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兆す、銀

ユリアスとシリル

光りある者・番外

7

いつまでこうしているのか…自分でもこの後どうすれば良いのか分からなくて、シリルはユリアスの胸に突っ伏したままギスランの診察室から出た。 歩きにくい事より、知らない者はいないこの病院で泣き顔を晒す方が嫌だ。抱き寄せられたまま、ユリアスのスーツのジャケットをまくって顔を隠し、あらシリルこんにちは、の声には手だけで挨拶を返す。
 シリルがユーモラスなことはみな知っているので、このけったいな行動もすぐに面白く誤解してくれるはずだ。
 車の中でもできるだけ顔を俯かせて、真っ赤になっているだろう目と鼻の頭を見られないように努力した。車から降りたら一目散に玄関を目がけたが、玄関の鍵はユリアスが持っていたので扉の前で足踏みをして待った。
 

 家に入ったら二階のバスルームに駆け込むんだ。
 そう思っていたのに。
 走り出す前に、ユリアスに捕まってしまった。
「お、おれ、今みっともない顔してるからっ!」
「構わない。シリル、こっちを向きなさい」
 向きたくなくてもユリアスに捕まえられ無理矢理そうされた。         俯くシリルの頬を持ち上げ親指で優しく目元を拭う。涙は収まっているがまだ少し目元が濡れていた。そのまま指を滑らせ唇の輪郭をそっとなぞりながら、目元、頬にキスを降らす。
 シリルの心の中が温かな炎で満たされうっすらと光りを放ち始めた頃、シリルの鼓動はこれでもかと言うほど跳ね上がり、身体が小刻みに震え始めた。
「ユリアス様…俺…」
 このくらいで…経験は全くなかったが昔と同じようにされただけで金縛りにでも遭ったように身体が動かなくなり、焦れば焦るほど体温が上がり顔も紅潮する。
 声を掛けたが言いたいことがあるわけでもなく。
 ユリアスもシリルの物問いたげな口元を無視して何度も何度も口付けを繰り返す。
 ユリアスの唇が首筋を掠めたとき、シリルの身体が一際大きく震えた。
 味わったことのない感覚。
 触れた場所からさざ波のようなものがわき起こり、頭の先から足の先まで駆け抜ける。驚きと共に、光りも喜んでいるのだろうか、波と戯れるように全身を駆け抜けはじける。
 シリルの本能と理性がせめぎ合うのを感じたユリアスは少しだけ身体をずらし、目をぎゅっと瞑って眉間に皺を寄せているシリルを見つめた。
「シリル…初めて、なのか?」


 
 日常生活の中ではほとんど思い出すことも無くなって、思い出したとしても苦味を覚える程度。自分も外の世界を知らないお坊ちゃまで抜けていたのだし、しっぺ返しにしては強烈だが運が悪かっただけ、そう思える年齢と不足分の人生経験を得た。そう思っていたのに、決壊した壁からなだれ出てきた不満やうっぷんがまだ足元に残っているのか、産まれてこの方『いい人』とか『心が清らか』とか『純真』とか『天使のよう』と言われてきた自分からは想像も付かない、傲慢で自己中心的な考えばかりに支配される。
 あの時されたことは細かく覚えていないが、全身がぬるぬると気持ち悪かったので口の中に誰かの舌が突っ込まれたかもしれない。だとしたら、初キッスはとっくの昔に経験済みだ。
 ユリアスに頬やおでこや口以外の頭部には散々キスされたのに、口付けとやらを教えてくれなかったユリアスが悪い。他の愛人達とは散々な事をやっていたくせに…
 それを考えた上で、ユリアスは今更こんな事を聞いてきたのか?
「だって…何度も呼んだのに…助けてって叫んだのに…っ!」
 来るのは遅いし、心が張り裂けるほど嫌な目にあったのに、やっと現れたユリアスは知らない人だった。
「…すまなかった…と言えば気が収まるか?」
 再会して勝手に追いかけてきてこの言いぐさ。謝ってもらったところでシリルが無くした沢山のものは戻ってこないし、別にそんな事は望んでいない。
 何も言えないのはシリルも同じだった。
「俺は…ユリアス様に会いたくてしかたなかった…でもそれは謝ってもらうためじゃなくて…」
 愛してもらえない自分がこんな事を言って良いのだろうか…
「ただ側にいたくて…子どもの頃のようにこうやって、抱き締めて沢山キスしてもらいたくて…でも…」
 自分をこんな身体にした張本人に言って良いのだろうか。
 ユリアス自身の悪口はいくらでも言えそうだが、自分が不虞だからとはとても言えない。
(もう、どうでもいいや…)
 何も言えない悲しさで、シリルは自分のせいで既にぐちゃぐちゃになったユリアスの胸元を掴み、顔を突っ伏してわんわん泣いてしまった。


 泣き寝入り…これはそう言うことだったのだろうか、どうやら眠っていたらしいシリルが目覚め、辺りを見回したときはユリアスのベッドの上だった。ここへ来て以来、掃除のために週に一度はいるだけの寝室。迅と亮の気配が濃厚であまり入りたくなかったが、だんだんとそれも薄れ、今ではユリアスの気配がするためますます入りたく無くなった部屋だ。
 泣き疲れた目がなんとなく腫れぼったい。重いまぶたを開けて周りを見回せば、泣かせた張本人が一人がけのソファーにゆったり座ってこちらを見ていた。
「目が覚めたか?」
「…うん」
 目元をゴシゴシ擦っていたらユリアスが近づき、シリルの隣に腰掛けた。
「すまなかった…」
 あれから何か口走っただろうか?過去に起こったことより、昨日今日に自分が吐いた暴言が気になる。
「俺も…あんな事言うつもりじゃ…」
「今更弁解のしようは無いが、悪いのは…罰せられるべきなのは私だ。それを承知で言う。どこまでも自分勝手で傲慢だと分かっている。だが、一日もお前のことを考えない日は無かったよ…もう一度私の側に戻ってきてくれ、たのむ」
 真摯な瞳で見つめながらシリルに手を差し出す。
「でも…あの…俺は……」
 恋人には、なれない。でも、その手にはすがってみたい。13年間それなりに告白されたり迫られたりしたけれど、誰にもこんな感情を覚えたことはない…抱き締められて沢山キスしてもらって思いっきり甘やかされたいなど…
ほんとうにこれっぽっちも思ったことがない。
 なのに、ユリアスに対しては泉のようにこんこんと、制御しきれない気持ちがあふれ出る。
 何時までもためらっているとユリアスはもっと手を伸ばし、シリルの腕を掴み強引に引き寄せた。
「でも?お前が一人で考えて起こした行動の結果が良かったためしはない。何が気になる?包み隠さず私に言え。何をためらっている?気持ちはもう私の元に帰ってきているだろう?」
 触れ合えば分かってしまう、お互いの心。シリル自身は躊躇していても、シリルの光りは勝手にユリアスに絡みついている。自分の意思に逆らってばかりいる本能に舌打ちしつつ、シリルも抱かれるまま身を預けた。
「俺は…こんな…可愛くなくなったし…その…昔とは違うし?」
 午前中にギスランの説明を聞いたし写真も観たので、何が言いたいのか大概で察しを付けて欲しいのだが…
「そうだな…昔とは違うな。大人になって、可愛くなくなった。行儀も最悪になった。酒癖の悪さも口の悪さも…だが、私にとっては目が離せないほど極上の男だ。身体も、魂も、私だけを望んでいる、私の男だ」
 良いところなんてないじゃないか…
「あの日に戻ってお前を抱き締めて許しを乞えればどんなに救われることか…それが出来ない今、お前を私の元に惹き付けておける言葉などないと思っていたが…言葉などいらないようだ。お前が何を考えていようと、もう絶対に離さない。私の側にいて、私だけを見つめていなさい」
「良いの?ここにいて良いの?俺、何もしてあげられない…」
 それは今も昔も変わらない。子どもの頃だって、ユリアスと遊んでいた記憶しかない。
「そうか?まだ出来ることは沢山あるぞ?」
 何を?と問いかけようと思った瞬間、それはシリルに舞い降りてきた。
 うっすらと余裕の笑みを浮かべたユリアスの顔が間近に迫り、またキスかな…と…。それはキスだったけれど、シリルが知らないキスだった。
 ユリアスの厚い唇がシリルの薄く形の良い唇を覆い隠すように塞ぐ。何度かついばむように触れた後、呆けたシリルの口を割ってユリアスの舌が侵入してきた。
 甘くて、熱くて、身体がチョコレートのように溶けて無くなりそうだ…
「んん…っ」
 背筋が大きく震え、変な感覚で気が遠くなりそうだった。座っていても目眩がするので、ユリアスのスーツの袖をぎゅっと握ってしまった。このスーツ、今日は散々な目に合わせちゃったな…とどこかまだ正気な部分も残っているが、次第に深く激しくなる口付けと抱き寄せる腕の力がだんだん強くなっていくのとで、また意識が飛びそうになる。
 嬉しくて死んでしまうかも…


 キスの後さすがに死ぬことはなかったけれど、死ぬほど恥ずかしいのと嬉しいのと、次にどんなリアクションをとれば良いのかさっぱり分からないのと、その他複雑怪奇な感情とが頭の中で渦を巻き、シリルは急にそわそわと落ち着かない気持ちに苛まれた。
「あの…」
 慌ててユリアスの身体を押し返そうとしたが今更な話しである。
「俺、慣れて無くて…」
「慣れなくて良い」
「ユリアス様、今日、仕事…」
「そんなに私を追い返したいのか?」
 ユリアスの声は優しく囁くようで、シリルは反射的にすがりついて『帰らないで』と甘えそうになった。
(キスしたくらいで、なに乙女みたいになってるんだ!?)
「ち、違います!みんなに迷惑掛けてしまうから…」
「最近まともに働いているんだ。一日くらい休んでもどうってことない」
 などと微かに笑いながらユリアスはまた顔を近づけてくる。
 キスは甘くて心地良い…それは分かるけれど、どんな顔で待ち受ければいいのやら…ぎこちなく顔を上に向けてぎゅっと目を瞑るのだった。


 少しばかり慌て者のシリルは、学校から帰ってきたアンリにユリアスと抱き合っている場面を観られて落ち着かないからか、普段より調理器具をがちゃんごつんと派手な音を立てて料理している。
 だいたい、月曜日の夕方になぜ父親がここにいるのか?
 貴族の、公爵様が、キッチンに立ってシリルの手伝いをしていることだっておかしい。
「父さん…今日帰らなかったの?」
 それには『見れば分かるだろう』とばかりに返事もせずににらみ返された。普通の子供なら父親にそんな顔をされたら怯むか落ち込むか…年齢以上に精神的な発育が良好なアンリは二人の変容に気が付いていたので、シリルを取られたのは悔しいが、幸せそうな二人の仲に嫉妬するほど分からず屋ではない。
「あ?ああ、ユリアス様は急に会社が休みになったんだよ!」
 そんなあり得ない理由を軽く聞き流し、頷き返すくらいの余裕もある。
「ふーん。じゃあ、明日は帰るの?」
 アンリの質問に、シリルはユリアスを振り仰ぐ。
「ああ。残念だが明日は帰る」
 ユリアスの答えを聞いてあからさまに肩を落とすシリルを、アンリは可愛いと思う。可愛くて、格好良い。自分があと5,6才育っていれば、あるいはもっとこの二人を引っかき回してやったかもしれない。
「ふーん…」
 この二人が運命の恋人同士なら、自分の相手とはいつ、どこで出会うのだろう?どんな相手なのだろう?どんな物語が待っているのだろう?
 それよりも先ず身長だよな…と、いつまで経っても出来上がりそうにない夕食は諦めて、冷蔵庫からミルクを取り出すアンリだった。


「夕食…変なのでごめんなさい…」
 優しすぎるユリアスに慣れないシリルは、鍋釜総動員しながら結局サンドイッチしか作れず。その上アンリは寝室の内側から鍵を掛けて眠ったのかノックしても扉は開いてくれなかった。
 アンリの粋な計らいにユリアスは微かに苦笑いを零したが、シリルはまた泣き出したい気持ちと抗わなければならなかった。
ゲストルームで寝ると言い張ったのに、超強引にユリアスの寝室へ連れて行かれた。
「先にシャワーを浴びると良い」
 と言われても…最近はいつも飲んだくれているので目が覚めてアンリにバスルームへ連行されるのが日課で、ようするに朝起きてシャワーを浴びるのだ。今日も、疲れたのでそうしようと思っていたのだけど…
「俺、シャワーは朝派…」
 と答えると、呆れた顔のユリアスにバスルームへ連行されてしまった。
 どうしよう…どうしよう…その言葉ばかりが渦を巻いて、始末に負えない髪を洗うために手に取り出した液体はボディソープ。髪が途中でギシギシ言い始めてますます泣きたくなる。丁寧に髪を洗うのは諦め、そのまま身体も洗い、リンスだけは何とかやって寝室へ戻った。
 入れ違いにユリアスが浴室へと消え、もたもたしながら髪を乾かしている途中に、そうだ逃げれば良いんだ、ゲストルームに閉じこもって鍵を掛ければ良いのだと浮かんだ。
 寝室のドアに走り寄り、ドアを開けようとすると…開かない。鍵、と思って鍵を探るが、最初からそんな物は付いていなかったのだ。そう言えば自分の部屋にも鍵なんか付いていない。
「なんで!?なんで開かないの!?」
 ドアノブをがちゃがちゃ…いや、ドアノブ自体が動かないのだ。
「…??」
 もしかして…
「アンリ!?外にいるの??」
 ドア越しに声を掛けると小さなノックの音が聞こえてきた。アンリが、ユリアスに言われたのかドアを押さえているらしい。
『父さんにお小遣い貰ったんだ』
 少年らしい言い訳に普段なら笑って済ませるところだが、今夜はそんなことを言っていられない。
「開けてよアンリ!!お小遣い、倍あげるから!!」
『だめ。額じゃないんだ。先に頼んだのは父さんだし、男の約束だから』
「俺とユリアス様とどっちが大事!?」
『シリルに決まってるだろ?』
「じゃあなんでっ!!」
『こうするのがシリルのため、って満場一致の意見』
「満場一致って…」
『ラザールとヴァンサンにも意見を聞いたら、こうしろって』
 押しても引いてもドアは開かないし、むかつくし、こっそり逃げる事など諦めてドアに向かってわめき散らす。
「アンリ!開けろよ!!頼むからっ…」
 自分の力があの少年に負けるなど思ってもいなかった。こんな事なら筋肉むきむきになるような注射をして貰えば良かった…あれはきっちりトレーニングしないとただのデブになるぞと言われ、控えていたのだが…ああ、ちくしょう、俺がビルダー並みの体型だったらユリアス様も諦めたはず、なんて今頃考えても遅い。自分だって、昔の天使のように可愛かった姿を忘れられなかったから…身長は思った以上に伸びたので横に広がらないように気をつけていたのはどこのどいつだ??
 すらっとしているようで実は幼児体型でおしりが丸いとか、気に入っていたクセに。
 そうやって必死にドアノブと格闘していると、シャワーを終えたユリアスが寝室へ戻ってきた。小さなドアノブに張り付いているシリルを見て少し笑ったが止めようとはせず、シリルが放り投げていたタオルを拾って片付けたり、自分の髪を乾かしたり…
『父さん、そこにいるんだろ?手が疲れたから後はよろしく』
 握っていたドアノブが急に軽くなったので急いでドアを開けると、全速力で自分の部屋に駆け込むアンリの後ろ姿が目に飛び込む。
「ちくしょう…っ」
「まあ諦めるんだな」
 後ろからユリアスにやんわりと抱き締められ、逃げる気力もどこへやら…
「ユリアス様、俺は…」
 触れられるとどうにも逃げられなくなる。
「私の側にいろと言ったはずだ」
「いたいけど!!どうしていいのか分からなくなるから…っ…怖くて…」
 

 強引にベッドへ連れて行かれ恐怖もクライマックスに達したとき、シリルが見たものはユリアスの、今までにない強烈な炎だった。
 ただ恐くてすくみ上がって指一本動かせない。
 こんなのは嫌だと全身全霊を込めて訴えたけれど、ユリアスは気にしてもくれない。
「シリル、怖がるな。これは…仕様だ…」
 そんな下らない冗談を真顔で言われても、こっちも恐怖ですくみ上がるのがユリアスに対してのデフォルトなんだから…
 そう言い返して笑い話にしてしまえればどんなに良いか。
「嫌がることをするつもりはないし、できない」
「そ、それも仕様?」
「そうだ。私はお前を守るべき蛇。少しだけがまんしろ」
 ほらやっぱり、と抗議しようとしたら、ユリアスがベッドのシーツを思いっきりはぐった。シリルが重しになっていても、いとも容易く引き剥がし、シリルごと包み込むと自分もその横に入り込む。
 逃げようとしても大きなシーツが絡みついて身動きが取りにくい。
「子どもの頃…」
 隣でじたばた足掻いているシリルには頓着せず、あくまでも自分のペースでユリアスは話し続けた。
「朝までお前と過ごした事は少なかった」
「俺より愛人が良かったんだろ!?」
「まあな。私の熱を沈めるためには仕方なかった」
「普通はっ…まともな大人ならがまんするのがあたりまえだろ!?」
「その選択肢はなかったな」
 いけしゃあしゃあと、良くもそんな答えが…シリルは目を丸くして口をぽかんと開けていたのだが、背中を向けていたのでユリアスには見られなかっただろう。


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