「ねえ、亮」
 甘い花の香りに包まれた温室で、バラの花を剪定している亮に付きまといながら、秋一はあれこれ話しかけていた。
「その白いバラ、俺にもくれる?」
 手に持っていた白バラに視線を落とし、亮はにっこり微笑んだ。
「秋一さんには、こっちのオレンジ色のバラが似合いますよ」
 そう言ってオレンジとピンクが微妙に混じったバラを指さす。
「そっちもきれいだね。でも、白いのが欲しい」
 しつこく詰め寄る。
 白バラは、いつも迅の部屋に飾ってある。白バラといっても沢山の種類があり、それぞれで色味も花の姿も葉の色も違う。迅の部屋には、その種類の違う白バラだけが飾ってあった。他の色が飾られていたことは無い。
 

 この温室を再開した時、最初に手がけたのがバラの再生で、美しく咲かせてみたら全てが白バラだった。何故かは分からないが、誰かが、白バラをとても好んでいたのだと思う。
 大切に育て、初めて咲いた白バラを迅の部屋に飾った。思いの丈を込めたバラに、誰が気付くことなくとも。
 しかし、大事な人のために咲かせた花だから…秋一に他の花を勧めたわけではない。言ってしまった後に、自分でもよく分からず、慌てて全言撤回する。
「あ、でも、お好きな色が良いですよね」
 焦りながら、飾り頃の花を吟味する。
「白いのは迅専用だもんね」
 自分だけは知っているよ、とでも言わんばかりの意地悪そうな笑みを浮かべてからかう。
 

 亮は秋一の言葉を反芻してみる。
(だんな様専用??)
 家中に白いバラを活ける。でもよく考えてみると、迅の部屋には、白バラしか活けたこと無いかもしれない…
「…初めて咲いてくれたのが白バラだったから…」
 何となく気恥ずかしくて、亮はうつむいてしまった。
 少し長めの前髪が、ハラリ、と目元を隠す。
「それに…迅のお茶は亮が必ず淹れる」
 何かを探るような視線を秋一は亮に向けた。
「それは…悠木さんが旦那様の好みを教えて下さったから…練習するつもりで…」
 仕事で疲れていらっしゃるのだから、自宅では寛いでいただけるよう、悠木が生きている頃と何一つ変わらず不自由なく暮らして頂けるよう、そのために自分はここにいるのだ。ただ、まだ悠木の足元にも及ばないので、旦那様以外のお客様の事になると、すっぽりと頭から抜けてしまうのだ。
 

 秋一さんはとても良い人で大好きだけれど、仲よくして頂ける分、自我を出しても良いのだと思い上がっていたのかも知れない…秋一さんにお茶を頼まれても自分で淹れることは少ない。旦那様の、一番大切な人に頼まれたのに…
「ごめんなさい…」
 亮は、怒らせてしまったのかと思い、慌てて白バラを一輪、差し出した。なかなか受け取る手が伸びてこないのを訝しんで、亮は俯けていた顔をゆっくりあげる。
 口元を押さえて笑いを堪える秋一の姿がそこに。
「また誤る。そこは胸を張って、秋一より旦那様の方が好きだからって言うところだよ」
 空いた方の手でくしゃくしゃと亮の髪の毛をかき乱しながら、秋一は白バラを差し出す亮の手を、そっと押し返した。慈しむような笑顔と共に。
「お前な、それは迅のためにだけ育てたバラなんだって、ちゃんと認識しろよ?」
 

 そう言われて、大きく見開かれた蒼い瞳が微かに揺らめく。
 旦那様のためにだけ…?
「あの、そんなつもりじゃ…無いけど…」
 無いけど…
「迅の好みのお茶を淹れられるのは自分だけって、自覚してるか?」
 そんな…
「僕なんかまだまだです!」
 揺らめいて、戸惑う瞳。
「亮が一番好きなのは、誰?」
 その人の姿が脳裏に浮かぶ。
「…秋一さんも、巽さんも、この屋敷の人達も、もちろん旦那様も、みんな好きです…」
 ここに来て以来出会った人達はみんな優しくて、楽しくて、毎日が幸せだった。ただ独り旦那様だけがいつも頑なで、それは自分がここにいるせいで、それでも留まることを許してくれた旦那様に誰よりも感謝している。
 自分は敵の子なのに、必ず助けに来るからねと、あの日の約束を果たしてくれた。子供の頃、温かい笑顔で守ってくれた旦那様の役に少しでも立ちたい。それだけだった…
 

 確かに、あまりにもそう思いすぎて、秋一さんに目を向けていなかったかも知れない。旦那様に昔の笑顔を取り戻してくれたのは秋一さんなのに。
「あ、僕、秋一さんのこと、一番好きかも知れない…」
 思わぬ答えに秋一は盛大に笑い転げた。
「ひーーーーーっ!ひっひっひ!ひゃ〜〜〜っ!」
 身体を折り曲げ、それでも我慢できずに最後にはとうとう本当に地面に転がりながら笑いこける。
「秋一さんっ!服が、泥だらけに…っ!」
「ひょーんなの、ほーへも、ひ〜〜〜っはっはっは」
 なにか喋っているのだろうが言葉もかき消されるほど、笑っている。
 亮は秋一の腕を引っ張り上半身を起こすと、泥まみれの身体を手で払う。
「秋一さん、着替えがもうないんです…まだ乾いてなくて…」
「いー…よ。そん…なのっ」
 やっとの事でまともな返事をする。
「参ったな、見当はずれの答えで。次になんて言えばいいのか…でも、悪くない返事だ」
 亮の手を借りて、よいしょ、と立ち上がり、ジーンズに付いた泥を払う。
「明日、俺の誕生日なんだ。亮と一緒にデートできるよう迅に頼んでみる」
 
亮はただ、何を言われているのか全く飲み込めなくて、ぽかんと口を開けている。
「デート?」
「そう。一緒に、外に遊びに行くんだ」

「一体どうやってイエスと言わせたんだ!」
 巽も一緒なら、と条件付きでデートの許可を取り付けた。実は意外と簡単で、デートさせなきゃ別れる、とそっけなくあたっただけ。
「もうそれはそれは大変で。口に出して言えないような手練手管を使って身体張って」
「やっぱり秋一さんはすごいな…」
 二人の会話を聞きながら答えていたが、どうやら心ここにあらず、な亮である。
 巽の運転する車の助手席で、流れる風景を食い入るように見つめている。
 家から出る。本家にいるときは首輪と鎖に繋がれ、どこかのパーティに連れて行かれる事だった。時々、他の少年少女も一緒に連れて行かれたが、帰りはいつも独りだった。彼らの安否を気遣うゆとりも当時はなかった。 気遣ったところで自分にはどうすることも出来なかった。せいぜい彼らのために呪文を唱えるくらいしか…その呪文は聖書の言葉だと、悠木に教わった。だとしたら、彼らが少しでも安らかになってくれたと思いたい。
 

 今日ははじめからとても楽しかった。
 秋一と一緒にタクシーで巽さんの会社に行き、そこで巽さんの仕事が終わるのを待ったのだ。巽さんは旦那様の秘書だから、旦那様もそこにいる。会えるわけはないけれど、少しでも近くに居られることがとてもうれしかった。
 
 

 ロビーは人で溢れ、その誰もが急ぎ足で歩いている。
 受付で用件を伝えると、直ぐに二十階の社員専用フロアーに通された。
 ガラス張りのフロアからは何処までも続く街が一望できる。地上には蟻のような人々。その小ささに、街の巨大さが一層引き立てられる。小さな蟻の一匹である僕は本当に取るに足らない存在だな、と亮は思った。でも、今心の中に広がる温かさはこの巨大な街を包み込んで余りあるほど。
「巽さん、もう少し時間掛かるって」
 紙コップに入ったミルクティーを差し出しながら、秋一が声を掛けてきた。
 ぼーっと風景を眺めているうちに、社員専用フロアーの人口が少し増えていた。
 

「亮は全然気が付いてなかったけど、社員の反応がすごいったら」
 途中で巽・亮と別れ、秋一は迅と合流。生まれて初めての超豪華誕生日を迅と過ごし、高級ホテルのインペリアル・スィート・ルームのベッドの上で迅の顔色なんのその、昼間の亮の様子を話しまくる。
「フロアにいた連中が一斉にメールし始めて、気が付いたら社員増えてるし。今日絶対みんな仕事してないよ」
 高級そうなシャンパンをぐいぐい喉に流し込み、一呼吸。
「みんながニコニコ笑いかけたら、亮も首かしげてにこっとかするもんだから、ますますみんなのぼせちゃって…」
 外見上、英語で話しかけてくる勇者や写メを撮りたがる武者もいたが、誰の待ち人か分かった瞬間には盛大なため息が漏れ聞こえてきた。
 いい気になった巽が、亮の腰を軽く抱くようにして歩いた事も洗いざらい話した。その後行った買い物先でも亮の物ばかり買い込み、一体誰の誕生日なのか分からなくなっていた事も。

「で、お前は何を買ったんだ?欲しい物があったのなら私が一緒に買いに行きたかったのに…」
 ポーカーフェイスなのか本当に亮の事など耳に入ってこないのか、計りかねるほど自然に話しを切り替え、その上、秋一を抱き寄せる手は極上なほどに滑らかに動く。迷いもなく、その手が何を求めているのかはっきりと感じられる。
「俺は、亮が楽しんでくれたのが嬉しかった。それが一番欲しかった」
 肩を包み込むように優しく撫でていた手が、首筋に絡みつく。 
「亮は、あんたが幸せにしてあげるのが一番なんだけど、あんたは意地っ張りだから…」
 指先でそろそろと耳を弄られ、秋一の身体にびくっと震えが走る。もっと刺激が欲しくて、弄られている方の項を仰け反らせる。
 その先には、いつもの眼差し。その瞳に映っているのは自分だけど、表面しか見えない。見せない、と言った方が正しいのか。のぞき込めばそこに何が映っているのか隠さないだけマシだけど、それ以上引き込まれない。
 暗い夜の窓ガラスに映る自分の姿を見ているだけで、その向こう側を見るには闇が深すぎる。そんな眼差し。
 

 いつまで自分はこの腕の中で甘えていられるのだろうか?初めて、愛されていると実感した。迅から貰った言葉も想いも全てが真実だ。それを手放す日も近いような気がする。けど、不思議と、辛くない。迅の腕の中よりもっと、途方もないぬくもりに守られているから。でもまだぬくもりの源は眠っている。彼が目覚めるまで、もう少しだけ、ここにいられれば…
「もう少しだけ…」
 胸元に落ちてきた迅の唇は、身体以上に心を蕩かす。
「もう少しだけ?」
 愛撫の手は止めずに、迅は聞き返す。
 しかし、秋一からの返事はない。返事の代わりに、迅を抱きしめる両腕に力を込め、髪に頬を埋めた。
 たったこれだけの愛撫で、意識が遠くなりそうなほどの、愛。

「初めてのクリスマスだ〜、誕生日だ〜、イベント毎に休暇を取るお前の尻ぬぐいばかりやっていられるか!」
 秋一の誕生日の翌日、屋敷に帰ってみると巽に出迎えられた。平日の昼間である。休暇を取った社長の代わりに働いているはずである。
「なんでここにお前がいる?」
 呆れてはいるが、怒ってはいない。ただ、二人揃って休暇を取ると、そのツケは必ず回ってくる。
「山崎に全部おっかぶせて来た。ああ見えて優秀だから大丈夫だろう」
 山崎は巽の補佐である。巽より年上なのだが、童顔でぼんやりした感じで影が薄い。ところがどうして、頭の回転はコンピューター並みだった。
「あれをきちんと送り届けただろうな?」
 あれ、とは亮の事である。

「「どれ?」」
 

 秋一と巽が申し合わせたようにハモる。
「あ、あの後直ぐに巽さんと帰りました…」
 少し離れたドアの陰から、亮がおずおずと顔を出した。いつもは白シャツと紺のブレザーとパンツできちんとした格好なのだが、今朝、起きてみると今まで着ていた服が全て無くなっており、着慣れないものを無理矢理着せられていた。それが気になって、ドアの陰に隠れていたのだ。
 ぴったりした長袖のTシャツにジーンズ。両方とも同色のビーズで刺繍が施されている。一見シンプルだが、華やかさもある。昨日、秋一と巽の見立てで買って貰った服だった。華奢な身体の線がくっきり浮かび上がり、ハンパな露出よりずっと刺激的だ。
 

 珍しいことに迅は、頭の先からつま先までじっくり視線を動かし、つかつかと亮に歩み寄った。
「いつもの服に着替えて、自室に下がっていろ。明日の朝まで出てこなくて良い」
 その声のあまりの冷たさに、足が震える。
 そう捨て置いて歩き去った後に残された三人は、ただ呆然と、歩き去る背中を見つめるしかできなかった。
「あの…僕の服…」
 俯いた亮の顔色はいつもより青白い。
「持っていってやるから、部屋で待ってろ。巽は…あれに何か言ってこい」
 秋一がぽんぽんと亮の頭を軽く叩き、巽に向かって顎をしゃくり…三人はそれぞれの方向に去っていった。

「迅…」
 巽は怒る風でもなく、なるべく普通に話しかけた。頭に来ると言うより、この男が哀れに思える。あんなにしげしげと眺めていたのは亮の美しさに絆されたからではないのか?
「巽の言いたいことは分かる。だが、アレの顔色が悪かった。熱があるはずだ」
「へっ?」
 思ってもいなかった台詞に、端正な顔が崩れる。
「アレに、夢も希望も与えるつもりはない。お前は、私がアレを、金を払って借りているのは知っているな?」
 年間一億ものレンタル料。
「四年の期限付きだ。成人したらアレは花月院の財産を継ぐ。本家はそれが欲しいらしい。」
「さっさとやっちまえば良いだろう?」
「どこをどう探しても出てこない。花月院の両親の保険金は二〇億。それもどこにあるか分からないそうだ」
「海外か…」
「恐らくな。その鍵を握るのがアレだそうだ」
「亮に聞いたのか?」
「聞いても分からなかったから、取りあえず私を利用して金をふんだくろうと思ったのじゃないか?」
「…」
 

 そこまで分かっていて、何故、借りた?
 またとんでも無い答えが返ってきそうで聞けなかった。そのかわり、常々思っていたことを訪ねてみた。
「なぜ亮が、花月院が狙われる?紅宝院とどんな因果があるんだ?何故お前の父親は、亮を守れと言ったのだ?」
 折りに触れて聞いてきたが、一度もまともに答えて貰ったことはない。
「さぁな」
「いつもそう言ってはぐらかす」
「はぐらかしているのではない。本当に、誰も知らないんだ。相当昔から接点は有るのだが…」
 そんな曖昧な物に振り回されているのか?
 愚かにもほどがある…
「指をくわえてただ見てるだけなのか、お前は…」
「私はヒーローではない。私が反撃に出たとしても、本家に潰されるだけだ。私だけならまだしも、お前も秋一もその家族も、どうなることやら…それを見せつけられて生きていくのは御免被りたい」

「あと二年。アレはまた本家に戻る。本家でどんな生活が待っているか想像するに難くない。ここで過剰な暮らしをさせない私は、鬼か?」

 

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光りある者