ユリアスとシリル
光りある者・番外
2
急ぐと言うから急いでシャワーを浴びたら、烏の行水ですか、と言われるし、用意してあった海賊服には眼帯がなかった。
「だって、あれがないと…海賊らしくないし」
文句を言っているが本当は少し違う。いつも眼帯をはめている左目は、ほとんど見えていないのだ。明度を感じることはできるけれど、物の形はぼやけて良く分からない。
ラザールの後を付いて食堂へ行くと、ヴァンサンとユリアスが寛いでいるのが見えた。明るい陽の中で並んで座る二人は絵画のように美しい。ヴァンサンの豪華な金髪はキラキラと輝き、ユリアスの存在感に負けていない。
「よく眠れたか?」
ユリアスはとっくの昔に仕事へ行ったのかと思っていた。
「ええ、まぁ…」
「今日のことはヴァンサンに任せてある。一緒について回ると良い」
「…はい」
借りてきた猫のように大人しいシリルを可笑しそうに眺めた後、ヴァンサンがコーヒーをカップに注いでくれた。
「美容室の予約は時間を遅らせたから、朝ご飯食べて」
「ああ、俺はカフェ・オ・レだけで良いよ。お腹空いたら適当にパンでもかじるから」
相手によって使い分けているわけではないのだが、ユリアスに対してはまだ言葉がスムーズに出てこない。再会したときよりは幾分明るくなった炎をちらっと見てご機嫌を伺うような状態だ。
「シリル様、わたし、わたしは、です」
背後でそのパンを持ったラザールが、小声で訂正した。
「ラザール、お…私の眼帯知らない?」
「ああ、これですか?あまりお似合いにならないと…」
ラザールが思い出したように上着のポケットから黒い眼帯を取り出した。
「それそれ。雰囲気出ないから…」
中途半端に見えると、遠近感などのスイッチを切り替えるのが大変で躓いたりする。いっそのこと見えなくした方がマシなのだ。
「シリル…」
ユリアスがおもむろに立ち上がり、シリルがしっかりはめた眼帯に手を伸ばした。思わず、その手を避ける。
「…見えてないのか?」
ユリアスの言葉にラザールは息を飲み、ヴァンサンは何のことか分からず小首を傾げた。
「少しは見えます…でもいずれ…見えなくなると…」
「察するに…シリルはユリアスに酷い仕打ちを受けて、その後遺症で目が見えなくなるの?」
美容室へ向かう車の中で、ヴァンサンが聞いてきた。
あの後、黙り込んでしまったユリアスと、どうすればいいのか分からずうろたえはじめたラザールに冷静に指示を与えたのはヴァンサンだった。
「そう言うこと」
詳しくは言わなかったが、ムチで打たれたときに切っ先が目を掠ったか、顔を殴られたときの衝撃か…網膜が中途半端に剥がれ、角膜に栄養が行き渡らなくなったらしい。酷い怪我のお陰で安静に暮らした時期が長かったので剥がれなかったが、今から先、視力が改善することはない。ほんの少しの衝撃で失明する危険性の方が大きい。
「ふぅん…」
ヴァンサンはパンを持ったまま固まっていたラザールから焼きたてのクロワッサンを取り上げ、昼食を取るはずのレストランに予約の確認の電話を入れるように言いつけ、ユリアスには侯爵家のツテでできるだけ高名な眼科医を捜すように宿題を出してきた。皆それぞれ引け目を感じるところがあるならできるだけのことをすれば良いじゃないか?驚いて沈黙するだけなら子供にだってできる。
「片目くらい、見えなくなってもどうって事ないんだけどね。慣れたら遠近感も分かるし」
本人が気にしてないのだから、周りが慌てるのもみっともない。
「ユリアスに綺麗な眼帯買ってもらいなよ。宝石とかついたヤツ」
屈託なく笑うヴァンサンが可愛くて、シリルは豪奢な金髪をそっと掻き上げた。
「な、なに?」
「可愛いな、と思って」
「な、なんだよ急に…」
赤くなって視線を反らす様子も、童顔であることが手伝って可愛さ倍増だ。たまらずにぎゅっと抱き締めると、ふんわり柔らかくなんとも言えない抱き心地で、その上甘い香りがした。
「あれ…ヴァンサン、凄く柔らかい…何このクセになっちゃうような抱き心地は!」
「なんかそうらしいね。自分じゃ分からないけど…」
華奢だとは言え男の身体つきで…しっかり抱き締めるとしなやかな芯があり、その上柔らかい。柔らかいのは醸し出す雰囲気かもしれないな、と思いながらぎゅうぎゅう抱き締めたのだった。
アンリは、身体に染みこむような温かさを持っている。いっそのこと二人一緒に抱き締めてみようかと思ったけれど、犬猿の仲のアンリとヴァンサンはお互いの5メートル以内に入らないので無理だった。
すっかり仲良くなったシリルとヴァンサンに焼き餅を焼いたアンリは夕食の後さっさと部屋へ引きこもり、大人だけになったとたん、シリルが避けたい事態に持って行かれる。
「眼科の予約は明後日だ。私も同伴する」
と言うユリアスを止めたいが、止める術などシリルは持っていない。
ラザールはさも当然だという風に頷き、ヴァンサンは上手く気配を消している。
「私は…もう分かり切ったことなので…何度も検査したし、今も毎月通院している。改めて検査する必要は無いと思います」
「シリル…それも、私のせいか?」
炎が揺れる。
シリルはできるだけ平常心を保ち、気持ちが揺れないように腹に力を込めた。
「誰のせいでもありません」
あの時、ユリアスも自分もお互いを信じ切れなかった。奸計に嵌ってのこのこ出て行ったのは自分。ユリアスはどんな小さな事も子供のつまらない言葉も、何もかも全て耳を傾けて聞いてくれたのに、何も言わずにこっそり屋敷を出た。そのしっぺ返しであんな事になったのだ。ユリアスはどれだけ心配し、心を痛めただろう。
あの頃は何も知識がなかったけれど、天使の生まれ変わりと言われた自分の身体は地に堕ち、穢れてしまった。意識が無くなるまでの間体中を這い回った男達の手と、後ろを貫かれた痛みと恐怖は覚えている。その後、薬で自分がどうなってしまったかは犯人達とユリアスしか知らない。
そして、自分も騙されたと知ったユリアスはどんなに打ちのめされただろう。今更、その上、罪の意識を持たせるのはシリル自身が許せない。
「もう片方は何ともないし、海賊ごっこで慣れてしまいましたから」
微笑むシリルの頬に、ユリアスの手がそっと触れようとして引っ込められた。それがユリアスの答えなのだとどこか遠くで感じ、そうならば自分はそれに異存はない。アンリを通してユリアスに関われるのなら、その方が気が楽だった。
「アンリがへそを曲げてしまったのでもう部屋に戻ります」
それって、俺のせい?
部屋に帰るとアンリにそう言われてしまい、図星を指された気がして落ち込んでしまった。アンリがへそを曲げていたのは確かだが、それを口実にあの場を離れた。本当はただいたたまれなくなったから…そんな感情を持った自分に暗澹としたから…
「ごめん、アンリ」
ベッドの隅で丸くなっているアンリにそう言いながら隣に滑り込み、どこか懐かしい温もりを抱き締めた。懐かしいと思うこともやめなければ…アンリはユリアス様では無いのだから。
「アンリ、明日ジュネーブに帰ろう…」
「…シリル…」
アンリはもぞもぞと身体を反転させてシリルに向き直り、グレーの瞳をのぞき込む。
「昔はさ、ずっとこの屋敷にいたからここが全てだった。でも今は、他の世界を知ってしまったから、ここが窮屈に思えてきた。俺は…アンリとのんびり暮らしたい。適当に起きてお店を開けて、常連さん達とだべって、観光客の案内して、好きなときに好きな事をして暮らしたい」
「うん。そうしよう。俺も帰りたい」
増えてしまった荷物を段ボールに詰め、こっそりと屋敷を出た。荷物は後で気付いたラザールが送ってくれるだろ。
ジュネーブ行きのバスに乗る直前、シリルは屋敷に電話を入れた。
「ラザール…黙って出てきてごめん…でも、どうしても帰りたくなって…」
『何かご不満が…いいえ、ご不満だらけでしたでしょう…』
「そんなことないよ。こっちの事が気になっちゃって…今度はちゃんと準備してから行くよ」
『では、また私に会いに来て頂けますか?もちろん、私も休暇をもぎ取ってスイスにバカンスへ行きます』
「はははは、いつでも来て。ねえ、ヴァンサンもう起きてる?」
『はい。こちらにいらっしゃいます』
『シリル!?どうしたの?どこにいるの!?』
「ヴァンサン、今からジュネーブに帰るところ。ねえヴァンサン、本当は会って話したかったんだけど…そっちのこと、頼むよ」
『…どうして?シリルがいないと…僕は…こっちのことって、この馬鹿ユリアスのこと?もう僕じゃ手に負えないよこの朴念仁…』
「ヴァンサンがいてくれて助かったよ。ずっとそこに居てあげて…俺はアンリが立派に育つまでこっちでがんばるから…」
『ちょっと待って、頭の回転が止まってるうすら馬鹿が今隣にいるから』
ユリアスに散々悪態をつける人間などヴァンサン以外に居ない。それだけでも二人の親密さが分かる。
自分が居る必要など無い。今までのように生きて、時々思い出すだけでユリアスの力が保てるのなら居続ける必要など無い。
シリルは電話の向こうで三人が何か言い合っている様子に微笑みながら電話を切り、発車時刻間近のバスに飛び乗った。