空・翔る思い

安土と空

10

 安土と矢崎の計画は着々と進んでいた。ただ、実際に暴力を振るった上級生への報復の事になると、陸の顔が曇る。
 陸に手を付けられてはらわたが煮えくりかえるほどの怒りも通り越した、今までに感じたことがないほどの怨念に近い感情も、陸の顔を見ると少しばかり収まってしまう。
 矢崎はふと思うことがある。何もなかったら、陸への気持ちに気が付いていたかどうか…陸は、ずっと好きだったと言った。そんなことを言えば笑い飛ばされそうで、虐められそうで言えなかったと。全く、その通りの事をやっていたかも知れない。そうして陸の純粋な気持ちを無視して…自分のことだ、恐らくそれすらからかっていたかも知れない。
 今、陸は腕の中で眠っている。小柄でまだ発育中なので無理なこともできず、快感を煽るより気持ちを煽る、今までの自分から見たら冗談のような、労るような優しいセックス。
 射精するのが恐いと、陸が言った。3人の上級生にレイプされた時、我慢の効かなかった誰かが陸の顔面に思いっきり精液をぶちまけ、その匂いや感触に、言葉では表せないような嫌悪を感じてしまった。それ以来、たとえ自分のものでも汚らわしさを感じるようになったのだ。
 陸が汚れないように、綺麗に抱く。愛情の証なのだと陸が分かるまでは、避妊具を使う手間も愛撫の一つだと思っている。
 陸をそんな風にした張本人達にトラウマの10や20、作ってやっても構わないと矢崎は思うのだが…
『だって…僕には矢崎さんがいる。矢崎さんがいつかきっと忘れさせてくれるから…他の人のことなんか考えないで、僕だけを見ていてよ…』
(分かってるさ…だがな、これが俺の性分なんだ。許せ、陸)


 紅葉が終わり葉が落ちた木々の枝が寒そうな時期になったころ、三家族の粛正が終わった。三ヶ月ほどで倒産した輸入食器販売店、もともと粉飾決算を繰り返し泥沼にはまっていた親族経営のドラッグストアは安土組のフロント企業の一つであるエステティックサロンが吸収合併。この二件とも、逃げる隙が無いほど迅速に行われ、主立った経営陣の個人資産まで根こそぎ奪ってしまった。問題は病院経営をしていた一家だが…ここだけは多少きな臭い手を使わなければならなかった。院長、長男、長女が医師として働いており、親族にも数名の医者が居る。その全てに何らかの罪を被せて医師免許を剥奪。が、親族の中には優秀な医師がおり、親族との関わりを拒否し続けていた。彼だけはどうしても貶める気がしなかった。小児精神科というまだ全国的にも充実した体制が整っていない科目で、その中でも有望とされている若い医師だ。次々に摘発される親族のとばっちりを被らないわけにはいかなかったが、実力と人望でカバーできたのは、矢崎の読み通りだった。逆風が吹き荒れる中、彼だけは自力で立っており、そう言う男が矢崎は好きだ。
 

 輸入食器販売店はここ数年の不景気のあおりを受け、倒産寸前だった。安土組が狙ったのは彼らの個人資産で、彼らの所持するアンティーク、絵画などの博物館クラスの美術品、不動産は時価数十億。売り飛ばして運営資金に回せばまだ何とかなっただろうが、そこは金持ちの見栄と欲か、自分のものには一切手を付けていない。矢崎は債権を譲り受け、資産を全て奪ってしまった。美術品に興味はなかったし、陸の敵の持ち物に愛着などわくはずが無い。現金化すれば使い道はいくらでもあるのわけで、かなりの額を上納金として組や上部団体に納めた。そこには白石家に手を出してくれるなと言う意味も、もちろん含まれている。
 やっかいだったのはドラッグストアで、チェーン店だったため従業員の数も多かった。合併後の従業員の処遇は細々としており、矢崎にはみみっちい仕事としか思えない。赤字は十数名の経営者一族から身ぐるみ剥いで何とかなりそうだったが、全員の姓が同じなため事務処理のほんの些細な部分で矢崎の神経を逆撫でていた。
「なんで俺が太一おじさんとか雄三おじさんの名前を覚えてしまってるんだ!」
 書類のチェックの段階で、矢崎の怒声が飛ぶこともしばしばで、組員達は一刻も早く処理が終わるようにと普段以上に働き回った。


 なぜそうなったのか、知らしめる最後の仕上げが張本人達への仕置きだった。どうするか…目の前で無くなった親の威光を振りかざそうとするかわいげのないガキどもを殴るなど、前代未聞の珍事だ。若頭ともあろうものがいくらメンツのためとは言え子供相手に拳を振るうなど…と組の幹部達は言う。
 表面的には溌剌としている陸の様子に誰もが騙されているのか…二人きりで居るときは抱き締めてキスしても嫌がらず、むしろ自分から身体をすり寄せて甘えるのに、可愛らしい雄が反応し始めると身体を離そうとする。強引に攻めても結局は嫌がらないのだが、射精すると泣き始めてしまう。初めはそれも可愛かったが、そのたびに病的なほど身体を拭い始め、シーツをたぐり寄せてはベッドの下に放り投げるのだ。ありったけの優しさを総動員してやっとの事で聞き出したのが『射精するのが恐い、汚い』と言う理由だった。
 陸と同じ目に合わせるほど酔狂ではない。一週間ほど監禁して、精神的な恐怖を味あわせてみることにしたが…数発殴った後、知り合いの中国人が経営するクラブに放り込み、そこで仕事をさせることにした。一週間の間に一度だけクラブを覗いてみたが…気色悪さに五分もしないうちに矢崎は店を出てしまった。
 矢崎にとって陸はやはり特別で、他の男の裸など気持ち悪いだけだと言うことは確認できた。客のオヤジ達も目を背けたくなるような醜い体型揃いで、これがトラウマにならなければこいつらはそのまま堕ちていくだろうし、なっても誰も助けてはくれないだろう。
「使えないヤツばかり押しつけて悪かったな」
 矢崎がそう言ってオーナーに札束を渡す。それも親たちから巻き上げたものだ。
「いえいえ…そう言う子が好きなお客様もいらっしゃいますので…」
「週が開けたら道ばたに放り出しておけ」
「…うちに戻ってきたら?」
 その可能性があるヤツがいるのだろうか。聞いてみたくなったがかろうじて口を閉じた。
「…好きにしろ。俺はもう係わる気はない」


 少年達の処遇については労働条件の悪い中国人の店で働かせていると白石の父親には伝えた。仕事の内容はどうあれ、本当のことに違いない。空と陸にもそう伝えると二人ともほっとして頬を緩ませた。二度と会うことのない連中だ、真実を伝える必要もない。
「安土さん…今週末からお父さん、台湾に行くんだって」
 この仕事が終わったら、抱くと言われた。
 かと言って父親から付き合うことを許してもらったわけではないので、大っぴらに泊まり込んだり旅行に行くのも憚られる。父親の目を盗むようで気が引ける気持ちと、これを良い機会と捕らえる気持ちがくるくる入れ替わり、どうするかは安土に任せようと思った。
 トラと遊びながらさりげなく言ったつもりだ。
 安土も、そうか、と言ったきり黙ってしまった。
 トラが暴れ回ってくれたお陰で沈黙にも耐えられ、鼓動が跳ね上がることなくいつものように静かな夜を過ごすことができた。
 トラが晩ご飯を食べ、眠る体制に入ったのを見計らい、空も自宅に引き上げることにした。もちろん安土が自宅の玄関まで送ってくれる。一階に下りていたエレベーターが戻ってくるのを待つ間、自然に手を繋ぐ。自宅の玄関の前でしばらく抱き合ってキスをするのも自然だった。
 安土の大きな温もりが心地よく、そのまま眠ってしまいたい気持ちになり、玄関の中へ入った後は一目散に自分の部屋に入りベッドに潜り込む。火照った身体と心に、綿のシーツの肌触りが心地よく、空は直ぐに眠ってしまうのだった。


 父親を自宅から見送った後、空は約束していた通り安土の事務所へ向かった。父親には内緒で何回か来ており、田島が運転する車が駐車場に着くと、駐車場への出入り口の扉が内側から開き、顔見知りになった組員が挨拶をしてくれる。空がにっこり笑いながら答えると微妙に組員達の相好が崩れるのだが、田島は見て見ぬふりをした。普通っぽかった空の容貌もこの数ヶ月で随分大人っぽくなり、そして色っぽくなった。自分たちのことを恐がりもせず、笑顔で接してくれる空は、少しづつ組員達のファンを増やしていた。過去に何度か組長の女らしき美女が事務所に来たことがあるがどの女性も組長の威信を借りた高飛車な態度で、それはごく当たり前のことなのだが、今となってはマイナスな印象に思える。気の強い女が多いヤクザ社会の中で、空と陸、そして時々現れるようになった海月浅葱は思わず手を貸したくなるたおやかな花のような印象だ。その気がない者でも普段忘れがちな優しさや慈しみを思い出し、似合わない顔つきで歓迎してしまうのだった。
 空が部屋に通されソファに座ると、間髪を入れずにミルクティーが出された。抹茶を頂く時のような茶器で出され、両手で持つと指先からじんわりと暖まる。
「あったかい…」
 呟きながら茶器を口元に近づけると、濃厚なミルクな香りとしっかりした紅茶の香りが混じり合った香りが広がり、思い切り吸い込む。
「いつも良い香りですね…」
 香りだけではなく、味も絶品なのだ。
「空…」
 しばしの間忘れ去られていた安土が痺れを切らして声をかける。これもいつもの事だった。
「はい?」
 ミルクティーに夢中になっている空が、ぽやっとした表情で安土を見つめると、安土が一瞬だけ視線を外し、また空を見据えた。
「今日はうちの者達と食事をした後早めに帰るが、どこか行きたいところはあるか?食事の場所は決まってるんだが、その後買い物にでも行くか?」
 買い物…と言われても特に欲しい物はなく、強いて言えばペットショップに行きたかった。新しくできたお店があり、かなりの数の仔猫や子犬がいるそうなのだ。だが、あまり評判は良くない。
「分かった。行ってみよう」
 矢崎、徳永、前田、茂田の四人を伴い、安土と空は民家を改造した洒落た作りのフレンチレストランへ到着した。2階建てで、2階には個室が一つあるきりで、他の客に不快感を与えないようにするには都合が良い。
 どうも安土組だけではなく、構造上都合が良いのか他の組もよく利用しているらしい。もちろんそんなことを漏らす従業員はいないが、噂は良く聞いていた。
 その日は階下にも客はおらず、やたらと洒落めかした綺麗な男が、容姿に似合わない大きな見本帳を両手に抱え、その後ろにいた連れは両手両脇に見本帳を抱え、玄関からフラフラと出てきた。綺麗な男は安土達を見てにっこり微笑みながら『ちょっと通してね〜』と言いながらすり抜けていった。
 外に出ると見本帳を一旦地面に降ろし、今度は空に向かってバイバイ、と手を振った。咄嗟のことで思わず手を振り返す。
「…知り合いか、空」
「ううん?知らない人…」
 綺麗で颯爽としていて、人なつこい雰囲気に思いっきり飲まれてしまった。黒塗りの大型車がすっと門の前に止まり、美貌の青年と連れは見本帳をトランクに放り込む。連れが後部座席を開けて青年が乗り込み、連れは助手席に座る。仕事の仲間にしては上下関係がありすぎるようだ。ゆっくりと走り去る車の窓から、また青年が手を振り、今度はVサインまで出して走り去っていた。
「誰だ、あいつ…」
 矢崎が不審がり、見送りだか歓迎だかに出てきた従業員に聞く。
「はい、インテリア・デザイナーの方です。近いうちに改装する予定なので…」
「たかがインテリア・デザイナーが運転手付きの黒塗りのベントレー?」
「はい、いつもはスポーツタイプのお車でお連れ様といらっしゃるのですが…今日は荷物が多いからと…」
「ふーん…」
 矢崎はどこかで知っているような気がしたが思い出せない。
「綺麗な人でしたね…」
 浅葱先輩はもう少し儚い感じで、今の人は明るく快活な印象がある。
「もう車も見えないのに、いつまで見ているんだ?」
 綺麗な男でも空ほど興味がわかない安土は、空の背中に手を回して店内へ入っていった。


「空、今日はこいつらからお前に贈り物があるそうだ。受け取ってやってくれ」
 食事も終わりに近づいた頃、安土がそう言った。
 矢崎がポケットの中から取りだしたものはお守りで…中身をとりだして見せてくれたが、とろんとした緑色の石に美しい彫刻が為されていた。裏面には安土組の代紋も掘られている。
「幹部全員が持っているんだが…見たまんまのお守りだ。翡翠でできている。空の模様は秋思と同じ鳳凰だが…二つを並べると向かい合うようにデザインしてもらった」
 安土のお守りを隣に並べると、優しく寄り添う空の鳳凰を広げた羽で守るようなデザインに見える。
「それからこれは…」
 徳永が懐から白い布に包まれた細長い物を取り出し、空の前に広げた。
 それは小振りだが、どうみても刀のようだった。
「大丈夫です。刃はありませんから…」
 漆に螺鈿細工を施した鞘から抜くと、一面に美しい彫刻が施された刀が現れた。
「先代が奥様に贈った物で、ぜひ空さんに持っていて欲しいと…」
 身を守るための懐剣だが、お前の身は俺が守る、と実際には切る事ができない刀を最愛の妻に手渡したのだった。
「万が一の時はそれを抜く振りをすればいい。抜ききる前に俺たちが必ず助ける。だがまあ、持ち出す必要はないだろう。美しいから部屋にでも飾っておけ」
 空は二つの高価そうな美しい贈り物を、嬉しそうにじっと見つめていた。こうやってみんなに愛され、守られ、生きていけるのだ。
「あ。最愛の妻だ。さっきの綺麗どころ」
 無口でほとんどしゃべらなかった茂田が急に喋り始めた。
「何年か前に、黒瀬組の頭がぞっこんほれこんだ…男にしておくのが勿体ない美人を手に入れた…と」
 黒瀬組は、敵対していないまでも同じ会派ではない。はっきり言って黒瀬組が名を連ねる誠仁会の方が安土組の上部団体より大きい。資金の豊富さでは安土組も負けていないつもりだが、どうも黒瀬の背後にはかなりの大物が潜んでいると見え、恐い物知らずの組が何度か戦争を仕掛けて一瞬で潰されてしまった。黒瀬組が潰したかどうかすら分からないくらい、完璧で美しい仕事だったそうだ。
「敵にだけは回したくない組だな」
「ヤクザ稼業を続けている事自体、間違ってるな」
「組に入る条件に語学堪能なこと、ってのがあるらしい」
「全員経済のスパルタ教育されるらしいぞ」
「訓練と称して戦場へ放り出されるらしい」
「死に神を飼っているらしい」
「うちはトラを飼ってますよね」
「「「「「……」」」」」
 最後の台詞は空のものだった。だんだんありそうにない噂話になってきたので、空もちょっと参加しようと思ってみたのだ。男達が一斉に見つめたので少し恥ずかしかったが、家族だから良いよね?と思ったのだ。
「…そうだな。お前もいる。お前がいるからこそ、安土組はより強くなれる」


「でも、さっきの人綺麗だったよね…」
 ペットショップへの道すがら、空は先ほどの青年を思い出して呟いた。浅葱先輩も綺麗だし、世の中にはけっこう綺麗な男性がいるんだな、と実感してしまった。と同時に自分の普通っぽさが情けない。
「そうだな。浅葱さんとは対照的な美しさだったな」
 安土もそう感じたのかと思うと、空はずしん、と心が重くなった。
「空も綺麗になってきたぞ」
「手入れの行き届いた空気清浄機だからね」
 ぷぅっと頬をふくらせると、安土の柔らかい唇が頬に軽く触れた。
「お前がこうやって側にいてくれるだけで、俺は救われる。お前だけが俺の魂を清めて、高みへ導いてくれるんだ」
 空を抱き締めて首筋に顔を埋め深呼吸する。ひんやりと心地よい気が体中に満ちあふれ、自分の中の淀んだ空気が払拭されていく。
「そろそろ到着します」
 同乗していた徳永が、ルームミラー越しに声をかけた。


 そのペットショップには噂通りかなりの頭数の動物たちが個別のケースの中で飼い主を待っていた。空は全体を見回した後、一頭一頭をじっくり見て回る。ペットシーツやトイレの代わりにトイレットペーパーをちぎった物が沢山入れてあり、食べてしまう子犬もいる。餌は入れる必要が無いけれど、お水くらいはいつでも飲めるようにしておくべきだ。見た目はみんな綺麗だけど、同じ場所をずっと掻いている子も沢山いる。
 実はこの系列の店で売られた動物たちが新しい飼い主の元で直ぐに皮膚病や異常を発症する子が多い、と噂がたっているのだ。今、空がじっと見ている、どう見てもただのトラ縞だけど『ベンガル猫』と表示された子もずっと耳の中を掻いている。
「空、こいつは…雑種か?」
 トラと良く似た模様で、それでも五万円の値段が付いた猫を見ながら安土が訪ねてきた。
「ううん…純血種。トラとは大違いの、おぼっちゃまだよ」
「…見えないな」
「うん…ほんとはもっと高いんだよ、この猫。豹柄がくっきり出るはずなんだけど…いい加減な素人ブリーダーがお金儲けの材料にしてるの。純血種はね、きちんと管理しないとこの子みたいに特徴が出なくなる。普通だったら去勢して繁殖させないようにして、血統の良い子孫だけを残していくの。それは悪い事じゃない。この子みたいに野性の血が混ざってる種類は気性が荒かったり人に懐かなかったりするんだ。特定の病気を持った種類もいるから、そんな子を出さないように繁殖を管理することも大切なんだ。純血種を作り出したのは人間だから、人間が全滅するまで責任もって管理しなきゃね」
 トラに良く似たトラ猫は、耳を掻きながらも、空が動かす指をじっと見つめている。
「小さい頃のトラみたいに、目はまだ合わせないんだな」
「ふふふ…動く物の方に興味があるのは、野性の証拠だよ。ちょっとづつアイコンタクトができるようになって、人間が大好きになるんだ」


 いかにもな集団のお陰で客足がばったり途絶えた店を後にして、安土と空は帰路に着いた。怪しげな皮膚病を患った子が多かったので、結局そこでは何一つ買わず、家についても安土を引っ張って先ず手洗いをした。
 二人で手を泡だらけにしながら洗った後は安土の背広を脱がせ、玄関先で軽く叩く。
「中には人間に移る皮膚病もあるからね」
 安土の背広をハンガーに掛け、トラの元に向かう。
「あれ…みんなは?」
 先ほどまで一緒だった組員達は矢崎と話すことがあるからと階下に行ったが、留守番も見あたらない。
「…用事を言いつけてある」
 空は全く気が付いていないのか、ふーん、と言ったきり、トラと夢中になって遊び始めた。
 仕事が終われば…そう言った後、日にちが過ぎてしまったが、ますます清澄さを増した空の全てを自分のものにしたい欲望は増すばかりだった。空の気持ちや身体のことを考えると、二人きりでいられる時間ができるだけ長く欲しかった。事の後で空を自宅へ帰らせるのも避けたかったし、このときばかりは、はっきり言って、申し訳ないが、もう二度とこんな事は思いたくないが、父親の存在が邪魔だった。その機会を虎視眈々と狙っていた自分はただのすけべオヤジのようで気が滅入らないこともないが…それはそれで事実なのでどうしようもない。
 だが、そんなにも自分の情動を突き上げたのは空が初めてで、そして最後だ。
 安土はトラと遊ぶ空の横に座り込み、もう暫くは、空に出会わせてくれたトラの欲求を満たしてやっても良いとばかりに、トラが好きなネクタイを外して空に手渡した。
「安土さん…トラ専用のがあるから良いのに…」
「あれはだいぶんボロになっただろう」
 トラはネクタイがある程度ボロボロになると見向きもしなくなる。かといって全くの新品にも興味を示さないのだ。
 安土と空の、二人の匂いがするネクタイだからこそトラが大好きなのだとは、トラ・ポチ・タマ以外知りようがなかった。