眠っていたのはマッサージの間だけで、マッサージ師が帰り支度を始める気配で目が覚めた。実を言うとマッサージなど受けるのはこれが初めてで善し悪しなど分からなかったが、知らない人に触れられて眠りこけてしまうなどあり得ない性格なので、おそらくとても良いマッサージ師なのだろう。全身の強張りが溶けて、どこもかしこも飛んでいきそうなくらい軽い。
「あのっ、すごく気持ちよかったです。ありがとうございましたっ」
 女性は穏和な微笑みを浮かべ深々とお辞儀をすると、白杖も持たずに、確かな足取りで部屋を後にした。
「食事の用意が出来たぞ」
 本田が手招いた先に、超豪華な料理が並べられている。はしたないとは分かっていても、迷い箸は止まらない。そう言えば朝から何も食べていなかった、いつもはやけ酒飲んで前後不覚、のパターンだったから…気持ちも身体もお腹も満たされる日は年に何日もあっただろうか?楽しいことも沢山あったけれど、今日ほど細胞の隅々までが喜んだ日は無かったように思う。

「本田さんが作ったのはどれ?」
「そこの、里芋の煮っ転がしだ」
 口当たりがあまり好きではない里芋だが…箸で半分に割ったときの感触からして違うような気がする。口に入れると、確かに里芋なのだがねばねば感がなく、ほくほくしている。
「うわっ…まじ美味しい…なんで?どうしてこんなに料理上手いの?」
 いつもの取り付く隙もないすました表情とは打って変わって、子供のように素直にびっくり仰天している。本田の顔も自然と綻ぶ。
「強くなりたかった。身体を鍛えるためには食事も大事だからな」
 だてに数をこなしていない克彦は服の上からでもある程度裸を想像できる。本田に対してはそう言う目を向けないようにしていたので考えたことがなかったが、それは逆に、本田が克彦のストライクゾーンど真ん中である事も示している。今更だが、本田の顔は野性味を残しているが端正で、誰もが振り返るほどの男前なのだ。初めてあったときは冷徹で表情に乏しかったのだが、最近は克彦の前でだけ優しさを帯びるようになった。それがまた甘すぎず、長身とそれに見合った体躯にぴったりなのだ。
 今頃意識し始めるなんて…
 赤くなるほど純情じゃないぞと強く言い聞かせて、大きな里芋を一口で食べる漢な克彦だった。

 

 食事の後は少し休憩して、作務衣に着替えてから本館に行ってみることにした。全ての部屋が離れの個室となっている高級旅館らしく雑多な土産物屋などはなかったが、この旅館特製の和菓子が販売されていたので、お土産に買うことにした。と言っても今から作って、帰り際に手渡して貰うのだそうだ。本館のロビーにはラウンジもあり、コーヒーを飲みながら離れが点在する夜景を眺める。克彦達が利用している離れは一際大きな建物で、そこを借りるために千草さんが無理をしたのではないかと少し心配になってしまった。
「克彦、本館の屋上には露天の大浴場があるぞ。あとで行っておいで」
「うん。本田さんは一緒に行かないの?」
「ああ。他の客も来るからな」
 微笑んではいるが、その言葉の裏にある意味を克彦は理解して、少しだけ悲しくなった。
 こんなに良い人なのに…なんでヤクザなんだろう…
「うん。じゃあ一人で入ってくる」

 

 大浴場から部屋に戻ると、本田はテラスで携帯を手に話していた。
「分かった、では明後日、手筈通りに」
 電話の途中で克彦に向けた視線は柔らかかったが、声には独特の凄みがあった。
「ごめんなさい。お仕事の電話だったんでしょ?」
「ああ。だが楽しい仕事だ。気にするな。アイスクリーム食べるか?」
「うん」
 風呂で火照った身体を沈めるのにちょうど良かった。
「それを食べたら帰るぞ」
「…うん」
 来るときと同じように、本田は眠っていて良いと言ってくれた。できればずっと、運転する本田の端正な横顔を見ていたかった。胸元や肩、ハンドルを握る腕もじっと見ていたかった。けれど、温泉とマッサージと豪華な食事ですっかりリラックスした克彦は、滑らかで上質な肌触りのシートに包まれて、すぐに眠ってしまった。
 本田が何か話しかけてきたのは分かったが、気持ちよくて返事どころではなかった。

 

 本田は克彦を抱き上げるとマンションの部屋まで運んだ。ベッドに寝かせようと思い寝室に足を踏み入れたが…そこは、昨夜の惨状そのままだった。怒りで心臓が潰れそうになる。怒気と冷気が入り交じった凄まじい気を発している自分に気が付き、克彦に伝わらないように心を平静に戻そうと深く長い深呼吸をする。それから克彦を居間のソファーにそっと横たえ、寝室の片づけをはじめた。何度かここに克彦を運び込み、着替えさせたりするうちに何がどこに仕舞ってあるのか大体分かるようになっていた。体液で汚れたベッドのリネン類を剥ぎ取りひとまとめにすると、新しい物と交換する。汚れた物が二度と克彦の目に入らないようにゴミ袋に放り込み玄関に置く。寝室の空気も入れ換え、最後に克彦をベッドに横たえ、パジャマに着替えさせる。洗い立ての爽やかな香りに包まれてすやすやと眠る克彦。この誰よりも強く美しい生き物を一生守り通す。心に固く誓って、本田は寝室の扉を閉めた。

 

 かつて無いほど清々しい目覚めだった。本田に無理矢理伊豆まで連れて行かれて、帰途に就いた所までは覚えている。でも、その後、誰があの凄まじい寝室を何もなかったかのように片づけて、パジャマに着替えさせて、朝ご飯まで準備してくれたのか…
 これも、やっぱり全部本田さんだったんだ…
 沼田さんの前で何度も酔いつぶれて、そのたびにあの人は自分のために着替えさせたり二日酔いの薬やおみそ汁まで…全部、本田さんだったんだ…
「あの…昨日はありがとうございました…」
 何を話せばいいのか分からないが、とにかく本田の声が聞きたかった。
『よく眠れたか?』
 電話を通していても、体中にぞくぞくと響く声
「はい…あの…」
『克彦、良く聞け。3日後にはお前を苦しめていたモノがなくなる。それまでお前は何も心配せずに待っていなさい』
「え?」
『3日後に、迎えに行く』
 一方的に切られたが、それは強引ではなく、優しい余韻を残していた。
(なに?なんのこと?)
 克彦を苦しめていたモノ、それはただ一つ。それがなくなるってどういうことなのだろう…どうして3日後なの?なぜ迎えにきてくれるの?
 なぜ、俺のために?

 十七才になったばかりの頃、克彦は恋人だった男が作ったほんの数万円の借金のために、ヤクザ達に売られレイプされた。集団にレイプされたのはその時だけだったが、その中の一人にしつこく何度も要求され、思い切ってマル暴に相談したのが牛島と出会ったきっかけだ。牛島のお陰でヤクザは近づかなくなったが、今度は牛島に無理矢理身体を奪われ…牛島はその様子をビデオに撮り、関係を黙っていなければビデオをばらまくと脅す。だが、実は脅しの材料だけに使われたのではなく、そのビデオは目元にモザイクをかけられてはいたが、ダビングされて売り物にされていたのだった。売りさばいていたのは牛島が遠ざけてくれたはずのヤクザで、克彦に近づかないと言う条件で、自分と克彦のセックスを録画したビデオの販売を許可していたのだった。牛島の背中には刺青があったため、ビデオに映っているのが誰かすぐにばれるリスクはあったものの、露出狂的な性癖もあったのか気にもしていなかった。
 牛島には他にも同じようなことをしている男女がいたのでそうしつこく克彦に迫ることはなかったが、年に数回は必ず連絡が来て、一晩中責め苛んだ。ビデオを売りさばいていたヤクザはここ数年服役中だったのでその点では克彦も気が楽だったのだが、間もなく出所すると牛島に伝えられ、実際はどうしようもなく苦しい日々を過ごしていたのだった。

「ちんぴらの方は出所直後、攫って監禁しています。ビデオ・DVDも押収しました。レイプに加わった連中も分かりましたが、どうしましょう?」
「こっちのシマに誘い込んで遊んでやれ」
「明日・明後日の予定は全てキャンセルしました。朝四時に拉致、紅宝院本家に監禁します」
「ではそれに会わせて直接紅宝院へ」
「了解」
 このさい他の組との関係など考える気もない、強行手段に打って出る。なりふり構わない強引さであった。

 

 待っている間、気が気では無かった。連絡しても携帯は電源が切られているのか全く通じない。本田だけではなく、吉野も沼田も一切連絡が取れない状態だった。事務所の組員達は過去にも同じ事があったので、心配するなと言っている。
 それでも心配で、毎日事務所に顔を出した。幹部が3人もいない状態でみな忙しそうだったが克彦にはとても親切で、あれほど嫌っていたヤクザへの嫌悪感は、少なくともこの組の人間には感じなくなっていた。
 自分のために何をしてくれているのか…思い当たることがあるだけに、心が苦しい。

 

 3日目、どこでどう過ごせばいいのか分からなかった克彦は、朝からずっと本田の事務所にいた。いつも本田が座っている椅子に身を沈め、微かに残る本田の香りや気配を感じていた。会いたくて、でも不安で…
 克彦の携帯が鳴ったのは夕方だった。
『克彦、今どこだ?』
「本田さんの事務所…」
『誰かに送らせるから、マンションに来い』
「うん」
 強引で、でも声は優しかった。
 マンションの入り口には私服の沼田が待っていた。
「沼田さん!」
 心配そうに駆け寄る克彦の腕を柔らかく掴むと、沼田はしつこいくらいのセキュリティを解除しながら最上階の部屋へ連れて行ってくれた。
「あの…沼田さん、どこも怪我とか…」
 三日間ろくに眠れず、嫌な想像ばかりしていた克彦の顔は青白く、目の下にはうっすらと隈も出ている。
「大丈夫ですよ。私も、千草も、雪柾も」
 以前とどこも変わらぬ笑顔で、沼田は克彦を優しく見下ろしていた。
 

 靴を脱ぐのもまどろっこしく、玄関を上がる。エスコートしようとする沼田の横をすり抜け、ぶつかるようにリビングのドアを開けると、スウェットパンツにシャツを羽織っただけのラフな格好で、濡れた髪を拭いている本田の姿が目に飛び込んできた。
 克彦はつかつかと歩み寄ると、本田の胸ぐらをがしっと掴んだ。
「心配してっ…!」
 自分でもまさかと思った。怒鳴ってやろうと思ったのに、声がつまり、とたんに涙が溢れてきたのだ。
「連絡…くらい…」
 睨みつけてやろうと思ったのに…
 克彦は胸ぐらを掴んでいた手を離し、本田のからだをぺたぺた触って五体満足なことを確認する。
「けが、してない?」
 涙を拭って本田を見上げると、穏やかに微笑みかける顔が克彦に近づいてきた。
「ああ。大丈夫だ」
 耳元に落とされる甘く低い声。体中の力が抜けて倒れてしまいそうになり、克彦は本田のシャツをぎゅっと握りしめてしまった。
 本田は、克彦の身体にそっと手を回した。それは甘い抱擁とまではいかなかったが、意識のある克彦が本田の温もりを初めて知るくらいの抱擁ではあった。
「大丈夫だが…すまん、腹が減ってる…」
 背後で沼田がぶっと吹き出す音がした。

 少しマシな服に着替えて男達が入ったのは近所の焼き肉店。マンション自体が一等地にあるので、焼き肉と言ってもそれなりに高級感が漂う店。普段、高そうなスーツを着て回りの視線を一身に集めるような格好いい男達がラフな格好で肉をくらい尽くす様は、別の意味でまた注目を集めた。
「な…なにしてたの、三日間!」
 克彦の問いには答えずに、ただ喰いまくり、最初に席を立ったのは吉野だった。
「お先」
 知的で上品な吉野の、初めて見る驚くような姿。いつもきっちりなで上げられている髪は洗い上がりでさらさらと顔にかかっていて、その奥の目は妙に獣じみた光りを湛えていた。時々克彦を見ていた視線の意味に克彦は気が付かない振りをするしかなかった。
「俺も、そろそろ行くわ」
 沼田も、行儀悪くくわえ煙草で去っていった。克彦に色っぽいウィンクを投げて。
「…なんなの?みんなどうしちゃったの?」
 本田は少しだけ残していた肉を焼きながら、克彦を見た。
「3日。仮眠と水分だけだったからな…今日の明け方帰ってきて、さっきまで寝てた。目が覚めて、喰ってる。睡眠・食事とくれば…」
 その後は考えたくない。沼田はともかく吉野まで…
 本田はほどよく焼けた肉を克彦の目の前に差し出した。
「お前も寝てないし、喰ってないだろ?」

 コンビニでおやつを買って、本田の家に戻る。
 本田が淹れてくれたコーヒーを飲みながらプリンを食べると、心配で不安でどうしようもなかった克彦の気持ちも随分と落ち着いたように見えた。
 何も話して貰えなくて不安だったけれど、それは逆に何も考えなくて良いんだよと言う、本田の心遣いなのかもしれない。
「克彦…落ち着いたか?」
「うん」
 何事かあったとしても、変わらない本田がそばにいてくれる事がうれしかった。
「俺が怖いか?」
 克彦は目の前に座る端正な容貌の主を見つめた。緊張するが、怖くはない。
「ううん」
「俺のものになれ」
「!」
「俺のものになってくれ。一生、お前を守る。愛するのはお前だけだ。誰かをこんなに欲しいと思ったのも、お前が初めてで最後だ」
 テーブルに向かい合って座り、姿勢を正して真っ正面からの告白。お互いに手を伸ばせば指先くらいは触れ合うだろう、くらいの距離での告白は、いちゃつきながらなんとなく盛り上がった果ての言葉など比べものにならないくらい真摯で、重みがあった。
「あ…」
 そばにいないときも、いつも本田の事を意識していた。そばにいるときは、まるで抱き締められているときのように安らかで居心地が良かった。
「俺…俺なんか、我が儘だし、根性悪いし、口悪いし、性格ねじ曲がってるよ…」
 良い所なんてないじゃないか…
「そうやって、自分で自分を守ってきたんだろう?」
「…」
 

 本田は席を立つと、後ろから克彦を優しく抱き締める。
「本田さん…」
「一人で泣くな。もう誰にもお前を傷つけさせない」
 本田がこの三日間自分のために何をしていたのか、克彦は理解した。自暴自棄にならないように沼田と飲ませ前後不覚になったときも、自分をマンションまで連れかえって世話してくれたのは本田だ。朝ご飯まで準備してくれて、温泉にも連れて行ってくれて…部屋まで綺麗にしてくれて…
「本田さん…牛島のこと…」
 本田は克彦を抱き上げるとリビングのソファーに座らせ、自分も横に座った。克彦の頭を自分の胸に引き込む。
「考えなくて良い。もう終わったことだ」
「知って…」
 いつ何がばれるか、ずっとびくびくして、辛くても誰にも言えなかった。本当に義童が好きだったのに迷惑かけたくなくて、あいつが現れるたびに義童から遠ざかって、自棄浮気ばっかりして…悔しかった。
 悔し涙とうれし涙で本田の胸元がびしょびしょになるまで泣いた。
 泣いて気が治まると不思議なもので、それに全て分かって貰えた安堵感が加わると、克彦はむくむくと元気が戻ってくるのを感じていた。
「泣きたいだけ泣いたか?」
「うん」
「さっきの返事が欲しい」
 俺のものになれ。
「早く本田さんのものにして…」
 次の瞬間、克彦は息の詰まるような口づけを受けた。

「んん…っ」
 口の中を犯すように舌を絡め、吸い上げる。薄いピンク色の唇もいつの間にか紅く色づき、お互いの唾液でてらてらと光っていた。
 舌先を尖らせて上の口蓋をなぞると、克彦の身体がびくびくと震えた。
「あ…んんっ」
 縋り付くように胸を会わせ、両腕を絡めてきた克彦のしなやかで華奢な腰を引き寄せると、反応し始めた克彦の性器が本田の下腹にあたった。
「もう、固くなったのか?」
 意地悪な微笑みで克彦を揶揄する。
「だって…」
 心に枷がない状態で誰かと愛し合った事なんて無かった。わだかまりもとまどいも恐怖もなく愛し合うことが、こんなに官能を呼び覚ますものだとは知らなかった。そしてそれ以上の安心感で急にどうしようもなく甘えたくなり、克彦は本田の胸に顔を埋めた。
「もっと、抱き締めて…」
 本田は克彦の気持ちが分かったのか、ただぎゅっと、胸の中に抱き留め、大きな手のひらで、克彦の背中をそっと撫で続けた。
「克彦…?」
 ずっと眠れない日々をすごした克彦は、すぐに規則正しい寝息を立て始めたのだった。
「このやろう…」
 とは言いつつ、手に入れた何にも代え難い宝の眠りを妨げないようにそっと抱き上げ、寝室へと向かった。

 今日も爽やかな目覚めだ。克彦は大きく伸びをしようとして自分の身体が思い通りに動かない事に顔をしかめる。
「あ…」
 自分が大きな腕の中に抱きしめられていることに気が付き、振り仰ぐと、初めて見る本田の寝顔があった。
(昨日…キスして…)
 それ以降の記憶は全くない。
(ねちゃった?)
 本田と出会って、自分は無防備な寝姿ばかり晒している。初めて見る本田の寝顔はいつもの鋭い視線が隠れているぶん、穏やかで端正だった。
 キスを思い出して、笑みがこぼれる。
「ん………起きたのか?」
 本田が目を覚まし、少しぼーっとした目で克彦を見つめる。
「うん。おはよう」
「おはよう…」
 おはようのキスにしては濃厚なキス。
「んん…」
「お前、昨日はよくも…」
 キスだけで、不覚にも眠ってしまった。
「ごめんなさい…」
「くくくくくく……っ」
 本当に心からすまないと思ったのに本田に笑われて少しムッとしたが、この男のこんな寛いだ笑顔を見られるのは自分だけかもしれないと思うと、いつしか克彦も浮き立つような気分になっていた。
「また今夜までお預けだな…」
「ごめんなさい…でも、こうやって抱き締められているだけで、俺はもう死んでも良いってくらいに幸せ」
(今日一日、あなたのことだけ考えて、あなたを待ってます…)

 

 自分がこんな事をするなんて思わなかった。誰かの帰りを殊勝に待ちながら、部屋の掃除をして洗濯をして、料理までしているなんて…
 本田のマンションの内装を考えてみたがそれも手に付かず、仕事道具を取りに帰るのも面倒で何もする気が起きない。
 せめて本田の声が聞きたかったが、忙しい本田の迷惑になってはいけないと、我が儘女王様は何処へ行ったやら携帯を開いたり閉じたりしてため息をつく。時間があると余計なことまで考える暇が出来てしまい、どうして牛島のことが分かったのだろうとか、牛島に録られたビデオを見られたんじゃないかとか、ノンケだからすぐに飽きられるんじゃないだろうかとか、不安な気持ちも膨れあがる。
 やっぱり帰ろう…そう思ったのは陽が傾いてきた夕方の事だった。
(俺ってほら、男運わるいし…)
 今なら何もなかったことに出来る。キスして、抱き締められたくらいだから、忘れるのも早いだろう。牛島がどうなったのか分からないけど、もしまたあいつが連絡してきたら…何と言っても牛島は警察官だ。黒瀬組とは全く関係ない自分の事で牛島に手を出せば、本田だってタダでは済まないはず。好きな人には迷惑かけられない…いや、もう迷惑かけてしまったのかな…どうやてお詫びしたらいいんだろう…お金?指?お金は無いけど、右手の小指くらいだったら仕事には影響ない…やっぱりヤクザなんて好きにならなきゃ良かった…
 じんわり浮かんできた涙を手の甲でぐいっと拭いながら、克彦は本田のマンションを後にしたのだった。

 

 

4
きっかけ2

雪柾と克彦