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兆す、銀

ユリアスとシリル

光りある者・番外

6

 ユリアスはもうシリルしか目に入っていない。
 突然そんなことを言われても、困る。
 あのままユリアス様の元で暮らしていれば、どうしようもないくらい好きだった気持ちは恋に育っていたのかもしれないけれど。
 あの気持ちが何だったのか分からないまま放り出され、年を重ねた今は、あれが恋だったのだと頭では理解できても、身を焦がすような感覚は味わえない身体になっていた。幸か不幸か、お陰で激しい感情に支配されることなく穏やかに生きてこられた。
 元気でいますようにと祈るだけで日々の小さな不満は解消され、この数ヶ月はその姿を見て言葉を交わすだけで深く安らかな気持ちで満たされた。
 それに…自分自身も目を背けてきた醜い手術痕を見られるかもしれないと思うと…性欲など無いので一生誰とも恋をしない方が…面倒くさくない。
 最近はユリアス様にヴァンサン、ラザールまでジュネーブにやってきて、いっそのこと週末だけエヴィアンに帰った方が早いのでは?と思えるようなかしましい週末になりつつある。
 今日も休暇で来たと言うのにラザールはシリルの店を手伝い、自分専用椅子を持ち込んだユリアス様とヴァンサンは一日中カフェに座り込んでいるのだ。
 この状況は、嫌いではない。
 ユリアス様とヴァンサンは完璧な一対で、二人が共有してきた時間の濃密さを容易に感じられる臈長けた夫婦のような会話や行動を見ていると、ほっと和む。自分は気が向いたときに彼らの中に交わり、満足したら一人でふらっとどこかへ行く、そんな自由なスタンスで付き合っていきたいのに。
 

 といくらシリルが思っていてもそれに協力してくれる心根の優しい人間はこのメンバーにはいない。ラザールとヴァンサンはなかなか動こうとしない甲斐性無しのユリアスにあれこれプランを出し、シリルの気を引くように余計なお節介を焼いている。
 面白いのは、そんな戯れ言にユリアスが付き合っていることで…昔はユリアスもユーモアに溢れた活き活きとした青年だったのでバカなことにも付き合っていたが、今の、表情が乏しい顔でぬっと花束を渡されたりケーキをあ〜んさせられたりするのは不気味だ。
 けれど、仕事が終わりユリアスの家に戻るとその日にしてもらった事を思い出し、時にはユリアスと二人で笑い合う事も多くなってきた。ユリアスなりに彼らには感謝しているのか、それとも彼らのささやかな楽しみを奪うような狭量な主ではないと言いたいのか、どちらにしても活気づいた我が家を楽しんでいる。
 そんなユリアスを見る事がシリルの喜びで、シリルが柔らかく輝く様を見るのはユリアスにとって至福の時間である。
 シリルがそれで満足していること、それ以上は望んでいないことをシリルの蛇であるユリアスに伝わっていないわけがない。
 だが…
 折りに触れてシリルが昔を懐かしみ、またあの日々を…と望む瞬間と、それをすぐさま打ち消し諦める瞬間の深い悲しみにも気付いているはず。
 なぜシリルが最後の最後に自分を拒むのか、それも分かった上で、どこからシリルの心の中の壁を打ち壊せばいいのやら考えあぐねているのだった。「シリル、そのくらいにしておけ…」
 

 考えあぐねているうちにシリルはいつものように飲んだくれる一歩手前の状態になっていた。
「なんで!?どれでも飲んで良いって言ったじゃん。これも飲んでみたかったんだもん」
「一人で二階へ上がれるか?」
「うん。だいじょうぶ。上がれなかったらここで寝るからほっといて」
「ソファーでか?疲れるだけだ。自力で上がれないなら…」
「ならー?」
「抱いて上がるぞ」
「むりむりーっ、俺60キロあるよ?」
「…ふ」
「なにその…ふ、って…べ、別に、太ってないからね…」
「大人しく上に上がるか?肩を貸すだけだ。それ以上の腕力は無い」
「うん…それって友達っぽくていいね」
 差し出した手を素直に握りしめたので、反動を付けてソファーから立ち上がらせると、案の定足元はフラフラだった。
「ふははは…やっぱり足動かない〜」
 ユリアスは、仕方ないとは決して思わないが、仕方なさそうな振りをしてぐいっとシリルの腕を自分の方に回し、脇から腰にかけて引き寄せる。
「背が伸びたな」
 昔なら、肩に手を回した時点で空中に浮いていたはず。
「ふふふふ。176センチあるんだー。フランス人にしては上出来ー」
 だが細い。薬で筋肉や体型も維持できると聞いたが、維持しなければ女性と変わらなくなるのだろう。
 フラフラするシリルを支えて階段を上るのは難しい。それよりも抱きかかえてしまったほうが楽である。ユリアスは階段の手前に来ると、シリルを抱き上げてしまった。いとも簡単に。
「あれっ…うわぁっ!!」
「暴れるな。落ちるぞ。暫く我慢しろ」
 シリルを持ち上げるために、僅かだが炎が激しさを増した。
 蛇とはそう言うもので、守るべき者の為なら多少の無理はできる。普段は木偶の坊だとか役立たずと言われようと、守るべき者以外のために努力する事など皆無だ。
 急に激しさを増した炎に恐れを感じたのか、シリルは身を捩って抵抗する。
「嫌なのは分かっている。上るまで我慢してくれ」
 暴れても無駄だと分からせるように、抱き締める腕に力を込めると途端にシリルは俯いて大人しくなった。
 13年振りに抱き締めた身体は細くしなやかで、子どもの頃のような柔らかさは無かったが青年らしい躍動感に溢れており、腕の中で身じろぐたびに弾むような反動が伝わってくる。
 すっぽりと抱き締めたい衝動を押さえながら優しくベッドの端に降ろすと、シリルは急いでベッドの中に潜り羽布団をくるくると身体に巻き付け背中を向けてしまった。
 手に取るように分かる、シリルの気持ち。決して自分を嫌っているのではなく、その気持ちを否定しようと可哀想なくらい躍起になっているのだ。
 早く楽にしてやりたい…
「お休み、シリル」


 せっかく酔っぱらってご機嫌だったのに…あっという間に酔いも覚め、目も冴えてしまった。
 こんな時アンリがいてくれたら…アンリを頼る事をやめさせようと、週末だけラザールがアンリを自分が停まっているホテルに連れて行くようになった。ヴァンサンも一緒なので3人とも頭が痛くなるだろうに、その3人ともシリルとユリアスを二人きりにしたいのは同じ気持ちなのだ。少なくともシリルとユリアスの事を話している間は喧嘩もなりを潜めるらしい。そうして明日はどんなことを仕掛けるのか、楽しく話し合っているのだそうだ。
 彼らの思惑通りになれたらどんなに…
 いや、彼らがそんなことで一つになれるのなら、自分の気持ちなど二の次だ。ユリアス様の熱は心地よかった。それだって認めてしまえばこんなに気が楽になるではないか。自分がどれだけ生きるのか知らないけれど、思い出が増えるのは良いことだ。
「前向きな性格で良かった…」
 一人ごちたあとまぶたを閉じると、すっと眠りに落ちていった。


 月曜日、またいつものように全員を学校なり職場なりに追い出し、一人でゆっくりするはずだった。
 なのに、ユリアスは勝手にギスランとの面会予約を取り付け、シリルの状況を詳しく教えて貰うと言い始めたのだ。
「なんで今更っ!!ユリアス様には関係ない!!」
 叫んでも暴れても無駄。どこから現れたのか二人のガードマンに両腕をがっちり固定され、罪人のように扱われた。会いに行くのはギスランだが昔の記憶が蘇り、恐怖と焦りでわけの分からないことを叫びながらひきたてられる。
 ギスランの部屋でようやく解き放たれ、シリルはすぐにギスランに掴みかかった。
「どうしてっ!!今すぐ断って!!俺の気持ちは無視かよ!?」
「シリル、落ち着け。俺も、お前には自分の事を受け入れる必要があると思っていたからな…ユリアスに頼まれなくても、俺が同じ事をしていたかもしれない」
「守秘義務があるだろ!!同じ事ってなんだよ!?わけわかんないよっ」
「自分のことを知ろうとしない、気持ちはすり替える、そんな患者に守秘義務がどうこう言えるか…落ち着けないなら、落ち着く注射をするぞ?」
「嫌だ!注射も、話しも聞きたくない!自分のことは自分が一番良く知ってる!」
「知らないからわめいてるんだろ?」
「ギスラン!どうして…急に…酷いよ…」
 問答無用で、ギスランは手元の分厚いファイルを開いた。13年分のシリルのカルテは一冊には収まらず、小さな書架に収められたまま運ばれてきたものは全部で20冊くらいあるだろうか。
 どうしようもない過去、知りたくない現実、大したこともない未来、改めて教えてくれなくても良いじゃないか。煮えたぎるような思いで体中が一杯になり、何もかもをぶちまけたくなるような衝動に駆られる。
 ユリアス様だって…
「俺の言い分なんかこれっぽっちも聞いてくれなかった!あんなに…愛されてると思ってたのに…大好きだったのに…突き放したのはあんたの方じゃないか!それを今更のこのこやってきて知られたくないことまで掘り返して…っ!」
 口が滑るとはまさにこの事で…13年間、一瞬でもこんな自分勝手な事を思わなかったかと言えば嘘になるが、決して恨んでいたわけではない。好きで好きで、大好きで、抱き締めてもらえることを夢見ていた。永遠に叶わない事と分かっていたから諦めもついたのに、再会して、無いはずの欲が芽生えてしまった。
 

 ヴァンサンや愛人達が羨ましくて仕方なかった。


「俺から何もかも奪ったくせに…ずっと、ユリアス様と一緒にいたかったのに…」
 ぶわ…と涙が溢れて目が見えなくなった。生まれて初めて我が儘のような事を言ったら存外気持ちが良く、本人の前でどっさり涙を流すと胸のつっかえが無くなるようですっきりした。
 本当は、本当はと、細々した不満が滝のようにあふれ出て、幼い子供のように顔中をくしゃくしゃにして泣き叫んでしまった。どうしたらぽろぽろ零れるつまらない言葉をせき止めることができるのか、いつまで愚痴をこぼしたら止まるのか…
 開いてしまったパンドラの箱。
 98%を占めていた心の中のグレーの壁がボッコリ開いて光りが飛び散る。滝のように轟々と溢れる光りは、そのまま放っておくと無くなってしまいそうで…不安になった頃、やっとユリアスが口を開いた。
「シリル、私が嫌いになったか?」


 傲岸不遜とはこのことか。
 ユリアスの一言に開いた口が塞がらないギスランだった。
 しかし、ユリアスが差し出した手に、ゴシゴシ目元を擦りながら吸い込まれていくシリルを見て、強引に奪っていれば良かったのかとやっと理解した自分はシリルの対の相手にはとうてい成り得なかったのだ。
 うぇ、うぇ…とユリアスにしがみついて嗚咽するシリルは13才の子どもの頃と同じで、色気より保護欲をかき立てる。ユリアスも手を出そうにも出せなかったのだろう。
「まあ…抱擁はあとでたっぷり交わしていただくとして…話しを聞きたいのか、聞きたくないのか?」
「聞かせろ」
「聞きたく…んぐ」
 横柄な口調はユリアスのもので、聞きたくないと言いたそうなシリルをぐっと抱き締め、顔を胸に押しつけたのもユリアスだ。どこまでも自分本位な男。
「シリル、聞きたくないのならそれで構わない。私が知っていれば良いことだ。全てを私に任せていればいい」
 だったら最初から一人で来れば良いものを…それともこうしてシリルが自分の懐へ飛び込んで来るところを見せびらかしたかったのか。


 シリルのカルテを説明するために午前中を費やし、その間ユリアスはずっとシリルを抱き締めていた。ユリアスの屋敷を出て直ぐの惨憺たる傷口の写真、最初の手術の後、二度の形成手術の後、目を背けていた13年間のシリルの苦しみを目の当たりにする。
「最後の写真から五年経っているので傷口もずいぶん綺麗になっているはずだが、排泄機能には何の問題もなかったのでもう記録は取っていない。あとは毎月様子を見ながらホルモンを投与していく。まああれだな、男の身体は不思議なもので、外に出ている部分だけが全てではない。体内にも2、3センチ潜り込んでいる。だからまあなんだ…そう言うことだ。それに、定期的に打っている注射でそれなりに性欲もあったはずなんだが…」
 抱き締められている間にすっかり脱力していたシリルの身体が硬直したと思ったら、首を激しく横に振った。
「好きで好きで大好きな相手が帰ってきたんだ。今からいくらでも変われるさ」
 そんなことはない。絶対にない。断じてない。あってたまるか。食って掛かりたかったけれど、泣いてめちゃくちゃになった顔を見られるのが恥ずかしくて、ユリアスの胸に埋まったまま首を横に振り続けたのだった。


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