車に強引に乗せたは良いが、真柴の嘘もばれてしまった。
「真柴さん、吉祥寺は反対方向です…」
「…そうだね。吉祥寺に引っ越そうかと思っていたんだ」
「…まだ引っ越していないんですね?」
「…ああ。三鷹に引っ越そうかな…」
「…」
 倍の時間を掛けて三田のマンションへたどり着いたのは夜中の3時頃だった。最初から防音が施された新しいマンションで、レコード会社との契約金代わりにもらったものだ。もし自分に何かあってピアノが弾けなくなった場合、違約金の代わりにここを返上すれば良い。
「さあ遠慮せずに入って」
 招き入れると、怯えた子犬のような目で見上げてきた。
 また腕を取って、部屋の中まで案内する。
「うわぁ…ベーゼンだ…しかも、97鍵…」
 まだローンは残っているが、思い切って買ったベーゼンドルファー。真柴の「帝王」の異名はここからも来ている。ベーゼンドルファーの中でも最もランクが高いインペリアル。日本の気候には合わないが、完璧に湿度と室温を管理しているこの部屋で練習する喜びと言ったら…不思議な物で、日本全国何処へ行ってもある程度のクラスのピアノであれば、自分のベーゼンと似たような音が出せるようになるのは不思議だ。
「風呂に入ってゆっくりしてから弾いてみると良い」
「え!?良いんですか、触っても!?」
「由井君のピアノをうちで聴けるなんて、いつ死んでも良いくらい私は幸せだよ…由井君?」
 ピアノが好き、演奏するのがもっと好きな由井は真柴の言葉など耳に入っていないようで、ピアノの周りをぐるぐる周りながら眺めている。
「仕方ない。今すぐ弾いても良いよ。ここは防音も完璧だから」
「あ。そうか、夜中もいいところですね…でも俺、ピアノを見ると弾かずにはいられない性分なんです…」
 言い終わらないうちに椅子に座っている。
「やっぱりクラシックが良いかな…真柴さん、笑わないでね…」
 そういいながら弾き始めたのは、グラナドスの組曲「ゴイェスカス」”嘆き、または美女と夜うぐいす”だった。
 

 押し殺したような官能的なため息、囁くビロードの音色が真柴を深い陶酔の世界に誘う。暖まりきっていない少し冷たい部屋の空気が火照った頭に丁度良く、情熱的でいて静かなクライマックスで真柴は感極まり、とうとう涙さえこぼしてしまった。
 なぜ、この青年はこんなにも自分を感動させるのか。25年間隠し通した仮面を剥いでくれるのか…内に隠して膨れあがった様々な感情を鎮めるのではなく、表に出して、垂れ流して、心の中身をひっくり返して全てを晒す。
「…真柴さん…?」
 いつの間にか演奏は終わっていて、ぴくりとも動けず涙を流す真柴を困ったように見つめる由井。
「…泣くほど下手だったりして…」
 自分自身を茶化して、テレを隠す。
 真柴がくすくす笑い出すと、その時由井の携帯が鳴った。
「あ…ちょっとすみません」
 朝の四時にかけてくるとは、余程親密な相手なのだろう。真柴は気を利かせて席を立ち台所に向かったが、由井の少し高めの声は夜更けの静けさの中で目立っていた。
(今、友達と一緒。今日は泊まってくるから…ごめん…明後日は大丈夫だから……田代君…もう眠ってるから……そんなことないって……うん…俺も…おやすみ)
 暫く間をおき、インスタントのココアを持っていくと嬉しそうに微笑みながら両手で受け取った。
「随分遅い電話だね…」
「はい…ミュージシャン仲間で…みんな時間無視してかけてくるから…」
「ふふ…それを飲んだらお風呂にはいると良い」
 ココアを飲みながら家の中を案内する。
「勝手にウロウロして良いからね。遠慮しないで楽にしていて」
「凄い、広すぎ…独りで住んでるんですか?」
「ああ。寝室は一つしかないけど…」
「あ、俺ソファーで大丈夫です。うちのベッドより寝心地良さそうだし…」
「嫌じゃなかったら一緒に寝られるくらい大きなベッドだけど…」
 寝室の扉を開けると、由井の部屋より大きそうなベッドが鎮座していた。
「私の寝相がばれなきゃ良いけど…」
「あはははは…真柴さん、寝相悪いんだ…俺も、時々逆向いてます…」
 

「…良い匂い…俺もシーツとか洗濯…あ…洗濯機、動かな………」
 どうしてこんなに真柴は優しくしてくれるのか、なぜ知り合って2日目の真柴の部屋で寛いでいるのか、どうして…
 考えたいことは山のようにあったが、寝心地の良いベッドと真柴に対する安心感であっという間に寝入ってしまった。
 ぶつぶつ良いながら眠ってしまった由井に身体を向け、無邪気な寝顔を見つめる。誰かと一緒に同じベッドで眠るなど、考えたこともない。付き合っていた女性とはホテルで会っていたので部屋に連れてくることなど無かった。他人の生ぬるい体温があまり好きではないのだ。ピアノを置いてある部屋以外は設定温度や湿度も高めだが、少々寒くてもピアノ室のきりっと引き締まった空気の方が好きで、そこで過ごす時間の方が長い。
 ところが…由井から感じられる熱は身体の表面ではなく内側を温めてくれ、空気にはより清澄な清々しさが感じられる。
 独りでいるときよりもっと、呼吸が楽だった。


 バイトがあるからと、午前中には家を出なくてはいけない由井を車でバイト先まで送り、バイトが終わった後、またあの店で落ち合う約束を取り付ける。今夜は少し早めにバイトが終わるそうで、ライブハウスの上の階にあるレストランで食事をすることに勝手に決めてしまった。
 明日からは真柴もまた演奏活動がはじまる。
 真柴は由井を送り出した後直ぐに、明日の主催者に連絡を取り、プログラムの一部変更をお願いした。昨夜由井が弾いてくれた曲と、同じ組曲の中から抜粋してもう2曲。本来ならば組曲丸ごと演奏するべきなのだろうが…真柴が得意とする曲とは趣が違っていて、これから何かが変わろうとする真柴の、転換期の始まりとしてはいきなり全曲を演奏するより良いのではないか…正直言って、今から全曲を練習する時間も無い。夜通し練習することなど苦ではないが、夜は、由井と過ごしたかった。
 

「由井君は明日もバイト?」
「はい。明日はちょっと早めに上がって、夜からライブなんです」
「そうか…私は夕方からサロン・コンサートがあるから…それが終わったら行くよ。下の店?」
「そうです。真柴さんのコンサート、行きたいなぁ…俺、バイトの休み合わせるから、真柴さんのスケジュール全部教えて下さい」
「分かった。あとでスケジュール表をコピーしておくよ」
「ありがとうございます!明日は何を弾かれるんですか?」
「プロコのソナタ7番と、後は小品で、一時間くらいかな…昨夜、由井君のグラナドスを聴いて急に弾きたくなって…3曲くらい差し替えてしまったよ…」
「すご…プロコだけでも大変なのに…プログラム変えちゃったんですね…真柴さんのグラナドス、聴いてみたい…」
「今夜レッスンしてくれる?」
「えーーーーっ!?それ絶対無理っ!」
 由井は食べていたオムライスのスプーンを放り出し、口元を抑えて愉快そうに笑っている。足もバタバタさせながら、子供のように…
「そうかな?由井君みたいに弾けたら…もっと素直に感情を出せたら…と思うよ」
「俺はいつも出しすぎ、て言われてました。なんかこう、甘すぎて気分が悪くなるって…俺、曲に入り込むと抜け出せなくなるんです。アンサンブルしてるときなんか俺はドロドロで周りはこう、すっきり綺麗でなーんかうまく行かないし」
「そうだね…でもそれは由井君のせいじゃなくて、周りが変なんだよ。人の喜怒哀楽ってもっと激しい物で…作曲者だって悩み苦しみ、嬉しい楽しい、そんな溢れるような気持ちの中から曲を作り上げたんだ。演奏する私たちがその思いを閉じこめてはいけないと思うよ」
 思いを閉じこめてはいけない…それは自分に向けた言葉でもある。今どうしたい?本心は何処にある?
「そろそろ行こうか?思う存分楽しんだ後、レッスンしてくれ。その代わりここの食事代は奢るから」
 これも本心だが…もっと奥深い所で燻っているこの気持ちを、どうやって伝えればいいのだろう…恋などしたことがない真柴は、ただじっと由井を見つめる視線で愛情を垂れ流すしかなかった。


 真柴のプロコフィエフにはただもう唖然とするしかなかった。卓越したテクニックに裏打ちされた表現力は、ただ雰囲気を作って歌っているだけの表面的なものとは一線を画する。自分の楽器で演奏できないピアニストは、会場での短いリハーサルで、その楽器の特徴を掴んで操らなければならない。お抱えの調律師でも器の形を完全に変えることは不可能なので、最大の努力をしたとしても、最後にものを言うのはピアニストの力量だ。
 様々なタイプのピアニストに毎日酷使され過労死寸前のピアノが本来の輝きを取り戻し、真柴の指先に服従する。
「はぁぁっ…良かったねマスター、ピアノが喜んでるよ…」
「毎日レイプされてるもんな」
「俺たちのテクニックじゃレイプにもなんない…」
 真柴に品のない下ネタを聴かれないように小声でぼそぼそ話していたら、次の曲を弾き始めた。グラナドスだ。
 このピアノ組曲をオペラに仕立て直し、ニューヨークでの世界初演で大成功を収めた帰路、ドイツの潜水艦の無差別攻撃を受けてグラナドスは海に投げ出された。彼自身は一度救助されたのだが、救助船の上から最愛の妻が波に揉まれているところを発見し、助けようと海に飛び込み、二人とも帰らぬ人となった。彼は非常にロマンティックで、美しいもの、素晴らしいものに出会うと即興でピアノを弾いて表現したそうだ。
 そんな人物の曲を、理性的に弾くことになんの意味があるのか。今までの真柴であれば、理性的で緻密で繊細な『情熱という名の塑像』を作りあげていたのだろうが…今の真柴は全てをかなぐり捨てて、心が思うままに弾こうとしていた。
「…なんかさっきの曲と違うな」
 クラシックなど聴いたこと無いマスターにも分かるくらい、真柴の奏でる音楽が変わった。
「うん…」
 由井は誤解でも何でも良いから、真柴のピアノに込められた思いを自分へ向けられたものと思いたかった。ピアノを弾いていれば忘れられるけど、今付き合っている男との生活はかつてほど甘くなく、そこから離れられない自分にも嫌気がさしてくる。真柴の大きな優しさと愛情で包み込んで欲しい、そうしたら、どんな生活も苦ではなくなる。現実では愛し合うことが不可能でも、音楽で表現しあえばいい。
「どうだった?」
 あちこちですすり泣きが漏れる異様な事態に困惑しながら、真柴は由井の元へ近づいていった。
「え…?何が?」
「いや…今の演奏…」
 由井も泣いていた。
「も…俺なんか、感動しちゃって…こんな感想、ダメかな…」


 ついでに腰も抜かした由井を支えながら真柴のマンションに帰った。
「参ったな…うれしいけど…由井君、お風呂入ってさっぱりしておいで」
 まだ時々思い出したようにしゃくり上げる由井の、荒れた手を取って風呂場へ連れて行き、真柴は心地よく疲れた身体をソファーに沈めた。
 自分でも今できる精一杯の思いを込めて演奏したが、まだ何か足りない。 思いが届いた気がしないのだ。お客も、誰よりも聴いてもらいたかった由井も感動していたけれど、まだ何か伝え忘れているようで…自分が初めて由井の演奏を聴いたときのような、人生がひっくり返るような感動を、由井は感じてくれただろうか?
 由井の荒れた手や、払えなくて止められた電気。由井の分だけ超大盛りだったオムライス、田代はもう眠っていると嘘をついた電話。そしてよく思い出せば…暗がりの中でも分かった、あるはずのものがない部屋。音大を出た由井が、ピアノを持っていないはずが無い。
「お風呂お先させてもらって、ありがとうございました…」
 まだ目は赤かったが、すっかり笑顔に戻っていた。
「由井君、ちょっとこっちにきてごらん」
 真柴は由井をソファーに座らせると、自分はバスルームへ行き、チューブに入ったクリームのようなものを持ってきた。
「これね、お風呂上がりに塗ると良い」
 由井の手を取り、手の甲にたっぷりとクリームを押し出した。
「爪にもこうやって塗り込んで、割れたらピアノが弾きにくくなるだろう?」
 そう言いながら、指先から肘まで丹念にクリームをのばし、柔らかくマッサージしながら浸透させる。真柴の手は滑らかで温かく、ピアノを操るときのように繊細な動きで、まるで由井の官能を煽るように動く。
両手で20分はかけただろうか。砂漠のようになっていた由井の手がふっくらとなった。
「うわ…知らない人の手みたい…」
「女じゃないから他は放っておいて良いけど…手は、大事にしてあげないとね?」
「真柴さんも…お風呂の後に俺がやってあげる」
 初めてだからそんなにうまくできないだろうけど…もっと真柴と触れ合っていたかった。
 真柴の腕は思った以上に逞しく、ピアノを弾くためにある程度必要な筋肉を鍛えているようだった。この人に抱き締められる女の人はどんな人なんだろう…きっと綺麗な人なんだろうな…と、羨ましく思い、心がきしむ。
「こんな感じ?」
 暗くなりそうだった気持ちを切り替え、真柴を見上げると、優しく微笑みながらありがとうと言ってくれた。
「すっきりした。このまま眠ると良い夢を見そうだ」
「あ、俺昨日、蹴ったりしませんでした?」
「蹴ってないと思うよ…たぶん…私は一度眠ったら少々のことでは起きないから」
 真柴がめくってくれた羽毛布団にごそごそ入り込み、真柴が横に滑り込んでくるのを待つ。このまま…一瞬淫らな考えが脳裏を過ぎり、頭をぷるぷる震ってしまった。
「どうかした?」
「いえ…真柴さん、もしかして毎日シーツとか変えるタイプ?」
 ぱりっと気持ちよく、良い香りもする。
「ああ…男にしてはそう言うところが神経質かな、と時々思うけど…」
「でも、気持ち良い…うちのまさ…うちはいつ洗ったかな…」
 …正晴(まさはる)とは大違い、と言いそうになって、はっとしてしまった。 
「それで死んじゃうわけでもないから…でも洗濯するときは大変だよ。毎日ってわけにはいかないから、替えを沢山用意してるけど…干すときは洗剤のコマーシャルを地でやってる」
「お日様にあてるんだ…」
「気持ちよさ倍増だよ。屋上にロープ張って…本当は屋上を使うときは許可がいるんだけど、管理人も私の意見には賛成でね、洗濯物干すだけなら勝手に上がって良いと…」
「ふははは…なんか想像できない…真柴さんがシーツ干してるところ…」
 天気が良い日に、真柴と一緒に洗濯してシーツを干して…そんな場面を想像すると、幸せな気持ちになる。もっと真柴のことが知りたい。頭の中だけでも良いから、一緒に色々なことをやってみたい…
「凄く気持ち良い…明日もきっと、良い演奏ができる…真柴さん、ありがとう…」
 

 ぐっすり眠れ、心も体も軽い。午前中はビル掃除、午後からはコンビニでバイトをした後、いつもより一時間早めにバイトを上がらせてもらって店に向かう。バイト先の店主はポピュラーが好きで昔は趣味でバンドを組んでいたらしい。由井がジャズマンだと知ると、ライブの時だけは早上がりを許してくれるようになった。
「じゃ、店長、いつもありがとうございます、お先に失礼します!」
「おう、がんばれ!」
 ボーカルをやっていた店長は、腹の底から響くような声で送り出してくれた。今日は特にバイトにも身が入っていたので、気持ちよく店をでられる。それも真柴のお陰なのだ。今日は田代も顔を出すと言っていたから、ギャラをもらったら一杯奢ってやろう、真柴と出会うきっかけを作ってくれたのだから…


「あれ…真柴さん」
 田代が店にはいると、さっきまで仕事で一緒だった真柴がいた。
「…田代、おまえもか」
「それはお…私の台詞です」
「もうプライベートだから俺でも僕でも、地で良いよ」
「そうか…それでグラナドス…おーちゃんの十八番。もうあれ、すっごい良かったですよ。お客さんみんな泣いてたもん。帝王が民の間に降りて来たっつうか…生身の人間になったっつうか。あんな曲、レパートリーにありましたっけ?」
 真柴との仕事は前回が初めてで、真柴を知るために過去のプログラムを全て見返した中に、スペインものは無かったはずだ。
「レパートリーには無かったけどね。好きな曲と弾ける曲は違うんだよ」
「好きな曲も弾けるようになった…?」
「一昨日、突然に。田代君にはお礼をしなきゃいけないな…今日はなんでも好きなもの頼んで良いよ」
「え…なんでまた」
「由井君と会わせてくれたから」
 なんで突然グラナドスなのか、根掘り葉掘り聞いてみたかったが、その時丁度、楽屋裏からメンバーが出てきて、照明が変わった。
「真柴さん、あとで聞かせてくださいね」
 誰よりも大きな拍手をしている真柴の耳元に叫ぶ。


「えええ…っ!!お前、真柴さんちにいるって…!」
 ライブが終わった後、由井は真柴の側に当然のように、しかも自然な態度で座っていた。
「電気代払えなくて電気止まった恥ずかしい現場を見られて…そしたら真柴さんが家に泊めてくれたの。壇だってそんなことしてくれないのに」
 それはそうだが、由井のためでもある。由井独りだったら十分なお金があるのに…
「おーちゃんは自業自得だろう。それより…真柴さんちのピアノ見た?その辺のコンサートホールより凄いだろ!」
 鋭い真柴は『自業自得』に耳が止まったが、田代は軽く流していた。
「見た!弾かせてもらったよ!もう、めちゃくちゃ良いねっ!」
「弾いた!?マジ!?俺なんか側に寄っただけで睨まれたよ??」
 田代は恨めしそうに真柴を見つめた。
「田代君もピアノ弾けたの?」
「うわっ…この違い!どうせ挫折組ですよっ!そんなこと言うならスケジュール真っ黒にしてここに来られないようにしますからねっ!」
「まぁまぁ…田代君、ボトルキープして良いよ」
「やりぃっ!」
「あ、田代、今日は俺が一杯奢るよ?」
「あれ、なんか今日は待遇良いなー…。でも真柴さんが奢ってくれるって。おーちゃんは電気代に取っておきな。真柴さんのギャラはおーちゃんの月収より多いから」
 そりゃぁCDなんか飛ぶように売れて、コンサートチケットも即日完売するし、実力も見た目も抜群だし…ギャラはともかく、そんな人の側にいられるのが由井には不思議でたまらなかった。
「俺だっていつかは田代にカバン持ちさせるくらいビッグになってやるー」
 子供のように口を尖らせて言うと、田代が笑いながらうんうんと頷いた。
 

 じゃあまた明日、と先に帰った田代を見送った後、少し静かになった店内で、由井は真柴とマスターと3人で音楽の話しで盛り上がった。今日は何人かピアニストがいたので、ジャムセッションも由井の出番は少ない。カウンターで時々触れるか触れない距離で真柴と話すのは、永遠に続いてくれと祈りたいくらい心が躍る。ギャラも入って、明日には自分のアパートに帰るのかと思うと、このまま時間が止まって欲しいとさえ思う。
「あれ、おーちゃん、電話がちかちかしてるよ」
 カウンターに放り投げていた電話が着信を知らせている。マナーモードにしたっきり忘れていた。
「あ、ちょっとすみません…」
 電話を持って店のドアから出て行った由井を、マスターは心配そうに見つめていた。
 由井は直ぐに戻ってきたが、カウンターに置いていた小さなカバンを手にすると、直ぐ帰ってくる、と言って出て行ったきり、一時間経っても帰ってこなかった。


「…これ…」
 由井はギャラの入った封筒をそのまま目の前にいた男に差し出した。
「おう。さんきゅー。家帰ったけど電気止まってるし、おまえいないし。どこ行ってたんだ?」
 封筒を丸めてポケットに突っ込むと、男は由井の腕を掴んだまま死んだ魚のような目を向けた。
「電気止められてて…寒いから、田代のとことか、マスターのとことか…」
「ふーん?いつもそんなことしないのに?いつも俺が帰ってくるの待ってるくせに?」
 男は由井を壁に押さえつけ、身体をピッタリと密着させた。
「ちょ…正晴っ…やめてっ!」
「あー?お前、俺がいないと寂しがってただろ?しばらくやってないからな…こうして欲しかったんだろ」
 楽しかった現実を元に戻したのは正晴だった。由井の恋人と言うにはあまりにも遠くへ行ってしまった男。この一年は家にもあまり寄りつかず、お金が無くなるとせびりに来て、ついでのように抱いていく。
「や…っ」
 かつては優しかった男の手が由井の股間を握りしめ、乱暴に揉みしだく。
「まさはるっ…や…いたぃ…」
「痛いのが好きなんだろ…こうやってると…ほーら、硬くなってきたぜ」
 正晴から逃れようと藻掻くと、腕を後ろに捻りあげた状態で、更に強く壁に押しつけられた。腕が、痺れるように痛い。
「正晴…腕が…痺れる…」
「大人しくしてれば良いんだ…逃げるなよ…可愛がってもらいたいんだろ?」
 優しい言葉とは裏腹に正晴は由井のシャツの襟元を掴み、一気に引き裂いた。
「やめてっ…!」
 千切れたシャツで両腕を縛り上げられ、そう簡単には逃げられないようにされた。このまま外に逃げるなど、人目を恥ずかしがる由井には無理なことだと知った上での事だ。
「尻の中かき回してやるから、俺のをしゃぶれ」
 髪を鷲掴み、足をガンガン蹴られ、由井は床に膝をついてしまった。
「ほらっ!お前の好きなちんちんだ、好きなだけしゃぶれよ」
 片手でジーンズの前を開け、中から取りだしたグロテスクな性器で由井の顔をぺしぺし叩く。
「や…やめ…っ」
 ぎゅっと目を閉じ、必死で顔を背けたが、鼻を摘まれて息が苦しくなり、とうとう口を開けてしまった。酸素を求めて激しく息を吸い込む由井に構わず、無理矢理ペニスが押し入ってきた。
「うぶっ…ぐぁっ!」
「しゃぶれ!ちゃんとしゃぶれ!もっと舌を使え!しゃぶれ!」
 嫌な匂いと味が鼻孔を抜け、由井はそれから逃れたくて早く終わらせたくて、言われたとおり必死で舌を動かす。
「あぐぁ…っ…おっ…うぐっ…」
 口の端から涎なのか男の先走りなのか分からない気持ちの悪い粘液が垂れ、顎を伝い、裸の胸元にぽたぽたと落ちる。
「いいぞ…いいぞ…口の中に出すぞ…ちゃんとためてろよ、それでケツの穴解すんだからな…」
 男は由井の頭をがっしり掴み、激しく腰を振り喉の奥まで容赦なく突いてくる。えづきそうになるのを我慢しながら、必死で男の射精を待つしかない。喉の奥に生温かいものが叩き付けられ、咳き込みたくてもそれすら許してもらえず、男が全てを出し切るまでじっと耐えた。
「おら、次はケツこっちに向けろ。手ぇ外してやるから、自分でほぐせ」
 由井が言われたとおりに後ろを向くと、男は由井のズボンを降ろし、後は由井に任せた。放心状態のまま、由井は口の中の粘液を自分の手の平に吐きだし、その手をゆっくりと後ろに回した。もう何も考えられなかった。これが自分の現実。どんなに必死になってピアノを弾いても、この男から逃げられない…嫌なのに、嫌いなのに、どうして言うことを聞いてしまうのか自分でも分からない。お金と身体、これ以外を男が自分に求めなくなって久しいのに、愛されていた記憶が邪魔をする。この男によって教えられた快楽を、由井は忘れられなかった。
「お前はそこを擦られるのが好きだもんな…しっかりほぐせよ。暫くやってなかったから寂しくて縮こまってるだろ?そうだ、指を二本にして…ケツの穴開いて…奥までじっくり見せられるようになるまでいじくり回せ」
 自分の手は一切汚さず、言葉で嬲る。最近はこんな行為ばかりだった。
「いいところもちゃんと擦って、自分のちんちんもおったてろよ?気持ちいいんだろ?」
 男が由井の腰を掴み、両足を蹴って左右に大きく開かせた。熱くたぎったものがあてがわれたので由井が指を抜くと、一気に押し入ってきた。
「あぁっ!…くっ!!」
 優しさの欠片もなく、自分の思い通りに好きなように突き上げる。由井は、衝撃と痛みに耐えるしかない。
「おら、自分のも擦って…お前が感じると尻の穴も良くなるからな」
 萎えた性器を指で扱き、無理矢理立たせる。楽しかったことだってあったのだ。優しく抱き締めてくれた日々もあったのに、どうしてこんなになってしまったんだろう…一緒に暮らしていたから、もしかしたら自分にも責任があったのかも知れない。
 心を捨てて自分の手の動きだけに集中する。初めの頃は気持ちよすぎて我慢が効かず直ぐに出してしまった…指で先端を押し開き、じっとり弄ると腰が震えた。
「ああ、そうだ、中もひくひくしてきたぞ…凰雅、気持ちいいのか?」
 記憶の中の男が言ったのか、今後ろで腰を振っている男が言ったのか、それも分からなくなってきた。
「う…ん…はっぁ…」
「凰雅、ここだろ…?ここが気持ちいいんだろ?」
 男によって開発された前立腺への刺激がだんだん激しくなると、自分で指を動かす必要もなくなってくる。
「あっ…ああっ…はっ…」
 そこにしっかりあたるように腰を突き出し、男の性器をもっと感じるために中を締め付ける。
「凰雅…すげぇ…凰雅…もっときつく…」
 言われるままにきつく緩く交互に締め付けると、男の動きが一層速くなった。
「いくっ!」
 奥の方に、男の精液が叩き込まれ、その得体の知れない感覚に、由井も精を迸らせた。


 男が去った後、由井はどのくらい座り込んでいたのだろう。尻から垂れた男の精液がズボンに零れて張り付いている。
「……」
 誰だったか…とても優しかった人の事を思い出して、涙が溢れる。
「くっ…ぅ…うぅっ…」
 真柴さんだ…真柴さん。自分のピアノで泣くほど感動してくれて、自分も泣かされた。でもそれはとても幸せな涙だった。昨日はがざがさの手を気にしてくれて、クリームを付けてマッサージまでしてくれた。家は反対の方角なのに嘘までついて送ってくれた。寝心地の言いベッドで眠らせてくれて、食事も食べさせてもらって…そんな毎日がずっと続けば良いと思っていたけど…
 由井はズボンを引き上げ、ポケットを探り、携帯を取りだした。あの優しい人は、きっと心配して待ってくれている。


『マスター…』
「おーちゃんか!?今どこだ?何があった?」
『真柴さんはまだいる?』
「あったりまえだろう!」
『…俺…マスター、真柴さんに、俺は大丈夫だからって言って、帰ってもらって…でないと…正晴に…めちゃめちゃにやられて…しられたくな…っ…見られたくない…から…っ!ましばさん、優しいから、しんぱいさせ…明日もコンサートあるのに…』
「…分かった伝えとく。心配してるから、明日の朝には絶対連絡しろよ!」
 それは、心配させたくなかったら、何が何でも明日の朝までには立ち直れ、と言う意味でもある。
 電話を切ると、目の前の男は電話を奪おうと藻掻いていたが、常連で訳知りの連中に羽交い締めされていたため、何もできずにマスターを睨みつけていた。
「由井からの電話か!?なぜ私に代わらない!」
「あー…あんたはまだおーちゃんと知り合ったばかりで知らないだろうけどな…おーちゃんには男の恋人がいるんだ」
「は…!?」
 驚いて、真柴はその場に固まった。
「でな、彼氏が電話で呼び出して、おーちゃんを連れて帰ったんだそうだ。まあそんなわけだから、真柴さんも安心して、今日は帰りなさい。おーちゃんも荷物は明日の朝取りに来るそうだから。ね?」
 青天の霹靂とはこういう事か…真柴は由井に男の恋人がいたことに驚いたがそれはほんの一瞬のことで、その後はただ嫉妬で煮えくりかえりそうになった自分に驚いた。
 由井は、私のものだ。
 誰にも感じたことがない独占欲が芽生え、一挙に大木へと育つ。

「それは…気が付かなかったな」
 男の恋人がいたことにも、自分が由井に恋していたことも。
「分かりました…それなら…私は置いていかれても仕方ないな」
 由井が、自分を振り切って他の男の元へ行くなどあり得ない。あのピアノに込められた思いは何だったのか?ベーゼンでグラナドスを聴かせてくれたとき、あの時由井は誰を想って弾いていたのか…そんなに好きな男がいるのなら、なぜ3日も自分の側にいたのだ?
 仕方ないと言ったとき、田代がいなくて良かったと思う。あいつは敏感なので、本心など直ぐに見破ってしまう。だが、この人達なら上手くごまかせるだろう…
 真柴は帰り支度をすると、静かに店を後にした。


「おーちゃん?どこだ?」
 由井の荷物を持って、裏の公園のトイレに行くと、由井は個室の中で無惨な姿で震えていた。
「マスタ…」
「なんてこと…!」
 体中がベタベタして気持ち悪く、由井はちぎられたシャツを水で濡らして身体を拭いたのだった。お陰でこの寒空の下、一時間ばかり裸で過ごさなければならなかった。唇は真っ青で、身体の震えはかわいそうなほどだ。
「コート着て!取りあえず店に戻るか?先ずは暖めないと!」
「マスタ…ましばさんは…?」
「帰らせた。由井は彼氏と帰ったって言っちまったけど…」

「私ならここにいるが」

 真柴だった。帰った振りをして、マスターの後を付けたのだった。
「真柴さん…!」
 由井の目が大きく開かれ、驚愕の表情で真柴を見つめる。
「由井…うちに帰るぞ」


 真柴は自分のコートで由井をすっぽり包み、抱き締めた。
「歩けるか?」
 由井を苦しめた男への怒りで顔は強張り、声のトーンが一段と低くなる。 由井に優しくしたいのに、その感情が邪魔をして由井を怖がらせやしないだろうか…腕の中で寒さと恐怖や悲壮感でぶるぶる震えているが、真柴のジャケットを震える手でしっかりと握り、こくん、と頷いた。
 マスターが捕まえてくれたタクシーの後部座席でも、無言で由井を抱き締めていた。運転手がミラー越しに好奇の目を向けてきたが、鋭い一瞥をくれてやると二度と見ようとはしなかった。車内の温かさで少しは身体の強張りが取れたのか、ジャケットを握りしめていた手を外し、冷たくなった指先を温めようとし始めたので、真柴は由井の手を取り自分の手で包み込む。
 昨日のマッサージの効果はまだ続いているようで、由井の両手は冷え切っていたけれどふっくら柔らかい。それは由井が自分のものである証拠のようで、真柴は安堵し、硬い表情を和らげていった。
 
 マンションに戻ると風呂場へ直行し、バスタブに勢いよく湯を張る。
 コートを脱がせようとすると軽く抵抗を始めたが構わずに脱がせ、由井を抱きかかえてバスタブにそっと身を沈めた。
「着替えと…飲み物を用意してくるから…良く暖まっておいで」
 できれば一緒に入りたかったが、由井の男としてのプライドも大切だ。驚いたことにコートの下は下着だけで、その姿を見ただけでたとえ凍死しても男の手あかが付いた物を全て捨てたかったのではないかと思えた。
「あの…」
 すっかり暖まって出てきたのは三十分も経った頃だっただろうか。初めてここへ来たときよりもっとおずおずとした態度で、消え入りそうな声だった。
「由井、ココアを入れて上げよう。いつものインスタントで申し訳ないが」
 こんな場合、お湯を注ぐだけで出来上がるものは重宝する。温め治す時間も、今は惜しい。
 カップを手渡すために近寄ると、少しだけ後ずさる。一歩後ろに下がってカップを差し出すと、由井も一歩だけ前進する。面白がっている場合ではないが、怯えた子犬のようで心をくすぐられた。
「由井…」
 ココアが零れないように気をつけながら、大きく一歩前進し、由井の腕を掴み、懐深く抱き寄せると、途端に驚いて身体を硬くする。
「真柴さんっ!」
「由井が好きだ。今頃気が付いてごめん」
「でも…」
「由井は私と、由井をこんな目にあわせた男のどっちが好き?」
「それは…」
「私と、その男とどちらのためにピアノを弾きたい?」
「…」
「私と、その男とどちらと今一緒にいたい?」
「…」
「いつも素直なのに、今日はどうしたの?」
「だって…どうして…俺、ピアノ以外何の取り柄もない…男だし…」
「私も男の子は初めてだね…それに私からピアノを取ったらそれこそ1ミクロンも残らない。由井の質問には答えたよ?私の質問には答えてくれないの?」
「…だって…俺は男と付き合ったことしかなくて…でも真柴さんはそうじゃなくて…それでもずっと一緒にいたかったから…言わない方が良いのかなって…」
「由井、私が由井のことを好きだって言ったの、聞こえてた?」
 由井は急に顔を赤らめ、俯いてしまった。聞こえたけど…
「夢かも知れない…答えたら夢が覚めて、正晴との日常がまたはじまるのかなって思った…ピアノにしがみついていないと生きていられないような日々に戻るのかなって…」
「たとえこれが夢でも、夢から覚めたら私はまた由井の所へ行って何遍でも愛してるって言うよ」
 それからは大変だった。
 ココアが冷めてしまったのでもう一回作っているときに、何回も『愛してる』と言われ、飲んでいる間はピッタリ身体を寄せられて、腰に手をまわされて、好きとか可愛いとか言われ続け、極甘が好きな由井でもお願いだからもう言わないで、と懇願したくなるくらい甘い言葉を囁かれ続けた。
 由井がカップを洗っている間も後ろから抱きついてきたし、部屋の中を歩くときも後ろから被さっていたので大変だった。
「真柴さん…歩きにくいよ…こけたら真柴さん怪我しちゃうよ…」
 仕方なしにそう言うと、
「由井から返事をもらうまで離れない」
 と返ってきた。
 
「俺は…真柴さんが俺のことを好きだって気付いたよりももっと前からすごく好き…」
「…さすがジャズピアニスト…素晴らしいアドリブだね」
 テーマを楽譜通り弾けないだけ…と言おうとしたら、くるっと身体の向きを変えられて、口を塞がれてしまった。


「凰雅って呼んでも良い?」
 項にキスをされながら、真柴が囁く。
「…はぃ…でも…みんな助詞が重なるとおーって呼ぶようになる…」
 背筋がゾクゾクして、自分はこんなに敏感だったっけ?と凰雅は思った。
 名前もまともに呼んでもらえなくなり、性欲を処理するためだけに抱かれるようになった。セックスの時だけ凰雅と呼んでくれて、それも嬉しくて別れられなかった。勘当された両親も決して省略しなくて、だれからもちゃんと名前を呼んでもらえなくなったのが本当はとても寂しかったのだ。
「綺麗な名前なのに…省略するなんてできないよ」
「真柴さんは…ずっと凰雅って呼んでくれる?」
「ああ…凰雅、私のことも響って呼んで」
「…響さん…響さん…」
 二人で何度も名前を呼び合い、抱き締めあい、キスを交わし…
 凰雅は気持ちの良いベッドに横たえられ、響の大きく温かい身体に抱き締められ、朝まで幸せに眠った。


きっかけ4

Love Piano

響と凰雅

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