「うーん…」
 克彦は練習場所のカラオケボックスで、自分の歌を録音した物を聴きながら唸っており、付き添いの都筑もひどく真面目な顔で克彦の録音に聴きいっている。
 明日にせまった黒瀬組懇親会のカラオケ大会、実力で賞を勝ち取ろうと、この二週間、毎日仕事帰りにがんばってきたのだ。
 負けず嫌いで目立ちたがり屋な克彦は歌もそれなりに上手い。音程はさることながら、心がこもった歌い方をすると評判なのだ。今回選んだ『夕日の挽歌』は要約すると、地位もないし名誉もない敗者が敗者なりに夕日に向かって決意も新たな一歩を踏み出す、みたいなしみったれた歌。美貌と才能と最高の恋人を持ち、敗者にはほど遠いと思われがちな克彦だが、本当はいろいろあったんだ、俺だって本当に苦しかったんだ、と拳をにぎって訴えたいがために選んだ曲。
 しかし。歌い込むにつれしみったれた感情ばかりが膨らみ、どんより重い梅雨空に頭を押さえつけられて身長が二センチほど縮んだような気持ちになる。
「都筑ぃ、なんかこう、ハンパ無くしみったれてない?こう、路地裏で拳を握って吠えてる?黒瀬組の下っ端より下?」
「…組員よりは下っぽいですけど…うちに収まるまではそれなりな経験してるやつが多いですから…がきのころから悪いことばっかしてても、うちに入るときは厳しいんっすよ。勉強とかもさせられるし、武道もやらされるし。そんなんが出来ても極道の性質がなければ足、洗わせられるし。俺この歌詞じーんと来ますよ」
「ふーん…なんか、意外」
「あ、ちょっと待っててくださいね」
 都筑の携帯が鳴り出したのだ。
(雪柾かな?迎えに行くとか一緒に帰るとか、自分に電話してきてくれると嬉しいんだけどな…でも、都筑は表面上俺の秘書みたいなもんで、もし俺が仕事中だった場合の事を考えて、先ず都筑に電話するんだって。緊急の連絡以外は秘書を通して、みたいな。見栄っていうのこれ?)
「組長があと十分で迎えに来られるそうです」
 と、言うことはも一回歌えるな。
「分かった。じゃさ、シリアスバージョンとおふざけバージョンを交互に歌うから、どっちが良いか考えて」

 どちらのバージョンが面白いとか言うよりも、交互に歌う時の豹変振りが可笑しくて二人で笑い転げていたら、重たいドアがバリッと言う音とともに開いた。少しだけ背をかがめた大きな影がゆっくりと入ってくる。
 雪柾だ。
「雪柾」
 雪柾が近づいてくるのを待つ、その僅かな時間がとても好きだ。毎日のように会っていても、そのほんの数秒の時間は未だにどきどきする。密着するように隣に腰を下ろし、すっと回してきた手の感触に気持ちがざわめく。
「どうした?いつもより楽しそうだな」
 その重低音ヴォイスで歌われたら即死かも。
「うん。歌い方をいろいろ変えてみたんだ。そしたら都筑がうけまくって…」
 ふいに、雪柾が長い指を克彦の唇に押し当てながら訊ねた。
「誰がうけまくったって?」
 唸るような凄みのある声…唇には薄笑いが浮かんでいる。いつもより、冷たい。
「…なんで…怒ってるの?」
 つきあい始めて二ヶ月弱、雪柾は克彦に対して怒ったことなど一度もない。どんなに度を超えた我が儘でも許すどころか叶えてくれるから、今のこの薄笑いの意味が分からず、克彦の耳はしおれてしまいそうだ…
「怒ってるわけではないが…」
「ないけど…?」
 理由が分からず、克彦の不安はどんどん増していく。今までだったら、相手の思っていることが分からない事にじれったくなり、そのイライラを相手にぶつけて喧嘩がはじまるのが常だった。物事にはっきり白黒付かないのが嫌な性格ではある。それなのに何時までもダラダラ自分を悩ませ翻弄する牛島の存在があったがため、付き合う相手にはとことん我を通した。一般的には「我が儘・横柄・高飛車」と言われるのだろうが…全てを包み隠さないでいたい恋人に、こう思っているからこうしたい、とはっきり伝える事がなんでいけないんだろう?つきあい始めはなんでも望む通りに、それこそホイホイ言うことを聞いてくれるくせに、そのうちめんどくさそうにあしらうようになり、最後は怒り出すようになる。きちんとした理由があれば克彦だって考えるが、あの店のケーキが食べたい、と言っているのになんで性格がどうのこうのと関係ないことで怒られなくてはいけないんだ。俺は食べたくないから自分で買っておいで、とは言えないのだろうか?
 雪柾を見つめながら、さっき会ってからの事をずっと考えるが、不機嫌の理由がまったく掴めない。昨日のこと?一昨日?もっと前のことを思い出させてしまった?今日はまだ会って三分くらいだけど、その間俺は笑っていただけだ。
「都筑とえらく仲が良いな」
「うん。だってほぼ毎日朝から晩まで一緒にいるもん」
「…それが気に入らない」
「なんで?都筑は雪柾がよこした俺の秘書じゃん」
 とうの都筑を見ると、全身に力が入った直立不動の姿勢で、汗を掻いている。
「仕事の手伝いをさせろとは言ったが、一緒に遊び回れとは言ってない」
「じゃあなんで仕事が終わったら都筑はすぐに帰らないの?俺は引き留めたつもりはないけど…」
 雪柾は軽くため息をつくと都筑に目線で退出を促し、出て行くのを待たずに克彦をぐいっと抱き寄せた。何時にない強い力で、克彦は一瞬、恐怖を感じる。
「俺が側にいてやれないとき、お前にもしもの事が起こらないように付けている」
「…そんな…子供じゃないのに。危ない事なんてなかったし…危ないことには首突っ込まないし…」
 自覚がない、とはこのことである。
「お前な…男で苦労してきたのはどこのどいつだ?むかしっからヤクザ者に捕まって酷い目に遭わされてただろうが」
「あ…そうか…」
「それに…最近も、ヤクザ者にナンパされまくってるのはどこのどいつだ?」
「…ここの俺…です」
 それで前代未聞の懇親会を開き、一度にまとめて克彦の存在を身内の組関係に浸透させようと言う事になったのだ。克彦が笑っているうちはまだ許す。だが、少しでも傷つけるような真似をすればどうなるかも徹底するつもりだ。身内も、今後はタダでは済まさない。
「自分で首を突っ込んでいるつもりは無くても、相手によっては危険を孕んでいる。都筑は、状況判断ができて腕っ節も強い。お前を守るには最適の人物だ。だが、それだけだ」
「それだけって…そんな冷たい言い方しなくても…歳も近いし友達みたいな感覚なんだ。別にいーじゃん。なに、雪柾もしかして、妬いてる???」
 だてに数をこなしていない克彦は、嫉妬や独占欲がどんなものか良くわかっているつもりだった。
「…………」
 深いため息をついて黙り込む雪柾をまっすぐに見つめる克彦の目は不安に揺れた。既に何でも持っていて、欲しい物はなんでも手に入り、無くなってもすぐまた手に入れられる環境にいるこの男が、恋人の一人や二人お役御免にするなど容易いことだろう。理由になんの根拠がなくても嫉妬は勝手にやってくる。もし、今、ここで首を切られたら…

 練習の成果が台無しである。

「雪柾…嫉妬してくれてるんだ…俺…」
 俯いてみたりなんかして。
「雪柾がいやなら、もう都筑とは遊ばない…仕事の話し以外しない…だから…」
 言葉を濁して抱きついてみたりなんかして。
「分かったのなら、良い」
 いつものぞくぞくするような低い優しい声が大好きなことは本当のこと。抱き寄せ包み込んでくれる腕も大好き。広く厚い胸も救ってくれた弥勒菩薩も腰もアレも全部好きで、その全ての持ち主である雪柾は宇宙一好き。
 だから本当に本当に嫉妬なんてしなくても良いのに。俺から別れるなんて絶対無い。捨てられる可能性ならあるけど…せめて明後日の午後まで待ってくれ。だって明日の優勝賞品は「ヨドガワカメラで好きなもの三点」なのだ。明後日の朝、開店と同時に駆け込めば午後には間に合う。
「うん。分かった」
 雪柾が克彦を抱き締めたまますっと立ち上がると、克彦の足元は僅かに宙に浮いている。そのままもう少し上に、同じ目線の高さまでずり上げられた。目の前の野性味を残した端正な顔にどきどきしていると、薄いけれど情熱的な唇が飲み込むように覆いかぶさってきた。
「ん…ん」
「克彦…」
 しばらく貪られた後、雪柾が耳元に囁いた。
「お前は俺のものだ。なにがあっても一生俺だけのものだ」
 首筋に、のど元に唇が這い回り克彦の理性を奪おうとするが、今日はダメ。
「雪柾…明日は忙しくなるから早く帰ろう?」

「なんでそっちに行くの?俺のうちはあっちだよ?」
 広い後部シートで雪柾が被さってくるのを阻止しながら、克彦は道が違うと騒いでいる。
「どっちに帰っても同じだろうが?」
 違うよ。今夜は明日の本番のためにゆっくりお風呂に入って…
「同じじゃないよ!雪柾んちに行ったら大変じゃん!」
「ゆっくり風呂に浸かって吸入器で喉のケアをして、ついでにマッサージもして寝るんだろ?」
「マッサージ?雪柾にしてもらったら大変なことに…明日本番なんだから…絶対ダメ!今日は絶対ダメッ!ダメって叫ぶのだって厳禁なんだからね?雪柾に触られたら声出るだろ?毎回声がでなくなるまでやられるんだよ?明日声が出なくなたら賞品貰えないじゃん!二週間我慢してくれるって、ゆった!雪柾はお金もちだから何でも買えるだろうけどさ、俺は才能あっていずれは独立してばんばん稼げるけど今はまだ雇われサラリーマンで、ボーナスでしか買えないの。でも服とかも買わなきゃなんないからいろいろ大変なんだよっ!だからお願い、邪魔しないで…」
 最後は懇願だったが、狙って口から出た言葉ではなくてまごうことなき真実の言葉だ。美貌と才能と最高の恋人を持つ今のところ人生の勝者が、今にも泣きそうな必死の形相で訴えている…それなのに…
 運転手と都筑と本田が何故肩を震わして、どうやら笑っているようだが、なぜこの真剣な訴えに対してそんな態度で返すのか、理解不能な克彦だった。

「で、途中でUターンして克彦さんの家まで送り届けたって?」
 克彦が帰って一人になった本田は事務所へ引き返したが、ちょうど帰ろうとしていた沼田に駐車場で会い、本田の自宅で飲むことになった。
 沼田と吉野は本田の部下であると同時に死ぬような訓練を受け、戦場にも行った仲間でもあったため、組の関係者がいないところではお互いにタメ口を叩く。
「ああ。明日の優勝賞品が、何が何でも欲しいらしい…ひとこと言えば買ってやるのに…」
 苦笑う本田も、克彦の言動も沼田のツボにはまってしまい、暫く笑いが止まらなかった。
「くくくくっ…おねだりを思いつかない所が克彦さんらしいじゃないか…」
 全くないわけではないが、そのほとんどがコンビニでの買い物と給料日前の飲み屋の支払いだったりする。一度コンビニのレジで、連れの女の会計をプラチナカードで精算する男に対して思いっきり馬鹿にした顔の克彦を見て、常に小銭を用意するようにもなった。都筑にも何かの時のためにカードを持たせているが使った形跡がない。
「それはそうだが…お陰で一緒に住むことも拒否されてるからな」
 ヤクザ者の恋人だから危険と隣り合わせ、だけではなく、あまり自分を頼ろうとしない克彦の事が純粋に心配で、些細な悩みは決して口にしない克彦だからこそ、ストレスをためないように朝晩顔を合わせて気をつけてやりたいと思うのだ。
 一本立ちしてこそ漢、と拳を握りしめる克彦も可愛い…
「それでこそ、お前の男だろうが」
 まあな、と遠くを見る本田の目はそこはかとなく優しかった。

   

夕日の挽歌

雪柾と克彦

番外編