空・翔る思い

安土と空

9

 とは言ったものの、それだけでは矢崎の気が収まるはずがない。陸との事でも分かるように、矢崎は安土より気が短く荒いのだ。
「陸が味わった恐怖と痛みはきっちり返す。ガキ相手に倍返しすれば殺しちまうから、倍の部分は大人に受け持ってもらうにしても…そっくり同じだけは返すぜ。下のもんにも示しがつかねぇからな」
「陸は大丈夫なのか?」
「ああ。包み隠さず全部話してくれた。だから俺もこれからどうするか正直に話した。2,3発ぶん殴ることもな」
 きっちり返す、とはまるっきり同じ事をする、と言う事でもある。
「まあ、見た目は今時のおぼっちゃんで悪くは無いが…うちの連中は…やらせたくねぇな。その辺は別の手を考えている。貶めるのは得意だ」
 面白そうに笑いさえしながら話す矢崎に、我が弟ながら安土は眉をひそめた。玩具を与えられて喜んでいる様は空や陸より子供っぽく、それは自分にも当てはまるのではないかという考えがちらりと過ぎる。
「ハンパなことはするな」
 中途半端なことをすれば相手に隙を与えてしまう。完膚無きまでに地べたに引きずり倒すのが、自分達を守る術でもあるのだ。


 先代が山のような見舞いの品と共に白石家に現れたのは、陸が矢崎の家に連れ帰られた数日後の週末のことだった。
「うちの息子どもが引き起こした珍事で迷惑をかけた、その詫びを兼ねてな…」
 あり得ない見舞いの品の数々に白石家の父親は呆然とするばかりで、どんな迷惑なのか分からなくなっていた。陸が暴行を受けたのは安土組とは全く関係のない理由からで…ああ、そう言えば矢崎が陸を奪っていったのだったな…などと暫く考えてから思い出すしまつだった。ところでこの男性はどこのどなたなのか、それすら分かっていなかった。
「…矢崎さんの、お父様ですか?」
「俺と血は繋がって無いが…盃はかわしとる。安土も矢崎も、血の繋がった家族以上の存在だ」
 先代に呼ばれてついてきていた矢崎が、渋々といった様子で二人の間に割って入った。
「あー…お義父さん…こっちは安土組の先代組長だ。オヤジ、こっちは陸のお父さん」
「わかっとる!お前は、ほんとうに突然何をやらかすか分からんヤツだな。もう少し冷静に行動しろ」
 

 取りあえず先代を居間に通すと、空が慌てて台所に向かい、お茶の準備を始めた。
「空君、かまわんでいいぞ。白石さんは絶対に許してくれそうにないからな。説得はりっくんと矢崎に任せる。見舞いを受け取ってもらったら直ぐ帰るつもりだし…」
「えー…じいちゃん酷い…お父さんを説得してくれるかと思ったのに…」
 陸はあからさまに落胆してみせた。
「お父さんの気持ちはいずれりっくんにも分かる。いや、それより今回は矢崎が悪い。後先考えずにりっくんを攫ったから、何の準備もできてないだろうと思ってな。可愛いりっくんが二度と嫌な目に合わないように、俺が色々準備した。受け取ってくれ」
 と言って差し出されたのは…
「ここの21階が空いていたのでな…15階では行き来するのが面倒だろう?秋思の所よりは遠いが、取りあえずな。それからりっくん専用車と…運転手兼側付き、俺からのお祝いだ。あとはメロン。これは退院祝いだ」
 白石の父親は何かの冗談かと思えるような見舞いの品に、ただ唖然とするだけで二の句が継げなかった。みっともなく口をぱくぱくする事は避けられたと思う。
「じいちゃん…僕そんな、車とか運転手とか良いよ…」
「なーに言っておる。りっくんはうちの若頭の大事な大事な人なんだ。うちの威信にも係わる。このくらい当たり前だ」
 安土や矢崎の孫が望めないなら、空と陸には立派に育ってもらいたい…空には表だって手をかけられないが(まだ父親には秘密なので)、陸にはおおっぴらに係われる。
「あ、安土さん、私はまだ認めていない。それに、この見舞いは何かの悪い冗談と思えるくらい、常軌を逸している…」
「ああ?認めるも何も、もう付き合ってるんだ。安土組の若頭の嫁なんだ。いつ他の組からちょっかい出されるかしらない。もちろん、そんなことはさせんが…そのためにも護衛が必要だ。なあ白石さん、そんなに嫌なら何故強引にでも別れさせない?そうなったからと言って俺たちはあんたらに手を出すようなアホじゃないぜ?惚れたもんには幸せになってもらいたいと思うのが当たり前だろ?」
 

 振られた腹いせに相手を恨んだり傷つけたりする人間が多い中、矢崎は信用できると思う。矢崎だけではなく、安土組の組員から先代組長までこうして可愛がってくれて、大変な目にあった陸には精神的な支えにもなっている。もし、自分たち家族だけだったら、陸は今頃一人で苦しんでいたかも知れないのだ。安土と知り合ったことでなんらマイナス面は無く、ただ自分の気持ちが定まらないだけなのだ。
「それは…正直なところ…あなた方が私たちとなんら変わった所が無く、私たち以上に情の深い人達だとは分かっています。けれど私は、ヤクザは恐ろしいという先入観がまだ拭いきれない愚かな人間なんです。あなた方がどうこうではなく、自分の気持ちが決まらないだけなんです」
 陸を攫われたとは言え9階下から3階下に距離は縮まり、陸は普通に実家に居ることが多い。何故か矢崎も居たりする。ただ、お休みなさいと言って二人で毎晩帰るのが今までと違うだけだ。家族の団らんは以前に比べて増していて、それが嬉しいとも思う。自分のマイナス思考以外は全てがうまく行っているではないか。毎晩帰った後、二人がどう過ごしているのか生々しいことを考えないこともない。が、普段から色気がある二人ではないので想像できないのは幸いだ。
「親の幸せイコール子供の幸せ、とはいかないものなんですね…」
 白石の父親はがっくりうなだれてしまった。
「…矢崎さんがお引っ越しされるのは構わないとして…車がどうしても必要とおっしゃるならうちで用意します。側付き?もできればうちから出したいですが…私には信頼できる部下がいませんから、お願いするしかないのでしょうね…」
 長女の他にもう一人嫁に出すと思えば車の一台などどうと言うことはない…無理矢理そう思えば少しは気が楽になるだろうか?
「よし!じゃあそう言うことにしてもらいましょうか。良かったな、りっくん」
「うん、お父さんありがとう!じいちゃんもありがと!」
 

 話してみると先代もなかなか良い人で、もうどうにでもなれと思った白石の父親は、その後さそわれて出掛けた料亭で酒を酌み交わしながら、先代の過去話を夢中になって聞いてしまった。
「俺は自分の息子を育て損ねた。ヤクザにしたくはなかったが、それでももうちっとまともな男に育てたかった。甘やかしすぎたんだな。秋思は近所の子でな、良くうちの池やら畑やらからこっそり盗んでいきおった。それも俺たちが気がつかないうちにだぞ?こいつらは親にほったらかしにされて食い物もまともにもらえてなかった。池の鯉でも食ってたのかと思ったら、転売して儲けておったんだ。それをまた俺が買わされたらしいな…ばれてとっつかまえた時、こいつは小学校二年生のくせに百万も隠し持ってたな」
 当時はまだ弟の存在は気にしていなかったが、中学・高校と稼ぐ金額のケタが大きくなってきた頃にやっと秋思の弟、宗一(そういち)の存在が目につくようになった。
「秋思は中学の頃から組に出入りさせてたから、宗一は小学生の頃から係わっていたことになるな?秋思が持って帰った金をぼちぼち増やしていたのが宗一だった。やたらと頭が良くてな、表に出てくるようになってからは俺の小遣いも増やしてくれたわ。もちろん、組の資金も少しだけ運用してもらった。だが、あまりに勿体ない才能だったんでな、宗一にはもう少し勉強してくるようにと留学させたんだ。帰ってきたら二人ともうちの組に入ってもらうことを条件に、援助した。もっとも、俺の援助なんかいらなかっただろうが…」
 帰国後、二人揃って養子に迎えようとしたところ、安土組の安土では目立ちすぎると言うことで矢崎のままで通すことにしたらしい。秋思の元で動く事が自分にとって最も重要なことで、安土姓は邪魔だとも…
「お陰で未だに秋思と宗一が兄弟だと知らん連中もいる。それはそれで都合が良い場合もあるそうだ。宗一は、裏でゴソゴソ動き回るのが得意なタイプだからな。情報収集や分析もこいつの右に出る者はおらん。白石さんも何か必要なときはこいつを使うと良い。ヤクザなのは確かだが、一人の優秀な人間として見てもらえんか?」


 空と陸は料亭へは行かず、安土の家で大人達の帰りを待っていた。ついていっても良かったが、大人同士、酒でも飲みながら話した方がうち解けるのも早いかも知れない。
「みんな遅いよね…」
「うん。まだ飲んでるのかな?」
 そろそろ日付が変わろうとしていて、空の側付きである田島が料亭に確認してくれたが、まだ終わりそうにない。
「陸、先にお風呂入ったり、寝る準備しとこうか」
 ギプスをはめている陸は一人で入浴するのが大変そうなので、空も一緒に入ることにした。トラももちろん一緒である。
「トラ、最近泳げるようになったんだよ…」
「え、まじで?」
 安土家の広い湯船に浸かって遊んでいるうちに、犬かき、ならぬ猫かきですいすい泳ぐようになってしまった。時々、浴槽の縁に掴まってじっとしている事もある…
 空より頭一つ背が低い陸が服を脱ぐのを手伝い、ギプスが濡れないように大きなビニール袋で覆う。殴られたり蹴られたりした青痣は綺麗になくなったと聞いたのだが、まだ少しだけ残っているようで、小さな青痣が痛々しい。
「早く消えちゃうと良いのにね…」
 思い出させるようなことは言いたくなかったが、つい口から滑り出てしまった。
「ん?」
「痣」
「ああ…それは…」
 陸は言いよどみながら、さっさと風呂場へ入ってしまった。やばかったかな?と思いながら後を追う。
「ごめんね、陸…」
「なにが?」
「思い出させるようなこと言った」
「…これ、違うよ。矢崎さんだよ…」
「え?」
 脇腹や腰に点々と残っている青痣を見ているうちに、気がついた空はまだお湯を使ってもいないのに茹で上がったタコのように真っ赤になっていた。


「お兄ちゃん、安土さんと付き合って半年以上たつよね!?何やってたの??」
 気を取り直して湯船に浸かった途端、陸が容赦なく掘り返してきた。
「なにって…なにって…キス…とか」
「…キスだけ?」
 声に出さず、頷いて答えた。
「マジ…?すごい忍耐力」
「陸は…他のことも、してるの?」
 父親へのカムアウトで先を越されたと思っていたが、もうその前に、そうとう先を越されていたのか…
「してなきゃこんな跡つかないでしょ」
 陸は別段恥ずかし気もなく淡々と話している。自分よりはずっと体つきも子供のくせに…と思うと歯がゆいやら羨ましいやら。
「好きだって言われたその日にキスして、退院するまでは触られるだけだったけど…退院したその日に、襲われちゃった」
 襲われたと言う割に、嬉しそうである。
「陸…お兄ちゃん、身体洗うね…」
 早々に湯船から上がらないと湯あたりして倒れそうだった。
「うん。洗いっこしよう」
 片腕が使えなくて不自由だろうに、そんな陸を手助けしなくてはいけないのに、あまりのショックで自分が面倒をかけてしまい、ますます情けない。
「あ、トラが泳いでる」
 泡だらけの身体を片手で素早くシャワーで洗い流し、陸は浴槽に勢いよく飛び込んだ。飛沫が盛大に上がってトラの顔を濡らしたが、それでも楽しげに湯船の中を泳ぎ回っている。
「トラが一番男らしいかな?」
 一緒にぷかぷか浮きながら、陸が言った。
「そだね…トラは安土組の次期組長候補だしね…」
 そんな行為もやっぱり自分より子供なのに…
「ねえ陸、矢崎さんと一緒にお風呂入ったりする?」
「うん。だって僕、手が不自由だから。ってのは関係ないかな…お兄ちゃん、一緒に入ったこと無いの?」
「無いよ。恥ずかしいじゃん…」
「もっと恥ずかしいこと、いっぱいあるよ」
 湯船で涼しい顔。空は想像しただけでもう限界だった。
「陸…お兄ちゃん、倒れそうだから、先に上がるね…」
「え!?お兄ちゃんちょっと待って!まだ泡だらけじゃんっ!!」
 陸が大急ぎで湯船から出て、シャワーの栓を押す。勢いよく出てきたお湯は少し冷たかったけれど、洗い場で湯あたりしてしまった空には丁度良かった。


 安土達が帰ってきたのは空がお風呂から上がって直ぐだった。
「湯あたりしたのか?」
 ぐったりした空を見て、安土が陸に訪ねた。
「うん。僕ほら、手が不自由だから手伝ってもらってたら、お兄ちゃん倒れそうになったの」
 父親も迎えに来ていたので、適当に誤魔化す。
「仕方ないな…空、立てるか?帰るぞ」
 そう言う父親も足元がおぼつかなかったので、空は安土が抱え、父親は空の側付きの田島が肩を貸して階下まで送り届ける。自宅に帰り着いて気が緩んだ父親はそのままベッドになだれ込んだため、田島が上着やネクタイを外しシャツを引き剥がし、甲斐甲斐しく世話を焼く。
 空を部屋へ連れて行った安土もそのまま空のベッドに倒れ込んでいたが、部屋をちらっと覗くと、空がゴソゴソ世話を焼いていたのでこちらはほったらかすことにした。
「空さん、俺はもうひきあげますんで…何かあったら電話してください」
 声をかけると空が小さな声で返事を返してきた。


 まだ少しクラクラしていたが、その理由は湯あたりだけではない。安土が自分の部屋にいる、その事が嬉しくてまたすこし目が回ったのだ。大柄な安土の身体を上手くずらしながら背広を脱がせ、ネクタイを外し…ズボンも脱がせるべきか迷ったけれど、タダでさえ狭い自分のベッドに寝かせるのだから楽な格好の方が良いだろうと思ってパンツ以外は剥ぎ取ってしまった。安土の逞しいからだを見ていると、身体の芯が熱くなる。分厚い胸板、綺麗に筋肉が割れた腹筋、引き締まった腰、下着の膨らみにはいつも目を背けてしまっていたが…まだ見たことがない安土の雄は、下着の上からでも空のものとは随分違っている。
 同級生の裸は修学旅行で見たことがあるが、些細な違いで大げさに驚いたり優越感に浸ったりした。そんなことが微笑ましくなるくらい安土は違う。
 いつかは自分もこうなるのかな?と考えてみたが…体格からして違うし、経験値などこれから先も望めそうにない。安土以外とそういった事を経験したくないけど、安土ならきっと自分を導いてくれるはず。
 空は安土にぴったり寄り添い、愛しくてどうしようもない気持ちを持て余したまま目を閉じた。


 明け方目を覚ました安土は、そこが空の部屋であることに気がついた。隣にはピッタリより沿った可愛らしい恋人が眠っている。喉の渇きと生理現象を覚えたので、空をおこさないようにそっと起きあがる。脱いだ覚えはないが、自分の服は綺麗にハンガーに掛けてあった。静かに、迅速に用事を済ませた後、どうしようか暫く悩んだが欲望には逆らえず、また空の狭いベッドに潜り込むと、廊下を歩く足音が聞こえてきた。
 やばい…そう思ったものの、隠れる場所も見あたらないので仕方なく眠ったふりをしていると…微かな物音とともに扉が開く気配。
 直ぐに扉は閉じられたが、その向こうから聞こえてきたため息はこの家の主のものに違いなかった。
 その数時間後、目を覚ました空にキスをして、先に自宅へ戻った。
 こうなれば、隠し立てする事はできない。
 安土は休日というのに完璧に身なりを整えた後、空の家へ向かった。
 

 空の父親は昨夜の深酒のせいか明け方見た光景のせいか、身体も気持ちも重かった。安土から話しがあると連絡を受けその内容の察しはついたが、安土に対抗する気力があるかどうかも怪しい。せめて昼からにして欲しいと頼む。だが、たとえ数時間の猶予をもらったとしても、自分に有利に解決する方法など見つけることは不可能だ。
 なにしろ、あの安土である。
「空、お前は安土さんの事をどう思っている?」
 今日も安土家からもらってきた朝ご飯を食べながら、父親が突然、そんなことを訪ねてきた。
「え…!?どう…って…?」
「人間として、同じ男として」
「え…同じ男だけど、同じ人間だけど…比較にならないっていうか…してはいけない存在というか…比較したら自分が惨めだし。でもね…浅葱先輩が以前、僕は僕のフィールドで輝けば良いんだって、言ってた。僕はまだ見つけられないけど…迷ったときや立ち止まったときに、安土さんなら助けてくれそうで…いつか僕も揺るぎのない信念を持った男になりたい。安土さんはそのお手本かな?どうしたの、突然…」
「安土さんが私に話しがあるそうだ。どういう話しか、お前は予想がつくか?」
 空は全身から血の気が引いていくのが分かった。ザーッという音と共に、膝が笑いはじめる。
「…なんとなく…お父さん、その前に…僕、倒れるかも」


 我が子ながら情けない…と父親が言った言葉が聞こえたような気がした。その直ぐ後で、空を呼ぶ優しい声がした。
「…ん…あづちさん…?」
「空…気がついたか?大事な話がある。起きあがれるか?」
 空は半ば縋り付くように安土の服を握りしめ、起きあがった。
 過呼吸に失神…何でこんなに大切なときに…
 ソファに座り直し一呼吸する。安土の後ろには矢崎と数名の組員がいた。事務所でちらっと顔を合わせたことがあるが、空はまだ名前も知らなかった。
「矢崎の隣が徳永、前田、茂田と言います。先代から組の幹部を務めています。先代から盃を受けた最も信用できる連中です」
 3人は父親に向かって深く頭を下げた。
「白石さん…早速ですが…」
「安土さん、僕たちのことだよね?だったら…僕から言わせてください」
 空は微かに震えながらもしっかりした声で安土を遮った。
 いつも助けてもらうばかりでは…この人達が来ていると言うことは、自分は安土組にとってもそれなりに重い存在になるのだ。過呼吸の発作を起こしたり、失神したり、そんな精神的なもろさを克服しないとバカにされるだけだ。安土だけじゃなくて、この人達にも認めてもらわないといけないんだ。タダの弱い存在だと、いつか安土にも組にも大きな足かせになるかもしれない。
 空はすっと立ち上がり、父親の目をまっすぐに見た。
「お父さん、僕、安土さんが好きです。恋人として付き合うことを許してください」
 空が言い終わると安土も立ち上がり空の手をしっかりと握ってくれた。二人で深々と腰を折ると、後ろの四人も揃って頭を下げる衣擦れの音がした。


 
「空はまだ未成年です。あと一年弱、あなた達の事を見てから返事をさせてください。それまでは何も隠さず全てを私に報告すること。できるだけ安土組には係わらせないこと。矢崎さん、これはあなたにもお願いしたいことだ。全く、なぜあなた達のような大の大人がこんな子供に…この数週間、陸のことでどれだけ悩んだか…その上にまた空までもか?とにかく、陸と空が係わることは全て私に相談してから事を起こすようにしてくれ」
 一年様子を見て問題がなければその先は…空には遠い未来のような気がしたが、振り返ってみればこの半年だってあっと言う間だった。今まで生きてきた17年だってあっと言う間に思える。
「空は何があっても一生愛して、守ります」
「当然だ」
 安土の言葉の重みを上回る父の敢然とした態度に、嬉しさがこみ上げる。
「お父さん…ありがとう…」
 嬉しくて、下唇を噛む。
「許したわけではないぞ」
 毅然とした声色だが否定されたわけではなく、真剣に考えて行動しろと言われているようで、自分を大人として見てくれているようで…広がる笑顔を止められない。
「うん…でも…うれし…」
 笑っていたはずなのに、声が詰まって涙が溢れそうになる。
「空、全くお前は…大事な場面で気絶したり泣き出したり…もう少ししっかりしろ」
「うん…しっかりする。こないだも、安土さんのお父さんの前で過呼吸の発作おこしちゃって…」
 思い出すと情けない。今日も緊張の度が過ぎて気絶するし…
「では、安土さんのお父様にはもう?」
 鼻水をすすり上げたり涙を拭いたりで忙しい空に、安土はハンカチを渡しながら答えた。
「こちらの身内に先に報告して申し訳ありませんでした。先代には一月程前に報告しています」
「では、先日お会いしたときにはもうご存じだったんですね。お父様はなんと?」
「先代には気に入られたようです。元々子供好きな人ということもあるが、空の純粋さは俺たちに必要なものだと感じてくれたようです」
 

 その後安土は、今日から少し忙しくなる、と言い置いて男達を連れて出掛けてしまった。トラも随分と大きくなり、夜行性の動物らしい性格も出てきて昼間はゆっくり寝ている時間が多くなってきたので、安土の家に行くのも気が引けて、空は自宅の居間で大人しくしていることにした。父親と二人で家に取り残され、まだ少し緊張しているが、秘密を話すと心は軽くなるものだ。
「空、陸を連れて昼ご飯でも食べに行くか?」
 緊張していてすっかり忘れていたが、ランチには遅すぎるくらいの時間になっている。
「うん!陸にメールするね。あ…あと一人…二人?増えても良い?」
 家を一歩でも出るときは田島に連絡すること。これは自分の身だけではなく、安土組全体に迷惑をかけないためでもある。陸のお守りはだれだっけ…と思いながら返事を待っていると、程なく本人達が実家へやってきた。陸の側付きは…めちゃくちゃ厳ついひげ面の熊みたいな男だった。
「陸…こちらの方は…」
 父親が唖然と見つめている。
「じいちゃんが寄越してくれた、僕のボディーガードの…熊さん」
「熊田原祐(くまたはら ゆう)です。よろしくお願いします」
 熊田原、熊さんは今まで先代の孫の面倒を見ていたそうだ。子供の扱いには慣れている上に、見た目が厳つく護衛にはもってこいだというので陸付きになった。
「俊(しゅん)くんって小学生の子供も居るんだよ。もうすぐ今の矢崎さんちにお母さんと引っ越してくるんだって」
 陸は弟ができるみたいで嬉しいと言った。
「陸はそれ以上迷惑をかけるな」
 それ以上ってなんだよ、とぶうたれながら父を見ると父は穏やかに笑っていた。一番子供だと思っていた陸がこんな事になり、それでも子供らしさを失わないでくれたことが嬉しい。
「あ、熊さん」
 数分遅れで田島が到着した。こちらは陸より少し年上だがまだ若い。
「遅いぞ、田島」
 すんません、と頭を掻く姿は熊さんよりずっと頼りなさそうだ。
「お父さん、田島さんは会ったことあるよね?実は安土さんが僕に付けてくれた人なんだ」
「そうだったのか…もうお父さんは任せたよ。二人とも迷惑をかけないように…」
 なぜこんな子供に護衛が必要なのか…今から暫くは二人の事で組がごたつくと言われていた。一生こんな世界で生きていかせるのは親としてどうなのか…こうまでしても空と陸が欲しいと思わせたのは何故なのか、分からないことだらけだった。
「空さんとりっくんは良い子ですよ。先代んとこの孫に爪の垢でも…」
「田島」
 熊さんがもの凄い目で睨む。息子も孫も組とは係わらせていないと聞いたが、その理由は…向いていない人間に無理矢理跡を継がせるのは破滅の原因になる。それを防ぐための愛情なのだろう。
「さて、どこか食事に行きますか…」
 熊田原の運転で向かった先は…陸のリクエストのファミレスだった。


「なんでファミレス?」
 呆れた空が陸にぶつぶつ文句を言った。
「だってファミレスだよ?ファミリーレストラン!家族のためのレストランじゃん?みんなで来てみたかったんだ。矢崎さんとは来たことあるんだけど…なんか違うんだよね」
「それは…矢崎さんは家族だけど、お父さんやお兄さんじゃないから…」
 そこまで口にして、空はハタと口ごもり、父親の顔を仰ぎ見た。いや、意識しすぎているのは空のほうかもしれない。陸の身体に付いたキスマークを思い出し、家族だけど父や兄じゃなないなら、なんなんだ、と一人で自分に突っ込みを入れてあたふたする。
 父は自分を見て顔を真っ赤にしている空の様子で、空が何を考えているのか大体の察しは付いた。
「そう言えば空、お前は最近気絶したり過呼吸をおこしたりしているそうじゃないか…病院には行ったのか?」
 ポーカーフェイスの陸と異なり、空は何でも顔に出る。純情というのも今の父親にとっては罪作りな性格で、意識を飛ばすほど安土に恋をしているのかと思うと見ている方が恥ずかしい。
「病院!?やっぱ行かなきゃいけないかな…?」
 自分でもある程度の理由が分かっているので、病院など考えたことはなかった。
「お兄ちゃんの場合は、欲求不満でしょ」
 陸が顔色も変えずに言い放ち、安土と空の様子を毎日見ている田島はぷっと吹き出し、熊田原はそんな田島を睨みつけ、父と空は顔を見合わせて固まった。
 矢崎と陸の場合は二人揃っていても色気など皆無で、親子漫才でも練習しているとしか思えない。が、安土と空は…告白された途端に空が安土に見せる笑顔や安土の優しい視線など、妙な艶を持っていることに気付かされ、見ている方まで気恥ずかしい雰囲気にさせる。男の子であることが問題でもあるが大した問題でもない、そんな矛盾した気持ちが父親の頭の中を駆けめぐっていた。年頃の男が恋をする事は自然だが、相手が男でしかも年上で、どう考えてもリードされるのは空の方で…本来なら恋することで男らしさも身に付くのに、空はそれに逆行しているように思える。失神しながらも、付き合いたいと言ったことは立派だが…男らしい男からは遠のいていくのではないか?もっとぶっちゃけて言えば、空が受け身である、と納得したくなかった。
「陸。はしたないからやめなさい」
 今は、無責任かも知れないが、あまり深く考えたくないと父は思った。
「はーい。お父さん、デザートも注文して良い?」
 引っかき回して即退散する陸の鮮やかな身のこなしは、一体誰に似たのだか…
「その前に食事の注文をしなさい」
 好き勝手に振る舞うのは我が家の女達と同じだ。空がその反対なら…私に似ているのか?
「あなた方も、お口に合うかどうか分かりませんが、好きなものを注文してくださいね」
 気を取り直して熊田原と田島に声をかける。
 田島がさっとメモ用紙を取り出し、みんなの注文を書き留める。
 これは話しに聞いたことがあるぞ、と父親は興味を覚えた。ヤクザの都市伝説とでも言うか、お店に迷惑をかけないように下っ端がウエイトレスと同じくらい働く、と言うあれだ。お水やおしぼりや灰皿の交換など、気を利かせないと上から殴られる、と言うあれだ。
 ためしにコップの水を一気飲みしてみると…田島はそのコップを持って注文を取りに行った。なんだかんだ言ってもどこかで父親も楽しんでいるのだった。