花・ひらく

園部と沙希

 志貴は『処理』の手伝いと掃除を言い渡され、目を覆いたくなるような陰湿な制裁とその名残りを綺麗さっぱり洗い流すために、ありとあらゆる排泄物で豚小屋状態の地下室をデッキブラシでゴシゴシこすった。洗剤や漂白剤で綺麗に洗い流した後は、夕べ泊まったゲストルームに戻り、今度は自分を洗う。頭からシャワーを浴びながら、ずっと園部のことを考えていた。沙希に見せていた態度が嘘のような、園部の変わりよう…気が短く暴力的なヤクザはごまんと知っているが…まだ会って日が浅いので正確な判断はできないが、もしあの悪鬼のような気を放つ園部が本当の園部だったら…沙希を早く引き離さないととんでもない事になる。引き離せば自分もニセ園部のようになるかもしれない。沙希のためなら命を投げ出す覚悟があったはずなのに、考えるだけで身体の震えが止まらなくなる。
 その一方で、『処理』が終わった後の園部は気怠さ以外なにも身に纏っておらず、志貴に掃除の仕方を教える時などはただの用務員のおっさんのようだった。今着ている服は全て処分するとも言われ、それは証拠隠滅のためでもあったが、地獄を忘れ地上に戻るための儀式のようでもあった。ゲストルームでシャワーを浴びていると、見知った顔の組員が新しい服を届けてくれて、さっきまで着ていた物は全てゴミ袋に放りこんでいく。
 衣装ケースに収められた新しい服は立派なスーツだった。自分が持っている派手な安物とは違い分不相応で、それを着た自分は滑稽なことこのうえない。財布や時計は地下室に入る前に預けさせられ、そのニセブランドの時計と財布だけが自分にふさわしいのかと思うと、志貴は初めて自分の存在が情けなく思えてきた。


「兄ちゃんかっこいい…」
 会議室に入ってきた兄を見て、沙希が園部の腕の中からするりと降りた。 歩き出しそうな沙希を制して、志貴は自分から速歩で近づいて行く。
「まるでピエロだな」
 沙希をしっかり抱き締めた瞬間に園部の不機嫌な声が飛ぶ。
 そんなこと、分かっている。今の自分では園部に何を言われても言い返せない。沙希が何より大事だと思う気持ちだけは、園部に勝っている。
「…沙希、待たせたな。大丈夫か?」
「うん。兄ちゃんも、どこも怪我してない?」
「そいつは見てるだけの役だ」
 徹底的にこき下ろしてやる、とばかりに志貴を睨みつける園部。
 正確に言えば、志貴も一応『処理』には参加させられた。掃除以外にも。園部に言われるまま、指で示す場所にナイフを入れた。何かがブツッと千切れる音と偽物の絶叫が蘇る。
「うるせーよ。俺はヤクザじゃねぇんだよ」
「ふん。ちんぴらが。沙希、今日は何食いたい?今朝はたいしたもん食えなかったからな、和食でも洋食でも中華でもなんでも良いぞ」


「雪柾がお昼ごはんおごって…!」
 ドアの外で待ちかまえていたのか、タイミング良く扉を開けた克彦に不気味な笑顔を向け、園部はドアを静かに閉めた。
「…さて、オムライス食いに行くぞ」
(わかった。オムライスだね)
 ドアの外で復唱している克彦がその手に乗るかはなはだ疑問であるが、イタリアンでも食べに行こうと園部は心の中で舌を出した。
「わぁ、俺オムライス大好きなんです!ね、兄ちゃん!簡単そうで、難しいんですよね、あれつくるの」
「あ、ああ。施設の献立でオムライスが一番好きだったもんな、沙希」
 志貴は園部の策略?に気が付いてはいたが、オムライスと聞いてはしゃいでいる沙希をがっかりさせたくはないので、沙希の肩をもつことにした。別にあの人が来てもいいじゃないか、と克彦をよく知らない志貴は考えたからなのだが。


 沙希を真ん中に両端に園部と志貴を乗せ、メルセデスは静かに洋食屋を目指している。
「さすがに少し疲れたな」
 そう言って園部は小柄な沙希の肩に頭をもたせかけた。
「じじぃか…」
 すかさず志貴が口を挟み沙希を自分の方に引き寄せる。
「兄ちゃん、園部さん疲れてるって…」
「あのくらいで疲れるなんて、俺だったらあり得ねぇ」
「嫌なことしたから、きっと心が疲れてるんだよ…」
 ふわっと香る高級そうな整髪料の香りが沙希には心地良くて、そのままうつらうつらしたかったのだが、兄の手前しゃきんとしなければと思い、ほどよい弾力のシートにきちんと座り直した。肩の高さがちょうど良くなったのか、伝わる園部の頭の重さが少し増す。
(人の重みって、気持ち良いなぁ…)
「お前ら若いのがくそったれだから俺の仕事が増えるんだ。俺とあのニセ野郎ととどうやったら間違えるんだばーか。それに比べたら、沙希は一番若いのによーく分かってんなぁ」
 ただ沙希の所有者は自分だと思わせたくてもたれ掛かっただけだったが、沙希の言葉は園部の心が本当に疲れているように思わせ、またその疲れを一瞬で取り除いてくれる言葉でもあった。
「沙希、そういえばお前、眼鏡はどうしたんだ?それに服も…」
「俺が側に付いてるんだ、虫除けは必要ない」
「俺は沙希に聞いてんだよ!」
「兄ちゃん…!園部さん疲れてるって…」
「兄ちゃんだって疲れてる!」
 兄の志貴までが自分に寄りかかると言うあり得ない行動に沙希は、頼られたり甘えられたりするのも大変だな、と全く事の真意を把握していない頭で考えていた。


 予約していなかったのに予約されていて、と言うことは例の二人もいると言うことになる。2階の個室に通されると、期待通りいつものメンバーの顔が並んでいた。
「おそいー。もう頼んじゃったよ。沙希ちゃん専用特注オムライス」
 いつも若々しさを保ったスーツ姿の克彦が、今日はいつの間に着替えたのか吉野が好きそうなレザーのタンクトップを着ている。襟元も大きく開けており、そんな出で立ちで外出すれば本田が血相を変えそうなのだが、隣に座る本田はどうでもいいような涼しい顔。
(わざとだよな…わざとやってるよな)
 大きく開いた襟元にはお決まりの印、キスマークが幾つか見えている。
「沙希ちゃんのお兄さんも、早く座って。若い子用にシャリアピン・ステーキと牛ヒレカツも頼んどいたからね。ここのお勧めなんだよ」
 志貴は園部が沙希を椅子に降ろし、座るまで待つと、最後に一礼をして自分も席に着いた。
「沙希ちゃんも料理上手なんだって?園部さんが毎晩沙希ちゃんの手料理食べてるって自慢してたよ?俺も食べたいな〜」
「そんな、料理ってほどのものじゃ…」
「雪柾も料理上手なんだよ。俺と吉野さんと沼田さんはいっつも雪柾に食べさせてもらってるの。俺も料理は得意なんだけどね。あ、そうだ、明後日園部さんちで手料理大会しようよ。一人一品持ち寄りで」
 一品だけならなんとかなるかもしれない…とまた人知れず前向きになっていた沙希は、園部の方をちらっとみた。
「やってもいいぜ」
 園部としては、明明後日の朝まで沙希を引き留める事が出来るなら、多少の邪魔が入っても構わない。本田と克彦もまさか朝まで粘る気はないだろうし、さっさと帰せば後はどうにでもできる。食事の後片づけも、沙希と二人でやるのは楽しい。
「沙希、お前明後日から仕事だろ?シフトは大丈夫なのか?」
 水を差すように志貴が言う。園部と克彦の鋭い視線が矢のように志貴に放たれた。
「そっか…それ確かめないとね」
「今週いっぱい休んじゃえば?ね、園部さんから連絡入れて上げてよ」
「沙希!お前、来月試験あるのに、勉強もしてないだろ?」
 志貴の厳しい一言に、克彦も沙希もぴくっと硬直する。
「うん…ごめんなさい」
「いいじゃん、一週間くらい。沙希ちゃん真面目に働いてるんだから」
 首筋のキスマークを隠そうともしない淫乱野郎に言われたくない、と口から出そうになったがぐっとがまんする。志貴はその場の雰囲気でこの洒落た男がこの中で一番権力を持っているように見えたのだ。怒らせたら、やばい。そしてちらっと、うなだれる沙希が目に入り、落ち着かなければと自分に言い聞かせる。
「沙希、道場も紹介して貰えそうだから、仕事休んでいるうちに一度兄ちゃんと挨拶に行こうな」
「…うん」

  
 なんの進展も無いどころか、志貴に主導権を握られいつものように活躍できなかった克彦は、園部に目で合図を出して席を立った。
 園部と克彦が席を立った後本田もそれに続き、トイレで大人三人が肩を寄せ合う。
「もうっ。園部さんしっかりしないと沙希ちゃん取られちゃうよ」
「こいつが取る方だろうも」
 タンクトップの前ファスナーをきっちり上まで上げながら本田が面白そうに笑った。
「それに、兄貴の方がお前達よりよっぽどまともな考え方してるな」
「もうっ、雪柾まで!」
 園部は強面を崩さないまま考えに耽っている。
「考えてばっかりいないで、手ぇ出しちゃえば?」
「いや、それは…無理矢理っつうのは…沙希の将来に良くない」
「…んじゃ…さっさと告白して一度玉砕する?沙希ちゃんも、まんざらでは無さそうなんだけどな…」
 時間が足りないだけで、沙希もいずれは園部の気持ちにも自分自身の気持ちにも気付くはず。その気持ちが恋に育つまで、沙希がもう少し大人になるまで時間が欲しいな、と克彦は人ごとながらため息をついた。
 

「おい、沙希。お前、財布の中身どれくらいある?」
「え?…五千円くらい」
「それ貸せ」
「いいけど、兄ちゃん何に使う…あ…」
 志貴は五千円を奪うと大急ぎで一階に下りていき、五分も経たないうちにまた走って帰ってきた。
「どうしたの?兄ちゃん」
「あのな、こういうときは一番下っ端が財布持つんだよ」
「へ?」


 帰りの車の中で園部から、ヤクザ映画の見過ぎだとか組長の面目を潰したとか散々言われ、それでも支払った以上の金額を新札で受け取り、ヤクザに奢られっぱなしが嫌なら今週いっぱい沙希を貸せと上手く丸め込まれてしまった。強引に話を進める辺りはやはりヤクザである。
 それでも完全に引くわけにはいかない。沙希の保護者として、志貴も園部の家に居着くことにしたのである。
「お前、アメリカ呆けしてるな」
 本田に言われて園部は顔を歪めた。
「志貴はまだ18で日本では未成年なんだよ。沙希の保護者にはなれん。なっているとしたら、身分証を偽造でもしてるんだろう」
 年齢で志貴を保護者と認めたわけではなく、単に血縁者だから保護者だと園部は思っていた。落とし穴に引っかかった園部を、きっと志貴は今頃高笑いしているだろう。
「あの年の割に、しっかりしてる兄貴じゃねぇか。お前がいなくても大丈夫だろう」
 園部はそこが本田の部屋だと言うことを忘れて、足元にあったテーブルに激しい蹴りを入れた。
 沙希が欲しい。何としてでも手に入れたい。
 だが、沙希の気持ちもろとも手に入れるには、あの兄の存在が不可欠なのである。


 うだるように暑いアパートの一室で汗だくになりながら沙希の手料理を食べた後、いつものように園部のマンションへ向かう。余計なやつが一名取り付いていたが、園部は気にせず沙希にべったりだった。
「汗びっしょりだな。沙希、兄ちゃんと二人で風呂入ってこい」
「園部さんのおうちだから、園部さんが先に入ってください…」
 沙希が申し訳なさそうに言う。
「いや、お前が一番だ。お前と一緒にはいるのはお前の下僕だ。背中流してもらえ」
「下僕かよ!」
「広い風呂に弟と一緒に入って良いって言ってんだぜ。なんなら俺が代わりに入ろうか?いつものことだしな」
 最後の台詞だけ強い調子で言う。
 志貴は眉間をぴくっとさせながらも、沙希に向き直ると穏やかな表寿に戻っていた。
「沙希、久しぶりに兄ちゃんと入るか?」
「うん」
 昨夜泊まったゲストルームとは比較にならない広い家、それに見合った豪華なバスルーム、そこに当然のように住んでいる園部。
 沙希とこんな所で暮らせたら…ここまでは無理だろうが、今よりはずっとマシなところに一緒に住みたかった。
 そして不思議なことに、他人の家なのに、沙希がここにいることに全く違和感を感じない。ほんの2、3日でここまで馴染むものだろうか?それだけ沙希が園部に心を許しているようで、志貴は面白くなかった。
「兄ちゃん、一緒に風呂はいるの何年ぶりかな?」
「3年ぶり。俺が施設を出るちょっと前だからな。3年と、五ヶ月ぶりくらいか?」
「うん。俺、少しは逞しくなったでしょ?」
 沙希は湯船からざばーっと立ち上がると、得意そうにくるっと一回転してみせた。
 相変わらず白くきめ細かい肌、筋肉がなかなか付かない細くて柔らかい身体、それでも3年前よりは随分育っている。
「おう。だいぶん男らしくなったな。ちゃんとバランス良く食って鍛えろよ」
「うん。鍛えなきゃ、すぐ筋肉落ちちゃうんだ。でもさ、せめて兄ちゃんくらいになりたいなー」
 そう言いながら盛大に湯船に浸かった。
「せめて、ってなんだよ、せめてって。兄ちゃんがお前の理想だろうが」
「んー…そうだね。兄弟だから、兄ちゃんと同じくらいにはなっていいのにね。でもさ…」
 沙希は兄の腕を取って伸ばし、自分の細い腕と比べる。
「園部さんの腕ってさ、兄ちゃんの倍くらいあるんだ。背も高いけど、全体がもうがっしりしてて、凄いんだ」
「お前さあ、俺だってあのくらい身長あったら同じくらいがっちりなれたぜ。バランスは一緒だろうも、俺もあいつも」
 バランスと言えばそういえないことがないかも知れないが、圧倒的に何かが違う。兄は沙希にとって目標で、園部は絶対に手に入らない『憧れ』だ。 自分がそうなれなくても、見ているだけでわくわくする。写真や映像の中で見ることしかできなかったものを毎日見て、触れる。話しかけて、抱き締めて、優しくしてくれる。今までで、こんなに嬉しいことがあっただろうか?
「一緒かもしんないけどさ。龍の刺青が入っててね、筋肉が動くとその龍が生きてるみたいに動くんだよ。それが見えるときは園部さんが背中向けてる時でしょ?園部さんの代わりに龍が俺に何かを伝えようとしているみたいで…何を言いたいのかわかんないのがもどかしい。もっと、見ていたい」
 15年も兄をやっていたら分かる沙希の心の変化に、志貴は内心で大きく舌打ちする。

 沙希が、園部に、惚れている。

 本人が気が付いていないだけで、もしかしたらのっぴきならない場面まで来ているのかもしれない。初心な沙希が気が付かないままでいるようにするにはどうすればいいのか、志貴は頭をフル稼働させはじめた。


(まぁ今日明日くらいは兄弟二人で過ごさせてやろうじゃねぇか)
 一つしかないベッドを沙希と志貴に明け渡し、園部は居間のソファーで寂しく独り寝をすることに。沙希はベッドが大きいので3人で、と言い張ったが何かにつけてガンを飛ばしてくる志貴も一緒では疲れるばかりだ。
(俺と一緒の方が数倍よく眠れるんだって事を分からせてやる)
 と、根拠のない確信で己を慰めながら園部は眠りについた。

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