花・ひらく

園部と沙希

 夕べ何があったかは事務所中に知れ渡っていた。
 とりたてて不機嫌では無いし、一週間前の園部に戻っただけ、元の園部が帰ってきた、この一週間は何もなかったのだ。そう徹底することが暗黙の了解のようになっていた。
「園部さん…自宅があるのにホテルを利用するのはどうかと思いますが…それにこの追加の往復航空券はなんですか?」
 ついでに吉野の眉間の皺も元通りだ。
「うるせぇな。後で払うって。組のカード出したことに気が付かなかっただけだろが」
 園部はあの家をしばらく放置した後に売りに出すことに決めた。全てを無かったことにして、今まで通りの自分に戻るために、沙希の痕跡が残る物は全て処分するつもりだ。ヤクザの抗争だかなんだかに巻き込まれて死んだ父親のように、誰かに本気で入れあげれば酷い目に遭う事が今更ながらはっきり分かった。
「それから園部さん、明日は定例会ですからね。せっかく帰国しているんだからあなたも参加してもらいますよ」
「へいへい…」


「HAL、珍しいね。いつもは行った先で好きに遊び回っているくせに」
 空港のロビーで辺りにはばかることなく園部が抱き寄せたブロンドに緑の目の美しい青年は、園部の首に腕を回して一週間ぶりのキスを楽しんでいた。
「毎晩エロ動画送ってきたのはどこのどいつだ?」
「ふふふ。遊びにも行けないから退屈だったんだ」
「他の男で息抜きしてるんじゃなかったのか?」
「まだHALに殺されたくないからね」
「殺したら楽しめないだろが」
 漆黒のジャガーに滑り込み、柔らかくしっとりした唇を貪る。
「グレン、どこに行きたい?」
 首筋に舌を這わせながら訊ねる。
「そうだね…HALの部屋?」
「偶然だな。もうそこに向かってるところだ」


 部屋に付くなり、グレンをベッドに押し倒す。ボディーガード兼荷物持ちで付いている組員の目などお構いなしに、強引に、犯すようにグレンを責め上げ、長年愛人稼業で生きてきたグレンでさえ悲鳴を上げてしまった。慣れた行為とは言え、大した愛撫もせずにいきり立ったもので深く抉られ、身体が逃げる。その逃げる身体を羽交い締めして動きを封じられ、ただ痛みに耐えるしかなかった。
「今日の定例会が終わったらあとは自由だ。行きたいところがあれば決めておけ」
「京都って、ここから近いの?」
「NYからロスへ行くよりは近いぜ。行きたいのか?」
「日本情緒が楽しめるところならどこでも」
 グレンのしなやかな首筋につーっと舌を這わせ、最後に軽く口づける。
 高額な契約金を払った最高の愛人。
 見た目も最高に美しいが、心の奥には立ち入らないようにしながらも恋人のように振る舞う事が出来る、園部にはピッタリの男だ。
 沙希のような純情な子供が抱きたければ、そういうタイプを望めば良い。 気が済むまで、もう一人契約をしても良いかと、園部は考えた。たまに変わった毛色の男を抱きたくなる、そう思えば今回の事も自分らしい出来心だったじゃないか、と簡単に説明が付く。
 

「沙希…沼田さんから預かった物があるんだけど…」
 沙希が橋本君から書類のようなものを渡されたのは、園部のマンションを出た次の夜だった。沙希は毎日帰ってきていたが食事が終わると園部に連れ去られていたので、ゆっくり話すヒマがなかった。
 沼田はすぐにでも引っ越して良いと言っていたが、沙希名義なのに沙希も知らない話しを勝手に勧めるわけにはいかない。それに、沙希がどう思うか…いくらなんでも贈り物にしては規模が大きすぎる。
「俺の名前…?マンション?これ、何?」
 沙希は七夕の願い事を書いていたときにはここにいなかったので、沙希が園部に連れ去られた直後の話しを、橋本君は聞かせた。


「…こんな…信じられない…」
「沼田さんが言うには、園部さんにはこのマンションの名義を書き換えたことを伝えてないって。願い事は全部叶えろ、ってことだったし、もう一人の…吉野さん?が報告する必要はないって…俺たち、冗談のつもりで書いたんだけど…細かいことまで全部、ほんとうになっちゃって…」
 見た目も内面も理想の男が自分のことをとても気に入って可愛がってくれて、甘えさせてくれて…沙希も自分が大好きな仲間達を、園部のようにがっしりと支えられるような男になりたいと思った。だから、園部がアメリカに帰るまでずっと側にいて見ていたいと思った。アメリカに帰っても、きっといつかまた会えるだろうし、その時、今より少しでも園部に近づいているようにしっかり生きていこうと思った。欲しいのは、こんな、マンションとか物とかじゃないのに…もっとたくさんの思い出が欲しかったのに…
「俺、これ返してくる…こんなのいらないよ…いらないのに…」


 園部にどんな顔をして会えばいいのか…志貴に相談すれば絶対に会うなと言われる事は確実だ。でも、一人で園部に会うのも恐い。まずは吉野か沼田にマンションの権利書を返したいがどうすればいいのか相談することにしたのだが、事務所に連絡を入れたら幹部は全員重要な集まりがあるので出払っているといわれてしまった。沙希が吉野か沼田に連絡を取りたがっていると伝言してくれることになり、連絡を待っていたら、程なく、沼田がわざわざ沙希に会いに来てくれた。沼田は普段から事務所にいないことが多く、沙希も七夕以来会っていなかったので込み入った話をすることにためらいがあったが、事の始終は全て知っているから…と。沼田の優しげな風貌にも助けられ、沙希はつい自分の気持ちまでぺらぺらとしゃべってしまった。
「…沙希ちゃんの気持ちは分かるよ。あの強面で、万事が自分の思い通りにならないと気が済まない園部さんは、本当に沙希ちゃんの事が好きで、でも、自分のやり方でしか気持ちを表現できないんだな。だからこそ、沙希ちゃんも自分の思うように園部さんにその権利書を突き返せばいい」
 ただし、今日は夜遅くなるけれどがんばって待っていられるかな?と子供扱いをされ、抱きかかえられて過ごした三日間の温もりを思い出してしまった。


 沙希は園部が店から出てくるのを、沼田の車の中で待っていた。園部に会えるのは嬉しいが、この二日間考えていた自分の気持ちをきちんと伝えられるだろうか…自分の気持ちと言っても完全な答えが出たわけではなく、どんなに考えても分からないことだらけで恐くて不安で、今すぐ自分の生活を変える事はできない。誰を選んで誰を切り捨てるか、そんな極端な答えを出すことは自分には出来ない。
 小さなノックの音で我に返り窓の外を見ると、沼田が覗いていた。
「園部さんが出てきますよ…」
 店の前の道路には、いつの間にか数台の高級車が主の登場を待ちかまえていた。最初に現れたのは本田と克彦で、沙希を見つけた克彦がこちらに来ようとしたが本田に捕まえられ、車に押し込まれてしまった。盛大な文句が聞こえていたが、本田がドアを閉めるとそれも聞こえなくなり、暴れる克彦を乗せたままゆっくりと去っていった。


「園部さ…」
 沙希の大好きな園部が姿を現し、駆け寄ろうとすると…沙希の目に、園部の腕に絡みつく外国人の青年の姿が飛び込んできた。
 輝くように美しい青年が最初に沙希に気付き、じっと見つめる。青年が園部に絡ませていた手を解くと、驚くほど自然に園部の腕が青年の腰に回される。優しげに話していた青年が急に真顔で黙り込んだのを不審に思ったのか、回した腕で青年の身体をしっかりと懐に抱き込み、その視線の先にいる沙希を見つけた。
 黙って沙希を見下ろす園部の視線は氷のように冷たかったが、それよりも、沙希は急にわき上がった感じたことのない驚愕と憤りでその場に貼り付けられたように身体が動かなくなってしまった。
 その人は、誰?
 聞きたくても声が出ない。聞かなくても分かってしまう答えなんか知りたくない。
 園部の射るような視線は沙希を完全に拒否している。
 どうして?あんなに優しくしてくれたのに?
 返そうと思った書類を握りしめたまま、沙希は呆然とその場に立ちつくしてしまった。体中がカッと熱くなり、小刻みに振るえはじめる。のど元に何か大きな固まりがこみ上げ、ぐっと飲み込もうとするのだがうまくいかない。息が詰まって苦しいのを必死で我慢していると、目の奥がツンとして、そっちも堪えなければ、みっともなく涙を流してしまいそうだった。
「あっ…ぐっ…」
 言おうと思っていた言葉は瞬時に忘却の彼方へ飛び去り、手にしていた封筒を前に突き出すだけで精一杯だ。
 目の前でブルブル震えている封筒を睨んでみても、震えは当然止まらない。
「これ…っ」


 園部は訝しそうに沙希が突き出している封筒をちらっと見た。その場で凍り付いている吉野と沼田に視線で説明を促す。
「七夕の夜に園部さんが叶えてやれと言った案件です。あなたの新宿のマンションを沙希ちゃん名義に変えた、その権利書ですね」
 吉野の説明は至極手短だが、係わった者達には十分に理解できる説明だ。
「それがどうかしたのか」
 全て理解した園部が静かに言う。
「これ…いらないっ…です」
 今にも泣き出しそうな声を沙希は振り絞っている。吉野も沼田も、グレンも、手を差し伸べてやりたいが何もできない。当の園部が、早く終わらせてこの場から立ち去りたいと考えており、無用な手を出せば容赦ない態度と言葉で、それが本心とは裏腹なものでも、園部と沙希の心に鋭い傷跡を残すかも知れない。出来るだけ軽く終わらせたいなら、今は誰も口を挟むべきではないと、周囲の賢い男達は思ったのだ。
「一週間振り回して悪かったな。詫びだ。取っておけ。気に入らねぇなら吉野に頼んで売り払えば良い。金は幾らあっても困らねぇだろ。それに、願いを叶えると言ったのは俺だ」


「いらない…こんなの…いらないのに…いらない」
 いらないから、もう一度、前みたいに優しくして欲しい。大きな手で抱き締めて、安心させて欲しい。惚れてるって言ったくせに、どうして園部さんの隣にいるのは自分ではないの?俺が、園部さんを拒否したから?大好きなだけでは一緒にいられないの?
 兄のこと、仕事のこと、仲間のことがきれいさっぱり頭の中から消え失せて、自分のことばかり考えている。何が特別欲しいと思った事もなかったから、がまんした覚えもない。両親がいないから他の家庭の子とは少し違うけれど、不満も不自由もなかった。我が儘を言ったところで無駄だから、少しだけ本音を吐いてすぐに諦めた。
 でも…地団駄を踏んで叫び出したいくらい、悔しい。惚れてる、欲しいと言ったくせに、いとも簡単に手の平を返し、自分では到底太刀打ちできないような美しい人を連れ回して…
 だからといって今すぐ園部について行くとも言えなくて…歯がゆい、悔しい、悲しい、辛い。
 下を向いても上を向いても涙が零れそうだった。仕方がないので目をぎゅっと閉じ持っていた書類から手を離すと、それが足元に落ちる前にはもう後ろを向いて掛けだしていた。
  

 沙希がどこにもいない、志貴からそう連絡があったのは次の日の夕方だった。昨夜は寮にも帰ってこず、仕事場には来たらしいが様子がおかしく、心配していたら案の定右手の平を火傷したので病院へ行かせたが、その後仕事場にも帰ってこない。無断で仕事をさぼるような子ではないし、このところ様子がおかしかったから心配した同僚が志貴に知らせてくれたのだった。
 血相を変えて黒瀬組に飛び込んできた志貴を落ち着かせ、吉野は一人で園部のマンションに向かった。昨夜のあの気持ちが嫉妬だと自覚できたなら、沙希が行きそうな場所はそこしかない。園部の気配を求めているはずだ。
「火傷の治療もしないと、園部さんにあとで怒られてしまいますね…」
 付いてこようとした志貴を簡単に縛り上げ、自分のデスクに乗った書類の山を本田の前に移動して何食わぬ顔で事務所を後にした。


 園部に会いたい。
 泣いても泣いても涙が止まらず朝まで路上で泣き通し、会社に行ったものの切れたばかりでまだ熱い電球を素手で触ると言うもっと泣きたくなるような凡ミスで火傷を負い、会社を出されてしまった。手は痛かったが病院に行く気になれず、怪我をしたのだから治してもらいたくて、ここに来てしまった。
 昨日、隣にいた人は誰?
 そればかりが気になり、自分が園部を振ったことなど忘れてしまっている。とても綺麗できらきら輝いていて、しっとり落ち着いた色気があって…自分など貧相な野良猫だ。
 あんなに素敵な人がいるのに、どうして自分なんかに惚れてるなんて言ったのだろう?最初から遊ばれていたのかな…
 遊ばれていたと思えば合点がいく。
 あんなに優しく可愛がってくれたのに、全部を無かったことにしたそうな園部の冷たい視線と、マンションの権利書。あれが手切れ金として妥当なのか沙希には分からなかったが、最初から用意してあったような感じだったし…
 もしかしたら園部がここに帰ってくるかも知れないと思って来てみたが、沙希が出て行った時のままバスローブや食器などが放置してあり、誰も入った形跡がない。園部が帰ってくる前に片づけようと思ったのだが、利き手の平全体に水ぶくれが出来てしまい、痛くて使えない。それがまた悲しくてボロボロ涙が出てくる。
 寝室に入るとなんとなく懐かしい香りがして、大きなベッドにつっぷして、また泣いてしまった。


「沙希ちゃん…」
 優しい声で覚醒を促され、沙希は園部が戻ってきたのかと思った。急速に目が覚め、目の前の人物が園部ではないと確認した瞬間、どっと身体が重くなる。
「吉野さん…」
「じっとしていてください。先に手の治療をしましょう」
 ジンジン痛み熱を持った手の平に、ひんやりとした薬がたっぷりと塗られる。
「これを毎日塗っていれば、跡形もなく治りますからね。せっかくの綺麗なからだが傷物になっては大変ですから」
 手際よく包帯を巻き終わると、吉野は志貴に連絡を取り、安心するように伝えた。
「志貴君と話しますか?」
 携帯を手渡されたが、沙希は取ろうとしない。しばらく一人でいたかった。落ち着いて元の自分に戻るまで一人にして欲しかった。今の自分の頭の中には我が儘や自分勝手な考えばかりが浮かんでいて、きっと志貴を困らせてしまう。
 もう少し一人でいたいみたいですよ、落ち着くまではきちんとお世話をしますからと伝え電話を切った吉野は、枕にしがみついて顔を埋めた沙希に毛布を掛け、そっと寝室を後にした。


 話を聞きつけて駆けつけた克彦が作った手料理を食べ、デザートのチョコレートムースを食べ終わる頃には沙希もだいぶん落ち着いていた。途中から本田と沼田も加わり、なぜか全員そのまま朝まで一緒にいてくれた。翌日は全員仕事だったが、沙希は利き手を負傷して使い物にならなかったので仕事を休まされ、克彦の仕事について回らされた。
 と言っても沙希は何も手伝えないので、ただ黙って克彦の隣にくっついているだけだ。普段は見たことも無いような今風のインテリアやおしゃれな空間に圧倒され驚くばかりで、それはそれで他のことを考える時間が無くなるので有り難い。
 園部に買って貰った服を着せられ、克彦御用達のヘアサロンへ強制連行されすっかり別人のようになったのに、なれない恰好が恥ずかしい沙希は俯いて克彦の背中に隠れるようにして過ごした。
 暑い!狭い!の二言で、沙希が住んでいた寮の全員を、園部がくれた新宿のマンションに強制引っ越しさせたのも克彦だ。沙希が当分料理を作れないので克彦が代わりに作ると言いだし、寮へ連れて行くと、到着するなり引っ越しの号令が飛んだ。
「生活必需品は全部揃ってるから!自分の物だけ持って!都筑、タクシー三台手配しといて!」
 一時間後にはマンションに到着し、2時間後には全員揃って食卓に座っていた。そしておろおろと口ごもる沙希を完全に無視し、3時間後には園部のマンションに沙希を連れ帰っていた。


「沙希ちゃん、これくらい我が儘やって良いんだよ」
「…でも…」
「沙希ちゃん、なんで沢山泣いたの?」
「それは…」
「園部さんが酷いことしたからだろ?」
「…」
「だいたいさ、沙希ちゃんまだ子供なんだから、惚れてるとか抱きたいとか言われたらびっくりするよね?家族捨ててアメリカに行く決心をその場でできるわけないんだよ。雪柾も強引だったけど、園部さんはもっと強引で自己中だよね。思い通りに行かなかったらはいお終いなんて…」
「…本田さんも強引だったの?」
「うん。もう、好き勝手に引っ張り回して、プライベートは調べまくるし首突っ込むし…でもね、雪柾は俺の不安を全部取り除いた後に、俺のものになれって言ってくれた。だから、戸惑わずに…半日くらいは悩んだけど…ダイブしたんだよ、雪柾の腕の中に。雪柾は俺の中に」
 最後の一言は理解不能か誤解しているだろうけど、なかなか語呂が良かったので付け加えてみたのだ…沙希は無表情でも雪柾がビールでむせたので克彦は満足だった。
「俺は…それもあるけど…俺は…」
 少し思い出しただけで涙がどっと溢れてくる。最後にあったときの園部の表情の変化…あの美しい人には微笑んでいたのに、沙希を見つけた途端、氷のように冷たくなった。
 どうしてそこにいるのが自分ではないのかと叫び出しそうになったけれど、それと同時にとても似合いのカップルだとも思い、自分が惨めになった。


「沙希ちゃん、それは嫉妬だよ」
 ズバリと克彦が言う。
「嫉妬…?」
「うん。どうして嫉妬するか、わかる?」
「…」
「教えてあげたいけど、それは自分で気が付かなきゃね」
「わかんないよ」
「即答しないの。全然考えてないでしょ。もし、雪柾が俺以外の男を横に侍らせて冷たい態度取ったら…今までだったらひっぱたいて終わりだったけど、これから先そんなことがあったら、心臓が止まって死んじゃうよ」
 そうだよね…だって克彦さんと本田さんは愛し合って……
「……」
 なんでこんなに涙が出るのか、沙希はやっと分かった。でも、今また溢れてきた涙は別の物だ。

 気が付いたら、終わっていた。

 時々心臓がぎゅっとなっていたのは園部さんが好きだったから。憧れでも尊敬でもなく、恋していたから。

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