空・翔る思い

安土と空

 うちみたいな成金に限って、こんなセキュリティだかなんだかがしっかりしているところに憧れるんだろうな…カードキーなんて、最初は格好いいなって思ったけど、しまうところに困るしカバンの中で行方不明になるし…じゃらじゃら言う鍵束のほうが使い勝手がいいよな…
 
 カバンの中を隅から隅まで探し、制服のポケットというポケットを二度確認し、もう一回カバンを捜索しようとエントランスに座り込んでいると、大勢の男達の集団が近づいてきた。邪魔にならないように避けようと立ち上がり、ちらっとその集団を見る。
 中央にいる三人以外は真っ黒のスーツ。5,6人いるだろうか。はっきり言って怪しい集団だ。黒スーツじゃない一人が胸ポケットからカードキーを取り出して、オートロックのスリットに差し込む。
 こんな時、一緒に入っても良いのかな…
 カバンの中に手を突っ込んだまま、次々にガラスドアの向こうに入っていく黒服達を情けない顔で見ていたら…
 黒服ではなく、カードキーを持っていた人でもない、もう一人の人がフロントの呼び鈴を鳴らし、係の人を呼び出してくれた。係の人は僕の顔を見ると頷きながらドアを開けてくれて…その上黒服の一団はエレベーターのドアも開けたままで待っていてくれた。
 フロントの人に頭を下げながらエレベーターまで急ぐ。エレベーターは三基あるが、僕が住む高層階に行くものは一基だけだ。各階止まりが二基、そして今僕が走り込もうとしている20階までノンストップエレベーターは、このマンションの中でも特権意識をくすぐる物の一つ。高層階には四軒しかないので他の住人とかち合う確率も少ない。


「ありがとうございます…」
 誰にともなく頭を下げてお礼を言う。一番えらいのは、やっぱりど真ん中にいる人なんだろうか。一際目立つ精悍で男らしい体躯と、それに見合った顔は恐いだけではない男ぶりの良い整った顔立ちをしていて、温和しめで目立たない自分が憧れるような男だった。
「24階で良いのか?」
 聞いてきたのはその男前だった。声も、凄い。
「あ…はい、ありがとうございいます」
 最上階は成金の我が家でも買えなかったらしい。ただし、母曰く…最上階よりもうちのほうが広い…のだそうだ。
「鍵が無くて家の中に入れるのか?」
 そう言えば自分の鍵はまだ見つけていない。
「雨露しのげるからドアの前でゆっくり探します」
 自分でもなんだかな、と思う台詞だったけれど、その男と両隣の二人もくくっと笑っていた。
 もう一度礼を言ってエレベーターを降り、僕は本格的に鍵を探すために、ふかふかのカーペットにどっかり座り、カバンの中身をまず全部廊下にぶちまけた。


 僕のうちは昔、ごく普通の家だった。父は普通のサラリーマン、母は専業主婦。ある時父が知り合いと一緒に始めた健康食品の通販が爆発大ヒットしてしまった。それまでは本当にごく普通かちょっと下くらいの家庭だったのに、お金が入るようになってから色々なことが変わってしまった。
 三歳年下の弟がちょうど幼稚園に入る頃で、お受験戦争に突入。僕と二歳上の姉は公立の小学校だったけど、毎年私立の編入試験を受けさせられるようになり、姉は2年目で合格。僕ははっきりしない性格や、消極的でぶっきらぼうな態度が受け入れられず、不合格記録を更新。それも中学受験の前に僕専用のパソコンを買って貰うために、面接で演技をする事を約束して合格してしまった。周りは生粋のおぼっちゃまばかりで面白くなかったけれど、だからといってごく一部の不良と仲よくする勇気もなく、ひたすら真面目に学校生活を送っている。
 両親もすっかり変わってしまった。父は仕事が忙しいこともあったけれど、家にいることが少なく、母も毎日着飾ってお出かけ。姉も玉の輿に乗るべく良家のお嬢様、おぼっちゃま方とのお付き合いに余念がない。弟は物心ついた頃からお金持ちの家だったので、おぼっちゃまらしい生活を送っている。僕だけが変わらず、取り残されたようにぽつんと生きていた。
 鍵は、入りっぱなしのタオルハンカチの中に挟まっていた。
 カバンの中身をかたづけて、僕はひっそりとした家の中に入っていった。


「車を止めろ」
 自宅マンション近くの公園で、先日の鍵少年が雨の中、段ボールを抱えて佇んでいた。どのくらいそこでそうしていたのか、すっかり雨に濡れて、遠目で見ても髪から雫が落ちているのが見てとれる。周りの風景が、何かフィルターが掛かったように霞んで…いや、少年の周囲だけがくっきり浮かび上がっているような気がする。
 車の後部座席には先日少年に声を掛けた男が座っていた。深く張りのある声の持ち主。
「こないだの坊やか?」
「そのようです」
 助手席の男は、フロントに知らせてくれた男だ。後部座席の男より一回り細く、少し冷たそうな男。
「降りるぞ」
 なんの気まぐれか、少年の様子が気になった男は雨に濡れるのも構わず、車から降りると少年に向かって歩き寄って行った。
「組長!」
 助手席の男も素早く車から降り、大きな傘を持って組長、と呼ぶ男の後を追いかけた。


「どうしたんだ?」
 ほれぼれするような声には聞き覚えがある。空(そら)は俯いたまま固まっていた首をやっとこさ動かして横を向いたが、雨染みができたチャコールグレーのスーツしか見えなかった。首を上に向けようとすると、ぎぎぎぎ、と鳴ったような気がする。
 見上げた先には、声に見合った顔の男が自分を見下ろしていた。鍵が見あたらないと親切にしてくれた男だ。
「あの…これ、仔猫…」
 段ボールの中には団子になった仔猫が何匹か、眠っていた。
 後から来た男が差しだした傘は、空と仔猫をしっかりと雨から守っていた。


「傘、ごめんなさい…スーツが染みに…」
「お前の方がずぶ濡れだろう」
 エントランスホールの入り口で、空は傘をさしてくれた男からタオルを受け取り、ずぶ濡れの身体をおおざっぱに拭く。
 大きなガラスのドアが音も立てずに開き、男達は歩き出したが、空はその場を動かない。
「どうした?」
 なかなか入ろうとしない空のために、男は自動ドアが閉まらないようにドアを押さえていたが、ここのドアは時間内に閉まらないと警報が鳴る。仕方なく、男はもう一度外に出て、空を見下ろした。
「母に、捨ててこいって言われたけど、できなくて…」
「とにかく、風邪を引くから中に入れ。そいつら連れてうちに行ってから考えよう」


「矢崎、うちに連れて帰る」
「…はい」
 全く何考えてるんだ…矢崎は組長に呆れた視線を送りながらも、取りあえずその言葉に従うことにした。
 先日このごく普通のどこにでもいそうな少年に出会ってから思い出し笑いをするようになった男が、今度は仔猫を連れて帰る?明日はこの雨が石つぶてにでも変わるのじゃないかと、内心では仰天していた。
「え、でも…」
 少年もその言葉には十分驚いたようで、目がまん丸になっている。
「今、それ以外に何か方法があるか?」
「…無いです」
「俺も猫は嫌いじゃあない」
 矢崎は横を向いて、組長に見えないように目を剥いた。
 この男とは産まれたときからの知り合いだが、かつて一度も小動物に情けを掛けた所など見たことがない。番犬を素手で殴り殺した所は見たことはあったな。猫は…敏感な動物はこいつの気配を感じただけで姿を隠す。
「矢崎、この辺の獣医探しとけ。猫用のミルクとほ乳瓶もな」
「…はぁ」
 矢崎は、いよいよ世界の終わりが来たのかと、一応心の中で十字を切った。
「俺は安土秋思(あづちしゅうじ)だ。お前の名は?」
「白石空…です」
「空か…自由に生きていけそうな、良い名だ」
 母親に小言を言われて何も出来ない子供にそんなことを言ってもプレッシャーになるだけなのに…口数も少なく、感動も薄いこの男が何を勘違いして売れない詩人のような真似をしているのか…

 

 名前はこの間の一件の後、直ぐに調べさせた。空、と言う名前を背負うにはまだ幼く、本人も家族という一番小さな世界で藻掻いていた。
 だが、洞察力のある瞳はその小さな世界を子供なりに見透していて、時期が来ればいずれは自分から飛び立っていくだろう。
「空、濡れてる物は全部着替えろ」
 安土が言う前から、矢崎はすでにタオルと空の着替えを準備し、仔猫を一匹ずつ丁寧に拭いていた。
 空はずぶ濡れの制服を脱ぎ、貸して貰ったスウェットの上下に素早く着替えると、矢崎が拭き終わった仔猫たちをタオルでくるみ、ひとまとめにしてそっと腕の中に抱いた。
「安土…社長、あと一時間ほどで会議が始まります。後は他の物に任せていただけませんか?」
 安土は軽く舌打ちしながら腕時計を確かめた。
「仕方ねぇな…空、お前は何も心配しないで良い。とにかく今晩はうちで預かる。好きなだけ側にいて良いが、遅くならないうちに帰って、明日また来い。これからのことは明日でも遅くないだろう?」
 空は胸に抱いた仔猫たちと安土を交互に見つめ、嬉しそうに大きく頷いた。


 こんなに家に帰るのが待ち遠しい日は、小学校の一年生以来だ。あの頃でも、今日のように誰かを待たせる焦りと、待っていてくれる喜びをかみしめた事はない。ただ早く帰って家で寛ぎたいとか、その程度だったような気がする。昨日はあの後直ぐ、安土さんが会社へ戻る車に便乗して仔猫たちと一緒に動物病院まで連れて行ってくれた。矢崎さんと安土さんはそのまま会社へ向かったが、そのかわり別の黒服の人が二人で付き添ってくれた。
 仔猫たちは全部で四匹。真っ黒、鯖トラ、お腹が白い鯖虎が2匹、の3タイプ。真っ黒が女の子で、あとはみんな男の子だ。生後2週間くらいで、捨てられて時間が経っていなかったのかそんなに衰弱もしておらず、のみ取りをしてもらうだけで良かった。
 安土さんの部屋に帰ると、ケージやトイレ、猫用のホットカーペットに仔猫用ミルクに、何から何まで揃っていた。病院で教わったとおりにミルクをあげるとみんな元気にほ乳瓶に食らいついて、黒服の男達が強面を綻ばせながらミルクを飲ませる様は一生忘れられないくらいおかしく、心がじんわりと温まった。
 


 空はどこにでもいる平凡な少年だが、それは安土が昔、憧れていた子供らしい姿だった。親は両方ともろくでなしで、自分の力と知恵で生きていくしかなかったが、それは楽しいことではなく、ごく普通の家庭が羨ましくてたまらなかった。どこかで安寧を求めつつ、生きていくために、ろくでなしの親を見返すために、躍起になっていたらいつの間にか今の自分になっていた。使いっ走りのちんぴら時代に親父に目を掛けられて以降、組のためだけに生きてきた。
 空はどこか飄々として自立しているように見えるが、その裏で愛情を求めているふうな姿を見てしまった。雨の中でずぶ濡れになって俯く全身から溢れる寂寥感、声を掛けて振り向いたときのうつろな瞳が、うちに来いと言った瞬間から迷いつつも嬉しそうな、温かく優しい光りを零し始めた。
 空が自分のことをヤクザだと知らないからとは言え、久しく、そんな感情を向けられた事はない。もしかしたら、かつて一度もなかったかも知れない。
 子どもの頃は自分が子供であることが疎ましく、大人になってからもガキは煩わしいだけの存在だったが、少年が放つこの静かで温かな気は、踏み固められた足元の雪のように固く冷たかった自分を、心身共に緩やかに溶かしてくれそうだった。

 
 安土の部屋には主が不在で、安土と矢崎はさっき会社を出たばかりなので二十分ほどで帰宅するとのことだった。ちょうどミルクを飲ませ終わったばかりで、仔猫たちは幸せそうに眠っている。もう見ているだけで可愛くて可愛くて…
「おう、来てたのか」
 帰宅して直ぐ、安土は空の隣へ座り込むと仔猫たちの様子を覗いた。
「昨日は何から何までお世話になって、ありがとうございました」
「いや。お前がうなだれてるのを見てられなかったんだ」
 真顔で言われると気恥ずかしい台詞だが、安土の声が良いからか、恥ずかしさよりも心にぐっと染みこんでいく感じがする。
 お茶を淹れてもらったので、眠っている仔猫たちを起こさないように静かに立ち上がろうとすると、安土が腕をとって助けてくれた。
「あ…ありがとうございます」
 安土の温かさが腕から伝わり、全身を満たしてくれるような感覚。
「ケーキを買って来た。嫌いじゃなかったら食え」
「大好きです。甘い物」
 安土がふっと微笑んだ。元が良い男なだけに、笑うともっと見惚れてしまう。感じたことのない胸のざわめきが、さーっと全身に広がり、すぐに消えた。


「うち、昔はこんな所に住めるような家庭じゃなくて…平凡な家だったんです。父が事業で成功して、急にお金持ちになったんです」
 ソファーから降り、床に座り込んでケーキを食べながら空はぽつぽつと話し始めた。
「なんでも買って貰えるようになって良かったじゃないか」
 空はちょっとだけ不満そうな顔をして安土を見た。そんな顔を向けられた安土は、どんな酷いことを言ってしまったのか全く分からず、緊張した面持ちで矢崎を見たが、矢崎は口の端を少し持ち上げただけで目を反らした。
安土の表情変化は異様に少なく、長年隣にいた矢崎にしか推し量れない。今も安土の動揺は激しかったが、矢崎以外には分からない程度だ。
「んと…お小遣いはうれしいんだけど…無くした物も沢山あるような気がするんです」
「無くした物?」
「家族…とか。いるけど、いない。お母さんもお姉ちゃんも綺麗になったけど、遊び回って全然家にいないし。子どもの頃、家に帰ってただいまーって言うとどっちかが返事してくれた。おやつを作ってる匂いとか、晩ご飯の匂いとか、テレビの音とか、賑やかで…今は誰もいない」
「空は淋しがりや、なのか?」
「どうかな…本当に普通の家だったのに、急に私立の学校受験させられたり、それまでの友達とは遊ばせて貰えなくなって…体裁がどうのとか言ってた」
「金持ちには金持ちの付き合いがあるからな」
「うち、お金持ちっていうか、成金だよ?今いってる学校なんか、先祖代々おぼっちゃまばっかりで…すごく窮屈。それにね、今一番やなのは、やっぱり猫のことかな…」
 温かいケージの中ですやすや眠る仔猫を見やると、表情を無くしていた空に微笑みが戻ってくる。
「子どもの頃にね、捨て犬とか捨て猫とか見ると放っておけなくて、いつも連れて帰ってた。そのたびに母に怒られて…うちは余裕がないから飼えない…って。元の所に返すたびにごめんね、って何度も言ったけど気持ちは晴れなくって。いつか絶対助けてあげるからねって思った。今はうちも余裕があるでしょ?だから拾って帰ったら…猫の毛がそこら中について汚いからだめって…」


「理由も昔より酷くなったよね?僕は、この子達を見捨てたらどうなるか知ってる。昔より良く知ってる。でも母は…お金持ちになって高い物買ったり綺麗なうちに住むようになって、どんどん酷くなっていく。心が狭くなって、見えている物も見ようとしなくなった。それがたまらなく悲しい。僕はいつになったらこの子達を助けて上げられるのかな?早く大人になってここから離れないと、自分もいつか母みたいになるのかな?」
 安土は空の、冷めてしまった紅茶のカップを取り上げ、矢崎に渡した。
「お前はならない。俺がさせない」
 他人のせいで空の表情が曇るのは許せない。それが血を分けた親兄弟のせいなら尚更だ。
「でも…もう凄く迷惑かけてしまって…」
「迷惑だなんて思ってない。うちは部屋も余ってるからな。猫四匹置いておくスペースくらいある。お前は何も心配するなと、昨日言っただろう?」
 空はその言葉に、ぽっと微笑みを浮かべた。嬉しくてしょうがない様子だけれど、大はしゃぎできないのは性分か。
「ありがとうございます!でも、この子達にはちゃんと新しい家を見つけます。だからそれまで、場所を貸してください」
「好きなだけ使え。ここには必ず誰かいるから、好きなときに来てお前の居場所にするといい」
 笑う時は下唇を噛んで、満面に笑みを浮かべる。空の癖を、両親は覚えているだろうか。


 一匹づつ体重を量り、写真を撮り、インターネットとチラシで里親を探すのだそうだ。その作業は自宅へ帰ってからで、その前に四匹と思いっきり遊び、ミルクを飲ませ、トイレを済ませる。
 家にいるように見せかけるため時々自宅に帰り、またこっそり出掛けてくる。広い家はそんな時に便利が良いらしい。狭いけれど他の部屋から一番離れた、玄関に近い所を自室にしてもらったので、誰にも気付かれずに抜け出せるのだそうだ。
「安土さん、どんなお仕事してるのか、聞いても良い?」
「どんな仕事に見える?」
「正直に言って良いの?」
「…ああ」
「…もしかして…ヤクザ?」
「分かるか?」
「うん。安土さんだけなら大きな会社の社長って感じだけど…」
「…こいつらか」
「ふふふ。黒服で強面で、時々安土さんの事をおやっさん、て呼んでる」
 それでも空は恐ろしがるふうでも敬遠するふうでもなく、自然体でいてくれる。
「…嫌じゃ、ないのか?」
 空は少しだけ首をかしげて考えている。その沈黙は、安土を動揺させた。
「嫌じゃない…かな」
「…かな?」
「うん。あのね、みんなもっと格好いいスーツ着るといいのに…安土さんや矢崎さんはいつも素敵なかっこしてるでしょ?」
 ヤクザという生業が嫌なのではなく、見た目がかっこわるいのだと聞いて、安土はほっと胸をなで下ろした。
「だがな、こいつらに好きな格好させるとセンスが最悪だから収拾つかなくなるんだ。黄色とか紫のスーツはもっと嫌だろう?」
 全員をぐるりと見回し、また下唇を噛んで笑い出した。今度はどうにも笑いが収まらないようで、しばらくの間お腹を押さえて笑い続けた。
「僕の"おぼっちゃまでございます"って印籠みたいな制服よりは人間らしいよ…」
 人間のクズ、と言われ続けた自分たちを、空はいとも簡単に人間に戻してくれた。

 
 空は毎日自宅に帰る前に安土の家に寄り、仔猫と鼻をくっつけて挨拶した後、親が帰ってくるのを見計らって自宅へ一旦戻る。何となく親と顔を合わせ、また安土の家に上がって来る。朝もかなり早くからやってきて、安土を起こさないように静かに仔猫の面倒を見る。組員は常時二人泊まり込んでいて、安土の食事の世話や身の回りの雑多な世話をしており、特に朝は忙しいようなので、仔猫の面倒はできるだけ空が見ていた。
 が、ある朝、組員の代わりに安土を部屋まで呼びに行って…それ以来安土のリクエストで、朝一番に強面を見るより空の笑顔を見た方が嬉しいと言われ、空の仕事となった。空が呼びに行く頃には起きてシャワーも浴びており、後は着替えるだけの状態なので挨拶をする程度で済む。
 空は仔猫の世話をした後、安土と一緒に出掛け、車で学校の途中まで送ってもらう。最初は断ったのだが、安土が強引に送ると言い張り、どうしても断ることが出来なかった。けれども、安土の側にいることは嬉しくもあり、一週間も経たないうちに、空は安土が父親だったら良いのに、とさえ思うようになった。
 でも…仔猫たちに里親が見つかったら、こんな毎日も終わる。気持ちの切り替えは早いほうだが、そんな自分が、空は嫌いだった。


「空!」
 親にばれたのは、思ったより早かった。
「お前、朝早く補習があるとか言ってなかったか?なんでこんな時間にここにいるんだ?その人達は誰なんだ?」
 安土さんの車に乗り込もうとした瞬間、エレベーターから降りてきた父に遭遇。いつも重役出勤で空より一時間後に出掛けるはずの父が、なぜかそこにいた。
「父さん…」
 咄嗟のことでどういえばいいのか分からず、安土を見上げた。
 安土はゆっくりと父に歩み寄っていく。
 誰が見ても父より若いのに風格があり、空はなぜだか誇らしかった。
「25階に住む安土秋思と言います…はじめまして」
「…空の、父親です…」
 
 

 ごく普通のどこにでもいそうな男、それが空の父親だ。平均的な身長、顔立ちも普通。普通すぎる普通のサラリーマンだったが突然成り上がってそれらしい物を身に纏っているので、一応社長には見える。店に言われるがまま誂えた高級生地のスーツ、高そうな時計、持ち物、車はメルセデス…成り上がりでも実業家としてどこに出てもそれなりに見える。
 けれど、安土とはかなり違う。見た目ではなく、全身から漲る覇気が、安土にはあった。何事にも動じない強固な意志を持った男は、積み上げてきた物が父とは違うのだ。
 周囲を囲む黒服の取り巻きも、仔猫や空と接するときとは違う緊張感を見せている。
「空には私が拾った仔猫の世話を頼んだのです。都合が合ったので途中まで送ってさしあげようとしていたのですが…」
 父にも安土の声は有効だろうか?深く張りのある声で話されると、どんな作り話でも信じさせるような力がある。
 父はその場の状況にたじろいでいたが、それでも息子を取り戻そうとする勇気はあったらしい。
「それは…お役に立って何よりですが…息子に話が…そう、話があるので私が送ります。空、こっちへ来なさい」
 安土は空の背中を軽く押して、父親の元へ行けと態度で示した。仕方なく空が歩き始めると、小さな声で『あとで連絡する』と言ってくれた。


 父の車の助手席で、暫くは二人とも無言だった。忙しい父とはあまり話す機会もなく、空は学校でも私生活でも問題を起こしたことがないので説教されたこともなく、父は何を話して良いのか分からなかったのかもしれない。無言に耐えられなくなったのは空の方だった。一応自分の言い分はあるが、嘘をついたのは悪いと思う。
「とうさん…嘘をついてごめんなさい」
「…ああ…それは大したことじゃないが…安土さんは…どんな仕事をしてる人なんだ?」
 やっぱりそこか…と空は思った。いかにも、な雰囲気は堅気だとしても近づきたくないだろう。
「…見た目通りの仕事だよ」
「だとしたら、直ぐにお付き合いはやめるべきだ。いや、やめろ。はっきり言うが、連中は社会からはじき出された集団だ。えらく金回りが良さそうだが、それもどんな汚い手で得た金だか…」
「そんなこと無い!僕が雨の中で途方に暮れていたら、助けてくれた。仔猫の面倒だって、みんなで手分けして見てくれてる。黒スーツだから猫の毛がついたら目立つのに、ミルク零したり、おしっこ掛けられたり、それでも嫌な顔しないで手伝ってくれた!」
「ちょっとまて。お前がなんで途方に暮れてたんだ?」
「それは…猫を拾ったのは僕で、家に連れて帰ったんだけど…母さんが捨てて来いって…」
「それであいつの家に置かせて貰ったのか?」
「……」
「空!お前バカか!?ヤクザに借りを作ったらどうなるのか分かってるのか!?全てが金、金、金の連中なんだぞ?法外な迷惑料や飼育料取られたらどうするつもりなんだ!まったく!金輪際あいつらとは係わるな!」
 最初は穏やかだったが、最後の方はそれは凄い剣幕だった。
 そしてその日は、そのまま父の会社まで連れて行かれてしまったのだった。


 父と一緒に家に帰ると、今日は母も在宅していた。
 父は会社の部下に安土の組を調べさせ、かなりの規模の指定暴力団だと分かるとますます頭を抱え、何かあったときに直ぐ対応できるよう会社のごく一部の幹部に事情を話し、警備全般を見直すように会議まで開くしまつだった。既に自宅には2名のガードマンが配置され、妹と弟にも送り迎えのガードマンが手配されていた。弟は大人しく、家にじっとしているタイプなので不満はないようだが、遊び回っている姉と母は空が帰宅するなり目を剥いて、小型犬のように吠えまくった。
 しばらく両親と姉から小言を言われまくったが反論すると倍になって返ってくるので、空は黙っているしかない。黙れば黙ったでまた文句を言われる。いたたまれない気持ちではあったが、それよりも心配なのは仔猫たちと安土のことだ。
 彼らのことだから、事情を察してくれて仔猫の世話もきちんとやってくれているはずだ。でも、安土からの連絡が来たらどうすればいいのだろう。言われた小言の全てを安土に話す必要は無いけれど、連絡が取れなければきっと心配するはずだ…
 

 安土から連絡があったのは、この騒動のお陰で久しぶりの家族団らんをするハメになって何となく落ち着かない雰囲気で居間に集まっているときだった。安土からの電話専用の着信音がメロディーを奏で始めた。
「空、携帯を寄越しなさい」
 父に言われても素直に出すはずがない。が、履歴を確かめずにはいられなかったので確かめようとポケットから取り出したら、ガードマンにもぎ取られてしまった。父に手渡すと、父は着歴を見てかけ直した。
「空の父親です……申し訳ありませんが息子は電話に出られません。息子が預けている猫はこちらで処分しますので、後ほど家の者が引き取りに行きます。私の携帯から電話をかけ直しますので、ご要望があればおっしゃってください。では、すぐにかけ直しますので」
 そう言うと履歴の電話番号を見ながら自分の携帯からすぐにかけ直す。
「白石です。先ほどは失礼しました。この番号にかけて頂ければそちらのご要望には出来るだけお答えします。申し訳ありませんが、息子とは連絡を取らないで頂きたい…では…一時間ほどしてうちの者を行かせます」
 半ば一方的に話し、強引に通話を終了する。普通の親であれば自分の息子がヤクザと仲良くなるなど言語道断だろう。父は空の携帯から安土の番号を消去し、ICカードを取り外した。
「番号を変更してから返してやる」
「…猫は?引き取りに行くって…」
 黙って成り行きを見ていた母が反応した。
「冗談じゃないわ、猫なんて…うちに連れてこないで。そのまま保健所にでも連れて行って頂戴!」
 

 今夜一晩でも預かる事が出来れば、明日にでも、里親捜しで知り合った保護団体の人やかかりつけの獣医さんに預かって貰えるかもしれない…
「今夜だけでいいから預からせて!僕の部屋から絶対出さないから!お願いします!!」
 せっかく助かった命なのに…ここまでみんなで一生懸命育てたのに、今更殺すなんて、それこそ冗談じゃなかった。父に向かって必死で頭を下げたけど、何とも答えてくれない。何度もお願いしますと言ううちに悔し涙が溢れてきた。お願いします、と何度も何度も繰り返すうちに、最初は本当に心から頭を下げていたのに聞き入れて貰えず、そのうち哀願が家族に対する嫌悪と怒りに変わる。気がつけば、いつの間にか「嫌だ、絶対に嫌だ」に変わっていた。
 嫌だ、と連呼しながら拳を握って震え始めた空の様子に、父はガードマンに頼んで父の寝室に閉じこめることにした。そうと分かった瞬間、空は目の前にいた父を思いっきり突き飛ばして、玄関に向かって走る。幸か不幸か父はガードマンにぶつかり二人一緒に体勢を崩し、そのお陰で家から飛び出る事が出来た。
 エレベータに向かいボタンを押すが、思った通り直ぐにその扉は開かなかった。非常階段に向かって突っ走り、階段室に飛び込み上の階に駆け上る。しかし…安土の居住区への扉は鍵が掛かっており、開けることが出来なかった。階下では複数の慌てた足音がしていて、それがだんだん近づいてくる…


 安土は携帯をソファーに放り投げ、大きなため息をついた。
「どうした?」
 怒りを押し殺したような安土の雰囲気に飲まれた組員達の中で、矢崎だけがいつもと変わらない様子で話しかけている。
「空の父親に、猫は一時間後に引き取る、空とはもう会うなと言われた」
「はっはっはっはっはっ!親に引き裂かれた恋人同士か…ははははっ」
「うるさい」
 自分の子供とヤクザが仲良くなることを望む親などいるわけがない。それは分かっているが、その行動のあまりの素早さと問答無用の態度には呆れてしまう。
「で、どうするんだ?つうか、お前、あの坊やに惚れてるのか?」
 矢崎の問いに、安土の眉間がぴくっと動いた。
 黒服達の視線が痛い。
「…それはどういう感情なんだ?惚れたことがないから分からんのだ」
 お互いに女に不自由したことはないが、入れあげたこともなかった。よって、矢崎もよく考えてみれば、惚れるとはどういう事なのか全くもって分からなかった。
「取りあえず、仔猫をどうするんだ?返すのか?」
「いや。返したら保健所行きだろう…空が悲しむ」
「父親はきっと、俺たちが金でも要求してくると思ってるぜ」
「…金より、空がこいつらと戯れている所を見ていた方が気が休まる」
「空を手に入れたいか?」
「…ああ。手に入れたい。手に入れたいな…」