それは壮絶な風景で、忙しくて下ごしらえする時間が取れないので鉄板焼き大会になったらしいのだが、焼けたはしから喰いまくる欠食児童のような沼田と吉野の隙を狙わないと、克彦の口に届かない。沼田と吉野の食欲が少し落ち着くと、本田は残してあった肉を克彦のために丁寧に焼いてくれた。他の二人の時とは違い、ワインでフランベしたり、その肉汁でごはんを炒めてくれたり。最後に小さなお椀で赤だしのおみそ汁を出してくれた。それは、克彦が酔いつぶれた次の朝、飲んだものと同じ味。
(なんで…?)
 克彦は自分の表情がいつもの怜悧さを欠いていることも分かっていて、素の顔を隠しきれない悔しさも感じたけれど、その視線を本田に向けざるを得なかった。
 だてに場数を踏んできたわけじゃない。本田の漆黒の瞳に宿る光りが獲物を狩る獣のそれではなく、温かく包み込む優しさに満ちた光りだと言うことが、わかる。 
 克彦が何より欲しくて、同時に最も避けたいもの。

「コーヒーは私が淹れましょう」
 克彦の幾分柔らかくなっていた表情がフラットに変わりはじめた事に気が付いた吉野が、気分を変えるために声をかけた。
「デザートもあるぞ」
 沼田はまたいつものいしい洋菓子店の箱を冷蔵庫から取り出した。今日は焼き菓子ではなく、ショートケーキらしい。
リビングに移動して、コーヒーとケーキを楽しみながら、克彦は見本帳をとりだし、事務所の一階から四階までのインテリアやファブリック類を見せた。自分の思った事を率直に話し、なぜそれを選んだか説明する。納得して貰えたら決定して、施工の日取りを決める。
 仕事モードではあったが、いつもの克彦よりは幾分柔らかな印象だ。
(今日はこのくらいで良いか)
 沼田は、少しでも組長と克彦の仲を進展させるべく今日の食事会をセッティングしたのだ。上司と部下ではなく、親友として、本田に素直になれと伝えておいた。克彦の本田に対する印象も随分変わったようだ。

「あ…」
 克彦の携帯が鳴った。
「…ちょっと失礼します」
 ディスプレイに表示されたナンバーを見て、克彦の表情が一気に変わったのをその場の敏感な男達は見逃さなかった。
 吉野は時計を見て時間を確認。本田は書斎に行き、コンピューターを起動。
 克彦がリビングから見えないキッチンの一角に移動して電話をとると、イヤーフォンを装着したのは沼田だった。沼田は克彦が酔いつぶれたときに、克彦の携帯に盗聴器を仕掛けておいたのだ。克彦の男あさりを阻止するために。
『いまどこだ?』
「クライアントと食事中」
『週末開けとけ』
「今仕事が立て込んでるんだ」
『土曜の夜。十時。身体の奥まで綺麗に洗って待ってな』
 媚びた笑いを途中で遮るように電話が切られた。克彦がリビングに戻ってきたのはそれから数分後だった。
「ごめんなさい。仕事の電話だったから」
 戻ってきたとき、克彦の表情は凍り付く前の柔らかなものに戻っていた。

「沼田」
 書斎の方から本田が呼ぶ声がして、沼田はソファから立ち上がると、呆れるようなポーカーフェイスの克彦にほほえみかけながら書斎に向かった。

「話の内容は」
 パソコンのディスプレイに映ったある男の顔と職業を見ながら、本田は沼田でさえおののくような怒りを押し殺した声で機械的に言葉を発した。
「…次の土曜夜十時、身体の奥まで綺麗に洗って待っておけ」
 その男の名は牛島宏(うしじま こう)組織犯罪対策部、通称マル暴に所属する警察官だった。
「うちの担当か?」
「いえ…しかし、迂闊に手は出せません」
「土曜…明後日か。夕方までに調べておけ。ちんぴらの件もな」
「はい」
「克彦は?」
「落ち着いています」
 それが一番気に入らない本田だった。

 

 本田と沼田がリビングへ戻ると、克彦は吉野と後かたづけをしている最中だった。電話をとった瞬間の緊張感は既に無く、吉野と楽しそうに食器を食洗機に放り込んでいる。
 電話の声の調子では、その男を待ち望んでいる風ではなかった。男の容姿も話しの調子から推し量れる人柄も克彦の好みではないはず。言葉通りに受け止めれば、男が克彦に何をしようとしているのかも明白で、プライドの高い克彦が男の要求を甘んじて受け入れるなど考えられないことだった。
 それでも今、目の前で吉野に向ける美しい微笑みには影も曇りもなく、その美しく白い肌のように透明で輝いてさえいた。
(強い…)
 本田はこの強靱で美しい獣を何が何でも自分の物にしたいと、心から強く思った。

 

 東京都内に本部を置く牛島が担当しているその会派と本田が組長を務める黒瀬組及びその上部団体は、敵対関係にある。表向きの会社を幾つも経営し経済ヤクザの看板を掲げるその裏では、従来の暴力団以上のあくどい商売にも手を染めている。最たる収入源は海外の紛争地帯での武器販売だが、これにはもちろん別の黒幕がいて、吉野が以前勤めていた商社の取引先で知り合った人物の指示の元で動いている。克彦は誰よりも吉野に懐いているが、吉野の本性を知っている本田と沼田に言わせれば、死に神に餌をちらつかせているような物だ。死に神のスイッチは本田が握っているだけまだマシだが…
 吉野と黒幕がどんな関係だったかは知りたくもないが、沼田と本田はその黒幕にありとあらゆる訓練を施され、訓練と称して何人もの暗殺に手を染めた時期があった。組の構成員となってすぐ、本田と沼田もまだ若く見た目はその辺の学生とあまり変わらなかった頃、3年ほど姿を消した。三年後に帰ってきたときは誰もが分からない形相になり醸し出す雰囲気が変わっていた。その後は、目の色一つ変えず相手を死んだ方がマシな状態にする凄まじい暴力と、それを隠して余りある優秀な頭脳であっという間に、幹部へ上り詰めた。本田は元々幹部達のお気に入りだったがその後ろ盾がなくとも実力は十分すぎるほどあった。
 

 そんな血なまぐさい背景をもつ黒瀬組幹部と、昔気質がまだ色濃く残る組とでは敵対するのも必至だ。
 黒瀬組も警察との癒着はもちろんある。が、組織犯罪対策部の全ての課が張り付く黒瀬組と、「持ちつ持たれつ」な関係で成り立っている組織では癒着の規模も形態も異なる。ましてや、敵対組織と甘い関係の刑事を粛正すれば戦争の引き金にもなりかねない。
 明後日までに、どれだけの情報を集めることが出来るか…今すぐにでもマル暴の刑事・牛島を八つ裂きにしてしまいたい。

 

 長年マル暴に勤務しているだけあって、牛島の近辺は適当に汚れていて、適当に綺麗だった。妻子とはとっくに別れ、養育費をきちんと渡しながらも適度に羽振りの良い生活。男も女も適当な感覚で決まった相手を抱いている。その中に克彦もいて、その関係は克彦が十八才の頃から続いていた。克彦が話していた「ちんぴら」とマル暴の牛島。克彦が十八才の前後二年でこの三人が係わる事件を探る。十八才以後の克彦に関しては、倉石義童が一番よく知っている。十八才以前の某団体の構成員・準構成員・外部構成員、全てを洗い出し、克彦と関係がありそうな人物は約二名。どちらも現在は服役中だった。そのうちの一人は次の月曜に出所が予定されている。
 牛島にどういう罠をしかけるか…。
 自分たちが動けば組にばれるのは時間の問題だ。個人的に動くとなると、刑事とちんぴらを監禁する手段・場所の確保が難しい。日本国内で警察や暴力団の目が届かない場所。唯一思い当たるのは、現在では廃屋となっている紅宝院本家の地下施設…
 

 武器販売・密輸の黒幕から、2年程前に身分を隠して傭兵として協力するように指令を受けた。中東などの戦闘区域での任務に就いたことがある三人には蟻を潰すより簡単な任務だったが、保護した人物を見て、血で汚れた自分たちの身体が地獄のそこから引き上げられ、恥ずかしいくらい清らかになったような気がした。その人に、人を殺すから家を貸してとは言えないが…
『勝手に使って良いぜ。その代わり、その美人のねーちゃんを捕まえたら、二度と殺しはすんな』と黒幕であり師匠でもある人物から返事を貰った。
「はぁっ?」
 間の抜けた声を発したのは意外にも吉野だった。
 若干血に飢えていた?死に神は、最近の師匠の麩抜けた生活に疑問を抱いていた。日本人の青年を伴侶として辺りはばからずいちゃついているらしいと、かつての仲間から報告を受けていた。平気で首を切り落とし、銃で狙うのは頭部のみ。それが最も苦痛のない殺し方だとは言え、凄惨な殺し方であるのも事実。口元に微笑みさえ浮かべて殺す有り様は吉野ですら気持ち悪いと思ったものだ。だがこの黒幕が噛んでいれば組は何も言わない。それだけの貢献をこの男はしているのだ。

「根っからのヤクザなお前達が何をしようと自由だが…今日明日には無理だな」
 イアン・グラント、師匠であり武器密輸・販売の黒幕であり表の顔は世界中にマーケットを持つファルハン・グループの最高責任者である男は、すげなく言い放った。
「本家の屋敷は廃墟のように見えるが、厳重に警備されている。一時的に警備を解除するのに二日かかるぞ」
 人殺しの手伝いに現紅宝院の連中は使えない。紅宝院の優秀なプログラマーが作った警備のためのネットワークを一時的にダウンさせるには、それなりの時間と頭脳が必要になってくる。
「その美人のねーちゃんだって、八年も我慢してきたんだろう?それで壊れてないんだったら、あと一回二回がなんだって言うんだ?今から一生そいつを守りたいと思っているお前が、今から萎れててどうする?」

『その反抗的な目が気に入ってるんだ。もっと睨みつけてみろ、声を殺していてもお前の身体は反応してるぜ。後から何もかも忘れてよがり狂うようになる薬を使ってやる。その前に、殺したいほど俺を憎みながらいかせてやる。そのギャップがまた楽しいんだがな…』
 克彦は最初、声一つあげなかった。部屋に仕込んでいた盗聴器からは、牛島の下賤な台詞と荒い息遣いとシーツや家具が擦れきしむ音しか聞こえて来なかった。
 何度も何度も男の精液を身体で受け止め、意に反して克彦自身も吐精した様子なのに、克彦の声は聞こえてこなかった。やがて、牛島は催淫剤のようなものを使ったのか、それに抗おうと苦しい息遣いの中罵詈雑言を浴びせていた克彦の様子が変わり始めた。逆らうことの出来ない快楽の波になんとか抵抗しようとするのだが、口を突いて出てくるのは嗚咽なのか喜悦の声なのか。
 明け方まで蹂躙され、牛島が去って初めて、克彦の押し殺した鳴き声が聞こえてきた。泣きながら、克彦は義童に電話をかけていたが、義童の携帯からは留守番電話の応答しか聞こえてこない。何度かかけて諦めたのか、克彦は泣きながらも眠りに就いた。

 

 その日一日大人しくしているかと思われたが、意外にも克彦は昼過ぎに目覚め、義童に電話をかけまくっていた。
 途中何度も暴れ出した本田を押さえつけながら、自らも何度か殴られたイアンは頬を冷やしながら苦笑っていた。お前は最後まで聞いていろと言ったものの、紅宝院から借りたリムジンの内部を破壊しつくされ、防弾ガラスにヒビまで入った時にはさすがにやばいと思ってイヤホンを取り上げようとしたが…生きの良い美少年ならまだしも、自分より若干年上の屈強な男を押さえつける趣味はさすがに無かったので、好きにさせておいた。
 ここまで想ってくれている相手には頼ろうとせず、元彼に電話をかけまくるとはな…
 しかも、やっと電話に出た義童に克彦が言った言葉は…
「また俺ふられちゃったよ…」
 振られたと嘘をついて泣く。泣きたいけど心配させたくない、迷惑をかけたくない、でも誰かに寄りかかりたい。
「俺って男運悪いよな」
 その一言で笑って済ませるために、どれだけ強い意志を必要としてきたことか。義童との電話が終わると、すかさず本田は克彦の携帯を鳴らした。

「今から連れて行きたいところがある。迎えに行くから待っていろ」
 電話の向こうで、そんないきなり言われても俺にも予定が…と、大声を出す克彦を無視して、
「三十分後にお前のマンションの下」
 とだけ言って電話を切った。
 横でクスクス笑っているイアンも無視して、ラフな服に着替えると、マセラティに乗りこむ。
「吉野、伊豆の例の旅館の離れを」
 それだけ言うと冷気を残して走り去って行った。

 

 ごちゃごちゃ文句を言いつつも助手席に乗り込んだ克彦がシートベルトを締めるのを確認すると、静かに車を出す。
「少し遠出するが、疲れていたら眠っていて良いぞ」
「…どこ行くんだよ。俺あした仕事」
「夜遅くなるが家まで送り届ける」
「別に疲れてないよ」
「…目が腫れてるぞ」
「ああ…徹夜で仕事したけど…さっき少し寝たから」
 徹夜で仕事か…何事も無かったように、顔色も別に悪くなく、いつものように清冽な美しさが漂っている。
 暫く無言でいると、疲れていないと言いつつも、早速安らかな寝息をたてている。東名高速を捕まらない程度の速度で飛ばし、伊豆へ。その温泉旅館は全室離れの個室が八室しかないので予約も取れない状況なのだが、もう二室、一般には貸し出していない特別室が存在する。そのうちの一室を、本田は五年契約で借りていた。ほとんど使ったことはなく、もしもの場合と自分や幹部が自由に使うために借りていたこの場所が役に立った。

「克彦…もうすぐ着くぞ…」
 出来るだけ優しく声をかけ、顔にかかった柔らかい髪を掻き上げてやる。
「んん…」
 一時間半ほどだったが、かなり深く眠っていた。精神的にも肉体的にも限界に近かったろうに…
 克彦は目をつぶったまま、伸びをしようとして助手席の窓に手を軽く打ち付けてしまった。
「…ん?」
 意識がはっきりしてきたのか、まだすこし腫れているまぶたがゆっくりと開かれた。とろんとした目で本田を見つめる。
「…?」
 本田の車に乗ってそれから…
 きょろきょろ回りを見回すと、全く知らない田舎の風景が広がっていた。
「ここ…どこ?」
「伊豆だ」
「…伊豆」
「時間ができたので、おまえと少しゆっくりしようと思って連れてきた」
 盛大なため息と共に、克彦は助手席のシートにまっすぐ座り直した。
「もう…勝手なんだから…」

 

 とはいえ、その高級旅館は克彦のセンスと虚栄心を満足させるには十分で、案内された離れに入るなり、部屋中をくまなく見て回り、部屋に設置された露天風呂とそこからの眺めに怜悧な表情を綻ばせていた。
(でも…)
 露天風呂で離れの個室でこいつと二人っきりって…ヤクザが見せる優しさには必ず裏がある。その事を嫌と言うほど克彦は知っていた。昨夜の事がちらりと蘇る。今からの状況も、もしかしたら最悪な事になるのでは?と絶望感で急下降するような錯覚に囚われた。
「克彦、先に風呂に入ってゆっくりしていると良い。上がったら夕食までの間マッサージでもしてもらえ」
「え?」
「俺は少し食材を仕入れてくる」
「ええ!?」
「メインは旅館の料理だから心配するな。一品くらいは手料理を食わせてやる」
 そっと肩を抱く腕も、上から降ってくる低い柔らかい声も、克彦は嫌う事ができなかった。振り返らずに部屋を出て行く本田の姿を見送り、克彦は首をかしげつつ脱衣所へ向かう。
(マッサージと食事?なにそれ?性感マッサージ?)
 

 この旅館には浴衣だけではなくパジャマと作務衣の二種類が用意されていたのも克彦にはうれしかった。石けんも、甘い香りではなく柑橘系のさっぱりした香りだ。たっぷり泡立てて洗い場で丁寧に身体を洗い、檜の香りが清々しい浴槽に静かに身を沈める。
 いつもだったら、義童にくだを巻いて困らせて淀んだ心を晴らすのだが、好きな物に囲まれて一人で過ごすのも良い。この場合は一人ではないか…昨日の今日は偶然だけど、疲れている自分に気を遣ってくれる人がいることが嬉しい。
「でもここ、予約難しいんじゃないの?予定していた相手に振られたのかもー」
 それはそれで克彦の自尊心が許さない。二番目などお断りだ。あれこれ考えているうちに、いつもの強気で我が儘な自分を取り戻していく。
 三十分ほど露天風呂で遊んだ後、ワッフル地で肌触りがよいパジャマを着てテラスの長いすで景色を眺めながらビールを飲んでいると、買い物袋を下げた本田が帰ってきた。白いビニール袋があまりにも似合わない
「ゆっくり入ったか?」
「うん」
 決して弱ってはいないけれども、いつもより鋭かった克彦の目の光りも柔らかくなり、ほんのり桜色に上気した滑らかな頬も艶々と輝いている。
「マッサージを頼んでおいた。五分もしたら来る」
「本田さんは露天風呂入らないの?」
「あとで頂こう」
 

 本田は奥の間にある寝室のドアを開けると、寝室の窓を全開した。そこからも美しい景色を望むことが出来、これからマッサージを受ける克彦の気分を少しでも爽やかにするための心遣いだろうか。そのあとは克彦など目に入らない風に、スタスタとキッチンへ歩き去ってしまった
 直ぐに現れたマッサージ師は、穏やかな物腰の年配の女性だった。克彦の腕を取ると、内側の柔らかい部分といくつかのツボをそっと押し、克彦の身体にちょうど良い強さを探る。ベッドに俯せになり、マッサージが始まった頃、露天風呂から水音が聞こえてきた。
「ねえ、あの人の背中には、やっぱり彫り物とかあるのかなぁ?」
 マッサージ師はゆっくりと手を動かしながら、
「目は見えませんが、以前触らせて頂いたときはとても冷たい背中でしたから…背負っていらっしゃるのかも知れませんねぇ」
「その時は、誰かと一緒だった?」
「いいえ…本田様はいつもお一人ですよ。お連れ様とご一緒なのは今日が初めてですよ」
 静かで柔らかい声色のせいか、自分が初めての連れだと聞いて安心したのか、克彦はまたいつの間にか眠ってしまった。

 

 

3
きっかけ2

雪柾と克彦