いだった。


「そうじゃなくて…アンリが酷いことを言ってごめん。あの子には、帰るまでに謝るよう言い聞かせるから、そうしたら君もそれなりの態度を示してくれるかな?」


 甘い、と言われようとシリルにはこの美しい青年が酷く傷つき一人で泣いている姿が目に浮かんだのだ。


「…ふん…あんな事したのに許してくれるっての?お情けならいらない」
「じゃあ…プロが淹れたコーヒー欲しくない?」


 金色の髪にブルーの瞳、黙って座っていれば人形のように見えるヴァンサンも口を開けば全てが台無しで、下町の悪ガキがそのまま大きくなったようなふうだ。


「あんた、人の話聞いてる?」
 先ほどからコーヒーはブラックで、と言っているのにミルクと砂糖をたっぷり入れ、その上ホイップした生クリームまで浮かべられたのだ。


「無理して苦いものを飲まなくても良いよ。子供は甘くてクリームたっぷりの飲み物が好きだろ?」
「は?誰が子供だって?」
「俺の目の前で悪ぶってるヴァンサンが」


 シリルが見た一人で泣いている子供は恐らくヴァンサンがもっと小さかった頃だ。この屋敷に来て五年経つとラザールが教えてくれたが、五年前のヴァンサンはシリルがこの屋敷を離れたときと同じくらい子供だったはず。そんな子供が愛人にならざるを得なかった理由は、どんな事であれ、辛く哀しいものだったに違いない。


「まあ美味しいから飲んでみなって」
 シリルが婉然と微笑みながらカップを差し出すと、ヴァンサンは気持ちとは裏腹に、素直にそのカップを手に取り一口、口に含んだ。


 甘いクリームが口の中でふんわり溶ける。
 けれども、美味しいと素直に言えるほどシリルに気を許したわけではない。それどころか、もっと嫌いになりそうだった。嫌いにならなくては、自分の存在価値が危うくなる。


「あんた、シリルって言うんだよね?」
「そうだよ。シリル・ブラン。よろしくね、ヴァンサン」
 写真で見て想像していたシリルとはまるっきり違っていた。
「あんた、想像してたのと全然ちがうんだけど」
「俺を知ってるの?」
「…まあね。ラザールのじじいが僕とシリルをよく比べてたから。同じ金髪碧眼でも天と地の差だって。でもあんた、白髪にグレーの瞳じゃんか」
 

 言い放った後、少しはまずいと思ったのか、ヴァンサンはふっと目を反らして黙り込んでしまった。その表情に含むところはなく、勝ち気なせいで素直に自分の非を謝ることができないのだろう。シリルも自分の髪や目の色など最早どうでも良いことだった。


「昔はね、ヴァンサンほど綺麗じゃなかったけど金髪碧眼だったんだよ」
「なんでそんなになったの?」
「どうしてだろうね。色々あったから…」
「…ふぅん」


 自分だって色々あった。伏せられたヴァンサンの目はそう言っているようでもあり、他人のことなどどうでも良いとも、自分の過去を思い返しているようでもあった。


「あんたずっとここにいるの?」
「4、5日だけ。なるべく早く帰りたい。俺の居場所はここにはないから」
「なんで?あんたユリアスの…愛人だったんだろ?」
「え?違うよ。俺は子どもの頃とても世話になっていただけ。ここから追い出されたんだけど、共通の知り合いからいきなりアンリの世話を頼まれたんだよ。結婚したことも、子供ができたって事も知らなかった。育てて貰った恩返しくらいしなきゃね」


 誰よりも大切にしてくれたけれど、シリルはあまりにも子供過ぎて、ユリアスも子供に手を出すほど酔狂じゃなかった。
 恋はしていたかもしれないけれど、想いを伝えあったわけじゃない。


「それに、ユリアス様の好みは金髪碧眼の美少年だろ?俺は白髪にグレーの瞳になった時点でアウト」


 シリルは笑いながら白髪とは言い難い銀色に艶めく髪を一房指で摘み、毛先で瞳を指し示した。
 今でも一番大切で自分の心のほとんどを占める人であるし、自分が存在することでユリアスとデビアン侯爵家が栄えるのなら、生きていさえすれば良い。ここで暮らす必要やユリアスの側にいる必要が無いことはこの13年で証明済みだ。
 ユリアスがこの少年を気に入っているのなら、この子の不安を取り除くのも自分の役目だろう。
 それが自分の運命。
 その一言で全てが片づいてしまうほど数奇な運命で、アンリのことを考えるとまだまだおもしろそうな人生が横たわっていそうだ。
 


「あんなやつ、なんで許すんだよ!俺の命狙ったヤツだよ?跡継ぎより愛人の方が大事なのかよ」


 シリルとヴァンサンが話している中に加えてもらえなかったアンリは、シリルをなじるのではなく父親に文句を垂れていた。


「本気で狙ったわけではない。そもそもお前が酷いことを言うからだ。これに懲りてもう少し言葉の使い方に気をつけると良い。跡継ぎだからこそな」


 ユリアスはしかし、その跡継ぎのことよりシリルの事が何より気に掛かる。最後に見たのは透き通った大きな碧い瞳に涙を湛え、自分を必死に見つめるシリルだった。最後の仕置きは他の者に任せ、自分は何も聞こえない何も見えない扉の向こうに逃げだした。どうせ自分も終わるのなら激情に従えばいいさと思った。しかし、いつまでも終わりは来ない上にずるずると生きながらえてしまった。侯爵という地位に憧れていた成金三世の女と適当に結婚し子供が産まれたが、その直ぐ後に妻が自分とシリルを陥れた張本人であると分かり…自堕落さに拍車をかけた。


「俺がどんな人間に育とうと気にもしなかった癖に、今更…!」
「私は気にしない。お前が浅はかな痴れ者になろうとデビアン家がお前の代で食いつぶされようと。だが…お前がシリルと共に暮らしたいのなら…シリルに恥をかかせるような事はするな」


 本音を言えば自分の息子がシリルと暮らしたいと思うこともどうでも良いことだった。二人を会わせてみて、シリルが承知しなければアンリはあのままサルマン翁の元に放っておくつもりだったのだ。
 シリルは…13年振りに会ったシリルは見た目こそ変わっていたが、その柔らかく包み込むような光りは失われていなかった。守ってやれず、弱くなってはいた。炎と戯れる事も忘れているようだった。自分自身を守るように、そして自分を取り巻く人々を守るように柔らかな光りを降り注いでいたが、すっかりどす黒くなってしまった炎には近づけない様子だった。


 仲間はずれにしたことをアンリは相当ゴネていたが、ベッドでゴロゴロしながら文句を言ううちに眠ってしまった。


「ははは…やっぱりまだ子供だね。寝顔はこんなにあどけない…」
 白い額に降りかかるブルネットの髪もまだ子供のそれで、柔らかくしなやかだ。掻き上げてやってもぴくりともしない。
「よく眠ってる…」


 悩むことなどないけれど、時々眠れなくなるときがある。二度と来ることはないと思っていたこの屋敷に滞在することになり、二度と会うことなど無いと思った人と再会し、再び懐かしい炎を見ることができた。


「眠れなくて当たり前か…」
  シリルはそっと部屋を出ると裏庭へ向かった。子どもの頃は夜の庭が恐くて外に出ることなど無かったが、大人になった今は夜の静けさ、少し尖った空気、月の光の美しさなど、昼間の世界とは異なる様子を楽しむこともできる。
 シリルが良く遊んだ場所は大人の足で歩いて1分も掛からないところにある。生け垣に囲まれ、中に入るには小さな白い門があるアーチをくぐらなければならない。


「…こんなに小さかったかな…」
 すっかり白いペンキが剥げていたけれど門は健在で、思っていたよりも小さく、背をかがめないと潜れない。が、潜れない前に、門には小さな南京錠が掛かっている。


「うーんと…」
 ごく初歩的な南京錠なので開けるのは簡単だが、道具もないし道具になりそうなものを取りに帰るのも面倒だ。そんな時は…
 
 ガシャンッ!!

「蹴って壊す!」
 門が錆びていたことも加勢して、南京錠を差し込んでいた取手の部分ごと地面に落ちた。今の音で誰か出てこないか暫く屋敷の方を見ていたが、明かりもつかないし窓も開かない。誰か来てもこの際構わないか…と気楽に考え、シリルは門の中に入っていった。

 木製のジャングルジムは思っていたより小さく、一番外側に足をかけて上るくらいしかできない。足でも滑らせて内部に落ち込んだら、はまり込んで出られなくなりそうだ。


「いや…随分がたが来てるから破壊できるか…」
 等と考えながら、必死で脱出する自分の姿を想像して笑ってしまった。

「ははは…これでもすっごく可愛い性格の美少年だったんだけどなー」


 大好きだったブランコは、乗るときに頭を引っ込め、座ってしまえばどうと言うことは無さそうだ。多少ギシギシ言うが…
 ゆっくり漕いでも小さな四人がけのブランコはせわしなく動く。夜空を見上げる優雅な一時…など過ごせないので、仕方なしにブランコを止め、向かい合わせの席に足を乗せ、だらしない格好で空を見上げた。


「うん。これで良い」
 夜の清浄な空気と土や木の香りを胸一杯に吸い込む。満天の星空をじっと見ていると吸い込まれそうで、独特の浮遊感を楽しむ事ができる。一生一人で生きて行かなければならない自分の、夜の楽しみ方の一つだ。


「今度はワインでも持ってこようかな」
 これに酔いが加わるともっと気持ちいい。
 そんなことを考えながらぼーっとしていると、土を踏みしめる音で我に返った。急に不安になり、音がする方向を凝視する。


「…シリルか?」
 ユリアスだった。


 別にそうする必要は無かったが、座席の上に置いていた足を降ろし姿勢を正す。長い髪をお尻の下に敷いていたのか座り直すときに多少藻掻き、みっともないことこの上ない姿を見せてしまった。ホテルで再会したときと言い今と言い、変わってしまった自分を見られる事がこんなに恥ずかしいとは…


「そのブランコは危険だ。誰も使わないように鍵をかけさせたはずだが…」
「ごめん…鍵は…その辺に転がっ…」
 咄嗟の言葉遣いもすっかり変わってしまった。


「お前が壊したのか?」
「…はい」
「では先ほどの音は…」
「お…私です」
 一瞬、ユリアスの炎が揺れた。驚いたのだか笑われたのだか…


「眠れないのか?」
「…はい」
「夜はまだ冷える。これを羽織っておけ。また熱を出すぞ…」


 ユリアスは薄手のガウンをブランコの座席に置いた。ユリアス自身もガウンを着ているので、シリルが庭で夜更かしをしていることを知っていたようだった。


「ご心配なく。これでも昔より身体は丈夫になったので」
 子どもの頃はよく熱を出していた。昼間にはしゃぎすぎた時に多かったような気がするので、今の自分の行儀の悪さは元々の性格なのかもしれない。
 ユリアスはそれ以上何も言わず、シリルを残して屋敷へと戻っていった。
 ガウンなど必要なかった。ユリアスの炎が身体をさっと包んでくれたような気がして…

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