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兆す、銀

ユリアスとシリル

光りある者・番外

4

 シリルに酒を飲ませると頑なな気持ちも柔らかくなるらしい。それに気をよくしたユリアスは週末ごとに酒を勧めるようになった。ただし、あの安いワインだけは二度と飲みたくない。
「じゃあユリアス様はそっち飲みなよ、俺はこれで十分!それに、そんな美味しいの飲みつけたら大変じゃん?」
 言葉遣いも、態度も、子どもの頃とはずいぶん違うが、しらふで居るときの窮屈そうな様子よりもよほど良い。13年前にどんな酷いことをしでかしたのか、今更どの面下げて会えばいいのか…初めは戸惑っていたがどうも炎を纏う蛇というのは自分勝手で相手の都合や気持ちなど無視する生き物らしい。あの日本国籍の蛇も、守るべき者を散々痛めつけた挙げ句に、愛していると宣ったのだから…
「私がシリルに飲ませたいんだ」
 シリルが酔っているのかいないのか分からないような曖昧な笑みを浮かべた。


 酔っているのに時々正気に戻ったような錯覚に陥るのは何故なのか…今もシリルはユリアス様の言葉に気の利いた冗談で返せず、仮面のような笑顔を顔面に貼り付けてしまった。ユリアス様が時々見せてくれる優しさのような感情は、シリルの心の壁に揺さぶりを掛けてくる。少々のことで崩れはしないけれど、一瞬の揺らぎの後、いつもより強くどっと溢れてくるまばゆい光りが恐い。
 あの光りを纏っているのは子どもの頃の自分。ひたむきで、純粋で、ユリアス様が世界の中心だった。ユリアス様が大好きでたまらくて、どんなに好きになってもまだ足りなくて…今は…もうどうでも良くなってしまった。
 これ以上の光りはいらないのに。
 じわじわと漏れ出る光りのおこぼれで、十分。
「ふふふ…なんか気分良く酔っぱらった。俺、先に休みます」
 ふらっと心地よい揺れを感じながら立ち上がり、いつものくせで勿体なくて飲めないと言っている高級ワインを掴む。
「あ…あははは…これ…」
「持って行け」
「うん…ふははは…言ってる端からこれだもん…」
(地下のワインセラーには在庫が沢山あるし、ユリアス様も毎週持ってくるから飲まなきゃ貯まる一方だ。過ぎた高級品だと思うけど、やっぱりもらっとこう…)


「酒くさっ」
 ベッドに潜り込むとアンリが顔をしかめた。
「アンリも早く飲めるようになってね。そしたらユリアス様の晩酌相手ができるだろー?」
 高級ワインをラッパ飲みできるなんて幸せだ、とか良いながらがばっと煽る。
「もうちょっときれいな飲み方しろよ…この酔っぱらい!」
 瓶をひったくり、ナイトテーブルに置く。
「酔っぱらうのは気持ちいいよ。大人になったら分かるさ…」
 ナイトテーブルに手を伸ばそうとするシリルを阻止して、掛け布団でくるんでやると、あっという間に眠ってしまった。


「どんだけ飲んだ?」
 シリルはユリアスとアンリを見送った後、朝一番で毎月の健康診断に病院へ行った。
「え?もしかして血液検査引っかかった?血がドロドロ?」
「いや、酒臭いだけ。他はいたって健康。何か変わったことは?」
「特にないけど…」
「けど?」
 主治医のギスラン・シャリエは養父の生徒の中で最も優秀だった。養父亡き後は彼に変わってシリルの主治医を務めてくれている。シリルがジュネーブに来たばかりの頃から知っているので、シリルの身体のことは本人より良く知っているのではないだろうか。シリル自身でさえ目を背けて、ちゃんと見たことがない身体の傷跡も全部知っている。
「ギーには内緒」
「…良し分かった。その気なら思いっきり痛い注射をしてやる。ズボン脱いで」
 毎月かならず打たなければならないその注射も、肌を見せるのを嫌うシリルのために、看護士には任せずギスランが打つ。
 仕方なしにズボンの前を寛げて後ろを向く。
「どっち?」
「奇数月は右、偶数は左」
「じゃあ左だな」
 ズボンをパンツごとぐいっと下げ、みっともない半ケツ状態を晒すのもギスランの前でだけだ。ヒンヤリした消毒薬をがしがし塗られ、お尻というより腰に近い部分をぎゅっと摘まれる。針は細いので刺されるくらいでは痛くないけれど、薬液が押し出されると非常に痛い。
「くぅうう…」
「…よし、っと。揉んどけよ」
 揉むのを怠るとその部分の筋肉が硬くなり、なかなか注射液が入らなくなり、その結果痛みが増すのだ。さっさとズボンをはいてから、良く揉む。
「あんまり痛くなかったろ?で、誰とどんだけ飲んだ?」
「毎週末、アンリの父親が来て…めちゃくちゃ高級なワインを持ってきてくれるからつい…」
「…アンリの父親…デビアン公爵?」
 返事は沈黙だった。
「毎週末って…いつから?」
「九月に入ってから…かな」
「いや。そうじゃなくて、いつのまに再会したんだ?」
「…七月くらい?忘れちゃった、あははは」
 ギスランはシリルがこうやって忘れたふりをして笑い飛ばしながら生きてきた事を良く知っている。
 初めてジュネーブに来たシリルは傷の痛みを上回る心の痛みで、一人の時は日記帳を見つめながら涙を流していたようだが、周囲の人間には常に柔らかく微笑んでいた。
 3度目の手術が終わり、数日後病室へ帰ったとき、たった一つの持ち物だった日記帳を貴重品預かりロッカーから持ってきて欲しいと頼まれた。だいぶ草臥れていたが、それは華麗な紋章が金で箔押しされた革の日記帳で、シリルに手渡したとき一枚の写真がはらりと舞い落ちた。拾い上げ、何気なく目に飛び込んできたのは…いや、正直に言えば、意図的に見たのだ…金髪碧眼の美しい青年と、天使のように可愛い少年だった。
(これは…この少年は…)
(…僕です)
 青年と同じか、それ以上にしっかりとした金髪、深く透き通っているが紺色がかった濃いブルーの瞳…
(この青年は?)
 グレーの瞳が揺らぎ、涙が零れるのかと思った。
(ユリアスさま…)
 
 その後、シリルは時々デビアン公爵ユリアスの事を話してくれた。どれも楽しい話しばかりで、産まれる前からどれだけ大切にしてくれたかを、頬を染め、柔らかな光を発しながら話してくれた。
 そんなに愛してくれたなら何故迎えに来ない?髪も瞳も色あせるほどの目にあったというのに、なぜ連絡すら寄越さない?一度だけ聞いたことがあるが、微笑むだけで何も答えてくれなかった。
 手術の傷も癒え初めて学校に通うようになると、周りの仲間達と過ごす方が楽しくなったのかギスラン相手にユリアスの事は話さなくなったが…少々大人びた皮肉屋な性格になってしまった。この頃から、カラ笑いとでも言うか、考えたくないことや深入りして欲しくない事からは笑って逃げるようになっていた。
 じっと空を見つめていることがある。養父はそう言っていた。何を見つめるでもなく、ただぼんやりした光りに包まれながら…シリルの周りだけが昼間でもうっすらと明るいのだそうだ。その光りが失われないように、これ以上何も無くさないように、注意深く見守って行かなければ、とも言っていた。いつかまたあの写真の少年の頃のように燦然と輝く光を取り戻すまで、静かに見守ってやってくれと。
(色々な意味で輝いてはいるんだが…酒を飲んで陽気に騒いでいる時に一番輝いてるか?)
 養父が亡くなって以来、ギスランは医者として年上の友人として最も深く関わった自信はある。が、どうやら間違った事を教えてしまったらしいと、今になって気が付いた。

「で、今頃なんでお前に会いに来るようになったんだ?」
「さあ?俺もびっくり」
 悪いが今夜は酔いつぶす。酔いつぶして何もかも聞き出してやる。それこそ身体の隅々まで知っているこのギスランに隠し立てするなどもってのほかだ。
 ギスランはユリアスから強引に引っ越しさせられたと言う豪華なコテージの、飲んでも良いと言われているワインセラーからマニアックな高級ワインを何本も持ち出した。
 シリルがそこまで酒に強くないと知っているので、自分も飲むために。
「アンリのお披露目をするためにエヴィアンへ帰った。で、愛人を侮辱して、その仕返しに殺されそうになった。なのに、なんで予定より長く滞在したんだ?」
「愛人がね、ヴァンサンって言うんだけど、こう、ふわふわっと柔らかくてあま〜い香りがするんだよね。ぎゅってしたら」
 シリルは人を嫌うことが無い。だからといってデビアン公爵の愛人にまで好意を向けるのは…悔しくはないのか?嫉妬で気が狂いそうなのでは?
「ふん…どうせまた酔っぱらってたんだろ?夢でも見てたんじゃないか?」
「自分では分からないけど、みんなそう言うんだって。柔らかくて甘いって。俺よりずっと年下で小柄なんだけど、体つきとか男なんだけど、抱き締めると綿飴みたいなんだ。不思議だよね」
「俺にはシリルの方がよっぽど不思議だ…まあ、それが本当だとしたら愛人に向いてるのかもな」
「凄く綺麗な金髪で青い目で、ユリアス様のために全身お手入れしてるんだって。愛人は沢山いるみたいだけど、お屋敷に住んでるのはヴァンサンだけで、ヴァンサンが愛人達の交通整理してるみたい」
「呆れた男だな、愛人囲って好き放題やっている癖に、お前にまで…」
「あははは。ユリアス様は誰が見ても素敵な人だし周りが放っておかないんだよ。俺は…そんなんじゃないし。産まれたときから一緒だったから、家族?俺はユリアス様にとって幸運のお守りみたいなものなんだ。光りある者の伝説ってのがあってね…」
 非科学的この上ない伝説だった。だが、誰もがシリルの周囲に柔らかい光が取り巻いていることを知っていたし、その光りに触れるとあくどい感情や怒りがすっと収まることを知っている。
「俺は、その血を引いているけど…弱いから…本物はもっと凄いよ。もう目が眩んじゃうっていうか。悪人はあの子を見ただけで消滅しちゃうかも」
「そんなに何人もいるのか?ただの善人じゃなくて?」
「光りある者は同じ時代に一人だけ。俺は血族の中でも光りが強いだけ。でも光りある者そのものじゃないから必ずしも蛇の守りが必要なわけじゃないんだ。良く、わかんないけど。選ぶのは俺なんだって。俺は…二度と姿を晒すなって言われちゃったし、一人じゃ帰れなかったし…ここはここで居心地が良かったし」
「二度と姿を晒すな?そんなことを言われたのか?デビアン公爵に?それなのにのこのこ会いに来てるのか?最低の男だな」
 吐き捨てるように言うギスランに、シリルは俯いて静かに笑いながら言った。
「デビアン家の跡取りを預かる男が俺みたいな出来損ないで気になるんだよ、きっと」


 その週末は曇りだった。今にも雨が落ちそうな気配で、かすかに雨の匂いも漂っていた。
 今週は毎日ギスランから電話があり、週末は休みを取ったから会いに来ると…果たして土曜の朝、開店準備をしに店へ行くともうすでに誰かが勝手に店を開けて自由営業をしていた。
「ギスラン…いつから医者辞めたの?バイト代出せないよ…」
「おはようシリル。バイト料はほっぺたにキスで」
「働きっぷりが良ければね」
 カフェではほとんど見掛けないが産まれたときからこの街に住んでいるギスランは知り合いも多く、シリルが紹介した患者も多い。普段は立場が上の医者をこき使えるとあって常連達も大騒ぎして楽しかったようだが…昼過ぎ、最近週末だけ現れる雰囲気の悪い客が到着すると大人しくなり、天気も加勢して何とも言えない重い雰囲気が漂い始めた。
「ギスラン・シャリエ先生です。ギスラン、こちらがエヴィアン公、ユリアス・マルティヌー・ド・エヴィアン公爵…です」
「どうも」
「…」
 握手もせず、腹を空かせたトラとライオンが遭遇したような切迫した空気が流れる。この場合のエサはもちろんシリルで…
「…二人とも、にらみ合うなら他所でやってね…くださいね。他のお客さんが怖がるから…」
 

 閉店まで二人は無言だった。ユリアスは座ったままパソコンで仕事のような事をして、ギスランは忙しく立ち働いていた。アンリは忙しかろうと何だろうと関係も遠慮も無く二人に勉強を教えて貰っていたが、誰に似たのか知能指数が高いアンリが本当に困って教えを乞うていたのか定かではない。 遠慮会釈無いように見せつつ、二人に気を遣っていたと言うこともあり得る。
「アンリ、そろそろ買い物に行ってきてくれる?」
 閉店の一時間程前にアンリを先に帰し、夕食の材料を買い出して貰うことが週末の日課になっていた。
「うん」
「だったら俺もついていこうか?」
 ギスランがそう言った。最後の最後まで店で粘ると思っていたのに…
「荷物が重いだろ?家まで届けておくよ」
 しかしギスランの目的は他にあったようで…シリルがユリアスと共に帰宅すると、豪華な食事が用意してあったのだった。


「ギー、どうしたのこれ…」
「俺の手料理。今から作るんじゃ、遅くなっちまうだろ?」
「それはそうだけど…ギーも疲れてるのに…ありがとう」
「誰かさんの口に合うかどうか分からないけどな」
 食事の間ユリアスは終始無言で、スープを少しとパンとチーズを食べながらワインを飲んでいた。ギスランとシリルとアンリが楽しそうに話していても気にもせず、黙ってワイングラスを揺すりながら時々シリルを見つめていた。
「さて、俺はそろそろ帰るよ。シリル、今日のご褒美は?」
「…あげるって言ってないよ」
 ほっぺたにキスして欲しいと言われたが約束した覚えはない。けれど、毎日激務が続く中、せっかくの休みを自分のために費やしてくれたのだ。
「分かった…じゃ、外まで送るから」
 ギスランはシリルに見送られて玄関を出る際、そっとシリルを抱き寄せてまるで子供のようにキスをねだった。
「ギー、今日は有り難う」
 右の頬に軽くキスをして身体を離そうとすると、ギスランは左の頬も差し出してきた。
「もう!」
 仕方なくもう一方にも優しくキスをする。
「今夜はもう飲むなよ。お休み、シリル」
 ギスランはシリルのおでこにちゅ…と口づけて手を振りながら夜道を歩き始めた。


 食事の間は二人とも一言も話さなかったが、品定めするようにお互いを見ていた。シリルにとってギスランは主治医であると同時に兄のような存在で、身体の秘密を共有する事を許したただ独りの存在でもある。
 ユリアス様は…自分にとってどんな存在なのか言葉を探していると…気配が近づいてきた。
「風邪をひく。中に入れ」
 言葉は優しかったが、ユリアス様の炎はどうしようもないくらいの怒りを含んでいようにみえた。
「ユリアス様…あの」
 背を向けて室内に入るユリアス様を急いで追いかける。
「あれは何者だ?」
 怒りを含んだ声に、シリルは一瞬昔の事を思い出し、凍り付いたように動けなくなってしまった。
「シリルの主治医だ!」
 ユリアス様の怒りを感じたのかシリルの恐怖を感じたのか、アンリが駆け寄ってきて二人の間に立ちはだかった。
「主治医?」
 拗ねてないで素直に本人に聞けばいいだろ、とアンリがブツブツ文句を言う。
「シリル、大丈夫?部屋まで連れて行ってあげるよ」
 アンリが優しく声を掛けながら手を握った。
「…う…ん…」
 ふんわりと温かい気が手を伝って、シリルの強張った身体を解してくれる。
「ユリアス様…ごめんなさい…」
 なんで謝るんだよ、とアンリが毒づいたが、こうして自分が話さなかったからユリアス様との関係が悪い方向へ雪崩のように崩れてしまった事を思い出す。
「ギーは…ギスランは俺の主治医で…俺を育ててくれた養父の一番弟子なんです。俺の…身体のことを一番良く理解してくれていて…だから…」
 ギスランの頬に触れたこと、ギスランからも触れられたことがとんでもない間違いだったような気がして、シリルは必死で唇と額を拭った。
「ごめんなさい…」
 あなたのためだけに存在していたはずなのに…


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