それから3日後に、凰雅は響のマンションへ引っ越した。響が気にしていた通り、凰雅の部屋にはピアノが無く、それが正晴によって売り飛ばされたと聞いて静かな怒りを爆発させそうになった。
「でも俺、店でほとんど毎日弾けるし…」
響のベーゼンドルファーで練習しても良いと言われたが、それは気が引ける。それに、響の練習の邪魔をしてしまうかもしれない。ピアニストは弾きたいときにいつでも弾ける状態にしておきたいものだと、凰雅は良く知っている。
「…じゃあ凰雅のピアノも買おう。そしたらお互いに気兼ねなく練習できるだろう?」
そう言われても…凰雅には先立つモノがない。
「私の実家には腐るほどピアノがあるよ。私が学生の頃まで使っていたグランドや、両親のものがね。それを持ってくればいい」
凰雅ももう一台持っている事は持っている。ただしそれは実家の自分の部屋に置いてある…勘当されて家を出たとき、凰雅は身の回りの物しか持ってでなかった。それは当然のことだ。
「俺も…実家にはあるけど…」
一応、スタインウェイ。親は裕福なため、物には恵まれていた。
「ご両親はクラシック好き?」
「…はい。母はピアノの先生をしてたし、父も良く一緒にコンサートに出掛けてました」
「…私のファンなら、勘当なんてすぐ解除してくれるだろうにね…私も由井家の息子同然になるんだし…」
知り合って一ヶ月も経っていないのに、それは気が早すぎるのでは?凰雅はこの先の事では不安が一杯なのに、響は冗談か本当か分からないようなことを言って笑っている。
「さて、さっさと片づけてしまおう。どうしたの、深刻な顔して?私は凰雅と一生添い遂げるつもりだよ?凰雅がもう嫌だ、って言っても無駄だよ。凰雅は私にとって、ピアノ以上に大切な存在なんだから。凰雅のためなら腕を切り落とされても構わない」
凰雅はじんわり心が温まり、目の奥がつんとするのを感じ、ゴシゴシ擦って涙が溢れるのを食い止めた。
凰雅がなかなか実家の住所を教えないので、響は栞原に頼み調べてもらった。栞原は既に三男が調べていたことを教えただけだったが…
恵まれた環境で育った凰雅は、この数年、本当に辛かっただろうと思う。 初めて恋した相手に身ぐるみ剥がれ、一方的なセックスで弄ばれ、たまに優しくされると子犬のようにしっぽを振って言いなりになる。
もしあの日、マネージャーの田代がライブの事を口に出さなかったら…知り合わないまま、いつか凰雅はあの男にピアニスト生命を奪われていたかも知れない。響の音楽も、高度な技術は保てたかもしれないが、無味乾燥でいずれは忘れ去られたかも知れない。人として、音楽家として花開く道を示してくれる凰雅にまず全てを取り戻してもらいたい。
「凰雅、今日はお休みだろう?私の仕事の後、どこか食事にでも行こうかと思うのだけど、何が食べたい?」
そう聞かれて、凰雅はちょっと首をかしげた。
「響さん、昨日も、一昨日も、外で食べたよ?」
凰雅は貧乏暮らしのお陰で簡単な物は作れるが、響は料理などやったこともないらしい。朝ご飯だけは凰雅が作ったものを美味しい美味しいと言いながらしっかり食べてくれるのだが、凰雅が休みの日以外は昼も夜も外食だ。「お休みだから俺が作っても良いよ?」
身体のためにはその方が良いし、二人でゆっくり過ごすのもたまには良い。
「それは次の機会に取っておいて…今夜は何処かへ行こう。和食の…家庭料理のお店があるんだが…」
「うん。和食は好き。響さんといっしょならどこでも良いよ」
今夜のコンサートはピアノ販売メーカーが持っている小さなサロンでのコンサートで、メーカーの招待客だけが来場する。コアな客が多く、表現方法が変わってきた響の演奏を楽しみにしていると聞いている。響も、小さなコンサートとはいえ聴いて貰いたいと、かつて無いほど渇望していた。
もちろん以前も人に聴いて貰いたいと思っていたが…それよりも、自分の力をいかに出し切るか、いかに完璧に弾くか、いかにピアノを操るかの方が大事だったような気がする。
それも悪くはないが…凰雅の官能的で、ピアノや音楽に対する価値観が正反対の音楽に自分の魂が反応したと言うことは、自分も凰雅と同じ側の人間だったのだ。それが分かってしまったのに、抗うことはできない。あのままの状態で演奏を続けていれば、いずれ行き詰まっただろう。なぜ行き詰まったのか分からないまま…
響が選んだだけあって、その店はどう見ても高級なお店で…こんな店で家庭料理なんて出るはず無い。気楽に考えていた凰雅は、服装も気楽で、なるべく見られないように背の高い響の背後に隠れるようにして店に入った。
「真柴様、お久しぶりでございます」
和服姿の上品な女性が響に深々とお辞儀をしている。
凰雅はますます自分が恥ずかしくなって、響の背後にすっぽり隠れてしまった。
「お連れ様は少し早めにお着きになったので、お通ししております。さ、どうぞこちらへ」
響が一緒に食事をしても良いと思っている『連れ』とは誰のことだろう?お兄さん達かな?お友達?
響の知り合いの顔を思い出してみるが、それらしい人は思い浮かばない。まったく初対面の人だったらなおさら嫌だ。誰か呼ぶならそう言ってもらえたら…少しはまともな格好をしてきたのに…
「凰雅、どうしたの?」
いつの間にか思いっきり俯いて、響のスーツの裾を握りしめていた。
「だって…なんか俺、場違い?」
響はくすっと笑い、凰雅の肩を抱いてそっと自分の前に押し出した。
「全然。場違いというか、この場合は私の方が邪魔者だね」
襖が開けられ、凰雅の目に飛び込んできたのは…
凰雅の両親と兄の姿だった。
「!!お父さんお母さん、それにお兄ちゃんまで!!」
「お父さん、お母さん、お兄さん、はじめまして。凰雅君の恋人の真柴響です」
そんな台詞が頭の上から降ってきたような気がした。
結論から言うと、凰雅の勘当は解除され、特に響のもの凄いファンであった母は、自分の息子が若き帝王に見初められたのが異常に嬉しかったようだ。母の高すぎるテンションに父と兄は全くついて行けず、母と響の音楽談義にただ相づちをうつしかできなかった。根本的な部分で何かが間違っていることも、分かっていながら敢えて誰も指摘しない。
以前はあんなに怒ったくせに…ジャズに転向?しかも男の恋人?父親は目の前にあった新聞やリモコンや、ありとあらゆる物を凰雅に投げつけたのだ。凰雅はただ床に頭をついて謝るしかできなかった。
今も父は、適当に相づちを打ってはいるが…
あの時は、一人で親に報告した。正晴はもう大人なんだから自分の家族には自分で報告しろと言い、勘当されて帰ってきても、何も言わないどころか「こいつ勘当されたんだぜ」とネタにされてしまった。話し合う余地もなくいきなり親元を放り出されてしまい、もうこの人と一緒に頑張るしかないと思っていたのに、現状は何となく違っていた。好きなことを好きな人と一緒にやっているのに辛いことが多くて、一生懸命ピアノを弾いても正晴に笑いかけても一向に辛さが拭えなくなっていた。
「ぎりぎりで、頑張ってたけど、辛くてもうダメかと思ってたんだ…」
響と母が何を話していたのか聴いていなかった。突然、その二人の話の腰を折って、凰雅はぽつりと言葉を発したのだ。
「凰雅?」
響が俯いている凰雅に顔を向けると、凰雅は俯いたまま膝の上で手を握りしめていて、その手は微かに震えていた。泣いているのか?
「凰雅、あなたは決して下手くそじゃないんだし、顔立ちは私に似てちょっと外人入ってるし、ゲイだし、良いピアニストになって当然なのよ。真柴さんも、ストレートだったのにあなたと付き合うようになってより素晴らしい演奏家になれたんだから…ホロヴィッツの言葉はやっぱり本当だったって、生き証人みたいなものだわね」
実は凰雅は俯いて涙を堪えていたのだが、母の変な発言で涙は何処かへ吹っ飛び、まじまじと母を見つめてしまった。
「お…お母さん…」
母はデザートの抹茶アイスを一口含んでにっこり微笑むと、また話し出した。
「真柴さんって素敵じゃない…お母さんが若ければお母さんの方がお嫁に行きたいくらいよ。ハンサムで才能があってお金持ちで…うちは女の子がいないからお母さん好みのハンサムさんにお母さんって呼ばれることができなくてちょっと残念だったのよね。もうこの際凰雅にお嫁に行ってもらうしかないわ。鳳樹(ほうじゅ)お兄ちゃんはお父さん似でゲイなんてガラじゃないし」
兄の箸は宙に浮いたまま止まっている…
「お母さん…」
この数年で、母にどのような心境の変化が起こったのか知らないが、勘当されたときとは大違いである。
「お母さんはそう言えば、執事喫茶とかイケメン喫茶にはまっていましたね…」
鳳樹兄は少し神経質そうに眉間に皺を寄せて母をちらっと見ながら言った。
「あれはあれでちょっと違うの。お母さんは音楽も人も動物も美しい物綺麗なもの可愛い物が好きなの。凰雅の前の彼は…ちょっとね。品がないにも程があるわ」
母は正晴に会った事があるのだろうか?最初に反対されたので、凰雅は家族に正晴を会わせたことはない。
「田代君から話しは聞いていたの。会うように段取りも付けてもらったんだけど…開口一番、困ってるから金をくれ、って。もうお母さんびっくりして…あなたは舞い上がってるから何て言っても言うこと聞かないだろうと思って、放置してたら二年たっちゃった」
その間もずっと田代が報告していたらしい。身体も元気だし、あの男のこと以外は順調だったから、静観していたと。
「お父さんは怒ってたし、凰雅が笑っていられるうちは大丈夫だから、表情が曇ったら回収してくださいって」
またしても田代には感謝しなくてはいけないことが増えてしまった。田代は自分の才能に見切りを付けて転職したが、自分の夢を凰雅に託してじっと見守っていてくれたのだ。
恐る恐る父親を見ると、やはりその表情は強張っていて、黙々と目の前の酒を飲んでいる。
父はクラシックのファンで、オペラや海外のオーケストラの公演には必ず行く。ジャズに関しては全く知識が無く、ジャズマンのなれの果ての姿ばかりが気になり、息子が酒と煙草が蔓延する真っ暗な地下の店に出掛けるのは堕落の象徴のような気がして許せなかったのだ。
お酒も煙草もやらないし、いい加減なヤツはどの世界にもいる。ジャズマンよりもしかしたらクラシックの演奏家の方がなんちゃってが多いかも知れない。なにしろ「音楽大学卒業」はプロになる条件と思われている。基礎からこつこつ積み上げてきた者と、昨今流行のAO入試で入学した者の底力の差は歴然としていて、音楽用語の意味はもとより楽譜さえまともに読めない者まで大学や短大を楽々通過してプロの印籠を手に入れるので、たまったものではない。
ジャズは、できなければ参加できない。よって、活動できると言うことは『少しは才能がある・人前で弾いて良い程度には上手い』と簡単だ。
「凰雅はジャズピアニストと言い張りますが、クラシックの腕もまだまだ健在です。私を初めて泣かせたのはグラナドスでしたから…」
響が凰雅に興味を持ったのはジャズライブでのほんの数音だったが、そこでは茫然自失していただけで、泣いたのはグラナドスだ。ライブハウスに客がいなかったら大泣きしていたかも知れないが…
「私にとって凰雅はかけがえのない存在で、いなくては生きていけない存在なのです。どうか私と付き合うことを許してください。許せるまで説得し続けます。それから、凰雅が時々家に帰っても良いように勘当を解いて上げてください。もうあの男のことで一切迷惑はかけません。その部分も含めて、凰雅は私が守ります」
父は特に何も言わなかったが店を出るときに、たまには帰ってこい、と言った。兄はもうすぐ結婚することになっていて(女性と、と強調された)実家で暮らすからお前は帰ってきても練習室に寝ろ、と言われた。どうも、実家に帰ってもいいようである。母に至っては、花嫁修業をするから次の休みには必ず来るようにと念を押された。
「お母さんに料理習いたいな…」
と言うと、父と兄は変な顔をし、響は嬉しそうに笑っていた。
そして、凰雅のピアノは家に残し、新しいピアノを結婚祝いに買ってあげる、と母。
「え…でも…そんなもったいないよ…」
「だめよ。真柴さんと一緒に新しい歴史を作らなきゃ。ジャズの人ってボストンピアノとか好きなんでしょ?」
「まあそうだけど…」
新しい歴史…正晴に売り飛ばされたピアノは家を追い出されてから必死で買ったアップライトだった。中古の中でも安いボロボロのアップライトだったけれど、知り合いの調律師に何度も調整してもらって弾ける状態にしてもらったものだ。調律師もピアノを廃棄処分になどしたくないので、凰雅の気持ちをくみ取って無料で修理してくれた。作業代などあってないような物で、凰雅のピアノにかかった費用はお金持ちのお嬢様達のピアノ調律代に少しづつ上乗せしたらしい。
あのピアノが無くなった日を今でも覚えている。昼間の限られた1、2時間しか練習できなかったが、愛着だけは人一倍あったのに。がらんとした部屋で、バイトに行くのも忘れて座り込んでしまった。何も考えられずに、ただ座って、ピアノがあった場所を見つめていた。泥棒かな、とも思ったけれど、正晴のコントラバスやエレキベースはあった。持ち運べる楽器を先に持っていく方が手っ取り早いと思うのだが…
正晴を捜し出し、ピアノの事を聞くと、あっけらかんとした声で『金足りなくなったから売った。お前は店で毎日弾いてるからいいだろ?』と言われた。それはそうだけど…時々練習していたクラシックの曲などはお店で弾けない。自作の曲も、スタンダードのリハモも、お店だとやりにくい。マスターに頼んでお客さんがいないときや閉店後に居残って細々した作業のような練習をしなければならない。
けれど出てきた言葉は…
「お金、足りた?あのピアノ、ボロボロだし…言ってくれれば俺が都合付けたのに…」
だった。悲しくて心が潰れそうだったけど、この上喧嘩でもして正晴から嫌われるのはもっといやだった。
「凰雅、良かったね。お母さんもああいってくれてるから、ボストンピアノ買ってもらいなさい。正晴に取られた分、凰雅は甘えて良いと思うよ」
響のマンションへ帰り色々なことを考えていたら、この数年間の悲しかったことが津波のように押し寄せ、泣きはしなかったけれど、響の胸にもたれ掛かってしまった。
「そうなのかな…わからない…でも、心配かけたぶんはきっちりお返ししないと…」
「凰雅は自分が幸せになるために時間を使いなさい。そうしていてくれれば私も幸せだから」
翌朝、響と凰雅は電話の音で目が覚めた。しかもそれぞれの携帯が同時に鳴り始め、背筋が凍りそうだった。なぜなら二人とも音色には敏感で、着メロの音質にこだわった結果、携帯の小さなスピーカーから流れてもそう悪くない音質の曲はエクソシストのタイトル曲「チュベラー・ベル」だと思ったので…単純な曲だが恐ろしさを多分に含んだメロディだ。二人とも同じ曲だが、機種の違いでどちらの携帯に掛かってきたか聞き分けることができた。
二人でほぼ同時に出る。
響は三男から、凰雅は栞原からだった。
『正晴が凰雅の前のアパートで大暴れしてる』
急に引っ越してしまい大家さんに迷惑をかけ、この上部屋を壊されたらたまったものではない。凰雅は直ぐに支度をしてアパートへ向かおうとしたが、響と、三男に止められた。
「立派な警察沙汰だよ。三男が向かってるらしいから、凰雅は事が収まってから警察署に来ればいいそうだ」
「でも…正晴のものとか、返さなきゃ…」
一応段ボールに詰めてライブハウスのマスターの家に預けている。響の家に持ってこようかと思ったのだが、いくらなんでも前の男の物を持ち込むなんて響に失礼だし、はっきり言えばもう見たくもなかった。
「後で送れば良い」
「…うん。そうする。響さん、仕事は?」
「今日はリハーサルが3時からで、本番は夜。それまでは一緒にいるから、凰雅一人で三鷹に行かないこと。わかった?」
「うん…」
軽い取り調べが終わり、凰雅の事情聴取がはじまったのは正午少し前だった。正晴との出会いから今朝までのことを詳しく聞かれた。響の三男は管轄外だったが、暇だったのか栞原と一緒に署に残ってくれた。栞原と共に最初に現場へ駆けつけて取り押さえたのも三男なので事情聴取もされるだろう。
「自分の担当している事件の犯人には逃げられるくせに…」
嫌みたっぷりな目を向けても三男は気にしていない風だ。
「お前、いつかは誤解を解いてやろうと思ってるがな、俺はこれでも優秀なんだぜ。見た目と違って考える方が得意なだけだ。俺が指令を出して生きの良いのが動く。今も頭の中では三つ四つの事件が同時進行中…」
「ご託は良いから。あいつはどうなるんだ?」
「薬でらりってるみたいだな。わけの分からないことを叫ぶばかりで話ができない。あいつはあいつで凰雅から離れられなかったようだ。凰雅はどこだ、ばっかり言っている」
「それは迷惑千万だな。凰雅の優しさにつけ込んで無理ばかりさせた上に悲しませて…男なら生活ぐらい自分でしろ」
「俺も栞原も動いてはいるが、いつまでもこのままってわけにはいかないぞ。あいつは精神病院送りだ。長くても2、3ヶ月で出される。保護者や保証人がしっかり監視してくれればマシだが…面接禁止令も本人がやぶっちまえばそれまでだ。何度か繰り返せば懲役になるが…精神病っつうのが一番やっかいなんだ。本人に治す気がなければいつまでも凰雅に付きまとうぜ」
それならそれで凰雅を守り通すしかない。
ジャズピアニストとして成功すればするほど目立つ。凰雅の成功を邪魔しないように守るには護衛でも付けるしかない。
「落ち着くまで本人とは話ができないんだって…」
凰雅はまだ正晴と話す気でいたのか…
響は今更話してもどちらの得にもならないと、こんこんと言い聞かせた。
凰雅に依存して生きることを本人が少しでも気にしていたら、こうはならなかったはずである。
「とにかく…正晴を憎めないならそれでも良い。そんな感情は凰雅には似合わないから…でも、もう係わるのは止めてくれ。あの男も、いつまでも凰雅を頼りにしていたら病気だって治らなくなる。自分で立ち直るしかないんだよ。それに…昔の正晴に戻ったら、きっと凰雅に謝りに来るから…待っていてもいいじゃないか?」
今すぐどうしても正晴を心配することが止められないなら、自分が愛し尽くして忘れさせればいい。
「うん…響さんごめんね。響さん以外の人のことを考えちゃいけないんだろうけど…正晴は俺にジャズの世界を教えてくれた…それは凄く感謝してる。だから、元の正晴に戻ってもらいたい…昔みたいにみんなで笑い合ってセッションしたいなって思うんだ」
「それじゃあ私とも連弾してくれる?」
「俺で良かったら…響さんほど上手くないよ?それに…どきどきして、上手く弾けなくなるんだ…」
ほぼ毎日のように何かの曲を一緒に弾いているが、途中で抱き寄せられたりキスされれたりで、最後は大変なことになってしまう。
きっともう人前でクラシックは弾けないかも知れない。凰雅が好きな曲や得意な曲に響との思い出がプラスされて、それこそあんなことやこんな事まで観客に垂れ流しそうだ。
響がピアノを弾いている姿を見るだけで息苦しくなることもある。あの神の手が昨夜自分をどれだけ翻弄したかとか、優しく力強く、凰雅を泣かせ続けたとか、思い出して鼓動が速くなる。
「どうしたの?」
この質問にも困ってしまう。白日夢に浸っているとすぐばれてしまうし、気持ちいいのを我慢しているときは意地悪そうに聞いてくる。
「顔が赤いよ?」
「…意地悪…」
響はくすくす笑うだけで、凰雅が赤くなっているワケを教えないと、もっと意地悪なことを聞いてくる。
「おや…なにか酷いことをした?凰雅を見ていただけだよ?」
そうだけど…
「ああそうだ、抱き締める力が強すぎた?」
「だいじょうぶ…」
「このくらいでも?」
腰を引き寄せ、ぎゅっと抱き締められた。息ができないのは腕の力が強いとかそういう事じゃなくて…
「だいじょうぶ…」
優しく頭を撫でてくれる手が気持ちよくて、そっと胸元に顔を寄せる。
「凰雅…」
つむじにちゅっとキスをされた。おでこ、鼻の頭、と下がってくれば自然と心待ちにしてしまう。
「ん…」
待ち望んだ口づけが凰雅の唇に降ってきた。
下唇を甘噛みされるとくびすじがぞくっとして首をすくめてしまう。
「は…っぁ」
吐息を漏らし少しだけ空いた口に強引に舌を割り込ませ、しっとり濡れた口内を舐め回し、凰雅の舌を優しく吸う。
「はいっ、そこまで!!」
急に轟いた大声に本気で驚き、声のした方にさっと目を向けると、三男が大きな体で開いたドアを塞いでいた。
「おにいさんっ…!」
びっくりするやら恥ずかしいやらで響から身を離そうとすると、かえってがっしり抱き締められてしまった。
「ドアぐらい閉めろよ…」
三男は後ろの観客の目を遮るようにしながらドアを閉めた。
ドアが開いていたなんて、全く気がつかなかった。響の後ろにドアがあったので、凰雅からは全く見えない位置だったのだ。そういえばまだここは警察署で、そんなことすら忘れるほど、どっぷり自分の世界に浸っていたことにますます顔を赤くしてしまう。
「見たければどうぞ…警察官が出歯亀するなんて思ってなかったからな」
「そりゃたまたま通りかかって目に入ったのが男同士のキスシーンだったら、足がすくんで動けなくなるわな」
三男はゲイではないが、正直言って響と凰雅のラブシーンは綺麗だと思った。何やら清らかでキラキラしている。
「今日はもう帰って良いそうだ。ヤツは医務室で寝てる。起きて具合が良さそうだったら拘置所にご宿泊だ。それよりヤツが使っていた薬は麻薬だったぞ。知り合いの精神科医にも事情聴取するそうだ。ヤツの持ち物はどうした?」
凰雅は正晴がドラッグに手を染めていたなどまったくの寝耳に水で、恐ろしくなって響にしがみついてしまった。
「荷物…段ボールに詰めてマスターの家に…響さん、マスターに迷惑掛かったらどうしよう…」
「大丈夫だよ。凰雅は誰に何を聞かれても、正直に答えればいい」
翌日、やや正気に戻った正晴は取り調べに対して恐ろしい台詞を吐いた。 麻薬は確かに精神科医からもらったが、もちろん病院からくすねた物ではなく『れっきとした』ルートから手に入れた物だと…薬代で借金が膨れあがり、借金を帳消しにしてもらうため凰雅に売りをやらせることにした…と。
さすがに凰雅もショックを受けたのか、怒りで身体が震えていた。
「バンドをやるためだと思ってたのに…目標が同じだと思ったから、何も言わなかったのに…ひどい…ひどいよ…」
自分の快楽のためだけに凰雅からむしれるだけむしったのだ。むしる物が無くなったので、今度は凰雅の身体を売ろうと…
「あの日、響さんと会えて本当に良かった…会ってなかったら今頃…」
想像しただけでおぞましい…背筋がすうっと寒くなり、目の前が真っ暗になりそうだった。立っていられるのは、響が支えていてくれるから。出会ってほんの一ヶ月、ほぼ一目惚れ、いや一聴惚れだった。強烈に惹かれ合い、心も魂も、そしてその全てを注ぎ込んできた音楽も揺さぶる怒濤の恋愛を経験することができた。
もしかしたら、今からもっと燃え上がるのかな?
落ち着いていくのかな?
どっちにしても、絶対に失うことはない。たとえピアノが弾けなくなっても、二人で弾いた曲はいつまでも残るのだから。
「ねえ響さん、今見ている星の光は何億年も昔の光りでしょう?」
「ああ、そうだね」
「じゃあ、僕たちが弾いた音も何億年も響き続くのかな?」
「…物理は苦手だけど…そう思うことにしたら素敵だね。いつかピアノが弾けなくなっても、私たちには聞こえるだろうね、あのグラナドスが」
END
Love Piano
響と凰雅