「執事に色目でも使ったか?」
 昨夜と同じように、乱暴に両腕を縛り上げられる。
 部屋に入って来るなり裸に剥かれ、傷ついた身体を隅々まで晒す。ベッドにうつぶせにされると、背中の傷に指が触れるのを感じた。
(そこは、いやだ…!)
 羞恥で涙が零れそうになるのを、歯を食いしばって耐えた。
「ぐっ…」
 羽根があった場所を、指でじっとりとなぞられる。
「ここを剥がれて、それでもお前は達ったのか?」
 揶揄とも嘲笑ともとれる、冷ややかな笑いを含んだ声。亮は、その時を思い出し、きつく唇を噛んだ。美しい白い肌に現れたうす紅色の天使の羽根… 初めて後孔に二人の男の性器が挿入されたとき、あまりの痛みに拒絶の言葉を叫んだ。その罰。開口器で無惨な姿をさせられ、男の性器を突っ込まれ、後ろももちろん犯されながら、皮膚を剥がれた。
 

 痛みは、時間が経てば忘れられる。けれど、もう二度と背中の羽根を見ようと戯れる事は出来ない。また一緒に見て欲しかった。一生懸命、首をねじったり身体をねじったりして見ていた時に、鏡を当てて見やすくしてくれた…もう、そんなことも出来ない。
 一番見られたくなかった人にその傷を触られ、心が砕け散りそうだった。
 枕に顔を押しつけて、拒絶の言葉をかみ殺す。足を開き、腰を高く上げると、いやらしくくねらせた。次第に襲ってくる寒気と戦いながら、男達が喜ぶ姿を演じる。そうすることで、早く苦しみから解放されるのだ。
 迅の指が止まる。
「傷に触れただけで、こうなるとはな…」
 迅は爪を立てながら双丘を鷲掴み、左右に開いた。それだけで、昨夜の生々しい傷跡が開き、血がにじむ。構うことなく、二本の指を突き刺すと一気に根本まで入れ、激しくかき回した。指をくの字に曲げながら、内壁をこする。
「はっあぁ…あっ…あ…んんっ…!」
 指先が前立腺に当たる。そのとたんに吐き気がこみ上げた。それを沈めるために、浅く速い呼吸を何度も繰り返す。

「そんなに気持ちが良いのか?では、お望み通りくれてやる!」
 怒りに満ちた雄を容赦なく叩き付ける。
 傷だらけの背中を、白い喉をのけぞらせて、亮は声を放った。獣じみた呼吸を繰り返し、吐き気をこらえる。冷たい汗が顔を伝い、美しい金髪がうなじに張り付く。身体の奥深くに放たれた熱い飛沫を感じたときに頬を伝ったのは、涙なのか汗なのか、亮自身にも分からなかった。
 迅のそれが引き抜かれるとき、亮はもう一度、無意識にきつく締め上げる。いつだったか、そうすれば、良い子だと言って優しく頭を撫でてくれた人がいたから。

 

 結局、同じ孔の狢か…
 迅は身体を離しながら、血まみれの自分の物に一瞥をくれた。憎しみだけで男を抱けるなど、思いもよらなかった。愛情も思いやりもない、一方的で残虐な行為。本家の叔父と、しょせん血は争えないと言うことか。
 口の端に、僅かに自嘲の笑みを浮かべながら煙草に火を付けた。深く吸い込み、ゆっくりはき出す。
 亮は隣で、まだ苦しそうに身体を丸めていた。
 手の拘束を解いてやるかと思い、その手に触れた。あり得ないほどの冷たさ。驚いて、急いで拘束をほどくと、亮は小刻みに震えながらベッドから這い降りようともがいた。今だ固く反り返った性器は隠そうともせず、シーツを背中に引き上げる。ちらりと見えた横顔は青白く、吐く息は震えていた。それでも立ち上がろうともがく。
 迅は急いで煙草をもみ消すと、寝室の扉に向かった。
「悠木!」
 大声で執事を呼ぶ声と、背後で亮が耐えきれずに嘔吐したのはほぼ同時だった。

 

 駆けつけた悠木と料理人が、亮をバスルームに連れて行った頃には、亮の状態はマシになっていた。寝室から聞こえてくる騒ぎを聞きながら、バスタブの中で膝を抱える亮。後始末くらい、自分でできるのに…本家にいたとき、寝室やプレイルームを片づけるのは自分たちだった。ショックで動けない子の面倒を見て、部屋を何事もなかったように片づけ、そうすればやっと解放される。 亮は、酷い怪我で動けなかった時以外は、与えられた仕事をきちんとこなした。
 おろし立てと思われるライトブルーの寝間着の上に濃紺のシルクのガウンをきっちり着込み、亮は寝室で動き回る人達の手伝いに加わろうとした。
 今日は、床の絨毯に吐いてしまったので、掃除が大変そうだった。汚い物は取り除かれていたが、メイドは洗剤でごしごし拭いている。メイドの傍らに置いてあったバケツの中のぞうきんに手を伸ばし、固く絞って泡を拭き取る。
 メイドはびっくり仰天。
「亮様、そんなことはなさらずに!」
 慌てて駆け寄ってきた悠木に、両脇を抱えて立ち上がらされた。そのまま引きずるようにベッドまで連れて行かれる。
「亮様はお休みになっていてください。今、ココアを入れさせていますので」
「でも、僕もう大丈夫ですから…」
「いけません」
 厳しくぴしゃり、と言ったあとで、悠木は亮をベッドに押し込み毛布を掛けると、お腹の辺りをぽんぽん、と軽く叩いた。まるで子供のような扱いに、少し笑みがこぼれた。
 

 まもなく、料理人が持ってきたココアを受け取る。
「ありがとうございます」
 料理人に向けられた瞳は、先ほどの惨状など微塵も感じさせない暖かさを湛えていた。マグカップを両手で包み込み、息を吹きかける様は、まだ幼い子供のようだった。料理人はその無垢な様子に引き込まれ、ただぼーっと突っ立っていた。
「こら、板井、ぼーっとしてないで、持ち場に帰りなさい」
 悠木が軽く叱責すると、はじかれたように顔をあげ、料理人はスタスタと出て行った。扉を閉める前にもう一度振り向くと、亮と視線が合う。すっかり落ち着いて柔らくなった表情に笑みが加わる。料理人はなんとなく、にっこり笑い、小さく手を振って扉を閉めた。

「亮様、これをお返ししようと思っていました」
 悠木は自分のポケットから小さな箱を取り出し、亮に手渡した。
「これは?」
 そっと小箱を開ける。
 とたんに、亮の瞳が揺れた。驚きと喜びの表情。
 そこには、無くしたはずのペンダントが入っていた。 六歳の誕生日に、お兄ちゃんからもらった、蒼い石が嵌ったロケット。
「これ…無くしたと…」
「私がここに戻されたとき、玄関ホールの隅に落ちていたのです」
 そっと両手に包み込み、悠木を見上げた。
「旦那様にお預けしたのですが、五年前に処分しろと言われて…でも、できませんでした。いつかまた亮様にお返し出来る日が来るだろうと思って」
 注意深くロケットを開ける。そこには、迅の髪の毛があの時のまま入っていた。
 
 

 どんなときも一緒だからね

 

 そう言ってくれたあの日のお兄ちゃんの髪が、そこに入っていた。両手でぎゅっと握りしめ、ベッドに横たわる。頭のてっぺんに響いてきた優しい声と心臓の鼓動が蘇る。
 悠木は毛布をかけ直すと、電気を消し、静かに扉を閉めた。

 
 抱けば必ず亮は嘔吐した。激しく攻めれば攻めるほど。固く立ち上がった性器を扱けば、射精するより早く嘔吐する。
「使えなくなって、払い下げたか…」
 社長室の座り後心地がよい椅子に身を沈めて、独りごちる。止めたはずの煙草の量が早々に元に戻ってしまったな、と思いながら煙をはく。
「社長…」
 気が付かない間に、秘書が扉を開けていた。
「何度かノックしたのですが、お返事がなかったので…」
「巽…女子社員といちゃついていたらどうする気だ?」
「そんな甲斐性がありましたか?」
 ヌケヌケと…そう思いながらも、苦笑いですませられるほどの信頼関係が二人にはあった。

「妄想中申し訳ありませんが、本家のおぼっちゃまがまた…」
 また…大げさに頭を抱えてみる。
「今度は何をやらかした?」
「覚醒剤取締法違反」
「こちらの手持ちのカードは?」
「最悪です。上に圧力を掛けて無かったことにするためのカードは尽きました。身代わりを立てるか、金を積むか」
「馬鹿息子が使っていたルートは?」
「ああ、紅宝院が持つ物とは別ですね…そちらを差し出しますか?」
「それが良いだろう」
「分かりました。手配します。今日はもうお帰りになりますか?」
「…いや、少し回って帰る。付き合うか?」
「お一人でさびしいなら。数カ所に電話で指示を飛ばしますから、駐車場でお待ち下さい」
 
 

 巽は足元が怪しくなるほど酒に飲まれてしまった迅をタクシーから引きずり出した。玄関まで出迎えていた執事の悠木と二人で両脇から支える。悠木が体制を整える間、ちらりと二階の窓に目をやると、金髪の少年が心配そうに覗いていた。
「まったく、なんでこんなに広いんだ?」
 男二人で担いでいるとは言え、190cm近い大柄な男が安心しきって身体を預けてくれば相当に重い。悠木が最近足を引きずるような歩き方をしていた事を思い出し、巽は自分がしっかりせねばと力を入れる。一緒に階段を転げ落ちるのなんかごめんだ。
「もう少しだ、少しは足を動かせよ!」
「…ああ……」
 部屋に入っても、ベッドまでは遠い。ずるずる引きずりながらやっとの事でベッドに放り出す。悠木はきちんと寝かせようと奮闘していた。ふと、そこに先ほどの金髪少年が入ってきた。
「あの、お手伝いします…」 
 悠木はちらりと見ると、頷きながらも手で静止する。 それでも少年はもう少し近づくと、悠木の後ろに立ち、脱がされる衣服を受け止めた。あらかた剥ぎ終わり、豪華な羽毛布団の中に押し込める。

「さて、こんなもんでしょう」
 少年は、てきぱきと剥がされた衣類をワードローブのハンガーに吊す。シャツと靴下は丸めて悠木に渡した。
「ありがとうございます。巽様もご苦労様でした。酔い覚ましにお茶でもいかがですか?亮様もご一緒に」
 興味津々、亮を眺めていたのはすっかりお見通しである。
「ああ、良いですね」
「あ、僕、用意してきます」
 巽は英語モードに切り替えていた頭を日本語モードに戻す。足早に出て行く少年を見送りながら、悠木に声を掛けた
「あれ?日本語上手だね」
 悠木は咳払いしながら答えた。
「純粋な日本人ですよ。さあ、客間でお待ち下さい」

「で、こちらの少年は?」
 繊細なティーカップがよく似合う美しい少年をじっくり見据えながら、巽は悠木に紹介を促す。
「巽様、こちらは花月院亮様です。大旦那様からお世話をするようにと遺言を頂いております。亮様、こちらは巽京史郎様。旦那様のご学友で、第一秘書長をされています。優秀で素晴らしい方ですよ」
 亮は臆せず巽を見つめている。迅より少し小柄で、といっても迅が大きすぎるので、男としては十分に大柄である。端正な顔立ちは、迅よりずっと優しげだった。
「社長は何も言っていなかったぞ。それでしばらくおかしな行動を取っていたのか…」
「おかしな行動と言いますと?」
「何処にもよらずにさっさと帰るか、何時までもぐずぐず社長室に引きこもるか。会社にいるときは常に仕事をしていたのに、最近は終わってもいつまでも煙草をふかしている」
 吸い込まれるような、蒼い瞳。ティーカップを両手で持つ仕草が何とも可愛らしく、湯気の向こうからその大きな蒼い宝石のような瞳で見つめられるとやましい気持ちも萎えてしまう。社長がとる不穏な行動、これは恐らく…
「社長と、喧嘩でもしたのかな?」
 亮はびっくりしたように巽を見つめた。大きな瞳がさらに大きく開き、ほんの少し小首をかしげる。
「え…?そんなことは…」
 迅の半径五メートル以内に近づいたのは三週間ぶりだった。その頃から、抱かれていない。
 

 迅が興味を持って陵辱したのは最初の三回ほどで、後は時々、気まぐれのように亮をもてあそんだ。その間隔も長くなり、四ヶ月目に入った今では、近寄りも見向きもしなくなっていた。そのお陰で、少しずつ体力と気力を取り戻した亮は、悠木の後を追いながら、執事の仕事を学んでいった。少しでも、役に立ちたかったのだ。迅が自分を見たくもないのなら、その視界に入らないように。少し足が悪くなった悠木が階段を使うことが減るように、動き回った。朝は厨房を手伝い、迅が出掛ける後ろ姿を見送る。迅が日常生活の中で見せる自然な表情が好きだった。どんなに自分のことで不快な思いをさせ、険しい表情をとらせていたのか考えると心が痛む。自分に対してではなく、迅が本来持っている温かさを自身に取り戻して欲しかった。
「この半年、私に隠れて何かしていると思ったら…遺言とは言え、こんなに可愛らしい子が家にいては気もそぞろになるな」
 巽は頭のてっぺんから足の先まで、じっくり亮を、失礼なくらい観察している。
「巽様、今日は久しぶりにお泊まりになりますか?」
 巽は少し考え、立ち上がった。
「いいえ、今日は止めておきます。まだ少しやり残した仕事があるので…」
 亮はそばに掛けてあった巽の薄手のコートを手に取ると、ドアを開けて巽を廊下へと誘った。
 

 玄関の前で、コートを広げ、巽の腕を通す。
「ありがとう」
 巽は胸元のボタンを留めている途中の亮に低く優しく囁いた。自分の優雅な指先を見ていた亮のまぶたが、つと上に向けられる。温かく細められた巽の視線が、深い蒼い瞳の中に一瞬で吸い込まれる。
「…いいえ」
 小さく答えて、またボタン掛けに没頭する。全て掛け終わって亮は、もう一度見上げて微笑んだ。
「ご苦労様でした」
 数日後、悠木が心臓発作で倒れ、帰らぬ人となった。

「巽さんですか?亮です。あの、急用なんですけど…」
『どうしました?』
 亮の声は震えていた。
「あの、悠木さんが倒れて…救急車で運ばれました…」
『行き先の病院は分かりますか?』
「えと……聖マグダレア病院、です」
『分かりました。すぐに社長にお伝えします。私もすぐに参りますが…亮君は今どこに?』

「自宅に…」
『では、悠木さんの身の回りの物を準備しておいてください。お迎えに上がりますから。近くにお手伝いさんはいますか?』
「はい。代わりますか?」
『ええ、お願いします』
 亮は電話をメイドに渡すと悠木の部屋に向かった。何度か入ったことがあるが、何十年も住み続けた暖かみのある部屋だった。リビングと書斎を通り抜け、寝室に向かう。私物を扱うのは気が引けたが、今は仕方がない。あれこれ必要そうな物を準備していると、メイドも手伝いにやってきた。入院に必要な物など、よく分からなかったが、とりあえず支度をすませる。半時も待たずに巽が駆けつけた。

「足りない物は後で。亮君は急いで車に乗って。後の指示は他の者にしているから」
 手を取られて、亮は立ちすくんだ。
「でも、僕…」
「ほら、急いで」
「屋敷の外に出てはいけないって…」
「ああ…またそんな事…後で幾らでも助けてあげるから、取りあえず行こう。かなり危ないらしいから」
 危ない…その言葉に、亮は激しく動揺した。
 まだ何もしてない。お礼も言っていない。ここに連れてこられて、どんなに助けてもらったことか。いつも優しくしてくれて、気遣ってくれて、どんなにうれしかったか。迅さんの好きなお茶や珈琲の入れ方、衣類から持ち物、身の回りの小物まで全ての好みを教えてくれて、いつかこっそりお世話をさせてあげますよって、言ってくれたのに…後でどんな罰を受けても良いから、悠木さんに会いたかった。
 

 亮は車のシートに滑り込むと、いつもポケットに入れているペンダントを握りしめた。頭の中に、沢山の言葉が渦を巻く。その言葉が古典ヘブライ語、アラビア語、ペルシャ語、ギリシャ語、ラテン語、フランス語、ドイツ語、英語、イタリア語、ロシア語の十カ国語だと、悠木は教えてくれた。亮にとって最も馴染んだ言葉は古典ヘブライ語だった。誰から教えて貰ったわけではなく、日本語を話すようになったときには既に他の言葉も話せるようになっていた。両親は、決して口にするなと言っていたけれど…悠木の書斎にあった外国語の本のタイトルを何気なく読んだとき、悠木が気が付いたのだ。
 小学校にも、実は通っていない亮は字が書けなかった。もちろん読めない。悠木に教えて貰って、平仮名と簡単な漢字、そしてアルファベットは読み書きできるようになった。算数も教えて貰った。忙しい中、とても丁寧に教えてくれた。あれもこれも、色々な思い出が蘇る。楽しいことばかりだったのに、自分はそれ相応のお返しができていない。そしてまだ、もっと多くのことを教えて貰いたかった。なぜ自分両親が迅の両親を殺したのか、なぜ自分は紅宝院に引き取られたのか…自分はなぜ産まれる必要があったのか…

「亮?着いたよ」
 ふと我に返ると、そこは病室だった。様々な機械に取り囲まれた悠木が横たわっている。一足早く到着していた迅がいた。しかし亮は構わず、悠木のそばに駆け寄り管が通された手をそっと自分の両手で包み込むと、跪き、心に浮かぶまま言葉を発した。蛍光灯の明かりの下でも、亮は益々白く輝いていた。まるで発光するように。金色の髪のせいだけではないと、その場の誰もが思った。亮の周りだけに、白くぼぅっと光の環が見える。側を通りかかったシスターが立ち止まり、亮に歩み寄ってきた。ロザリオを片手で握りしめ、亮の肩にもう片方の手をそっと添える。亮の唱える呪文にしばらく耳を傾けると、深く息を吸い込み、唱和する。しばらく二人で唱えていたが、ある時ふと、シスターが言葉をとぎらせ、目の前の少年をまじまじと見つめる。慌てたように一歩下がると、十字を切り、低く跪いたのだった。
 迅と巽はただ呆然とそんな二人を眺めていた。
「手術の準備が整いました…」
 あわただしい一団に目もくれず祈り続ける二人を、迅と巽で立ち上がらせる。シスターはすぐに我に返ったが、巽の腕の中で、亮はまだ取り憑かれたように祈り続けていた。
 

「あの…旦那様…」
「…」
「悠木さんの私物をどうしましょう…」
 悠木が亡くなってからは、亮が屋敷の中を取り仕切っていた。もちろん自分から進んでの事ではない。使用人達からのたっての願いであった。決して荒々しかったり口やかましかったりするわけではないが、他人を寄せ付けない冷たさを纏った迅に声を掛けるのが、皆、苦手だったのだ。亮だって得意なわけではない。お金で買われた以上、何もせずに世話になっているだけ、と言うのも心苦しかった。
 何も返せない、そう考えれば、まだ抱かれていた方が良かったかも知れない。
「…お前の好きにしろ」
 そう言っただけで、迅は寝室へ向かい、扉を閉めた。
 …と、言われても…
 悠木の部屋はきちんと整頓されており、私物も少なかった。亮は取りあえず自分も使えそうな文房具などの小物だけを残し、あとは屋根裏に仕舞おうかと思っていた。将来、自分の後に執事が来るかも知れない。その時まで空き部屋にしておけばいい。
 

 悠木の書斎で片づけ物をしているとき、巽が訪ねてきた。
「亮君、元気?」
「巽さん!こないだは色々お世話になってしまって…ありがとうございました」
 まだ全開とは言えないが、戻ってきた笑顔で巽に元気なところを示した。
「ここで、何をしているの?」
「悠木さんに貸して頂いた本を戻しに…」
「へぇ…見せて」
 巽が手にとると、それは数学の記号のような物がずらりと並んだ本だった。
「これ、なに?」
 一応、巽も語学は得意である。英語とフランス語とイタリア語くらいはできる。が…。
「ギリシア語の本です」
「…ふふふ…まさか、読めるの?」
「はい。話せたけど以前は読めなくて…今は大丈夫です」
 巽は足元に冷たい風が吹いたような気がした。
「他の本は?」
 何冊か横取りして見る。
 迅と一位二位争いをしていた優秀さを自覚している巽としては、自分が出来ない事を出来る亮に僅かに嫉妬してしまった。
「さんすう…え…?」
 

 数学ではなく、さんすう。しかもひらがな…あまりの落差に言葉もない。
「僕、学校に行ってないから…悠木さんに教えてもらっていたんです。さんすうとかこくご」
「…でも、義務教育…」
「入学式には行ったんです。でも次の日から行けなくなって…」
 迅から、本家の事は聞いていた。早く助け出したい子がいることも。しかしその話しもこの数年はしなくなっていた。巽は仕事柄、紅宝院の表も裏も知り尽くしているが、そんな子供にまで蹂躙の限りを尽くしていたとは信じられない。学校にもやらずに、幽閉していたのか?それともやはり…
 唯一の救いは、今の亮にその片鱗も見あたらないこと。華奢ではあるが凛としたたたずまい。海よりも深く美しい蒼い瞳は、何事にも汚されない強く暖かな光を放っている。性格は言わずもがなで、自分を省みない迅に向ける一途さは、古今東西に名を馳せるどんな恋人達の絆の深さをも白々しく思わせる。こんなにも清らかな思いを捧げられて享受しない人間がいるのだろうか。
「分からないことがあったら、私に聞きなさい。何時でも教えてあげるよ」
 亮は返された本を両手でぎゅっと抱きしめると、巽の目をまっすぐに見つめて、微笑んだ。
「迅には、この笑顔を見せたのかな?こんなに、手が届くほど近くにあるのに」
 巽は頬にかかる金色の髪をそっとかき上げながら、手のひらを亮の頬に添えた。亮はつと視線を下げる。
 

 いつも迅の数歩後ろに立ち、視界に入らないように、目を合わさないようにうつむいている亮の姿しか思い出せない。
(やばいな…)
 巽は帰りの車の中でつぶやいた。今日は夕食まで一緒にとるはずだったのを早々に切り上げて帰ってしまった。あのまま留まれば、抱きしめて激しくキスを貪りたい衝動を抑えきれなかったかもしれない。
 亮が誰を想っていようとも。

 

光りある者