home

novels

event

back

next

兆す、銀

ユリアスとシリル

光りある者・番外

5

 茫然自失の態で頬と額を擦りながらごめんなさいを繰り返すシリルに驚き、アンリは地団駄を踏みながらユリアスを睨みつけていた。
「…アンリ。お前は先に休みなさい」
 シリルからアンリを引き剥がし、乱暴とも言える位の力でアンリを押しやる。
「シリル…シリル…」
 触れたくても触れられない、そんな憤った気持ちが焦りとなり、怒りへと変わる。シリルへ向けられたものではなく自分自身へ向けられた怒りだが、怒りがどんな結果を生み出したか良く知っているシリルは、恐怖に苛まれて行った。
 ユリアスはいつまでも顔を擦り続ける腕を、そっと掴む。怯えさせないように、いたがらないように、決して傷つけないように。今度こそ失敗しないように。
「怯えるな…お前に対して怒っているわけではないのだから…」
「でも…俺…許してもらえなかった…」
 辛い記憶が蘇りかける。あはは、と笑い飛ばそうとして今回ばかりは失敗してしまった。
 視界が曇って両目が見えなくなったのかと思ったら、頬にどっと涙が溢れてしまった。
「……」
 あれ…
「……」
 なんで泣いてんだろ…
「ごめんっ!!」
 懐かしい炎に吸い寄せられそうになり、ユリアスの腕をなぎ払ってバスルームに駆け込んだのだった。


 冷たい水で顔を洗い、ちょっと腫れた目元を見るとだんだん正気に戻ってきた。
「はぁ…びっくりした」
 勝手に涙が出てきたとき、今の自分はすっかりどこかへ消えていて、あの時の絶望感が蘇り、これ以上何も失いたくないと強く思った。
「もう無くしちゃったのに。未練たらしい…」
 もう一度顔を洗い、上等なタオルでゴシゴシ拭くといくらかすっきりした気分になる。頬をぱちぱちっと軽く叩き、よしっ、と気合いを入れてバスルームから飛び出ると、廊下の中程でユリアスが待っていた。
「あ…ごめん。びっくりしちゃった」
 ユリアスの怒りもすっかり収まり、ごく普通の落ち着いた雰囲気に戻っている。
「いや。怖がらせたな」
「ユリアス様…あまり食べてないから…」
 腹が減ったら怒りっぽくなるんですよととぼけたことを言いながら、シリルは急いでキッチンへ向かった。
 あり合わせの物で軽食を作っていると、背後にユリアスの気配がした。気配で分かるなんて便利だよね、などと軽く考えているといつも以上にぴったり背中に張り付かれる。
「ユリアス様、火、使ってるから危ない」
「火は私の属性だ」
「…じゃあ今度怒ったときは頭にやかんのっけるね」
「ふふ…相変わらず口が達者だな。子どもの頃も良く私を笑わせてくれた」
 さりげなく背中に腕が回されたが、シリルはそれが嫌ではなかった。
 ゆったりとした温もりはアンリに似ているけれどそれよりもっと安定していて、先ほどのような激しさよりずっとシリルを安心させてくれる。
(酔っぱらってるのかな、俺…)
 どうか早くユリアス様が昔のような勢いを取り戻してくれますように…だって俺は早く隠居したいんだよ…とシリルは出来上がったキャベツとハムのパスタを手早く器に盛りつけ、ユリアスの腕の中からするりと抜け出したのだった。
 近くに寄ることはそんなに恐くなくなった。触れられることも嫌ではない。けれどそれ以上何もできない自分はユリアスの邪魔にならないだろうか?子供の時から自分に内緒で愛人を囲っていたのだし、自分もそれが嫌などころかユリアス様にとって必要なら何人囲おうが構わないと思っている。
 でも、ヴァンサンの心の底に見えた、泣いている子供…ヴァンサン以外の愛人達がどこにいるのか知らないが、もし良い環境にいないとしたら…自分の事より他人のこと?咄嗟にそんなことを考えた自分が可笑しかった。
「あはは…」
「思い出し笑いか?考え込んではため息をついたり、空笑いしてみたり、見ていて飽きないが少しでも私に話してもらえると嬉しいのだがな…」
 シリルが悩んでいることは伝わったようだ。
「あ…と。ヴァンサンは元気?たまにはヴァンサンも連れてきてくれればいいのに」
「ここに?」
「…ああ…俺は自分のうちに帰るから」
 ユリアスは食べ終わった食器を持って立ち上がり、食洗機に放り込むとシリルに接近した。シリルが少しだけ仰け反る。
「お前のうちはここだ。お前は…ヴァンサンが好きなのか?」
 

 ユリアスも気になっていたことがある。
 13年のうちにシリルはそれなりに大人の男に育っていた。先ほどのギスランが恋人かと思っていたのだが、ヴァンサンと楽しそうに過ごしていたことを考えるとヴァンサンに気があるのか、とも思う。ヴァンサンを抱き締めている姿を見たが…年齢も見た目もお似合いのカップルに見える。たとえシリルに恋人がいたとしても、ユリアスは自分が文句を言える立場ではない、と思う。思っているだけで、納得しているわけではない。それどころか嫉妬の炎でまたシリルを怖がらせてしまいそうだ。
「好きだよ」
「そうか…では明日呼ぶと良い」
 それがシリルの望みなら。
「でもアンリと仲が悪いし…どうしよう」
「ヴァンサンと二人で過ごしたいなら私がアンリを預かるが…」
「俺は別に…アンリとヴァンサンが少しでも仲良くなれたら、そっちの方が嬉しいけど…ヴァンサンとはいつから?」


 シリル作のチョコレートケーキにホイップクリームを山のように盛り上げて、嬉しそうにスプーンを銜えるヴァンサンに常連の視線が釘付けになっていた。そのくらいヴァンサンには華があり、ユリアスと並べば恐いもの無しのカップルに見える。甘い物が苦手なユリアスは眉をしかめているが…
「そんな物いつから食べるようになったんだ?」
「ユリアスの前では気取ってただけだよ。甘い物とかクリームとか、僕大好き。子どもの頃あんまり食べられなかったから。お客にもらったお小遣いで真っ先にケーキ買ってた」
 ヴァンサンは10才の時に親に売り飛ばされ、13才でユリアスに買い上げられた。親元にいるときもろくに食べさせてもらえず、盗んで暮らす以外に生き延びる方法がなかった。
「良い子にしてたらすっごく綺麗な部屋に住めて洋服も良いの買ってもらえたし、美味しい物も食べられたから…ユリアスが身請けしてくれたときはめっちゃ嬉しかった。だって貴族だよ?僕は出自が悪いから、あのまま道ばたで暮らしてたら上流階級の人と知り合いになんかなれなかったし、最悪行き倒れたり殺されてたかもしれない。これでも人気者だったから超お金持ちや上流のお客が付いてたけど、どれも冴えないオヤジでさ…ユリアスは見た目も格好良かったし貴族の中でも公爵家だろ?昔だったら王様にもなれたかもしれないんだよ?すごいよね。で、ユリアスに僕を買って貰おうって色々めっちゃがんばったの。もらったお小遣いで自分の身体を磨き上げて、作法を習って、テクニックも頑張ったし。他にもユリアスを狙ってた連中はいたけど、足を引っ張り合うだけじゃ良い愛人にはなれないんだよね…」
 だから、アンリに蔑まされたとき頭に来てしまった。親にほったらかされたのは一緒だけど、温々と、それこそ良い暮らししかしてないおぼっちゃまに人前で恥をかかされた事が悔しくてしょうがなかった。身一つで生き抜いてきたプライドがある
「愛人もけっこう大変なんだよ。見た目が衰えて捨てられたら、他のことはほとんどできないし贅沢も辞められないし。僕もあと2、3年だろうからお金も必死で貯めた。まだまだ少ないけど…そんな時にシリルとアンリが現れたから計画がめちゃくちゃになった。ユリアスはさっさと引退しそうな勢いだったしアンリが跡を継いだら僕なんかゴミ同然で捨てられる…だったら一矢報いてやろうと思ったんだ。顔に傷でも入れといたら一生記憶に残るだろうから」
「…お前は…一人でそんなことばかり考えていたのか?」
 そんな話しを今初めて聞いたユリアスは呆れた顔でヴァンサンを見つめた。
「ちゃんと他の連中にも将来のこと考えろとか、若い子には後の行き先とか考えてやったんだよ!ユリアスの愛人だったってのはステイタスにもなるから…でも僕が頑張ったからみんな文句も言わずに契約解消したでしょ?」
「道理であっさり決まったのだな…」
「当然。でも僕はまだ解消してないよ。交渉中だからね。ご機嫌とっておかなきゃごねるよ!」
 ヴァンサンの昔話を聞いていると、やはり一人でこっそり泣いていたのだなと想像できたが…契約解消って…その辺りからシリルの頭は混乱し始めた。
「ちょっ…ヴァンサン、解消って…交渉中って、何のこと?」
「は!?何すっとぼけてるのシリル」
「とぼけてないけど…」
「シリルが帰ってきたんだから、僕たちは必要ないでしょ?」
「はぃ…??」
 

 あっはっはっはっは、とシリルの空笑いがカフェのテラス席、要するにジュネーブの街角に木霊する。
「ヴァンサン…何言ってるの、俺は違うし…あっはっはっはっは」
 と笑っては見たものの、なんで?どうして?どこが違うの?と問い返されて答えに窮してしまった。
「俺は…恋人なんていないし…作る気無いし…色々事情があってそれどころじゃないんだ」
 ヴァンサンはシリルの身体の欠点について何も知らなかったし、シリルも教える気は無い。この街で知り合った人達からも何度となく同じ質問をされ、男女ともに紹介されたり告白されたりしたが一度も誰か一人に特別な感情をもったことは無く、断り続けるうちに誰も何も言わなくなった。
 今でも時々あるけれど、この年になると昔色々あったと上手く臭わせるだけでみんな遠慮する。嘘は苦手だけれど本当のことなので後ろめたさはない。
 自分は恋人が居なくても不自由しないが、ユリアス様はそう言うわけにも行かないはず。ではなぜ契約を解消したのか…
 それを聞いたからと言って自分の役割はただ一つ。
 今のこの緩やかな日々が一生続くように祈るだけ。


「とにかく…僕はしばらくエヴィアン=レ=ヴァンのお屋敷に居候するけど…条件の事ちゃんと考えてね」
 シリルに華々しい誤解をされ、ユリアスの寝室に閉じこめられたヴァンサンが口をとがらせてユリアスに言いたい放題文句やら説教やら垂れていた。
「一生住んでも良い家と年金。これは最低条件だから。家の経費とかもユリアス持ち。お誕生日とクリスマスはプレゼント頂戴ね」
 ユリアスが誰を想って自分を買い上げたのか、ヴァンサンには良く分かっていた。良い暮らしができるなら身代わりになることなど簡単で、ユリアスが望むような愛人を演じることも苦ではない。将来、自分の役目が終わったときに請求書を突きつけられるくらいには頑張った。それはユリアスが一番良く知っているはずである。
「ああ、分かっている。お前の好きなように…パリとエヴィアンに丁度良い物件があるが…お前はどうしたい?年金の額も、お前が決めて良いんだぞ?」
 それも何回も聞いた。パリに住みたい気もあるけれど知り合いが一人もいないところに行くのは何となく恐いし、少しずつ盛り返しているとは言えデビアン家の財政難のことは自分も知っている。
 ヴァンサンもこの男がちゃんと好きだった。だから無理なことは言いたくない。好きだから、シリルと結ばれれば良いと、心底思っている。
「明日シリルと相談しても良い?」
 信用できる相談相手も、実はいなかった。
「ああ、お前はゆっくりして帰ると良い」
「…えらく真面目に働いてるね…」
 これもシリルが戻ってきてから、良くなったことの一つだ。
「扶養家族が3人だからな」
「年金の額、スライド制にしても良い?」
「お手柔らかに…」
 ヴァンサンは小さく、うん、と答えながら仕方なしにユリアスの隣に潜り込んだ。シリルが現れて以来、ヴァンサンの他に常に2、3人の愛人を抱えていた性欲魔神ユリアスが誰も抱かなくなった。
 シリル、と言う名前を聞いて直ぐに合点がいったものの、心から愛する人が現れると本当にこうなってしまうのかと、それは大層驚いた。
(僕も恋がしたいな…)
 ヴァンサンも、最近はまだ出会えない恋人のことをあれこれ想像しながら眠りにつくのが楽しみな日課になっていたのだった。
 

 

 月曜の朝、いつものようにユリアスとアンリを追い出した後、シリルはヴァンサンにジュネーブの街を案内し、ヴァンサンが好きそうなお菓子を食べ歩き、結局店は開けずに一日中遊びほうけた。
「なんかデートみたい…」
 そう言って満面に笑顔を浮かべるヴァンサンはとても可愛いく、童顔のため実際の年齢より幼く見えた。
「俺で良かったらいつでもデートしてあげるよ。みんながヴァンサンを見て、ちょっと鼻が高かったかな」
「ユリアスとシリルのツーショットも目立つんだけどな…」
「もう、それ言わないでよ。そんなんじゃないんだから」
「シリルはそう言うけど…」
 ヴァンサンはホットチョコレートを一口飲んで、口をそっと拭った。
「昨日はアンリもいたからこんな事は話せなかったけど…僕がユリアスに出会った最初の頃は娼館ですれ違うだけだった。挨拶とか世間話くらいはしたけど…僕のことを気に入ってくれて、初めてお客になってくれたとき、ユリアスは僕のことをシリル、って呼んだんだよ。抱きながらね」
 さすがにその一言はシリルを驚かせ、コーヒーカップを持った手が空中で止まった。
「僕はなんて呼ばれようと構わないし、苦しそうで哀しそうで見ていられなかったから、ユリアスが望むままのシリルでいようと思った。身請けされてお屋敷を勝手に見て回ってたら子供部屋があって…僕と同じような金髪碧眼の可愛らしい子がユリアスに抱かれて写ってる写真を見た。ああこれが…ってすぐ分かったよ。ユリアスは、写真の印象ではずいぶん違ってて…シリルも分かるよね?今のユリアスはだいぶんマシになったけど」
 それに…
「ユリアスはシリルと再会してから、すっかり僕たちへの興味を無くしてしまったんだ。あの性欲魔神が、誰にも指一本触れてさえいない。僕たちの役目は終わったんだよ、シリル。ユリアスはもうシリルしか目に入ってない」


home novels event back next