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兆す、銀

ユリアスとシリル

光りある者・番外

3

 もうそろそろアンリが帰ってくる頃だと思い、店の材料でバゲットサンドを作っていると見たことのない車が一台、店の前の道路に静かに止まった。
 純白のボディにスモークガラスが怪しいリムジンのような車で、シリルは車には詳しくないので、あんなのが止まってたら常連が怖がる、としか思わなかった。が、後部座席のドアが勢いよく開き、走り出てきたのはアンリだった。
「アンリ?」
 世界のお金持ちが通う私立の学校なので、友達に送ってもらったのだろうか?
「シリル!」
 アンリがこちらへ走ってくるのを見ながら、助手席から降り立った人物を見ると…ラザールだった。
「ラザール…?」
「ただいま!」
「ああ、お帰り、アンリ…どうしたの、あの車…」
「迎えに来てくれたんだ、ラザールが…とうさんと一緒に」
 アンリがそう言ったのと後部座席からユリアスが姿を現したのはほぼ同時で、シリルはアンリとユリアスを交互に見つめて最後にラザールを見ると…ラザールは一礼をしてさっさと助手席に乗り込んでしまった。
「とうさんが…ジュネーブに家を買ったんだって…」
「は?」
「後はとうさんに聞いてね。俺、お腹空いた」
「あ?ああ…ごめん、今作り始めたところ」
 シリルは混乱しているのか、近づいてくるユリアスから視線を外し、カウンターの中でバゲットサンドを作り始めた。


 ユリアスは俯いて調理をするシリルの前に軽く腰掛けたまま、黙って見ていた。バゲットの真ん中に切り込みを入れ、ガーリックバターとバジルペーストを塗りトースターに放り込む。焼く間にレタスをちぎり、スモークチキンをスライスしたものにもバジルペーストを塗る。マグカップにミルクを注ぎレンジで温め、出来上がったバゲットに材料を挟みソースをかけ…全ての作業が終わりアンリがそれを皿に入れて持ち去ってもまだ、顔を上げられなかった。
 はっきり見なくてもユリアスの炎は強烈で…三週間前より強く明るくなっている。
「良い店だな…」
 とユリアスが言ったように聞こえたが。
「お前が料理をしている姿を初めて見た」
「いや…いえ、料理ってほどでも…」
「私にも作ってもらえるか?」
「あ、あれはアンリの食事で…普段は出して無くて…いや、その…」
「では、コーヒーを」
 確かにコーヒーと言われたのに、カフェラテを作ってしまった。その方が少しは時間稼ぎになるのだが、多少の時間が潰れたからと言って、ユリアスが直ぐに立ち去るとも思えない。
「どうして…」
 ここに来たのですか?
「10日前に来るはずだった…ホテルにしておけばよかったものを、先のことを考えて家を買おうと思ったら時間が掛かってしまった。いや…これは正しい答えではないな」
 ユリアスは黙り込んだが、優しい金色の炎が頬を撫でたような気がして、シリルは視界の隅に感じたそれを心の中にしまいこんだ。
 ぽ…とシリルの身体の芯が温かくなりやがて消えた感覚に、ユリアスは気が付いただろうか?


(落ち着け、俺!)
 誰かが謀ったのか単なる偶然か、シリルが連れてこられたのは光りある者でありシリルの親友でもある亮と、炎を纏う蛇の長である迅がやっとこさ結ばれたあのコテージだった。あれから数ヶ月経つというのに、二人の痕跡は消えていない。あんなお節介焼かなければ良かった。何かが懐かしくてお節介を焼くなど爺さんのすることだ。髪と瞳は爺さんだが…
 ラザールが待っているからと無理矢理連れてこられたが、ではまた明日の夜お迎えに上がりますと、すれ違いで出て行った。
 カフェラテを飲みながら何を話すでもなく、ユリアス様はただ椅子に腰掛けて自分の働く姿を見ていた。気を利かせたアンリは一人で勝手に勉強している数学の、シリルには全くわけの分からない小難しい問題を解いていて、分かっている癖にユリアス様に質問したり…その場の雰囲気が凍り付かないように彼なりに気を遣った結果だろう…
 地獄のような営業時間を終わり、シリルもアンリもやっとこれで帰れると思ったら…無理矢理ここに連れてこられたのだ。アンリは頑張って文句を垂れてくれた。けれどもシリルにはユリアス様に楯突く事など無理な話で…産まれる前から、母親のお腹にいるときから、そのずっと何万年も前から、ユリアス様に導かれるままに生きてきた。
 もしあのまま、幸せなまま過ごしていたら、自分が光りある者として生きることになったのだろうか?亮と自分の立場が逆転していたのだろうか?同じ時代に光りある者が複数存在した事は無いと言われている。もしそうなら、亮はどうなっていたのだろう?囚われたまま生き続けなくてはならなかったのか?
 だとしたら、一時だけ辛い目にあっていた自分の方がまだマシだ。辛い記憶より楽しい記憶の方が多いのだから。
 どっちにしても自分は選ばれなかったのだし、だからといってどん底におとされたわけでもなく、こうしてのんびり生きてこられたのだから、これで良かったのだ。みんなそれなりに幸せに不自由なく生きているのだから、混ぜ返す必要なんか無いではないか。


 遠慮会釈のないアンリはシリルのフラットよりはずっとゴージャスなコテージを隅から隅まで探検して回っている。シリルも亮に招待されて一階だけは知っているが二階は見たことがないし、何より一階の居間で、まるで古巣で寛いでいるかのような、とぐろを巻いた蛇と二人きりになりたくなかったので、アンリと一緒に家中を見て回った。
 それでも時間は余りあるほどで、可能ならば屋根裏から床下まではぐってみたい衝動に駆られながら、仕方なく居間に戻ったのだった。
「父さん、俺たちどの部屋使えば良い?あんたが主だからでっかい寝室使って良いよ。俺とシリルは一緒に中くらいの部屋使うから。それでもシリルんちのベッドより大きいもんね?」
 寝室は三つあった。
 不虞な身体のせいでどんなに濃厚なポルノを見ようと涼しい気持ちでいられるのに、主寝室は足を踏み入れた途端逃げ出したくなるような、ますます白髪が増えそうな、そんな気で満ちあふれていて、二度と絶対入る気がしなくなった。他の部屋はそんなこともなく、亮と迅が節度ある恋人同士で良かったと思う。
「うん。俺たちは二人で休むから…休みますから、ユリアス様は大きい方を…」
「無理に言葉遣いを変える必要はない。明日はどうする?」
「では、私たちは休ませていただきます…」
 シリル、会話が成り立ってないよ…とアンリが呟いたが、そんなこと分かっている。
「あ、明日は…いつも通りお店があるので…」
 不定休にしておいて良かった。
「分かった。アンリ、お前は?」
「俺はシリルの手伝い」
 

 土曜の午後やってきて日曜の夜帰る。取り立てて何もせず、大した会話もなくじっとシリルの行動を見ている。
 そんな奇妙な週末を過ごすようになり一ヶ月、二ヶ月経ち…
 初めは遠巻きに見ていた常連も挨拶くらいはするようになった。シリルよりも常連の方がユリアスとうち解けたかもしれない。
 シリルも、最初はユリアスの意図が分からず警戒していたが、上手く距離をとってくれるユリアスに、次第に落ち着いて接することができるようになっていた。
 その週末、アンリは学校行事の一泊旅行で不在だった。だいぶ慣れたとは言えユリアスと二人きりで過ごすことには抵抗があり、ユリアスがいる週末は封印していた酒でも飲まなければとても眠れそうになかった。
 ユリアスが初めてジュネーブに来たとき、かなりの数のお気に入りのワインやブランデーを持ち込んでいたがそんな高い酒は飲む気になれず、カフェの在庫から一番お気に入りのワインをコッソリ持ち出した。日曜日に出すユリアスの朝食の材料や日用品も無かったので、帰りにスーパーマーケットに寄りかなりの物を買い込んだ。
 雑多な物が入ったカートを押し、大きな紙袋を抱えるユリアスには違和感を覚えたが…さりげなく重たい方の荷物を持ってくれる事は、一人で生きてきたシリルには新鮮で、決して嫌なことではない。
 その事で少しばかり幸せを感じてぼーっとしていたのだろう。荷物をキッチンで開いているとき、カフェから持ってきたワインも見つかってしまった。ビンテージ物で目が飛び出るような値段のワインしか飲んだことがないユリアスにはとても珍しい銘柄だった。
「あっと…それは私のです…」
 ユリアスはワインのラベルを見た後シリルを見つめた。
「酒を飲むのか?」
「まあ…たまには」
 平日は毎晩飲んでいるとは、何となく言えなかった。子どもの頃、ユリアスが飲んでいる綺麗な色のワインがとても美味しそうで、こっそり飲んだことがある。どうなったかというと…良い気色でわけが分からないことを呟き笑いまくり、最後は床にひっくり返ったのだ。それ以来、ユリアスは酒の類はシリルに見えないところに置くようになった。
「昔よりは…飲めるようになりましたから」
 子供じゃないのだし。へべれけになるまで飲む事もあるが…
「あまり見ない銘柄だな」
「うちのお店で出してる、一杯200円の安物ですけど…まあまあ美味しいので…」
 ユリアスはそのワインを持って居間のバーカウンターに行くと、ワイングラスを二つ用意し、ワインの栓を抜いた。
「あ、それは…ユリアス様のお口には合わないかと…」
 シリルの言うことなど聞くはずもなく、ユリアスはグラスをワインで満たしていく。仕方なく、シリルはバーカウンターまで歩み寄り、グラスの一つを手にした。
「お前の未来に」
「…ユリアス様とアンリの未来に」
 

 こんな夜が来るとは思わなかった。
 ユリアス様と酒を酌み交わすなんて…普段ほど『楽しい』酒ではないけれど、言葉も交わさず雰囲気だけを堪能する静かな夜は思いのほか心地よい。ユリアス様の炎も落ち着いていて、昼間、俺が近寄りたくないほどの強烈さが無い。自分はどうなっているのか見ることはできないけれど、きっとほんのり輝いているのだろう。
 いつもこのくらいだと落ち着いていられるのに…
 まあ、炎が強烈だからと恐れる必要はないけれど…昔のように戯れるほど俺の光りは強くない。強くなったからといって何ができるわけでもないし。
 このまま、ぼんやり暖炉を眺めて、その温かさに触れて、緩く生きていけるなら…って、ユリアス様は暖炉?
 ああそれで、夏の間は近寄りたくなかったんだ?

 くすくすと笑い始めたシリルに気が付いたユリアスは、このまま飲ませ続ければ昔のように床に寝そべってしまうのではないかと、半ば期待し、半ば呆れ、普段は見せてくれない朗らかな笑顔を振りまくシリルからそっとグラスを奪った。
「シリル、もう休みなさい…部屋まで歩けるか?」
 手を差し伸べるも、まだ適当に意識はあるようで、シリルは自分で立ち上がりフラフラと歩き始めた。
「お休みなさい、ユリアス様…」
 とろんとした目で見上げるがほんの一瞬のことで、視線が宙を彷徨ったかと思うとテーブルの上にあったワインに注がれた。カフェから持ってきたのは一本だったが既に空で、もう一本はユリアスの物で三分の一ほど残っている。シリルは大して迷わずにその年代物のワインを掴み、自分の寝室へ向かった。

 翌朝、床に転がっているワインのラベルを見たシリルは、その空き瓶をひっつかんで寝室を飛び出した。こんな良い物を飲んだのは初めてで、しかも味なんて思い出せないほど酔っぱらっていた。一本目の安物ワインを空け、二本目にこのワインを出して貰ったのは覚えている。一本目で良い気色になっていたので、高いワインを勧められたとき、図々しくねだったような気がする。その後どうしたのだろう?ユリアス様に失礼なことをしていなければ良いが…
 だだだだっと階段を駆け下り、居間を覗くがそこに主の姿はなかった。まだ眠っているのかと思ったが…コーヒーの香りに誘われてキッチンへ入ると、主は新聞を片手にコーヒーを飲んでいた。
「あ…おはようございますっ…あの、これ…」
 ワインの瓶を突き出すとユリアス様は微かに笑いながら言った。
「おはよう。夕べはよく眠れたようだな」
 覚えていないが良いワインのお陰か、ぐっすり眠れた事は眠れた。
「はい…でもこれ…勝手に持って上がったみたいで…すみません」
「別に構わない。倉庫に置いてある物は遠慮無く飲んでいいのだぞ。それより…」
 ユリアス様が指さしながら上下に振っている…
 ガウンを着ていたのは良かったが…寝乱れてだらしないことこの上ない格好だ。きっと髪もぐしゃぐしゃなのだろう。もうこの姿を見られるのは毎度の事で慣れてしまった自分が恥ずかしい。
 紅顔の美少年も二十歳すぎればただの男、である。
 朝からすっきり清潔感のあるユリアス様とは雲泥の差なので、ただの男でも磨けば何とかなるのかもしれないが…そんなことには全く興味が持てないから仕方ないじゃないか、と腹をくくっても虚しいだけである。
「…お見苦しくてすみません…着替えてから朝食の準備をします」
 

 適当に清潔な服に着替え、急いで食事の準備をした。ユリアスが食べている間にカラスの行水をしてまた着替え、自分のカフェオレを飲むと営業時間はすぐそこだった。今までは多少遅くなっても誰も文句を言わず、勝手に店に入って営業開始する常連もいた。だが、ユリアスが来るようになって、週末だけはきっちり時間通り開けるようになった…と言うか開けざるを得ないようになった。コテージに居るよりは店で働いた方が気も紛れるからだ。時々ふと視線を感じたり炎が優しく揺れている事を感じる時もあり、灰色の壁の向こうに隠した懐かしい想いが微かに喜んでいるようだった。シリルは壁の向こうから漏れてくる光を見て、ほんの少しだけ微笑む。その光りは自分のものだけど今の自分のものではない、今の自分よりは遙かに活き活きと輝いていた子どもの頃の自分にこそふさわしい。
 諦め、とも言うのだろう。
 地に堕ちてしまえば最早、天使ではなく、一人の男としても機能できない、片端。
 それでも生きて良いのなら、せめてこの人が好きに過ごせるよう祈ろう。


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