空・翔る思い

安土と空

3

 安土が、まさしく駆けつけたのは三十分ほど経ったころだった。安土の家からここまで一時間はかかったので、三十分で来られたのはそうとう無理をして車を飛ばしたからに違いない。主人は一度目を覚ましたのだが、黒服が直ぐに気絶させていた。主人よりも空の方が大事で、人の家を勝手に家捜しして消毒薬や傷薬を見つけ出し、空の傷の手当てをした後、勝手に台所でお茶を淹れたり…その後、隠れていたトラが様子を伺いに出てきたところを捕まえ空に手渡し、部屋の隅に立って主人や奥さんをじっと見つめていた。
「空!」
 車が止まる音やドアが開閉する音が聞こえた直ぐ後、玄関を乱暴に開けて安土が土足のまま踏み込んできた。
「安土さん…」
 安土は空に大股で歩み寄り、空を優しく抱き締めた。トラが膝の上にいなかったらぎゅうぎゅうに抱き締めていたかもしれない。
「空、大丈夫か?」
 空の顔を両手で包むようにしてのぞき込む。
「うん…」
「…でもなさそうだな…空を殴ったのは、あの男か?」
 床に伸びている主人に軽く顎をしゃくった。
「うん…優しそうな人だったのに、急に人が変わって…」
 安土は空の頬を大きな手の平でそっと撫でた後、転がっている主人の方へ行き、磨き上げられた靴の先で軽く蹴りを入れた。
「こいつを事務所へ運べ。この女は?」
 横で震えながら成り行きを見守っていた奥さんは、自分のことだと気がつき、一層大きく身体を震わせた。だれがどうみても、この黒服達はヤクザだ。どんな事情であれ、主人をかばうような行動を見せたらしいこの女も、安土は許す気はない。
「…別々の部屋に監禁しておけ」


 車の中で空から詳しい話しを聞く間安土はずっと空の肩を抱き寄せていて、唇を切るほど強く殴られたことがなかった空は、そうされることで落ち着いて話が出来た。
 あの家の猫たちは保護団体の人が面倒を見てくれることになった。もしかしたら日常的に虐待を受けていた可能性もあるので、引き取ってケアするそうだ。空達を遠くから伺っていたのは人間が恐かったからかもしれない。
「きっと、トラに教えてあげたんだよ。だから普段は引っ掻いたりしないのに、あんなに暴れて…」
 大人達が騒ぎ回って恐かっただろうに、トラはちっともそんなふうには見えず、キャリーの中ですやすや眠っていた。あの家で安土を待っている間は膝の上で正座して小さな目を見開いていたけれど、安土の車に乗った途端に眠り始めた。安土のいる車の中が安全な場所だと言うことも分かっているに違いない。
「…トラはうちで飼おうか…なかなか見込みがある猫だな」
「安土さんの部下にしてくれるの?」
「いや…跡継ぎかもな」
 その言葉に、空の笑顔が戻った。下唇を噛んで笑いながら安土を見上げる空を、安土はそっと引き寄せた。


 家にたどり着くと、安土は空を連れて白石家を訪問した。先に連絡をしておいたら、父親も慌てて帰ってきていた。空に怪我をさせてしまったことを詫びなければ、と安土は言ったが、安土は全く悪くないのだ。仔猫の居場所を提供してくれるだけでも助かっているのに、その上運転手や護衛まで付けてくれて、こちらがお願いした以上のことをしてくれる。ヘンな人も多いから気をつけるようにと保護団体の人には言われていたので、自分で気をつけなければならなかったのに、防犯グッズすら安土に用意させてしまった。
 その事を説明しようと思ったのに、安土は空には一言も話させず、父を前にするなりいきなり頭を下げてしまった。
「空に怪我をさせてしまって申し訳なかった」
 父親は連絡を受けた後、すぐに空が世話になっている保護団体に連絡して事の次第を聞いていたので、空が説明するまでもなく、安土に非が無いことは分かっていた。空に十分注意するようにGPSを持たせてくれたのも、いの一番に駆けつけたのも安土組だ。
「いえ…そんなことは。甘くみていたのは私たちの方ですから。それに、安土組の方が駆けつけてくれなかったら、空がどうなっていたか…それより、空に聞かせたくない話しがあるので、私の書斎にきて頂けませんか」
 自分が説明しなくても理解を示してくれた父にほっと胸をなで下ろした空は、聞かせたくない話しを聞きたいとも思ったが今は素直に父に従うべきだと考え、自分から自室に引き上げたのだった。


「聞かせたくない話しというのは…」
 安土に座るように勧めながら、父親もデスクの椅子に腰を下ろした。
「空を殴った男と奥さんを、安土組の事務所に連れて行ったと言うことですが…どうするつもりですか?」
 傷害事件として成り立つのだから警察に伝える、が一般の考え方だ。空を殴った男が完全に悪いと言っても、事務所に監禁すれば指定暴力団の安土組にとって非常にやっかいな事に発展する可能性がある。相手が一言でも通報すれば、安土組は捜索を受け痛くもない腹を探られるはずだ。そんな面倒ごとを空のために背負い込むなど、どういう了見なのか、父親は知りたかった。
「…以前も言ったが、俺は空の純粋さや優しさに気が休まるんだ。それを邪魔するヤツは許さない。空を怖がらせて傷つけるなんてもっての他だ。ガキ同士の喧嘩くらいなら構わないが、今回は駆けつけるのが遅れたら空は死んでいたかも知れない。だが、逆に死ななかったお陰で野郎に逃げ道ができてしまった。2発殴ったくらいでは、警察はまともに取り合ってくれない。慰謝料払っておしまいだ。精神的に問題がありそうな男だから、無罪放免で野放しになる可能性もある。息子を傷つけられて、何にもおとがめ無しなんて、あんたはそれで気が済むのか?他の人間がどうなろうと知った事じゃないが、同じ事かそれ以上のことを起こすかも知れないんだぜ?あんたはそれでも良いのか?」
 それはあり得るが、それよりも父親は、安土の空へ対する執着心と独占欲に驚いた。ヤクザも人の優しさがあるのかと思っていたが、どうやらそれは空に対してだけのような言い方だ。
「幸い空の怪我は大したことがなかった。それはあなた方のお陰だと感謝しています。けれど…殴った男に対しては…私にはあなたの考えが理解できない。私だったら…どんな場合でも法に触れるような事はしたくない」
 安土は少しいらついたようだが、たぶん、父親に、自分たちのやり方を理解して貰おうとは露ほども思っていないだろう。そう言う世界で生きてきた男だ。だからこそ、この男はヤクザなのだ。
「あなたが空を気に入ってくださって、面倒も見てくださったことは、特に今回は本当に助かりました。ですが、空や私たちは、あなたの世界の常識を肯定する気は全くありません」
「分かってる。俺は俺のやり方で空が幸せになれるようにする。その方法であんた達の気持ちが傷つかないよう、肝に銘じておく。今日はその事も含めて詫びたことにしておいてくれ」

 

 白石家を辞する前に、安土は自室にいる空を訊ねた。
「…空…傷は痛まないか?」
「大丈夫。安土さんこそ、僕がちゃんと父さんに説明しようと思ったのに、いきなり頭下げるなんて…」
「ああ、大したことじゃない。それより、救急箱はあるか?」
 たぶんあると思うけど…そういうものが置いてありそうな場所を探してみたが見あたらなかった。
「小さいときはあったんだけどな…」
 見つかっても使用期限が切れていそうな気がする。
「きちんと手当をしておかないと、傷が残ったりする…」
「大丈夫だよ」
 父と何を話したのか聞きたかったが、聞かれたくないことなので父は書斎へ行ったのだし…大事なことなら、安土はいつか話してくれるだろう。
「今からちょっと出掛けるが、勝手に入って猫を見ていて良いぞ」
 頷く空を、安土はぎゅっと抱き寄せた。
「ちょ…」
「お前が無事で良かった」
 抵抗しようにも抱き締める腕の力が強すぎて、全く身動きすらとれなかった。安土の声からは安堵の感情が溢れており、それだけ心配してくれたことが、空はとても嬉しかった。自分がトラより鈍いのはしゃくに障ったが、安土の腕の中はどこよりも誰よりも安全で心が安まる事ははっきり分かった。空は安土にかき抱かれるままその温もりに身を任せる。狭い方が居心地が良くて玄関脇のこの小さな部屋を自分の部屋にしたが、安土がいると狭すぎて息ぐるしくなって心臓がドキドキした。


「トラ、今日は大変だったね〜…みんなに話してあげたかな?」
 見た目は仔猫であどけないが、トラは自分よりずっとしっかりしている。ごはんも、遊んでも、だっこも、今はそれだけしかないが可愛い声で精一杯訴えてくる。今も空の問いかけに、仁王立ちして「ニィー」と答えた。
 安土はいつもより帰宅が遅いようだ。昼間、あんな事があって仕事を放りだして駆けつけてくれたのだろう。その後あの家の人達がどうなったのか、安土組に連れて行かれたことは知っていて、そこに監禁しておけと言っているのも聞いた。何をする気なのだろうか…元はと言えば自分がまいた種で、安土にこれ以上迷惑をかけるのは忍びない。監禁なんて、新聞やテレビでは悪い言葉としてしか扱われていない。空のせいで安土が罪を犯しているのじゃないだろうか…
 ヤクザ、と言う安土の職業が初めて空の心に重くのし掛かってきた。
 空の沈んだ気持ちを察したのか、トラが肩によじ登り、空の頬をペロペロなめてくれた。
「空さん、組長から電話で、もうすぐここへ帰ってくるそうです。今夜は人払いの命令が出たので、私らは帰りますんで…」
 黒服達が大急ぎで撤収した五分後に、安土が帰宅した。


「安土さん…」
 帰ってきた安土は見たこともないほど表情が曇っていた。遅くまで仕事で疲れたのだろうか?それだけではない、何か鬼気迫る異様な雰囲気を醸し出していて、空はいつものように近寄れなかった。
「遅くなってすまんな…」
「ううん。ご苦労様です…」
 安土が持っていたカバンを持とうとすると軽く阻止され、その代わりのように空の肩に腕を回して来る。肩を抱かれたままリビングに着くと、カバンを床にどさっと置いて空と一緒に仔猫たちの元へ行く。
「トラは元気か?」
「うん。全然大丈夫だよ。いつもより元気なくらい。きっと興奮してみんなに話してるんだね。安土さんは?元気がないみたい…」
 安土は空を見て苦笑いをした。
「顔に出てるか?」
「うん。なんとなく…僕のために時間と労力を使わせてしまったし…」
「疲れているわけではないんだがな…」
 空を抱き寄せると、ふっと身体の力が抜け、重かった気持ちが楽になる。
「安土さん、お風呂入ってきたら?きっと疲れもとれる」
「ああ、そうするか…空、今夜泊まれるか?」
「うん。だいじょうぶ」
「じゃあ支度してベッドに入っておけ」
 

 夕方事務所に戻った安土は、空を殴った男と一緒にいた女に先に会った。キレたのが旦那なら、彼女もDVの被害者かも知れない。そうであったなら女は直ぐに解放するつもりだった。結局女は何も喋らずただ震えていただけだったので、大きな病院の受付に放り出してきた。後は親切な誰かが面倒を見てくれるだろう。そこまで手をかけるつもりは無い。
 男の方がやっかいだった。たまに今日のように激昂して暴力を振るっていたが、嵐が過ぎ去ると自分がやったことは全て忘れて善人に戻る。安土が現れたときには善人に戻った状態で、悪いことにその男は自分を監禁したことを警察に通報すると、逆に開き直ってしまった。そうなれば、金で片を付けるか暴力で封じ込めるか。結局金庫番でもある矢崎の意見を取り、暴力でその口を封じたのだが、殴られ、血みどろになりながら、その男は笑っていた。人や動物に暴力を振るっていたのは、マゾヒスティックな要求の裏返しだったのだろうと矢崎は言った。喜ばしたのでは意味がないではないか。自分の本当の性癖に目覚めたその男が、暴力をその身に受けたいがために安土組を巻き込む可能性もある。
 組長である安土が下すべき判断はたった一つしかなかった。そうしてそれを実行するのは安土以外にいない。安土が最も守りたかった者を傷つけた男なのだ。怒りにまかせて殴り殺せるならまだしも、少しでも喜ばせないため、速やかに且つ楽に送らなければならないことに、例えようもない苦痛を感じたのだった。
「安土、この後どうするんだ?息抜きでも用意するか?」
 矢崎の言葉の意味は、女でも抱くか?だ。以前の自分なら気を鎮めるためにそうしたかも知れないが、今は一刻も早く空に会いたい。
「ふん。毒気を抜かれやがって。相手は堅気の子供だ。いずれ飽きるんだから手を出さない方が身のためだぞ。お前は安土組の柱だ。あんなガキで、しかも男に倒されたんじゃ俺たちのメンツも丸つぶれだ」
 矢崎の容赦のない言葉にすら拳を向ける気力がなかった。その事実にまた打ちのめされ、さんざんな一日を終えようとしていた。


「空…」
 安土が風呂から上がると、空は冷蔵庫から缶ビールを取り出したところだった。
「安土さん、飲むのかなって思って…」
「いや、今日は良い。それよりお前に話がある」
 安土は空の手を引いてベッドサイドに腰掛け、空の口元に貼られた絆創膏にそっと触れた。
「痛くないか?」
「うん」
「空、今すぐにお前の返事が聞きたい訳じゃない…時間をかけて、よく考えてからでいい」
 空は僅かに首をかしげて、何を考えればいいのか、安土が話してくれることを聞き逃すまいと真剣な表情で見つめている。
「お前が好きだ。惚れてる」


 安土の言葉の意味が一瞬掴めず、空は首をかしげたまま安土を見ていた。お互いがお互いにとって特別な存在なのだが、それがどんなふうに特別なのか、空には分からなかった。でも安土の今の言葉は…どんな風に特別なのか、空にはっきりと伝えていた。
「…安土、さん?」
 男同士で、しかも安土さんは遙かに大人で自分など将来追いつくことすら叶わないだろう。仕事だって、人間的にも、とうていかなうはずがない。ごく普通の男子高校生である自分に惚れるなど、あり得ない…
「びっくりさせてしまったな…ゆっくり考えて答えが出る問題でもないかもしれない。だが、俺はおまえの答えが欲しい。空の心の全てが欲しい。抱き締めてキスして、お前の身体の全てを俺のものにしたい。未来永劫…」
 安土のことは大好きだ、好きの種類が友達でも親でも保護者でも兄弟でも子供でもない。それ以外に何があるのか探している途中だった。
「あ、あの…僕は」
 どうしようもないくらい憧れている男に好きと言われて嫌なわけがない。けれども、そう言う意味で、恋愛対象で、となると空にはまだ分からなかった。抱き締めてもらうのも、安土の身体に触れるのも好きだ。でも、それ以上のことは考えたことがなかった。
「僕…好きだけど、分からない…分からないです…」
「今すぐどうこうしたいわけじゃない…お前がゆっくり大人になって、考えてくれるのを待つ」
 寝室で告白されて、答えが出なくって、それでも一緒にいたいと思うのは我が儘だろうか?心身共に発育不良気味の自分はともかく、安土には、辛い状況なのかもしれない。
「僕、帰った方が良いのかな…」
「帰りたいのか?」
 安土はいらだった様子もなく、優しく訊ねてきた。
「安土さん、この間みたいに一緒に寝るの、嫌じゃない。よく眠れたし、安土さんの側だと安心できるし、トラみたいに遠慮無く膝の上で丸くなれればどんなに良いだろうって、いつも思ってた」
「そうか…空、喉が渇かないか?」
 その場に似合わない台詞だったが、緊張すると喉が渇く事は空も知っている。自分のような子供相手に、安土が緊張している…そう思うとますます目の前の男に熱い感情がわいてくる。
「うん…安土さん、やっぱりビール飲む?さっき冷蔵庫見たらスポーツ飲料も冷やしてあった」
 冷えた缶を取り出し、プルトップを開けて飲もうとすると、安土が空の動きを止めて空の缶にビールの缶をコツンと当てた。
「空の未来に」
 そうか、乾杯ってやつか…空はちょっとだけ考えて、
「トラが安土さんの跡目を継げますように」
「俺はもう隠居か?」
 安土が笑い、空は初めて見た安土の笑顔につられて笑みを零した。
 二人でほぼ同時にごくごくと飲み、缶をカウンターの上に置く。
「寝るか…」
 空はこくんとうなずき、安土に導かれるようにベッドへ潜り込んだ。あんな告白をされた後なのに躊躇無く安土の腕枕を受け入れ、温かい胸に縋り付くようにして目を閉じた。


『空、今朝は朝飯部隊がいないんだ。早めに出てどっか食べに行こう』
 早朝に目を覚ました空は仔猫たちとひとしきり遊んだ後家に帰り、登校の支度をしていた。陸も起きてきたので一緒に安土の家で朝ご飯でも食べるかと思っていたところに来たメール。安土と二人で何処かへ行くなんて初めてだったので、陸には申し訳なかったが、ほったらかして出ることにする。
「陸、兄ちゃん外で食べるって、お父さんとお母さんに伝えといて」
「ふぁーい。安土さんによろしくね」
「…なんで知ってるの」
 夕べのことで少しだけ後ろ暗い気持ちになっていた空は、聞いた後に後悔したがもう遅い。
「今朝早く朝帰りしたの、見ちゃった」
「昨日は色々あったからね。仔猫と遊んでたらそのまま寝ちゃったんだ」
「ふーん。まあいいけど、お昼は学食のスペシャルね」
「…わかった」
 お金持ち学校らしいスペシャル・ランチは学食のくせに2000円もする。 食べるコーナーも決まっていて、スープ、前菜、メイン、デザートまでついていて、メインとデザートはギャルソンが運んでくる始末。そこで食べる生徒もだいたい決まっていて、生徒会役員だったり名家出身で大金持ちだったりして、堅苦しいことこの上ない。良くあんな所で食事が出来るな、と思って眺めていたら、陸がそこにいるのを発見した。将来のために今から顔を売っておくのだそうだ。我が弟ながら呆れるくらいしたたかだ。お坊ちゃん育ちと思っていたが、とんだ間違いなのかもしれない。


 車の中ではそんな話をしながら安土と朝がゆを食べさせてくれる店に向かった。迎えに来た矢崎も一緒である。苦手な人物ではあるが、これからのことを考えると、安土と矢崎の関係がどんなものなのか知っておきたかった。
「矢崎さんと安土さんって、お友達なんですか?」
 食事は済ませて来たのか、コーヒーを飲んでいた矢崎が軽くむせた。
「なんだ、まだ聞いてないのか?お前らいつも何話してんだ」
「何って…猫のこととか…里親のこととか…猫のこと…」
「もうちょっとためになること話せよ…」
 猫のこと、それは安土と知り合った大切な思い出で、空にとっては、たぶん今までで一番の宝物。ためになるとかならないとか、損得で考える矢崎は矢崎らしいと言えるが…
「お前ががっつき過ぎなんだ」
 安土がぴしゃりと言っても矢崎は動じない。
「俺とこいつは兄弟なんだ」
 矢崎の言葉に、空は心底びっくりして、ぽかんと口を開けたまま二人を交互に見た。似てない。どちらも男前だが、線が鋭く神経質そうな矢崎と、堂々として落ち着いた安土。性格が違うのは当然だが、背格好からまるで違う。顔の作りも似ているところがない。
「似てないだろう?」
 安土が面白そうに言う。
「名前も違うの?」
「ああ。俺は安土家に養子として来たんだ。矢崎が旧姓だ。俺たちの親は最悪な奴らだったからな。矢崎の母親が後妻に来て産んだのがこいつだが…父親が一緒とは思えないくらい、似てないな」
 子供の時から度胸と腕力は兄の安土、賢さと逃げ足の速さは弟の矢崎と言われ、二人で協力しながらのしあがった。
「お前んとこもそうだろ?ぼーっとしてて安土にやられそうなのも気がつかない兄と、こまっしゃくれていけ好かない弟」
「え…ええ??安土さんにって…なんで…」
「バレバレだろ」
 空は顔が火照るのを感じながら安土の方をちらっと見た。
 そんな…こと、考えてたのかな…
 大人の男性だから仕方ないのかな…
「矢崎。そのくらいにしておけ。空が困ってるだろう。空、そろそろ出掛けようか」
 そんなことを微塵も表に出さない引き締まった表情で安土が立ち上がり、空も急いでそれに従った。矢崎はまだ空をからかい足りないのか、渋々といった表情で「安土組の矢崎」の顔に戻った。


 空は授業の間中上の空で、安土のことばかり考えていた。もうかなり以前から事あるごとに安土の顔が浮かんだり消えたり、そんなことを相談する親友がいれば空の気持ちは『恋』の一言に尽きると教えてくれただろう。が、良く話をする連中はいたが、つっこんだ話をして時間が経つのを忘れるような友達はいない。それに、教室のあちこちから聞こえてくる恋の話は、空の場合とかなり違っていた。○○女子校の○○さん、何組のなんとかさん、みんな女の子で同年代。年上の男でしかもヤクザの組長なんて、全く世界が違う人の話をどう誤魔化せば…
「兄ちゃん!」
 いつの間に授業が終わっていたのか、しかももう昼休みである。
「今日のランチ奢ってくれる約束」
 それだけ言うとスタスタ歩き去る。空は財布を掴んで陸の後を追った。
 
 
 その週末はポチとタマの面接日になった。スペシャルランチを食べたとき、生徒会長の海月先輩がいて、陸とはとても仲が良かった。仔猫の話は陸から聞いていたようで、良かったら2匹一緒に…という有り難い申し出を受けてみることにしたのだ。海月先輩の家は老舗の宝石商で、この2匹はうまく行けば玉の輿に乗ることになる。
「今日は矢崎がついていく。陸も着いていくそうだ。海月家は安全だから防犯グッズもいらないと思うが…念のために持って行け」
 安土が心配してくれるのは嬉しい。
 空は素直にGPSとブザーをポケットに入れ、安土に見送ってもらった。
「また後でな」
 今夜は父と母が海外出張中なので、親に黙って好き放題する予定だ。姉は友達の家に、空はもちろん安土の家へ、陸は海月家へ泊まる。
 今夜も一晩中一緒にいられるのかと思うと、自然と顔が赤らみ、鼓動が強くなる。安土の仕事が終わるまで待って、それから食事に行くのだそうだ。デートみたいで、これも楽しみ。
「うん。後で」
 

 海月家は、超豪華だった。
「ポチタマ、大きくなって置物倒したりしないかなぁ…」
 アンティークな家具や置物があちこちに配置され、それらは学校はじまって以来で最後の美少年と言われている海月先輩によく似合っていた。
 矢崎も海月先輩を気に入ったようで、空とは大違いの接し方をしている。 いつもの乱暴な口調もどこへやら、丁寧な言葉遣いでとてもヤクザには見えない『エリートサラリーマン』みたいな態度だ。
 仔猫を抱いた海月先輩はまた格別で、保護団体の人は何故か写真をびしばし撮っていて、会報に載せるとか言って喜んでいた。
 絵になる人って、ホントにいるんだな…海月先輩なら男でも恋人にしたいだろうけど…なんで僕なんだろう…好きだと言われたのだから、今更その理由を考えても仕方がないが、自分に自信が持てないために、安土のことをどう思っているか、一番大切なことを本人に伝えられないでいた。
「兄ちゃん、また白日夢に浸ってるし…」
 陸に肩を揺すられて、肝心の面接のことなどすっかり忘れていた。
「あ…」
「空君は、恋でもしてるのかな?心ここにあらずだね」
 海月先輩がふんわり微笑みかけてくれた。
「ただぼーっとしてるだけですよ。浅葱さんがあんまり綺麗なのでね」
「ありがと、矢崎さん。でも空君も、雰囲気があるよ」
「雰囲気?」
 初めてそんなことをいわれて、空はもっとその話しを聞きたかった。どうして自分なのか…
「うん。りっくんから話しを聞いててね、学校で空君を時々見てたんだよ。空君の周りだけ、何て言うか…空気が澄んでるんだ」
「空気が澄んでる…?」
「上手く言えないけど…一緒にいて初めて分かったけど…呼吸が楽になるんだ。で、息を吸い込むと清々しい気持ちになれる。嫌なことや辛いことを洗い流してくれる」
「人間空気清浄機?」
 矢崎がバカにするように言った。
「もう、矢崎さん、意地悪なんだから」


 とっても綺麗な海月先輩をポチタマは気に入ったようで、一緒に遊んでもらったあとは膝の上で気持ちよさそうに眠っていた。どの仔猫も人が大好きで抱っこも好きだけど、抱っこが好きなのは自分もかな…と思いつき、また顔が火照る。
 正直言って、安土への気持ちなど少し考えれば経験の無い自分でもわかってしまう。好きでなければ裸の安土に寄り添って眠るのが気持ち良いとは思わないだろう。
「空、眠れないのか?」
 耳に響く声が心地よいなんて思わないだろう。
「…うん」
「何かあったのか?」
 安土が連れて行ってくれた中華料理の店で、今日あったことはすっかり話してしまった。今日は一日、楽しいことばかりで良い日だった。
「どうした?」
 からだをずらしてのぞき込む安土の顔にドキドキなんかしないだろう。
 じっと見つめられてだんだん頭が回らなくなって、どうしたらいいのか分からなくなって、でも、どうして欲しいかだけは本能で分かってしまった。
 空は混乱して、いても立ってもいられなくなり、両腕を伸ばして安土の首に縋り付いた。
「空?」
「…安土さんが、好きです」