コンサートが終わり楽屋を出ると、顔見知りのファン達がずらりと通路に並んでいた。今回のツアーマネージャーに荷物を預け、ファンが差し出すCDに自分でも良く読めないサインをする。何度も足を運んでくれるファンの名前を引き出しの隅から掘り起こし、彼女たちへのメッセージも添える。それも一人一人違うもので、よくこんなにすらすら書けるなと自分の事ながら関心する。
「いやぁ、真柴さんはファンを大切にされると評判ですよ」
 そうすれば儲かるからだ。それ以上の理由はない。
「当たり前のことですよ…皆さんの応援あってこそですから」
 心にもないことを言って、笑顔を振りまく。
 チケット完売で興行的にも大成功を収め、マネージャーも笑顔を振りまいている。
 早く一人になって今日の演奏を振り返りたいのに…
「お食事の席をご用意していますので、ぜひ」
「ああ、それは素敵ですね」
 あと1,2時間で終わるだろう。そのあとは自宅に帰ってゆっくりワインでも飲みながら今日の録音を聴いて、眠ろう。
 明日からは…さぼっていた右手のリハビリをしなければな…


 マネージャーが案内してくれた店は、かなり古いビルの三階にあった。
 このマネージャーとは今回の国内ツアーで初めて知り合ったが、なかなか私の好みにピッタリの店を紹介してくれたし、余計な会話も馴れ馴れしい態度も取らず、かといって堅苦しくもなく、良い仕事をしてくれた。
 そんな彼が私の好みを最終日に外すとは思えないが、ビルの内外観はもし私が一人で通りかかっても気にも留めないような雰囲気で、しかし最後の最後にマネージャーの選択が失敗したとしても、彼の点数には影響しない。彼もまた完全な人間ではないと言うことだ。
「真柴さん、今日は最終日なのでスタッフも社長も少しテンション上がってると思います。お疲れになったら遠慮無く私に声を掛けてください」
「君がそんな事を言っても良いの?」
「良いんです。社長は、真柴さんは我が儘じゃないし、気さくで明るい優しい人だから色々教えてもらえ、って言ったんですけど…あんな繊細で上品な演奏をする人が、こだわりを持っていないはずないし、ファンの明明後日な感想にも丁寧に答えて、疲れてるんじゃないかなって、単純にそう思っただけなんです」
 まだ何か言いたそうだったが、エレベーターの扉が開いたところで仕事モードに切り替わったのか、背筋をしゃっきり伸ばして『出来そうな男』の話し方に戻った。
「私の知り合いがここで働いていて…小さなお店ですけど、ツアー中に行ったお店は全部ここのオーナーが教えてくれたんです」
「そう…じゃあ期待できるね。オーナーの舌は私の好みと全く同じだ。お世辞ではなく」
 照れくさそうに笑う顔が年相応で、可愛らしかった。


 店に入ると私の新しいCDが流れていたが、狭い店内は関係者で騒々しく誰も聴いてはいない。それなら当たり障りの無い音楽でも掛ければいいものを…20人はいるだろうか、これから全員と何か話さなければいけないのかと思うとうんざりする。
 やっと独り立ちできて、様々な呪縛から逃れられたと思ったが、考えてみればこれからずっと『関係者』とやらとは長く付き合っていかなければならないのだ。
 5年前の学生時代最後の年に、海外の国際コンクールで優勝した。それまでの私の人生はピアノ一色で、子供が産まれたらピアニストにする、と決めていた両親の敷いたレールを順調に走り、取りあえず終点に着いた。音楽は嫌いではなかったし、親に似たのか何でも一番でないと気が済まない性格は日々の練習にも発揮され、子どもの頃から将来を嘱望される腕前だった。
 親が望むように生活していれば何も言われなかったし、レッスンを口実にすれば好きなだけ独りで過ごせたので、親のつまらない見栄や自慢話に洗脳されることもなかった。
 コンクール優勝後にヨーロッパの有名レーベルから出したCDは飛ぶように売れ、コンサートのスケジュールで予定は二年先まで埋まった。そのお陰でさっさと実家から独り立ちできたのだが…
 練習を口実に煩わしい付き合いから遠ざかるためには、いい人を演じ続けなくてはならない。差し障りの無い断り方や、会話を早く終わらせる方法など、どうでも良いことばかりが上手くなり、どれが本当の自分だったのかすら分からなくなってしまった。
 他人の干渉を受けずに、私は何をやりたかったのだろう…独りになってどうしたいのだろう。


 一通り全員と話したので最後にオーナーと話そうと思い、真柴はマネージャーを呼んだ。
「田代君、オーナーが知り合いだと言ってたね?紹介してもらえるかな?」
 マネージャーは田代と言って真柴より3歳年下の、今年大手音楽事務所に入社した若者だった。若者と言っても、真柴自身もまだ25才なので大して変わらない。真柴と同じピアノ科卒業だが、自分で自分の才能に見切りを付けて音楽関係の会社に就職した。が、田代にはマネージャー業に適正があるようだと真柴は感じた。今まで係わったことがある人間達とは何処か違い、真柴の心理状態を良く理解してくれたので、作り笑顔で過ごす必要が無かったのだ。
 田代は優しげな顔を綻ばせて、嬉しそうに厨房へ去っていった。勝手に入っても嫌がられないということは、相当仲の良い知り合いなのだろう。
 暫くして厨房の影から顔を出したのは四十代くらいの大柄な男だった。
「どうも…」
 ぶっきらぼうな様子だが、真柴が軽く礼をすると、ぱっと表情を崩して照れたように笑いながら挨拶してきた。とはいっても、どうも、と言ったきりその先の台詞はなかったが…職人タイプなのだろう。
「ツアー先のお店を紹介して頂いたと、田代君から聞きました。ありがとうございました…」
「いえ…せめて食事くらいはきちんとしたものを食べて頂きたいと、壇(だん)が言うので…」
「こちらにも、今度は独りで来ます」
 ここは、余計な口を聞かずに美味しいものが食べられそうな予感がする。
 
 

 関係者達にもう一度お礼を言い、店を後にする。
 外まで送ると言う関係者達を何とか断り、田代と一緒にエレベーターに乗り込むと、来るときには目に入らなかったチラシに気が付いた。
 ジャズのライブ告知で、どうやら今日らしい。
「へえ…このビルにはライブハウスもあるんだね」
「ええ…あ、おーちゃんだ。あれ、今日じゃん…おーちゃん教えてくれないんだもん…」
 年相応の雰囲気丸出しで、心底残念そうにうなだれている。
「知り合いなの?」
「はい。おーちゃん…由井凰雅(ゆい おうが)って雅やかな名前のジャズピアニストで、俺の同級生なんです。あー…セカンドはじまる頃だ…」
「セカンドって?」
「セカンドステージ。クラシックで言ったら休憩後の後半ですね」
「随分遅くからはじまるんだね」
「ええ…ジャズのライブはだいたい8時くらいから始まって、休憩も長いんです。セカンドが10時からなんてざらです」
「へえ…良かったら一緒に行こうか」
 なんの気まぐれか…つい口を滑らせたが、それは本心から言ったものだった。
「えっ!そんな、とんでもないです、お疲れなのに…帰ってきてからでもジャムセッションに間に合うし…」
「ジャムセッション?」
「えと…、お客さんの中でジャズをやってる人達が、メンバーや客同士で演奏するんです。遊びでですけどね。超有名なミュージシャンとも一緒にできたりするんですよ」
「そう…田代君は、私の気持ちを良く汲んでくれたけれど…今も付き合いで言ったと思う?一緒に行こうって…」
 すっかり素に戻っている田代には少し意地悪な質問だったかも知れないが、からかうのも楽しい。
「…真柴さん…って、本当はすごい意地悪なんですね…」
 

 初めて聴くジャズのライブは新鮮だった。
 なぜあんなに楽しそうな表情で演奏できるのだろう。音やフレーズでお互いに会話しながら、楽しそうに笑っている。
 田代の知り合いというそのピアニストは、田代より少し小柄な印象だが、着ている服の違いかも知れない。
 ジャズを聴いたことがないわけではない。クラシックのピアニストが一度は名前を聞くビル・エバンズやキース・ジャレットは聴いたことがある。  1,2曲ベストアルバムか何かを聴いただけで、好きでも嫌いでもなかったと思う。と言うのも、中学生になったばかりの頃で、コンクール本線の前の息抜きで聴いていたためか良く覚えていないのだ。
 今目の前の由井凰雅が弾いている曲は何という曲なのだろう。とても静かな曲で、イントロを弾いているときの彼は幸せそうに微笑んでいた。微妙に調律の狂ったピアノだが、彼の生み出す音はピアノや音楽に対する愛情に溢れ、美しく、背筋がぞっとするような音だった。
 生まれて初めて、ほんの数小節の単純なメロディーに魂を奪われ、涙が出そうになる。好きなピアニストや曲はもちろん存在するが、未だかつて私を泣かせたものはいない。ピアノに接した時間は長いが、これほどまでに音楽を、音を、ピアノを、そしてピアニストを愛しいと思ったことがあるだろうか?
 自分の本心はさておき、常に一番を目指すために、誰にも何も言わせないように取り組んできたような、そんな醜さを孕んだ演奏をしていたような気がする。自分を見失わないように常に冷静に、演奏をすると言うことは知性に溢れていなければならないと思っていた。感情的になりすぎることを良しとせず、その一歩手前で、理性でもって人間くさい感情をコントロールしていた。
 目の前の彼は、何もかもかなぐり捨て、自分の心さえ剥き出しにして全てを観客にさらけ出していた。その心は限りなく透明で、柔らかく優しい光を放っていた。その心に手を伸ばして触れてみたい。戯れてみたい。


「真柴さん…?…真柴さん?大丈夫ですか?」
 アンコールが終わり、終了のアナウンスが流れても呆然としていた真柴の様子を気にして、田代が軽く腕に触れた。その途端現実に引き戻された真柴は、田代になんでもないと首を横に振るのがやっとだった。そのくらい強烈に、由井のピアノは真柴を引き込んだのだ。
「ああ…大丈夫だよ…」
 何万回と言われ、これからも言われ、自分も口にするであろう言葉が出てこなかった。

(良かったよ。素晴らしい演奏だった)

 言葉の真の力が蘇り、真柴は自分の世界が崩壊していくのを感じた。だが、それの、なんと甘美なことか。
「お疲れになっているのに…付き合って頂いてありがとうございました。俺、あ、私、タクシー捕まえてきます」
 急いで立ち上がろうとする田代の腕を掴んで引き止める。
「そうじゃないんだ…上手く言えないが、まだここにいても良いだろうか…」
 もっと近くでずっと聴いていたい。彼と話してみたい。


 ミュージシャン仲間だろうか、5,6名が残った店内で、由井はやっと田代と真柴が座るテーブルにやってきた。
「壇、来てくれたんだ!!仕事で忙しいって言ってたから今日のライブは知らせなかったのに…うれしい、ありがとう!」
「もー、おーちゃん遠慮しなくて良いのに…俺の知り合いにも声掛けるから、ライブの時は知らせろって言っただろ!?もー…たまたま今日は仕事の最終日で喜一兄さんのお店で打ち上げだったんだ。チラシ見てびっくり。もー、水臭いよおーちゃん…」
「ごめんね、疲れてるのに…」
「大丈夫。おーちゃんのピアノで疲れも吹っ飛んじゃった。てか、えと…あのー…おーちゃん、こちらは真柴響(ましば きょう)さん。クラシック界の若き帝王、って呼ばれてるピアニストで、俺が担当させて頂いた人。真柴さん、こっちが同級生で幼なじみで親友の由井凰雅です」
 真柴はすっと立ち上がり、由井に向かって右手を差し出す。由井は真柴より頭一つ背が低いだろうか?真柴を見上げて微笑みながらその手を取った。
 真柴は体格にも恵まれていて、腕も長く手も大きい。ピアノのため以外に手を使ったことが無いのではないかと思われるくらい滑らかで手入れが行き届いている。
 由井の手は、男としてはごく普通のサイズだが、可愛そうなくらいガサガサと荒れていた。
 真柴は仕事柄良く握手をしなければならない。少しばかり神経質な部分もあり、汗をかいた手や脂ぎっていそうな手、体温の高すぎる手などははっきり言って苦手で軽く触るくらいなのだが、由井の手はさらりと冷たく、ずっと握って温めたくなるような気持ちに駆られる。
「はじめまして…すごい人に聴かれちゃった…恥ずかしいな」
「そうかな?君の演奏の方がもっと…温かで…愛情に溢れていて…本当に素晴らしかったよ」
 自然とわき上がる微笑みを、真柴は止めることができなかった。素直な笑顔など他のピアニストに対して見せたことなど無い。
「うわぁ、そう言われるとうれしいなぁ…」
 常に優しげな微笑みを湛えている由井が、零れんばかりの笑みを見せた。
 真柴の表情にも常ならざるものを感じたのか、田代は目の前の二人の顔を交互に見つめ、口をあんぐり開けている。
「おーちゃんすげぇよ…真柴さん、めったに褒めないのに…」
「そ、そうなんですか?俺なんかまだまだなのに…」
 照れたように俯いて、でも嬉しそうにもじもじしているピアニストにも未だかつて会ったことがない。ランクの差は分かっていても決して自分を低く見せず、理論や理想だけでも対等のレベルに引き上げはったりを効かせるのがクラシック界では当たり前のようになっている。言葉だけならどうにでもなるのだ。
 まだまだなのに…と言う由井の視線は見えない遠い高みを見つめていて、瞳の輝きには凛とした物がある。
「私は八方美人だからまんべんなく平等に褒めていたつもりなんだが…そんなに厳しいことを普段言ってる?」
「や、そうじゃなくて…やばっ」
 つい口から滑ったのだろう、真柴には田代が何を考えているのか、言っても良いのか悪いのか、めまぐるしい勢いで考えているのが手に取るように分かった。
「言って良いよ。今は仕事中じゃないし。プライベートな時間だから」
「えー…と。真柴さん今八方美人って言いましたよね?それですそれ。本音は別にあるって言うか。影響力もあるから好き勝手に言えないんだろうけど。でもそんなことで悩んでいたら自分の事がおろそかになるから、がまんして飲み込んで忘れて、ストレスになってるんじゃないかなーって、ツアー中に思いました」
「なかなか鋭いね。その通りだけど、ストレスにはなっていないよ。田代君がなんとなくその辺を理解して行動してくれるのは分かってたし、私は上手く世の中を渡る術に長けているのか、口先は上手いから。でも、田代君が言ったように、由井君のピアノは本当に好きだよ。これは本音。由井君の気持ちが込められていたのがダイレクトに伝わってきて…」
 さすがに泣きそうになったとは言えなかった。必死で涙を堪えていたのを、田代は知っていたのだろうか?
「もっと聴いていたい、そう思ったよ」
 

「…うれしい…じゃあもっと弾いてきます。みんな来てるから…良かったら聴いていってください…あの、疲れていたら無理しないでくださいね?ちょっとセッションしてきます」
 そう言って由井は残っていた知り合いに声を掛け、サックスをフロントにセッションを始めた。
「真柴さん、遅くなっても構わないんですか?」
 田代が心配そうな顔をして訪ねた。
「勘の良い田代君には、私の気持ちはお見通しだと思うけど?」
「…分かりました。とことん付き合って頂きます!」
 それから由井は何時間ピアノを弾いていたのだろう。真柴も他人の演奏をこんなに長時間、心から楽しめたのは初めてだった。
 

 ひとしきりセッションを楽しんだ後、由井は店のマスターに呼ばれギャラらしき物をもらっていた。
「田代君、彼らはこれで幾らくらいもらえるの?」
「えーと。多分今日はチケット売り上げから5%をお店に払った残り、くらいかな…それをメンバーで割るんです。今日はおーちゃんがバンマスだから、割り方はおーちゃんが決めるけど…ドラムとベースはおーちゃんよりキャリアも腕も相当上の人達だから…おーちゃんのは…C万(一万)くらいかな…ははは」
 田代は情け無さそうな声で笑った。
「でも良い方ですよ。今日は楽しかったし、お客さんも次に繋がりそうだから…」
 自分のギャラとの違いに一瞬ぎょっとしたが、それは単に金額の問題ではなく、あれほど自分を感動させた演奏に対する対価が一万円と言うことに憤りを覚えたのだ。
「由井君の家はこの近くなの?」
「三鷹です」
「どうやって帰るの?」
「…始発まで時間潰してJRじゃないかな?」
「田代君、私の言うことは聞かなかったことにしてくれないか…」
 田代が首をかしげていると、真柴の視線がまっすぐ由井を捕らえている事が分かった。今夜はそうやってずっと由井を見つめていたが、今の真柴は子供のように無邪気で必死な表情で見つめている。若き帝王と呼ばれ、それにふさわしいが年には似合わない貫禄と威厳に満ちた態度を取る至高のピアニストが、駆け出しジャズマンを健気なまでに真剣に目で追いかけている。
「由井君、君はもうそろそろ帰るのかな?」
 メンバーにギャラを渡した後、急いで戻ってきた由井に真柴が身を乗り出して尋ねた。
「え…と、始発まで何処かで時間を潰してから帰ろうと思います」
「それなら私に家まで送らせてもらえないかな?
「え?俺、三鷹ですけど、真柴さんは?」
「吉祥寺」
 三田だろう!?と田代は突っ込みたがったが、真柴に言われたとおり、聞かなかったことにした。
「田代君の会社からタクシーチケットをもらったから。丁度良い、私はジャズに関しては素人だけど、色々教えてもらいたいことが…」
 タクシーチケットもあげてないし。
「えー、じゃあ壇はどうするの?」
「俺も今日はチケットあるから大丈夫だよ、心配してくれなくて」
 俺ももらってないけど…真柴の張り付いたような営業用スマイルは、く・る・な、と暗に伝えている。
「それじゃあ、一緒に乗せてってもらおうかな…」
 由井が嬉しそうに微笑むと、真柴は誘いがうまく行って心底ほっとしたような表情を浮かべていた。誰もが自分の望むとおりに動いてくれる世界の住人が、である。
「俺タクシー捕まえてきます」


『それでさ、良いって言うのにうちの前まで送ってもらっちゃって…真柴さんって本当に優しいんだね。ピアノも聴いてみたいなぁ…』
「今度CD送ってやるよ。けど、ちょっとイメージと違うかも」
『そうなんだ?』
「俺は凄いと思うんだけど…研ぎ澄まされてて緻密で知性的で…洗練されてる。人間臭さがないっていうか。でも、昨日のライブの時は表情とかも違ってたし…おーちゃんに影響されたんじゃないかな?」
『俺!?まさかー…俺なんてテクニック無いし毎回何やったか忘れてるし…感情垂れ流しで後始末できないし…でも、真柴さんはそれが凄く気持ちよかったって。心が揺さぶられたんだって。俺はそういうの目指してるから、言ってもらってめっちゃ嬉しかった。ああ、この人には伝わったんだって…ほんとに涙でそうなくらい嬉しかった』
「ちゃんとお礼言っておけよ」
『うん。メアド教えてもらったんだ。今日メールした方が良いかな?タイミングとか、俺分からないから…』
「今日で良いんじゃない?」
 真柴はきっとメールを待っていると思った。眠い身体を引きずりながら出社した途端電話があり、昨夜店を出てからのことは一言も話さなかったが、由井の話ばっかりで、その様子はまるで恋する乙女のようだったから。
『何て書いたらいいの?変なこと書いて気を悪くされたらどうしよう…』
「普通に書けば?おーちゃんいつもお礼メールとか上手に書いてるじゃん?」
『だってあれは定型文参考にして、まとめてぱーっと送信してるから…真柴さんにはちゃんと出したい』
「おーちゃんの文章で大丈夫だから…」
『今日はまだ眠ってるとか、もう練習してるとか、邪魔じゃないかな…』
「…メールだったら大丈夫だろ?真柴さんはいつもマナーモードだから、気が付いたときに返事くれるはずだよ」
『分かった。じゃあ今から考えてメールしてみる』
「おーちゃん、あのさ、今こんな電話してるって事は大丈夫なんだろうけど…」
『…大丈夫。今いないし、メールはちゃんと消すから…』
「おーちゃん、聞き飽きたと思うけど、あいつとは別れた方が良いよ?もう、人が変わってしまったんだから…おーちゃんのためにならないよ?」
 その言葉に対する返事は無く、ほんの少しの沈黙の後、ありがとう、また連絡するね、と言って電話を切った。


 それは5年ほど前のこと。由井と田代はまだ高校生で、二人とも音大受験の最後の追い込みで練習に明け暮れていた。一応私立では二番目くらいに難しい大学で、その頃は入学すれば卒業後は何とかなると思っていた。ずっとその大学の教授にレッスンしてもらっていたし、受験当日に余程のミスをしない限り大丈夫だろうとは言われていたが、由井も田代も演奏する事自体が好きだったのでいつも通りに楽しく演奏できた。もちろん二人とも現役合格したのだが…
 由井が初めてジャズのライブに誘われたのは入学して半年くらい経った頃だった。前期の試験が終わった打ち上げの後、四年生のコントラバスの先輩が出ているから行ってみないかと誘われたのだ。由井はそこで、楽譜に囚われず、自由にのびのびと演奏するジャズマン達に引き込まれてしまった。小さなライブハウス全体が活気に満ちあふれ、奏者もお客も一体になって楽しんでいる。
 物音一つ立ててはいけない雰囲気の中で、息を殺して聴いているクラシックのコンサートとは正反対だ。
 ライブ後、興奮が冷めやらない由井にジャズの触り部分を教えたのがその四年生のコントラバスの先輩で、その日から由井はジャズにのめり込んでいくようになった。絶対音感を持っていて、和声の基礎も理解していた由井はメキメキとジャズの腕を上げていった。そして、その世界を教えてくれた先輩にも…
 先輩はゲイではなかったが、由井の容貌は男臭くなく、中性的で清潔感があったからだろうか、いつの間にかなんとなくそういう関係になっていた。 由井にとっては初恋だったので、もしあの日、先輩に出会わなければ普通に女の子と付き合っていたかも知れないが、今となっては女性と付き合う姿が想像できないくらい、男と付き合う姿が自然になってしまった。


 しかしそれもほんの数年で…先に卒業した先輩は怪しげなミュージシャン達と付き合うようになる。音楽だけならまだしも、思想は過激になり社会批判も多くなり、まるで新興宗教団体のようなバンドを組んで、ライブハウスからも煙たがられるようになった。由井の優しさにつけ込んで働かずに下らない演奏ばかりするようになり、今では由井の交友関係や演奏まで制限しようとしている。
(普段は相変わらず優しいんだよ…俺が居なかったら普段の生活もままならないって分かってるから、俺にはそこまで酷いこと言わないし…)
 そうは言っても、由井が稼いでくるお金のほとんどは自分のバンドの活動につぎ込み、つぎ込むだけで何も返ってこない。いつかは元通りの先輩に戻ってくれると信じている由井の精神構造まで疑われてしまう。
 ただでさえ寂しい恋愛をしているのに、卒業と同時に実家から勘当される憂き目にもあってしまった。クラシックを捨ててジャズミュージシャンになると宣言してしまったからだ。母親はピアノの先生、父親は医者と優雅な家庭に育ち、将来は地元に帰って演奏活動を続けるはずだったのに…両親としては、温々とそだった息子は生活に困ればすぐにこちら側へ帰ってくると思ったのだろうが、息子はジャズと男の恋人を選んでしまった。ジャズに関しては時が満ちればうまく行きそうだが…精神面でも金銭面でも足を引っ張る恋人と別れない限り、由井の背中には何となく黒い影が付きまとい、いつかピアノもダメになってしまうのじゃないかと、周囲は気が気ではない。
 なぜそんな男とすっぱり別れられないのか…ダメな恋人ほど放っておけないという恋愛パターンを、由井が証明する必要なんて無いのに。
 真柴はどうなのだろう?少なくともツアー中は親密そうな他人の影は無かった。恋人がいれば、1ヶ月以上もの間会わないなんてことがあるだろうか?お土産を買うとか、それらしい人の話もしなかったし…若き帝王と言われるだけあって見た目も抜群に良い。女性ファンが圧倒的に多く、毎回最前列に座る顔ぶれも決まっていて、彼女たちの中で最も有名な女性でも真柴のプライベートには一切登場しない。
 かといって男が好きそうにも見えない。友人もあまりいないようで、自分でも認めていた八方美人という言葉が良く当てはまっていて、誰にでも笑顔で適当に親しげに話す。
 ピアノと音楽以外に執着する事なんてあるのだろうか…


 ツアーの後は3日ほど休暇が入っていた。由井と朝まで話した次の日は朝一で田代に電話した後暫く眠り、昼過ぎに目覚め真っ先にメールを確認した。昨夜自分のアドレスを教えておいたので、近いうちに必ず連絡があるはずだ…と考えた時、真柴はふっと苦笑いを零した。誰かからの連絡を待つなど、あり得ない性格なのに…
 だがしかし、相手が由井なら考えられないこともない。たった六つの音、しかもミレドシラソと下降型の最も単純なスケールを弾いただけで、帝王と言われる自分の心を震撼させた…どんな複雑な和声もメロディーも錆びて崩れ落ちるような純粋で清澄な音。暫く話した本人もそれに見合った、いやそれ以上に無垢で素直な心の持ち主だった。
 身に纏った優しさと大らかさで人を欺いてきた自分など、一気に丸裸にされたような心許なさを味わされたが、その後に訪れた妙な感覚、偽りのない自分を晒す事への困惑から解き放たれたような感覚に救われたのだった。
 

 待ち望んだ由井からのメールが入ったのは、目覚めて一時間ほど経った頃だ。騒ぐ気持ちを静めるためにシャワーを浴び、コーヒーを点てているところへメールの着信音が鳴った。

(昨日はお疲れの所ライブに足を運んでくださってありがとうございました。その上自宅までタクシーで送って頂いて感謝感激です。それから、演奏を気に入って頂いて、沢山の素敵な言葉を掛けて頂いて、とても嬉しかったです。真柴さんのライブがあるときはぜひ知らせてください。これからもどうぞよろしくお願いします)

 何の変哲もないお礼のメールだが、由井が書くとありきたりの言葉が真実味を帯びてくる。
 真柴は由井の声が聞きたくなり、電話で話したいが今大丈夫だろうか、と返信すると、昨日登録した『由井凰雅』という名前の点滅と共に電話が鳴った。
「由井君?」
『あ、はい。今掛けても良かったでしょうか…』
「構わないよ。メールを打つ時に携帯を握りしめるクセがあってね、親指が痛くなるのであまりメールはしないんだ」
 そんなことは無いが、声が聞きたかった、とはまだ言えない。
『大事な指ですからね…』
「由井君、今日明日はどこかで演奏していないの?今日から三日間休みでね、由井君のピアノでも聴いてゆっくりできたら、と思って…」
『えと…昨日の店で9時からレギュラーで入ってますけど…』
「良かった。じゃあ伺うよ。昨日の演奏のお礼に食事でも、と思っているんだけど、9時前に時間ある?」
『えー…そんな、気にしなくて良いのに…残念だけど、おれその前はバイトが入ってて…』
「そうか…残念だな。とにかく9時にあの店へ行くよ」
『はい!お待ちしてます』


 三十分ほど早く店に着くと、由井はまだ来ていなかった。
 カウンターに座りながらマスターに軽く挨拶をすると、昨日はどうも、と返ってきた。俯いたままの仏頂面で馴れ馴れしくない態度が、真柴には新鮮だった。
 別の客の注文だろうか、コーヒーを淹れる準備を始めたので、真柴も同じ物を注文した。薫り高いコーヒーを飲みながら店に流れる聴いていると、クラシックのピアノとは全く違うが、躍動感と生命力に溢れた音に耳が釘付けになる。
「あの…私はクラシックピアノしか知らないのですが…このアルバムのピアニストは誰ですか?」
「この人は、テテ・モントリューと言ってスペインの盲目のピアニストですよ」
 マスターが差し出してくれたアルバムの解説を読んでいると、由井が息せき切って入ってきた。そういえば、そろそろ9時になる。
「マスターこんばんは!あ、真柴さん、来てくれたんですね!」
 するっと真柴の隣の席に座り、手元をのぞき込む。
「テテ・モントリュー…真柴さん、この人良いでしょう!俺この人のアルバム聴いてると、凄く元気がわいてくるんです」
「由井君のピアノも私を元気にしてくれたよ?」
「…なんかすごく嬉しいけど、照れます…真柴さんのCDあるかなと思って、今日バイトに行く途中でショップに寄ったら…ポスターとかチラシとか凄いし山積みだし…これ、俺の好きな曲が入ってたから買っちゃった…」
 まだ封が切られていないそのCDは一番新しい物で、昨日までのツアーで弾いていたものだ。
「ラヴェルの左手のためのコンチェルト?」
「そうです!これ凄い好きだけど、全然弾けない…あ、マスター、サインペン貸して。サインしてもらわなきゃ!」
 サインをしていると、身を乗り出してのぞき込んでくる。ふわっと香ったのは由井のシャンプーの香りだろうか?
 真柴の身体が、ぞくりと震えた。

 付き合ってきた女性達に性欲を感じたことはあまりなかった。執着しない上に八方美人の真柴に愛想が尽きて離れていくのは女達で、真柴も自然消滅してもあまり気にならなかった。
 由井に対する感情は…一体何だろう?
 由井のピアノが聴きたい。由井の笑顔が見たい。その笑顔が自分に向けられるならなおのこと良い。もっと由井と同じ時間を過ごしたい。もっと由井側に寄りたい。シャンプーだろうがリンスだろうが、その香りをもっと嗅いでいたい。そして由井にこの自分の気持ちを知って欲しい。
 由井が演奏している間中そんなことばかり考えていた。
 由井が楽しそうに笑うたび、心がずくん、と疼く。
「マスター、コーヒーおかわり」
 由井の演奏が終わるまで、気が付いたら五杯もコーヒーを頼んでいた。


「…すみません…今日も送ってもらって…」
 恐らく終電には乗れないだろうと見越して、真柴は自家用車で来ていた。
「構わないよ。横に誰か居てくれた方が運転も丁寧になるし」
「それに、昨日も今日も遅くまで付き合わせてしまって…彼女さんとかに怒られませんか?」
 珍しいことに由井がカマを掛けてきた。いつも直球なのに、どうしたことか。
「彼女…そういえばツアー中は全く連絡無かったかな…たぶん、いつもの自然消滅に持って行かれたかな」
「ええ!?自然消滅ですか!?なんで?真柴さんと別れたい人なんかいるんですか!?」
「私にはどうやら女性に対する執着心が無くて…演奏の前になると集中するからほったらかしになるし…私とピアノとどっちが、とか言われてもね」
「うわ…それ困りますね。全然ちがうのに」
「由井君は?」
「俺?」
「付き合ってる人はいないの?」
「…いないこともないけど…」
「参ったな…ピアノも恋も、負けっ放しなのは人生初めての経験だよ」
 いないこともない、と由井が言ったとき、真柴は何故かほっとした。素直で嘘が言えない由井が迷っているのだ。由井の気持ちは離れかけているのだろう。
 それで何故自分がほっとするのか?
「あ、この辺で良いですよ」
 と遠慮する由井を無視して、強引にアパートの前まで送る。
「…すみません…こんな所まで…」
「気にするな。それより寒いから早く中にお入り」
 おやすみとありがとうを何度も言いながら、由井はアパートの一階の部屋に入っていった。
 車をUターンさせ、由井の部屋をちらりと見ると、まだ真っ暗だった。一分、二分、三分経っても暗いままだ。心配になり、車を止めて部屋を訪ねてみた。
 チャイムを鳴らすと、意外と早くドアが開いた。
「あれ…真柴さん…」
 靴を履いたままだったので、ずっと玄関のたたきに立っていたのか。
「部屋の明かりがつかないから心配になって…」
「えと…」
 由井は困った顔で俯いている。
「えと…電気代払い忘れて、止められちゃったみたい…」
「…」
 驚いた真柴は何と言っていいのか分からず、呆然としてしまった。
「あはは…たまにあるんです。明後日ギャラもらえるから…あ」
 払い忘れたのではなく、払えなかったのだろう。
「エアコンは?」
「…だめかな」
「この寒いのに…」
「コート着て布団かぶってたらあったかいから…」
 真柴は由井の腕を掴み、有無を言わさず自分の車へと引っ張っていった。
「真柴さん!?」
「うちにおいで。こんな寒くて真っ暗な中に置いては帰れないよ」
「だ、大丈夫です!慣れてる…えと」
 定期的にこの状態に陥るらしい。本人は恥ずかしがっているが、真柴は笑えなかった。ただ心配で心配で…
「風邪をひいたらどうするんだ?うちは無駄に広いから遠慮しなくて良い」
 由井が持っていた部屋の鍵を奪い鍵を掛けると、その鍵を自分のポケットにしまい込んだ。
「俺の鍵…」
「うちに着いたら返して上げるよ」


きっかけ4

Love Piano

響と凰雅