花・ひらく

園部と沙希

 知り合いの医者に二度と来るなと送り出された後、事務所で園部を待っていたのは眉間に皺を寄せた吉野だったが、すっかり足も良くなり園部の周りをちょろちょろしている沙希と目が合うと、皺も消え失せにっこり微笑んでいる。
「沙希ちゃん、おはようございます。足はもうすっかり良いんですね?」
「吉野さんおはようございます。お医者さんに道場にも通って良いと言われました」
「そうですか。ではぜひお手合わせお願いしますね。ところで…園部さんと仕事のお話しがあるので、沙希ちゃんは会議室で待っていてくれますか?」
 にっこり微笑んだ吉野は、克彦さんとまた違った綺麗さだなと沙希は思った。黒瀬組の人達は見た目も良い人が揃っていて、とてもヤクザの組には見えない。吉野が悪人をなぎ倒しているところもヤクザの喧嘩と言うよりは映画の撮影か何かを見ているようだった。
 沙希は小さく頷くと軽い足取りで社長室を出た。


「立ち回りをした倉庫の持ち主とあの辺を取り仕切っている組織から抗議の電話が入っていましたよ」
 黒瀬組が実際に出入りしているところは確認されていなかったが、瀕死の子ネズミを見つけたので聞いてみたところ、黒瀬にやられたと言ったそうだ。
「吉野、電話繋げ」
 すぐに繋がった電話を奪い取ると、園部は一方的に捲し立て、ものの五分で相手を黙らせてしまった。もとはと言えば、向こうが取引先の銀行員に園部の事を言いふらしたために、つまらない詐欺の片棒を担がされそうになったのだ。噂を流した馬鹿をこっちに渡すか黙るか、選べと凄むだけで十分だった。
「あ〜あ。朝から気分が悪りぃ…」
「気分が悪いうちに一言。明日から沙希ちゃんも仕事に行くでしょうし、園部さんにも仕事して頂きますからね」
「あー?仕事?毎日してるだろが」
「それから、志貴君から沙希ちゃんが通う道場の件で相談があるそうなので今から一時間ほど二人をお借りします」
「あー?分かった。俺も付き合う。その前に志貴だけ先に呼び出してくんねぇか?あいつがいると神経つかれるんだ。しばらく沙希と二人だけにしてくれ」


「沙希、待たせたな」
 会議室に入ると、今まで動けなかった分を取り戻すかのように、沙希が床の上で柔軟体操をしていた。
「園部さん」
 床から軽々と跳ね上がって、服のほこりを叩きながら園部に駆け寄る。
「ちょっとこっちに来な」
 ソファーに座って、隣の部分をぽんぽん叩くと沙希は言われるまま園部の隣に座った。
 園部はいつものように沙希を引き寄せ、小さな沙希の肩に頭をもたせかける。
「お前の側は落ち着く。朝から面倒な電話があってな、怒鳴ってきたところだ。ちょっとだけ休ませてくれ」
「お仕事大変ですね…」
 園部のような男に頼られて、沙希は素直に嬉しいと思う。それは自分が望んでいるような肉体的・精神的な強さでもって誰かを守ることとは違っているが、安らかな気持ちになってもらえる存在になることは、決して嫌ではない。
「克彦さんのお披露目があるって聞いたしな、ちょうど向こうの仕事が一段落着いたんで、休暇がてら帰ってきたんだ。それが…ちっとも休暇になってねぇ。沙希と会えたことぐらいか、帰国して良かったと思えることは」
「俺も、園部さんと会えて嬉しかった…いつ、NYに帰るんですか?」
「あと一週間くらいか?沙希の側は居心地が良くて、帰る日のことを考えたくねぇな」
 なぜだろう、園部がNYへ帰ってしまうと聞いて、沙希はたまらなく寂しくなった。兄が施設を去った時や自分が施設を出た日とは全く違う寂しさで、園部が帰ればもう二度と会えないような、心臓がぎゅっとなるような寂しさだ。外国は気軽に行ける距離ではなく、沙希には想像も出来ないような未知の世界で、一生縁がないかもしれない。さようなら、と言えばほんとうにそれっきりになりそうで、恐い。
「なぁ沙希、お前も一緒に来ないか?NYに」


「へ!?」
「NYで、一緒に暮らさないか?」
 昔、賛美歌の歌詞が難しすぎて魔法の呪文のように聞こえた。今も、まさにその状態だ。シュワッキマッセリー…
「え!?」
「…嫌か?」
「そ、そんな急に、なに言ってるんですか!?」
 園部がいなくなると寂しいと思いながら、じゃあ付いてくるかと問われると尻込みしてしまう。
「えと…俺会社休んじゃったからお盆までもう休み取れないし、お盆は…三連休?じゃ、無理ですよね…兄ちゃんにも言わないと…あ、俺、パスポート持ってないし、飛行機代もないかも…」
 園部が肩にもたれたままクツクツ笑い、その振動が伝わって来る。
「そうだな…いきなりは無理だな…」
「うん…でも、いつか行きたいな…園部さん、どんな所で暮らしてるのか、見てみたいな…」
 いつかきっと…そう思うと、仕事も日々の雑多な事も全てが楽しくなるような気がして、沙希は床に届かない足をパタパタ動かした。
 いつかなんてあり得ない、そう思う園部は、ただ静かに、パタパタ動く足を見ていた。


 午後から吉野が推薦する合気道の道場をいくつか見て回り、沙希が暮らしていた田舎ではお目にかかれなかった比較的新しい流派で、実践重視の流派に入会することに決めた沙希は、はやる気持ちをどうにも抑えきれない。そわそわし始めた沙希は道着を借り、小一時間ほど稽古に参加し、たちまち道場に馴染んでしまった。
 よほど楽しかったのか、帰りの道中でも、夕食を作っているときも食べているときも稽古の話しばっかりで、まともに付き合えたのは吉野だけ。園部の家に帰り着いて志貴と一緒に風呂場に放り込むまで、吉野は付き合わされた。風呂場ではきっと志貴が犠牲になっていることだろう。
「沙希ちゃん、本当に良い子ですね。園部さんには勿体ないくらいに」
「うるせぇ」
「これでも協力しているつもりですが…沙希ちゃんが入会した流派は、海外にも支部が沢山あるんですよ。それに、NYは危険ですからね。攻撃も少し覚えた方が良い…園部さんが無体なことをしそうなときにも便利だ」
「その無体な事もできないかもな…」
「おや、園部さんらしくない。力づくで奪うくらい簡単でしょう?力は、あなたの方が圧倒的に強い」
「なあ千草。雪柾と克彦さんはどうだった?雪柾は、克彦さんから何かを奪ったか?」
「……」
「俺は…沙希に選んでもらわない限り、沙希からは奪うことしかできねぇんだ。家族も、ダチも、仕事も、将来の夢も」


「園部さんは沙希ちゃんに十分なものを与える事が出来るじゃないですか」
「物質的な物しか思い浮かばねぇヤクザな俺がか?」
「ヤクザだから、ですよ」
「なんだそりゃ?」
「自分で考えてください。さて、湯上がり姿の沙希ちゃんを見られないのは残念ですがそろそろ…」


「あれ、吉野さん、もう帰っちゃったんだ…」
 園部と揃いのバスローブ(子供用サイズ)を着た沙希が髪の毛に付いた雫を振りまきながらバスルームから走り出て、その後を志貴が追うように出てきた。
「沙希、ちゃんと髪の毛乾かせってば!」
 志貴が沙希目がけてタオルを投げる。
「はーい。せっかく稽古の話ししようと思ってたのに…」
 残念そうな表情でソファーにドサッと座った沙希からタオルを奪い、園部は沙希の髪を丁寧に乾かしはじめた。
「おいこら沙希、そのくらい自分でやれ」
 志貴は口は出しても手は貸さない。
 園部は口を出さずに手を貸す。
 沙希は自分のことは自分でできるし、そうすることが当たり前だと思っているけれど、優しく丁寧に髪をあつかってくれる園部の手は心地よいし、それに身をゆだねてはいけない理由がわからない。
「はーい…」
 けれども兄の言葉に逆らう理由も見つからない。ちゃんと動く二本の腕を持っているのだから…
「園部さんもお風呂入ってきて…俺、自分でやれるから」


 志貴に風呂掃除を言い渡した後、園部は明日から仕事に出る沙希を気遣って自分のベッドで休ませた。沙希は夜更かしがあまり得意ではなく、23時を過ぎた頃から船をこぎ出す。兄を待っている間にやはり眠たくなったのか、園部が抱き上げて運ぼうとしてもくったりと身を任せている。
 静かに運んでベッドの上に横たえ、自分もその隣に寝そべる。洗い立てのシャンプーの香りが鼻孔をくすぐり、沙希のためにあるようなその無垢な香りは園部のどす黒い欲望すら飼い慣らしてしまう。すっぽんやキスマークで気持ちを煽ろうと頑張っている克彦には悪いが、毎晩遊び回っていた園部の欲望はなりを潜めたままで、気持ちだけが膨れあがっていく。
 沙希の温もりを感じながらかつてない程の充足感を味わっていると、志貴がノックもせずに寝室に入ってきた。もし志貴が自分の部下だったらその場で殴り倒していただろう。が、しかたがねぇなと渋々起きあがりながら、沙希を起こさないように「黙れ」と合図を出した。
「お前もさっさと寝ろ。明日は仕事を手伝ってもらう」
「俺はお前の手下じゃねぇ」 


 志貴は口の端を歪めて寝室を後にする園部に一瞥をくれる。あのまま沙希の隣で寝ると、所有権を主張するのかと思った。
 沙希の隣に寝転がると清潔で爽やかな香りがして心地良い。
 園部も、この香りを嗅いでいたのだろうか?
 何を考えながら?
 幼い頃、幾らでも幸せになれただろうに、絶対に俺と一緒じゃないと嫌だと言い張って養子へ行こうとしなかった。
 これからもどうか俺を置いていかないでくれ。良い兄ではないし、今は何も与えてやれないけれど…いつかきっと不自由なく暮らせるようにがんばるから…


「おら志貴、これ10組コピーして会議室。原本は吉野に渡しとけ。30分後にお勉強会だって三階に伝えろ」
「…」
「ついでにお前も参加しろ」
「なんで俺が!」
「うるせぇ!」
 沙希を会社へ送った後、有無を言わさず事務所に連れてこられた志貴は、園部に小間使いのようにこき使われ、挙げ句の果ては勉強会に出ろと言われ…コピーするようにと渡された書類は投資に関する園部流のノウハウをまとめた物らしかった。もんくを言いつつ言われた通りの事をこなし、三十分後にはじまった勉強会とやらに出る。見ただけでは全くワケが分からなかったが、園部の説明が加わると面白いほど理解できて、志貴はあっという間に引き込まれていった。
「志貴、てめぇ少しは分かったか?」
 いきなり名指しされ、びくっと身体がはねてしまった。分かったと言えば分かったが…実践となると上手く行くかどうか疑問である。
「書いてあることは分かったけど…実際にやったことねぇから分かんねぇ。この通りにやって儲かるなら、ここにいる全員があんたみたいになれるハズだろ?」
「確かにな。お前でも、俺になれる」
 園部は手元のノートパソコンを閉じると、解散、と言い椅子から立ち上がった。
「メシだメシ。全員奢ってやるから寿司でも取れ」


「沙希、久しぶりで疲れたろ?」
「ん、大丈夫」
 園部が沙希の小さな肩を揉むと、くすぐったいのか悲鳴を上げ笑い転げながら逃げまくる。
「あ?お前、肩揉まれるとくすぐったいのか?」
「ひゃっははははは、だめっ、ふひゃっははははっ」
 ソファーからずり落ちながら身体を捩り、涙目になりながら笑っている…
「子供は肩なんか凝らねぇしな」
「あ、そうだ…」
 涙目を擦りながら、沙希は園部の後ろに回ると、そのがっちりとした肩に両手を添えた。
「園部さん、ずっと俺を抱えていてくれたから肩凝ったでしょ?」
 そう言いながらツボにぐっと力を込める…が…
「固っ!!」
 凝っているんだか筋肉が発達しているのか、分からないくらい固く、沙希の細い指ではマッサージすらできない。
「無理すんな。肩が凝るような事はしてねぇからな」
「でも…俺、園部さんになんのお礼もできない…めちゃくちゃお世話になってるのに…」
 久しぶりの出勤だったのに、仕事中は園部や黒瀬組の人達のことばかり考えていた。出勤してすぐ長期欠勤のお詫びを上司に伝えに行ったのだが、その時に、園部がビル管理の新規契約を三件持ってきたことを伝えられ、お陰で沙希も肩身の狭い思いをせずにすんだ。その事もあって一日中園部の事を考えていたのだが、もちろんそれだけが理由ではない。
 知り合って一週間くらいしか経たないのに、一生忘れられない存在感を植え付けられた。優しい大人は何人も知っているが、それだけではなく、強引で大胆で、でも繊細で…仕事もみんなとの生活も楽しいが、今日もまた園部のいる家に帰るのだと思うと、気持ちが浮き立った。
 仕事が終わり職場を出ると、園部と兄が迎えに来ていて、すっかり見慣れた大きな車に乗り、買い物をして、夕食を食べて、そしてまた園部の家へ帰る。兄も一緒にいてくれて、これほど幸せな時間を過ごしたのは、覚えている限りでは無い。たぶん、まだ両親がいた頃は今よりもっと幸せだったかも知れないが、沙希は断片でしか覚えていないのだ。両親の顔も、写真で見て、ああこんな感じだったな、とやっと思い出すくらい記憶が薄れてしまった。幼かったから仕方がないことだと言われるけれど、急にいなくなってあんなに悲しかった両親の事を忘れてしまうなんて…悲しかった事すら、今では風化してしまっている。
 園部とはあと一週間したらそう簡単には会えなくなるが、死に別れるわけではないから忘れることはないだろう。でも、園部といる時に感じる深いやすらぎと穏やかさは恋しく思うかも知れない。


「どうした?」
 考え事で手が止まってしまった。せっかく、うまくマッサージできそうだったのに。園部の肩をただ撫でるだけになっていた両手に、再び力を込める。
「園部さんがNYに帰ったら、寂しくなるなーって…」
「付いてくれば良いじゃないか」
「でも…仕事も、兄ちゃんも、色々あるし…」
「なあ沙希」
 言うか、言わないか。言うとしたらいつ?どんなふうに?
 どんなに考えても園部には答えが見つからなかった。
 今すぐアメリカに連れて行くには、沙希が決心するプラスの材料が少なすぎる。自分の事を好いているのは分かるが恋愛感情にはまだまだ遠く、憧れだけで今までの生活を捨てて渡米するなど、子供の沙希には宇宙に行くより途方もないことだろう。
「もしお前になんの枷もなかったら、付いてきてくれるくらい俺のことが好きか?」
「…うん。たぶん」
「俺はお前がなんの心配もしなくて良いように、どんな不安も取り除いてやる。お前が一生楽に暮らせるくらいの事はしてやれるし、仕事がしたければいくらでも紹介する。俺を信じて、付いてきてくれないか?」
「園部さっ…!」
 園部は沙希の片手を掴み力一杯引っ張り、体勢を崩した沙希がソファーの背を乗り越えてドサッと園部の膝の上に落ちてきたところを、しっかりと抱き上げた。渾身の力で抱き締められ、沙希は身動きがとれず抵抗など出来ない。
「沙希、お前に惚れてる。お前が欲しい」
 

 心の底から絞り出されたような言葉が、沙希の耳元に降り注がれる。
「園部さん…あのっ…」
 惚れている、欲しい、言葉は分かるけれど、意味が理解できない。
「あの…」
「分からないか?言葉通りだ。お前を愛している。だから抱きたい」
 そう言った瞬間、沙希の全身に力がこもった。両腕で園部を突っぱねようとするが、沙希の小さな身体は両腕ごとしっかりと絡め取られており、動かす事さえ不可能だった。
 抱き締めてるじゃないか、と言ってしまうほど子供ではないが、セックスしたいと言われてそれがどういう行為か未知なくらい初心ではある。そういう行為を漠然と妄想したことはあるが、こんなに早く自分の身に降りかかってくるなど予想もしなかった。しかも、男同士…克彦さんがそうだと知って驚いたくらいである。自分がその状況に立たされ、沙希は前代未聞の恐怖と困惑ですくみ上がり、泣きながら兄を呼んだことにまったく気が付かなかった。
「きさま!!」
 
 叫び出した沙希の声で、使っていない書斎で午前中に受けた説明をさらっていた志貴は書斎から飛び出し、園部の腕の中でパニックを起こしている沙希に駆け寄った。園部の腕をふりほどこうと殴りつけたがびくともしない。
「兄ちゃん!兄ちゃん!」
 泣きながら叫び続ける沙希にあたらないように殴り、蹴り、罵り…そうしているうちに、何の感情も含まない園部の殺伐とした瞳が志貴を捕らえた。
 一瞬、志貴は怖じ気づいたが、自分を奮い立たせるかのように園部をにらみ返し、無力なことは分かっていたが、沙希を園部から引き剥がそうと肩を掴んだ。
 しっかり掴んでぐいっと引っ張った瞬間…いとも簡単に沙希は志貴の腕の中に飛び込んできた。思わぬ容易さに力が余り、沙希が飛び込んできた瞬間に後ろへ吹き飛びそうになったが、かろうじて踏みとどまる。ここでみっともない姿を晒したくなかった。
 沙希は真っ黒でキラキラ光る瞳をぎゅっと閉じ、馴染んだ志貴の身体に抱きつく。
「兄ちゃん…!」


 その瞬間、園部は黙って立ち上がり、抱き合う兄弟から離れた。ポケットを探り、鍵を取り出すとソファーに投げつける。
「帰りたければ帰れ。泊まりたければ泊まれ。鍵は吉野宛に送ってくれればいい」
 静かに言い放ち、園部は寝室でも書斎でもなく玄関に向かった。廊下に通じるドアを足で蹴破り派手な音を立てた瞬間、沙希の身体が震えたが、振り向きもせずに出て行った園部はたとえその事に予測が付いたとしても、気にも留めなかっただろう。


 沙希が落ち着くのを待って、志貴は沙希の荷物をまとめると園部の部屋を後にした。自分のねぐらの一つに落ち着くと、もう泣いてはいなかったが固く口を閉じたまま顔を上げることが出来ない沙希を抱き締めて眠った。
 園部の部屋とは雲泥の差で、まともに掃除もしたことがない部屋はほこりっぽく散らかっていた。これが今の自分にできる事かと思うと、こんな兄を選んでくれた沙希が愛しくて堪らない。しかし、沙希がこのまま、園部への気持ちに気が付かないまま、元通り元気になってくれれば良いと思うと同時に、沙希を縛り付けてしまったのがこんな不甲斐ない兄で申し訳なかったとも思う。沙希がヤクザにどんな目にあわせられるか分かったものではないからという大儀の裏には、全てを自由に操れる園部への嫉妬が渦巻いていた。くだらない見栄のために沙希を利用したようなものだ。


 分からない。分からない。園部の気持ちも、自分の気持ちも、何もかも分からない事ばかりで、沙希は何も考えられなかった。園部のことは嫌いではない。とても好きで、でも、その『好き』が思っていたような憧れなのか、友情なのかすらも分からなくなった。欲しいと言われ、それが肉体関係を意味するものだと言われたときに感じた恐怖は、何をされるのか全く見当も付かない上に女のように扱われるのかと漠然と想像したからで、自分が女のような容姿をしている事にコンプレックスがあり、その結果ただただ拒否反応が出て、その事をよく知っていて男として認めてくれていた兄に助けを求めてしまったのだ。
 園部が嫌いなのではない。嫌いじゃない。大好きだった。大好きだったのに…どうしたら良いんだろう…このまま、会えなくなってしまうのかと思うと、心臓が握りつぶされるかと思えるほど痛かった。

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