黒瀬組組長・本田雪柾の恋人である水口克彦は明後日に控えた『黒瀬組懇親会』のメイン余興であるカラオケ大会の練習を終え、行きつけのカラオケ店から上機嫌で夜の繁華街に飛び出した。国内で一、二を争う勢力を持つ誠仁会の中でも構成員は少ないが、上納金の額と組員の優秀さでは群を抜いている。

 その黒瀬組が…懇親会…である。

 事の発端は、克彦が雪柾と相愛になったのはよいが普段は仕事で事務所を留守にする組員が多く、克彦の顔と名前が一致しない組員が多い事が判明したからだ。
 黒瀬組の息がかかった店であれば組の経費で飲んだり食ったりしても良いと言われていたので、懐が寒いときは遠慮無くそうすることにしているのだが、ある日たまたまそんな店の一つで美貌の青年克彦をナンパした男がいた。いつも付き添っている下っ端、都筑(つづき)もたまたま電話でトイレにこもっていた。電話が終わり店内に戻ると克彦の手を握っている輩を発見。
 が、良く見るとそいつはニューヨーク支部?を任されている黒瀬組幹部、園部春(そのべ はる)だった。
「えっと…」
 都筑は二人が知り合いなのだろうと思ったが、それにしては園部の視線が恐ろしすぎる。都筑としては、自分は克彦の護衛だし二人の邪魔をしない程度の近くに立っていただけなのだが…
 事務所でしょっちゅう顔を合わせている幹部連中の強面には慣れているが、たまにしか会わない、しかもナンバー3と言われている園部の眼光、しかもナンパ中、を浴びて平常心でいられるほどのタマではない。しかし、克彦をほったらかしにも出来ない。
「えっと、克彦さん、本田組長が今からこちらに寄って克彦さんと一緒に帰られるそうです」
 克彦は眉間に皺を寄せて盛大にため息をついた。
「えーーーーーーー…もうかえるのーーーーー?」
 久しぶりにナンパされてまんざらでもない。もう少し、ちょっとだけ、雰囲気だけでも楽しみたい。雪柾大好きなのはもちろんだけど。
 肝心の園部は、知った名前が出てきて面食らっていた。
(ちょっと待て…こいつ…克彦って…組長の…?)
「ちょ…あんた本田組長の…」
「ん?雪柾の事、知ってるの?」
 園部は握っていた手をふりほどくと、また都筑を睨みつけた。
(なんで早く言わないんだ、この、馬鹿!)
 その後すぐに組長がやってきたのでうやむやになってしまったが、もしナンパの現場を組長に見られていたら…背筋が凍るとはこういう事をいうのだな、と自分を恐ろしがる下っ端の心境をはじめて理解した園部である。

 そんな初体験を経験した身内が数名、友好的な関係にある組の構成員が数名、首をすくめた事件があり、今回の『懇親会』が発令されたのである。懇親会を一番喜んだのは克彦で、目立つことが嫌いではない克彦はカラオケ大会で美貌の漢っぷりを披露するべく漢っぽい曲の練習に励んでいた。全員の投票で、優秀者には賞品もでる。克彦が何かの賞を貰えるのは分かっているが、例え出来レースと分かっていても下手は踏めない。
 ここは実力で勝ち取る!

 と言うわけで梅雨入り後の蒸し暑さも吹っ飛ぶような練習後の爽快感を味わいながら、克彦は付き添いの都筑と繁華街を闊歩していた。優雅だけれど力強い歩み。
 そして遥か前方に今、愛する男の姿を発見した。
 気持ちが高ぶり、歩くスピードが上がる。
 視線も、愛しい人の瞳を捕らえるために、いつもの目線より少し上向きになる。
(雪柾!)
 心の中でその名前を叫ぶと、彼方前方の男の視線がゆっくりと自分に向き始めた。

 どんっ!

 雪柾以外見えていなかった。もの凄く大きな音がして、克彦はビルの出入り口から出てきた誰かに勢いよくぶつかったようだ。力の加減がどう働いたのか、華奢な克彦の勢いの方が強かったようで、相手ははじき飛ばされ、直ぐ後ろに誰かいなければ尻餅を突いていただろう。弾かれた男はすぐ後ろにいた男に抱き留められていた。
「あ、ごめんなさい!」
 良く前を見ていなかった克彦は咄嗟に謝る。
「いってぇなぁ…どこみて歩いてんだ!」
 抱きかかえられたままの情けない態勢で、その男は克彦を睨みつけた。両腕をじたばたさせながら睨まれても可笑しいだけだが、周囲をその取り巻きに囲まれ雲行きが怪しくなってきたので、かろうじて笑うのだけは阻止した。笑い出しそうなのを堪えるため、しばし拳を握ってうつむく。
「だいじょうぶ、ですか?」
 できるだけ優しく柔らかく訊ねる。
「だいじょうぶですかぁ?誰にむかってそんなクチ聞いてんだ?あぁっ?」
(知らねぇよ、あんたのことなんか)
 とか言いそうなのをすんでの所で止める。
「怪我はありませんか?」
 やばそうな相手なので、穏やかに事を収めたいのに…やばそうなヤツほど吠えるしな…どうしようかと思いふと雪柾の方を見ると、ゆっくりとこちらに歩を進めはじめた。
(雪柾に迷惑かけらんない…)
 やばそうな男はやたらと大声で文句を垂れまくっている。そっちだって前見てなかったじゃんか。それに雪柾の護衛だったらまずぶつからないようにするし。お前ん所の連れが無能なだけじゃん?
 むかつく。
「うるせーよ!」

 ばしーん!

 克彦は一声叫ぶなり、その男の頬を平手で打った。
 克彦の一声と平手打ちに、全員が息を飲む。
 雪柾の歩みもぴたっと止まった。
「うわっ」
 一声漏らしたのは、それまで相手の取り巻き五人を一人で牽制していた都筑だった。たぶん、都筑は雪柾から視線か何かで指示を出されていたのだろう、余計な口はきかずに周囲を睨みつけていた。
「あんたもしっかり前見て歩けよ。大体、ぶつかったくらいでよろけるなんて足腰弱すぎるんだよ!図体と声ばっかりでかくて鍛えてない男なんて最悪!大人しく聞いてれば詫びだ慰謝料だって、詫びは最初に入れたっつーの。顔とおつむの他に耳まで悪いの?慰謝料で懐太らせようなんて何処の組のちんぴら?凌ぎ上げる能力無いのを自分で暴露してるのにも気がつかないなんてどんだけ低脳なんだよ。あんたがぶつかったのだって取り巻きの教育が出来てないからだろ?お前らも木偶の坊って言われたくなきゃご主人様が危険な目に遭わないように周りに目を配れよ。そのくらいのこと犬にだってできるんだよ。ああ、先にご主人様を躾けなきゃね。犬の訓練所に入れたら人間も躾けてくれるらしいよ。そのくらいだったら俺が世話してやっても良いけど?」
 華奢で美貌の青年から弾丸のように発せられる罵詈雑言に圧倒されて、その男は頬を押さえたままぽかーんと口を開けているだけだった。
「ね?雪柾?」
 首をかしげて柔らかく微笑む克彦の視線を追うと、いつの間にか本田雪柾が取り巻きの輪のすぐ側に立っていた。自分たちの主人とは比べるまでもなく、立っているだけで圧倒的な威圧感を放つ本田に恐れ戦き、取り巻き達は頼りになりそうもなかったが一応主人である人間の背後にしっぽを巻いて退散。
 本田はそんな連中には目もくれず、克彦のそばに歩み寄るとそっと腰に手を回した。
「たとえ殴るためだとしても、俺以外の男に触れるな」
 
 車の後部座席で雪柾に抱き締められたまま、克彦は少し後悔していた。迷惑を掛けたくないと思ったけれど、我慢できずに相手より先に手を出してしまった。連中もどうやらヤクザだったようだが、それなら尚更、先に手を出した方が分が悪い。
「俺、先に手をだしちゃった…雪柾、困らない?」
 自分自身は堅気だと思っている。が、本田雪柾のイロ、となると堅気だと言い張っても通らない場合がある。
「ああ、気にするな。あいつらは橋野組の連中、身内だ」
「橋野組…って…俺をナンパしたヤツの組!」
 その橋野組の組長は、本田の恋人と知らずに克彦をナンパして、相当危ない目に合わされたらしい。と言っても口で脅しただけ、だそうだが…
 脅されて、今度は部下をけちょんけちょんに言われて、怒ってなければいいが…
 そんな克彦の心配をよそに、雪柾は軽く肩を震わせて笑っている。
「それより、歌の練習はどうだった?」
「ん。ばっちり。雪柾に恥かかせられないしね」
「そうか。楽しみだな」
 あまりにバカバカしい企画だが、この一度で他の男が克彦に色目を使うことが少なくなるのなら良しとしよう。本当は何処にも出さずにかごの鳥にして愛したいのだが、克彦には活き活きとした場が似合う。性格も口も悪いのに不思議と誰からも愛される様を見ているのは気持ちがよい。罵詈雑言も妙に的を射ているので言われた本人は凹むが、周囲は苦笑いしながら聞いている場合が多いらしい。
 克彦らしく輝いている様をいつまでも見ていたい。そう思う雪柾だった。

 その頃の橋野組事務所…

「なんと…貴様、克彦さんに触ってもらったのかっ!」
「いや、叩かれたんですが…」
 克彦にボロカスに言われ、叩かれ、本田には見向きもされず、怒り心頭で事務所に帰ってきた男に、組長は詰め寄った。
「右か?左か?」
「…右っす」
 組長の手が震えながら男の右の頬に伸びる。だが、触れる寸前、手を引っ込めた。何しろ醜い男の脂ぎった面の皮だ。いくら克彦が触れた場所だからと言って間接的に触ることは理性が拒否した。
「なんと…羨ましい…」
 組長は涙目になりながら宣った。
「はぁ?」
 何度もため息をつきながら男の右頬を見つめる組長に、男はドン引き。
「克彦さんは俺の宝物なんだ。手をだすんじゃねぇぞ!橋本組は克彦さんが黒瀬組の姐さんである限り、いかなる場合でも黒瀬組の味方だ!分かったな!」
 触らぬ神に祟り無し。
 男は自分にそう言い聞かせ、今日の出来事は記憶から抹殺することにした。 

   

夕日の挽歌

雪柾と克彦

番外編

夕日の挽歌はこんな曲