空・翔る思い

安土と空

2

「組長、非常階段で空さんが叫んでます」
 ドアの外に置いている見張りが報告しながら飛び込んできた。
「直ぐに行く」
 安土はがばっとソファーから立ち上がり、非常階段へ急いだ。
「開けてやれ!」
 非常階段へ通じるドアを開けると、空が飛び込んできた。
「空!」
「安土さんっ!」
 空は安土を見つけると、一直線に掛けてきた。
「大丈夫か!?」
 涙で顔をぐしゃぐしゃにした空が、安土に飛びついてくる。安土はそのしなやかな身体をしっかりと抱きとめる。
「父さんが、猫を…猫を保健所に連れて行くって…!!安土さんにも会うなって…」
「させはしない。お前の望みを言ってみろ。全部俺が叶えてやる」
 それこそが惚れた弱みだな、と矢崎は苦笑った。
「…矢崎、何笑ってるんだ…取りあえずそいつらを落ち着かせろ。俺は空を猫に会わせてくる。話はその後だが、お前が先に下へ行って説明しておけ」
「了解」


 安土は空を抱きかかえたまま部屋へ戻りソファーに落ち着かせると、仔猫たちを一匹づつ、空の膝の上へ置いた。
「安心しろ。こいつらは里親が見つかるまで置いといて良いんだぜ。そう言う約束だったろう?」
 空にぴったり寄り添い肩を抱くと、空は軽く鼻を啜りながら安土を見上げ、唇を噛んで、笑みを零す。
「今日はうちに泊まっていくか?帰りづらいだろう…猫と一緒に寝ても良いぞ」
 寄り添った空の身体から伝わる熱は心地よく、安土の尖った神経を柔軟なものに変えていく。
「仔猫、小さいから潰しちゃうよ…」
 まだ涙の雫が残っていたのか、笑みで細められた目元の長いまつげが微かに煌めいた。


 仔猫をケージに戻し、空を風呂に入れて眠り支度をさせた後、安土は白石家を訪れていた。矢崎が先に向かい、ある程度話をしているはずだ。部下は玄関の外に待機させておいたが、白石家が雇ったガードマンとやらとにらみ合って暇を潰すだろう。
「空はうちで仔猫と眠ってる。今夜はうちに泊めさせてもらえんか…」
 どうも父親はヤクザが無償で手を貸すなど信じていないようで、息子をかえしてもらうにはどうすれば良いか、そればかりを聞いてくる。返さないのではなくて、本人が安土の家へ助けを求めてきたのだから、本人の気が済めば帰ってくるはずだ。
「こちらの希望は、空くんの希望と同じだと、何度言っても聞き入れてもらえません」
 矢崎が静かに言った。
「…空がうちで仔猫の世話をすることや、里親捜しの間うちが一時預かるって事をか?」
「そうです」
「白石家に迷惑はかからんだろう…」
 この誰でも分かる状況を何故理解してもらえないのか…
「うちがヤクザだから、後から因縁ふっかけると思ってるのか?」
 安土がダイレクトに問うと、さすがに両親とも焦ったようで、自分の家なのに居心地が悪そうにもそもそ動いた。
「俺はな、空の懸命さと優しさに癒されてるんだ。こっちが金払っても良いくらいだ。それにうちはまっとうな商売で儲かってる。猫ごときで堅気から金ふんだくる気はない。あんたたちにどう言えば信用してもらえるのか分からんが、一度言ったことは絶対に覆さねえ。安土組は空やあんた達に迷惑が掛かるようなことは一切しない。俺は最初に空に仔猫のことは心配するな、里親が見つかるまではうちに置いても良いと約束した。その約束を果たすためなら何だってする」
 

 ソファーに少しばかり横柄な態度で座っていた安土は、居住まいを正し背中をぴっしり伸ばした。
「矢崎、今いる連中を全員連れてこい。静かにな」
 全員揃うまで2分と掛からなかったが、その間、安土は空の父親をじっと見つめており、表情変化の少ない安土の視線としてはあり得ないほど柔らかかったのだが、精悍な顔立ちの男に睨み続けられて平常心でいられる者は少ない。これから何が起こるのか分からない恐怖で父親は気を失いそうだった。
「揃ったか…」
 安土は立ち上がり、ソファーの横に少しだけ移動すると、真剣な表情で父親を見つめた。大柄な男である。全身を纏う威圧感に加えて今までに見たことがないようなヤクザ集団が自分の家の居間に勢揃いしているあり得ない光景に、父親は会社も何もかもくれてやるから見逃してくれ、と何もしていないのに口から叫びだしそうなほど怯えていた。
「空がうちに来て仔猫の面倒を見ることを、許してくれ」
 そう言って深々と、安土は頭を下げたのだった。
 その行動に驚いたのは後ろの黒服も同じだったが、組長が頭を下げているのである。自分たちがそれに従わないわけにはいかない。全員動じない振りをしつつ、膝におでこがくっつかんばかり深々と腰を折った。空の父親は、何が起こっているのか全く理解できていないのか、いつまでも頭を下げ続ける安土に、やはり恐怖を感じていた。


「お父さんって、やっぱり偉いんだね」
 その場の空気が全く読めていないのは弟の陸(りく)だった。全員の視線が陸に注がれるはずだったがどこにも見あたらない。なんとなく自分の背後から声が聞こえた気がした矢崎が後ろを振り向いたが、矢崎の視界にはいるほど陸は背が高くなかった。
 ヤクザがうちにやってくると言うことで子供達は自室に押し込まれていたが、好奇心旺盛な陸は勝手に出てきていたのだ。隠れていたわけではないが、大柄な男達に阻まれて父親の側に行くことが出来ず、なんとなく通せんぼをしていた矢崎の背後にいたらしい。
「…失礼な反応ですね…」
 素でやられたのは久しぶりで、陸はムッとして矢崎を見上げた。
(小さすぎて視界にはいらねえんだよ!)
 矢崎も陸の態度にムッとしたが子供の言葉だからと軽く流し、気分を変えるために作り笑いを浮かべてみた。
「…すまなかった。君のお父さんは立派だぞ。私たちが頭を下げるほどだからな」
「名家ではないから、学校ではなんとなく肩身が狭くて…」
 それがガキの台詞か、とど突きたくなったが、かろうじてがまんして陸を父親の方へ軽く押してやった。
「陸!こっちへ来なさい。あなたたちも、そこまでおっしゃるなら里親が見つかるまでは空を手伝いに行かせましょう。ただし、今日から三ヶ月以内と期限を付けさせてください。それ以降は申し訳ないが、関わり合いにはなりたくありませんので…」
 矢崎がちらっと安土に視線を向ける。僅かだが、安土の口の端が上がっている。三ヶ月もあれば里親も見つかるだろうし、安土の気まぐれも収まるだろう。
 
 
 安土が部屋に帰ると、空は心配だったのか起きて待っていた。
「安土さん…父さんは?」
「ああ、ここでお前が面倒見ることを許してくれた」
「え!?ほんと!?」
 目はまだ赤かったが、心配で青白くなっていた顔色はみるみる元に戻っていく。
「ああ。ただし、三ヶ月だけだそうだ」
 そのくらいでは見つからないかも知れないけれど、明日までと言われるよりマシで、とりあえずの勝利を勝ち得たと言っていいだろう。
「よかった…三ヶ月猶予がもらえて。がんばって新しいおうちを探さなきゃ…安土さん、父が何か失礼なこと言いませんでしたか?」
 肝はそんなに大きくないが、あれだけ反対したのだから一筋縄では収まらなかったのでは…そんな心配がふと頭をよぎった。
「いや。俺と空が男の約束をしたことを考慮してくれたんだ。良い父親だな」
 そうなのかな…と疑問に思ったが、安土がそう言ってくれるなら、それを信じるしかない。父親より、出会って日が浅い安土を信用するなどおかしな話だけれど、自分の周りに、こんなに物事の白黒を潔くつける男らしさがある大人は、かつていなかった。仔猫のことも有り難いが、安土に出会ったことはそれ以上の喜びだった。
「空、今日はもう遅い。お前は先に休め」
「うん。安土さんは?」
「風呂に入ったら寝る」


 と言っても空が寝かせられていたのは安土の寝室で、ベッドはとんでも無く広いけれど主より先に寝ていいものか…
 昔は弟と一緒に寝ていたけれど、今では一人の部屋にすっかり慣れてしまって、安土と一緒に寝るのかと思うと少し緊張して、逆に目が冴えてしまう。
 ごろごろしているうちに、安土がバスルームから出てくる音がして、空はベッドから上半身だけのっそりと起きあがった。
「うわ…」
 腰にバスタオルを巻き付けただけの安土の身体は見事な造形としか言いようが無く、その上に施された刺青もまた芸術的だった。
「まだ起きてたのか?」
 濡れた髪をがしがし拭きながら安土が近寄ってくる。
 だいたい、うちではそんな恰好で風呂場から出てくる人間はいない。みんなきちんとパジャマを着ていていないと、母と姉から嫌がられる。子どもの頃は可愛いとかなんとか言っていたくせに、中学に上がった頃から『貧弱な身体は見たくない』だとか、『むさ苦しい』とか言うようになった。むさ苦しいのは父親で、貧弱なのは空と陸。
 安土の身体は写真や映像の中でしか見たことがないような、同じ男からみても格好いい身体だった。
「うん。安土さんの部屋なのに…先に寝て良いのかなって…」
 空の隣に座った身体から石けんの良い香りが漂ってくる。
「気にすんな」
 安土はそう言うと、部屋に備え付けてあるカウンター・バーの方へ行き、小さな冷蔵庫の中からビールを取りだした。
「空、お前も…おっと、未成年だったな」
 プルトップを開けてごくごくと飲む姿も、わけもなく格好いい。
「いつか空とうまい酒が飲めるようになると良いな」
 二十歳になるまで後四年。それまで仲よくしていてもらえるだろうか?
「うん。早く大人になるよ」
「ばか野郎。今からが一番楽しい時期だろう。ゆっくり楽しんで大人になれ」
 安土の温かい手のひらが頭のてっぺんを覆い、優しく撫でてくれた。
「安土さん、刺青、もっと良く見せてもらって良い?」
 こんな機会でないと見ることもないだろう。
 安土は後ろを向いて背中を見せてくれた。
「これ、鳳凰?」
「ああ。良く知ってんな。中国の伝説に伝わる最高位の神鳥だ」
「しんちょう?」
「神の鳥。めでたい時に現れる鳥でな、鳳が雄で凰が雌。つがいでお互いを唯一無二の存在として愛し合う、愛の象徴でもある」
「ふーん…安土さんには、そんな女性がいるの?」
「いたらこんな所に野郎達と一緒に住んでねぇよ」
「ふふふ…それもそうだね」
 

 一瞬、もしかしたら自分がここにいると安土さんの彼女や奥さんに悪いと思ったけれど、十日ばかりの間に女性がここを訪れた事もなく、もし唯一無二の相手がいるなら十日も離れて暮らすわけが無い。
「でも…安土さん、男の僕が見ても格好いいのに、彼女とかいないんだ…」「そうか、空は俺が格好いいと思ってくれてるんだな。そんなこと言われたこともないし、生憎、誰かと真面目に付き合ったこともねえ」
 この人の選ぶ女性はどんな人なんだろう…やっぱりとても美しくて、頭も良いに違いない。きっとどんな女性でもよりどりみどり、なんだろうな…と思うと、同じ男として(とは言いがたいが、ヒト科のオスとして)羨ましい。と同時に、なぜかほっとした。それはきっと、ここにいることで邪魔をしているわけではないと確認できたからだろう。
「ねえ、触っても良い?」
 鳳凰が自分を見ている。そんな気がして、これが縁起の良い鳥なら自分にも何か御利益があるかも知れないし、挨拶しておこうと思ったのだ。猫は、顎の下や頭を撫でてやると喉をゴロゴロ鳴らして喜ぶ。鳥はどうなのか知らないけれど、空はくちばしから額の間を指でそろそろ撫で、飾り毛の根元もちょんちょんと撫でてやった。
「くすぐったいな…」
「それは安土さんの感覚。鳳凰はきっと、気持ちが良いよ」
 くすぐったさと快感は表裏一体なんだぜ、と、安土は心の中で呟いた。
「そろそろ寝るか?」
 ベッドサイドのランプの光りだけで薄暗い中、安土の低い声を聞いていたらとても落ち着くことが出来て、このままとてもよく眠れそうだった。安土の肌に触れたことで緊張感もすっかり無くなり、空はごそごそとベッドに潜り込んだ。隣に安土がゆっくりと入り込んできて…
「安土さん…パジャマ着ないの?」
「あー…いつもはまっぱなんだけどな…ズボンぐらい履いておくか…」
 近くに畳んでおいてあったパジャマを広げズボンを手に取ると、それだけ履いて空の隣に横になった。
 いつも見上げている顔が真正面に来て視線が合い、空はなんとなく恥ずかしくなった。こういう場合、背中を向けて良いのだろうか?空はいつも枕を抱き込んで俯せになって眠る。顔は左に向けるのだが、そうすると安土がこっちを向いているのだ。寝顔を見られてしまうのがなんとなく気恥ずかしいが、仕方がないのでそのまま目をつぶる。
「空はそうやって寝るのが良いのか?」
 低い囁くような声が気持ちいい。
「うん…」
「そうか…枕外してこっちこい」
「?」
 空が不思議に思っていると、安土が枕を退けて空の頭の下に太い腕を回し込み、自分の方へ引き寄せた。
「俯せで枕にしがみつくのは愛情が足りてないんだ。こうやるともっとよく眠れる」
 嘘か本当か安土も知らなかったが、そうしたかったからした。
 空は一瞬身体を硬くしたが、人肌の温かさは思った以上に心地よかったとみえ、暫くすると仔猫のように身体をすり寄せながら眠ってしまった。


 夕べ安土に腕枕されたことは覚えていたが、朝目が覚めてみれば、腕枕どころか上半身裸の安土の胸の上に乗り上げてしがみつくような態勢になっていた。なんともこっぱずかしい恰好に焦り、離れようともぞもぞしていたら安土が急に目を覚ましてしまった。
「お、おはようございます…ごめんなさい、重かったでしょ…」
 焦ったお陰で朝から頭脳はフル回転している。
「…いや。お前くらい大丈夫だ」
 少し擦れた声に頭の芯がちょっとだけクラクラする。朝から何という男っぷり。
「お、降りますね…」
 安土の上から降り、ついでにベッドからも降りる。
「よく眠れたか?」
「あ、はい」
「先にシャワー使って良いぞ」
「安土さん先に使ってください。僕は猫たち見てきます」
 髪をセットしていない安土は普段より5歳ほど若返り(年齢は知らない)、3割り増しで格好いい。そんなことを思う自分が恥ずかしく、早く寝室から出たかったという事もある。もちろん仔猫たちにも早く合いたかった。
 大急ぎで居間へ行くと、仔猫たちは既に食事もトイレも済んだようで、ケージの外に出てよたよた遊んでいた。
「おはようございます」
 黒服の男達が空に向かって一斉に挨拶してきた。
「お、おはようございますっ」
 彼らとの挨拶は毎日朝昼晩交わしていたが、今日は一段と威勢が良い。
「空君、おはようございます」
 みんなとは違うタイミングで挨拶をしてきたのは矢崎だった。こんなに早くからここにいるのも珍しい。いつもは安土が出掛ける十分前に来る。今日はそれより一時間以上早い。
「矢崎さん、おはようございます」
 矢崎は猫じゃらしやオモチャのネズミを持ってきたようで、仔猫たちの固まりに投じて遊んでいた。安土よりきつい顔つきなので、とてもそんなことをする男には見えない…
「おもちゃ持ってきてくれたんですね。ありがとうございます!」
 空が早足で近寄ると、矢崎はぼそっと呟いた。
「…普通に歩けるようですね」
「え?何か言いました?」
「いえいえ、ちょっと独り言」
 空は気にするでもなく、仔猫たちと遊び始めた。


 食事の後、空が登校の準備をしに自宅へ戻ると、矢崎は安土に耳打ちした。
「今朝お前達を起こしに行ったやつから話は聞いたぞ。お前、空を抱いて眠ってたそうだな」
 口の端をちょっと釣り上げていやらしい笑みを浮かべながら訊ねると、安土は小さく鼻を鳴らした。
「ふ…眠ってただけだ。とりあえずな」
「ほぉ…ならばその先もあり得るってことか?後始末はきっちりつけろよ」
「…」
 安土はそれには答えず、黙ってまっすぐ前を見つめていた。


「空!お前というヤツは…」
 自宅に帰ると案の定父親から呼び出され、登校の支度をした後、叱られてしまった。けれどもそれは昨日までの怒り方とは少し違っていて、無責任に小動物を拾って来るなだとか、拾う前に相談しろだとか、隠し事をするなとかで、安土の家に出入りしてはいけないと言う事ではなかった。昨夜、よっぽど上手く言いくるめられたのだろうか?
 パンとゆで卵とコーヒーだけという安土の家とは比べものにならないほど簡素な朝食のメニューを見ながら、父さんも安土家で朝ご飯を食べたら良いのに…と小言の内容とは関係のないことを考えていた。
 母親は朝ご飯を作るのが面倒になったようで、空と陸はパンと牛乳だけで、おなかが空いたときのために毎日お金をくれる。昔は朝からもっと沢山のおかずが並んでいたのに…空はまだマシで、陸はそれこそ小学生の頃から外で食べることが多く、食べず嫌いな食品が多い。
「それで、夕べはちゃんと眠ったのか?」
 一通り小言が終わると、今度は心配事。
「うん。さっき着てたパジャマも貸して貰って…でっかいベッド貸してもらったからよく眠れた」
 安土の腕枕で寝たなんて口が裂けても言えない。
「世間一般に言われているヤクザとは少しイメージが違うようだが、それでもやはりお父さんは反対だ。出来るだけ早く里親を見つけなさい」
「…はい」
 安土に対する見方が変わったのは嬉しいけれど、できればこれからもずっと仲よくしても良いと言われたかった。
「でもさ」
 姉の夏姫(なつき)がパンを頬張りながら喋り始めた。
「安土さんと言い矢崎さんと言い、ヤクザにしておくには勿体ないくらいいい男よね。私の周りのおぼっちゃまなんてみんな赤ん坊みたいに思えてきた」
「夏姫は絶対に近づくな!」
 父が慌てて声を荒げた。
「なんでよ!挨拶くらいしなきゃ。ご近所さんなんだし」
「大体お母さんがよく調べもしないでここに決めるから…」
 珍しいことに、父が母に文句を言い出した。何か一言言うと十倍以上になって帰ってくるのでいつもだったら黙っているのだが…
「あらお父さんだって凄く気に入ってなんにも文句言わなかったじゃない!そんな事は男のあなたが調べるべきでしょう?」
 懸命な父は他にも言いたいことがあったようだが、黙って残りの食事を平らげることに専念しはじめた。
「陸は?」
 我が家で一番の賢者がさっきから見あたらない。朝帰ってきたときはいたのだが…
「陸ならもう学校行ったわよ。部活の朝練があるからって」
「朝練?」
「あら知らなかった?あの子柔道部に入ったんだって」
 またそれは初耳だ。
「あんたんとこの柔道部、OBに偉い人が沢山いるんだって。陸はあんたよりしっかりしてるからね」
 誰よりもだらしないお前に言われたくないと、姉に向かって心の中で毒づいた。白石家は女の方が口が立つので、言い返されたくなければ飲み込むのが男の常だった。
「じゃあ僕ももう出ます」


 出掛けるにはまだ早いと誰も気がつかないのも白石家だ。真面目に学校へ行って、成績も落ちなければ何も言われない。
 もう一度仔猫の様子を見て、安土さんに報告をしてから登校しようと思い上へ行くと、朝練へ行ったはずの陸が上がり込んでいた。
「あ。お兄ちゃん。なんでもどってきたの」
 あのまま学校へ行くと思っていたのだろう。感が外れて「しまった」という表情で嫌そうに陸が言った。
「安土さん、父からはあんまり怒られませんでした…昨日の夜、きちんと話してくれてありがとうございます…」
「お兄ちゃん、話したんじゃなくて、おじさん達、父さんに頭下げたんだよ」
 男達がぴくっと耳をそばだてる。
「頭下げたって…え?」
 安土を見ると、少しだけニッと笑いながら視線を外した。
「大したことじゃない。俺が空と約束したことを守らせてくれと、頼んだだけだ」
「実際は、組長が頭を下げるなんてあってはいけないことなんですが…」
「矢崎!」
「そうしたことで、空君の存在は組長だけではなく、安土組全員にとって特別な存在になったんです」
「特別な存在?」
「まあ、組長の親友ってところですか?組長の気が変わらない間は守るべき存在になる」
「親友…」
 空には親友と呼べる友達はいない。そんなわけで、その不思議な雰囲気を持つ言葉を反芻してみた。
「今のところは…」
「矢崎!」
 なぜ今のところなのか、どうしてそこで安土が叫ぶのか良く分からなかったが、親友と言う言葉の響きを、空は今初めて好きになった。
「僕は柔道やってるから守って貰わなくても大丈夫。お兄ちゃんはよわっちいからよろしくね」
 矢崎が陸に突き刺すような視線を送ったが、陸は全く我関せずだった。


「仔猫に名前は付けないのか?」
 空が名前を付けないので皆が勝手に好きなように呼んでいた。ミー子、トラ、タマ、ポチ、が定着しつつあり、タマは白い部分が多い縞、ポチは白い部分が少ない縞だ。
「今つけてしまうと愛着がわくでしょう?それに名前を付けるのは親の楽しみでもあるから…」
 里親捜しはことのほか順調で、候補者がちょうど仔猫の数だけ現れていた。ただしまだ仔猫が小さすぎるので、二ヶ月過ぎてからでないと里親には出さないと空が決めていた。その間に面接をしなくてはいけないのだが、子供の空だけでは危険なこともあるので、保護団体の人に付き添って貰うことになっている。そのことをさらに安土が心配し始め、日程が組みにくくなっていた。安土曰く、保護団体の人間だからいい人とも限らない…と。知らない人と知らない場所へ行く事に大反対されてしまった。
 結局、安土の部下が運転手兼ボディーガードとして同行することになったのだった。安土も付いて来たがったが忙しすぎて日程が合わない。一度面会に来た保護団体の人は、黒服の集団を見て命が縮む思いをしたと言う。その黒服たちが仔猫にまみれているところを見て気が変わったそうだが、一般論として、誰もヤクザとは係わりたくないので彼らを連れて行くのは反対された。
 初めての面接の日、空は安土から防犯ブザーを渡され、何かあれば外で待機している部下がすぐに向かえるようにしたり、連れ去られたときのためにGPS携帯まで持たされた。仔猫が逃げ出したときのために、仔猫の首にも小さなGPS装置を取り付け、保護団体の人も苦笑いするほどの重装備で送り出されたのだった。
 

 結局その日は面接も楽しく終わり何事もなかった。里親候補さんも環境も良く、順調にいけば一匹決まりそうだ。
 こんな調子でうまく行けば良いと思う気持ちに反比例するように、安土と仲良くできる時間が残り少なくなる寂しさが増加してくる。安土と同じベッドで眠って以来、安土の身体から伝わってくる体温は心地よく、自分が猫だったら膝の上で丸くなって眠りたいと思うし、安土の声は時々びっくりするくらい体中に響き、もっと聞いていたいと思わせるようになった。気がついたらピッタリ身体を寄せていて、思わず半歩くらい後ずさった事もある。
 父親とはそんな風に接した記憶もないし、そうしたいとも思わない。むしろ、あまり近づきたくない。友達とは、こんなものなんだろうか?
 友達というより、仔猫と似ているかもしれない。一日中でも遊んでいたいし抱き締めてほおずりしてキスして…愛しくて愛しくて堪らない存在?
 いくらなんでも安土とキスしたいとは思わないけれど…愛しくて堪らないわけでもないけれど、抱き締められるのは良いかも…
 家族愛、友情、父母の愛情、安土に対する気持ちがなんなのか空には分からないけれど、以前矢崎が言った『特別な存在』であることは確かだった。矢崎に聞けば、特別な存在がどういうものなのか、もう少しはっきり分かるのだろうか?
 でも、矢崎は少し苦手だ。何を言われたわけでもされたわけでもないけれど、空のことで安土に「やりすぎだ」と意見することが多く、そのたびに安土はため息をついていた。組の中では安土の言葉は絶対で逆らうことは許されないのに、矢崎だけは時々小言を言ったり反対したりしている。ため口を叩くのも矢崎だけだ。みんなに好かれるのは不可能だろうけれど、安土に一番近い存在である矢崎に気にいられていない事が、矢崎を苦手にしている理由でもある。
 そう言えば、苦手だからなのもあるけれど、もし矢崎に抱き締められたら…ぞっとするほど嫌ではないが、できれば避けたい…
 やはり、空にとって安土は特別な存在なのだった。


 2匹目の面接は、安土が一番気に入っている仔猫だった。鯖トラ仔猫のトラは4匹の中でも一番大きくしっかりした体つきで、喧嘩も強く、リーダーのような存在だ。またしても各種防犯グッズを持たされ、すっかり仲良くなった保護団体の人と向かったのは子供が居ない夫婦の家。ごく普通の庭付き一戸建てで、庭の手入れもキチンとされている。
「わぁ…なんだか良さそうなお家ですね…」
 2匹の大人の猫がいて、その猫たちとの相性が気になるところだが、仔猫より知らない人間が恐いようで、部屋の隅からそれでも興味津々、空達を見つめていた。
 肝心のトラはこれまた様子がおかしく、仲の良さそうな若い夫婦に触られるのをもの凄く嫌がり、ふだんはそんなことしないのに、小さな手で猫パンチを連発。最初は良い雰囲気だったのにだんだん雲行きが悪くなり…トラの小さいが故に鋭い爪がご主人の手をさっくり切ってしまった。
 それまで優しかったご主人の顔がみるみる変化し、遠くで見ていた大人の猫たちが猛ダッシュで何処かへ走り去る。ご主人は空達を睨みつけ、わけの分からない言葉の断片を怒鳴り始め、トラを掴まえようと荒々しく立ち上がった。
「空君、ベル鳴らしてっ!!」
 驚いた空は暫く動けず、団体員に肩を強く揺すられてやっとの事でポケットに手を突っ込んだ。
 主人はトラを掴まえようとしていたが小さくてすばしっこいトラは思うように掴まらず、次は空につかみかかってきた。止めようとした団体員を奥さんが突き飛ばし、背後の壁に激突した団体員はそのまま意識を失ってしまった。主人は邪魔がいなくなったところで空を思いっきり平手打ちし、痛みと恐怖で抵抗すら出来ないと分かると、二度目の平手を打ち振るう。
 3度目に手を挙げた瞬間主人はその腕を掴まれ、そのまま後ろに腕を捻り上げられ、あっけなく床に膝をついた。
「空さん!大丈夫ですか!!」
 運転手兼ボディーガードだ。
 主人を引き上げ腹に拳を一発叩き込み、気を失わせてから空に駆け寄った。呆然としている空の口元が少し切れて血が滲んでいた。黒服はポケットから白いハンカチを出し、空の口元をそっと拭う。
「すみませんっ!もう少し早ければ…」
 全てがあっという間の出来事だったので、それ以上早く来るなど不可能だったろう。空は涙のにじんだ目で黒服を見つめながら首を横に振った。
「組長もすぐここに来ますから、空さんはソファーで休んでいてください」
 そう言うと黒服は自分のネクタイを外し、気を失っている主人の両手を後ろ手に縛り上げた。その後、壁にぶち当たって気を失った団体員の様子を確かめたが、こちらは気を失っているだけのようだった。奥さんは座り込み、震えながら成り行きを見守っている。黒服は奥さんには手は出さなかったが、恐ろしく毒気を含んだ声で『そこでじっとしていろ』と言い放った。