空・翔る思い

安土と空

 空は好きという気持ちの奔流に飲み込まれ、呼吸をするのももどかしいくらいに何かを求めて安土にしがみつく。安土のがっしりした身体にしがみついて抱きついて、ただもうぎゅうぎゅうと身体をくっつけて…それでも気持ちが収まらない。
「安土さん、あづちさ…」
 あふれ出したのは自分の気持ちなのに…自分でコントロールできない。
「空、どうした…落ち着け」
 そんなこといっても自分ではどうしようも出来ないんだ…なんとかしてよ…安土さん…
 言葉すら出てこない。
 それなのに…安土は笑い始めたのだ。さもおかしそうに、そんな空の状態が楽しくてたまらないように、くくっ、くくっと、切れ切れに笑っている。
「空…」
 分厚い胸に噛みつくように顔を押し当ててじれったさを何とかしようとがんばっていた空を、安土は自分の口元まで引き上げ、抱き締め、耳元に囁く。いつもより低い響きの声が空の体中を駆けめぐる。
「空…」
 耳元で響く声と共に、温かく柔らかい何かが触れる。ゾクゾクとした感覚がそこから産まれ、波のように広がる。


「ぅんん…っ」
「…参ったな」
 困ったように、でも楽しそうに、安土は空の柔らかな首筋に口づけていた。空はすっかり陶酔してしまって、何がどうなっているのか分かっていないらしい。惚れ合った者同士が初めて心を通わせた瞬間に、たまたま抱き合っていた。それが原因なのか、空は恐らく初めて感じた欲望に自分を見失うほど支配されてしまったようだった。
 安土は宥めるように項やのど元にキスを落としていく。時々聞こえる空のうめき声に煽られながら、やっとの思いで理性を総動員して空を落ち着かせようとするが…
 白いのど元を仰け反らせて無意識に安土を求める空をどう扱えば良いのか…安土にも分からなかったが、このまま奪ってしまうのは弱みにつけ込むようでやってはいけない行為のような気がする。
(据え膳は必ず食う、のが常識だったんだがな…)
 今初めて自分の気持ちに気が付いて戸惑っている空が、もう少し落ち着いて、精神的な繋がりをもっと深めてからでも遅くはない。
 安土は苦しそうに身もだえている空の頬をそっと撫で、ふっくらとした唇に、静かに自分のそれを重ねた。
 何度も何度も柔らかい唇をついばみ、そっと舌を割り込ませる。安土の悪戯な舌が空の舌に触れたとき、空の細い首筋が細かく震えた。恐くないから…優しさとほんの少しの力強さで空の舌を絡め取り、吸い上げ…どのくらいそうして口づけていたのか、安土にしてみてもキス一つにこんなに愛情を注いだことがなかった。
 

 やがて空の荒かった息遣いも落ち着き身体の力もすっかり抜けてきた。唇を離して空をじっと見つめると、正気に戻って恥ずかしいのか、真っ赤になって安土を押しのけようと腕をつっぱった。
「ご、ごめんなさいっ、僕、なんかヘンなこと…」
「ヘンじゃないさ…お前の返事が聞けて嬉しかったぞ」
 正気に戻った途端逃げ腰になった空を捕まえ、おでこにキスをする。
「安土さん…」
 さっきはどうしようもないくらい興奮して、自分に何が起こったのかも説明できないけど、安土が好きだという気持ちだけは真実だ。これからどうなって行くのか想像も出来ないけど、安土となら何があっても安心して進んで行けるような気がする。
 ただ…たった今、ものすごい弾みでキスしてしまって…こんな時どうすればいいのか見当も付かず、突っぱねるのも悪いような気がして、仕方がないのでいつものように安土の腕にしがみついて眠る態勢をとるのだった。
「明日、どっか行こう」
「…うん。もうそろそろ餌を固いヤツに変えても良いと思うんだ…それとか買いに行きたい」
「分かった。ぐっすり眠れ」
「…うん、おやすみなさい」
「お休み、空」


 仔猫たちの新しい家族は決まったけれど、約束の期限まではまだ一ヶ月近くあった。その後のことを考えると気が重くなるが、今はこれまで以上に空の家族に安土がその辺のヤクザとは違うのだと言うことを、示さなければならない。その事で悩み通し、安土の腕に抱かれていても親に対する罪悪感ばかりが膨らんでいく。そのせいか、初めて好きだと言った夜の勢いはどこへ行ったやら、キスをしていても、何度好きだと言われても、苦しくなるばかりだった。
「…はぁ…っ」
 その日何度目かのため息。安土に聞かせるわけにはいかないので、トイレやお風呂場でこっそりつく。ひとりになって寂しいのか、それとも空の気持ちを見透かしているのか、トラが足元でニーニー鳴いていた。
「トラ、今日も一緒にお風呂に入るの?風呂好きな猫って初めて聞いたよ」
 トラは珍しいことにお風呂が大好きで、特に空が入っているときは一緒に入りたがる。しかも、湯船に思いっきり飛び込むのだ。空が受け止めてくれると信用してくれているのだろうか?ちゃっぽーんと小さいなりに飛沫を上げて飛び込む。
「なんか、怒濤の展開?だよね…まさか年上の男のヤクザが恋人になるなんて、夢にも思わなかった…ふふふ…」
 もちろん、嫌なのではない。ただ、先行きを考えると不安になることが多いだけで、いわゆるラブラブという状態は想像していたより楽しく嬉しい。
「トラとも出会えたしね。今まで飼って上げられなかった子の分まで大事にするからね」
 指先でお湯をかくと、トラは波紋に向かって小さな足でねこパンチを繰り出した。
 

 安土の家が居心地良いのは安土やトラがいるから、だけではない。安土の家には3人ほど身の回りの世話をする組員が一緒に住んでいて、彼らは朝早く起きて食事、洗濯を済ませた後一人だけ残して他は安土と共に出勤し、残った者は掃除や買い物や夕飯の支度をする。彼らは下っ端の組員らしいが、その辺で見掛けるちんぴらとは全く違い、礼儀作法もきちんとしていて空や陸にまで丁寧な態度をとる。最近では空だけではなく陸の朝ご飯も作ってくれて、育ち盛りで昼までお腹が持たないときのためにおにぎりまで用意してくれるのだ。毎日ぱりっとしたパジャマやシーツ、空と陸の制服のシャツも毎日洗濯してびしっとアイロンが掛けてある。陸などは習い始めたばかりの柔道の稽古まで付けて貰っていて…そう言えば、空は子どもの頃、父親とキャッチボールをしたりレスリングをしたりしたが、陸がそういうことを出来るような年齢の頃は起業が成功して忙しくなったときだったので、父親とはあまり遊んでいないかもしれない。安土組の人達は武道も会得しているのか、陸が部活でぼちぼち習っていること以上の技を教えてくれるようだ。一番強いのは安土だそうで、暇なときは安土自ら稽古を付けてくれる。陸は小柄なので、本気で技を掛けることはないが、陸の方はどうやら力一杯つかみかかっているようで、安土の身体には時々青痣が出来ていたりする。二人とも真剣に技を掛けあっているのだが、そうすると身体が密着するわけで…空はなんとなく陸に嫉妬してしまう。
 

 ともかく、家族がてんでバラバラに、ただ同じ屋根の下に暮らしているだけの状態の白石家より、安土家のほうが家族らしい。そう言うと安土は嬉しそうな顔をした。ヤクザの繋がりは血よりも濃いのだと…そこには空も、陸も、白石家の全員が含まれているのだそうだ。
「でもさ…父さんとは、三ヶ月って約束しちゃったよ…どうしよう…」
「ああ。オヤジさんに認めてもらうにはどうすればいいか…」
「うん。嘘ついたりこそこそしたり、したくない。里親のことも、きちんと話したら理解してくれて…僕は怒られるだけだと思ってたからすごく意外だった。今までは込み入ったことは話したこと無かったし、僕も無難な道ばかり歩いてたから…たぶんだけど…時間を掛けてきちんと話し合ったらお互いに良い方向に話しが行くんじゃないかなって思う」
「そうだな。空のオヤジさんは筋を通せばちゃんと話しを聞いてくれる。あれはただ物が売れたから成功したわけじゃ無いと思う。先は長いんだ…焦る必要はない」
 

 学校が終わり、いつものように安土家でトラと遊んでいると海月先輩からポチタマを連れて遊びに来ると連絡があった。忙しい安土に連絡を取るのは気が引けるので矢崎に電話すると、空です、と言った途端に安土に電話を変わろうとする。
「あ、でも安土さんお忙しいんじゃ…」
『安土が忙しいときは俺も忙しい。俺が忙しいときも安土が忙しいとは限らない』
 と、遠回しに嫌みを言われてしまった。
「やっぱり矢崎さんって、苦手だ…」
 安土は一つ返事で海月先輩なら家へ上げても良いと言ってくれたけど、矢崎は電話の向こうで、あんなむさ苦しい家に浅葱さんが耐えられるわけ無い、とかなんとか騒いでいた。
「ねえ、この部屋って、むさ苦しいかな?」
 毎日掃除をしてぴかぴかなのに、客が来ると言うとまた更に磨き上げに掛かった組員と室内を見回す。
「まあ…装飾が少ないですからね…でも、この部屋全部、ターミネーターとか言うヤツが見繕った家具なんですよ。俺には箸の一本も買えないくらい高いとか聞いてます」
 それってコーディネーターなんだろうな、と思ったけど、空は訂正するよりもターミネーターが見繕った部屋を想像して楽しくなってしまった。矢崎だったらこの組員の頭にげんこつでも入れるんだろうな…
「そっか。浅葱先輩の家なんか、もう絢爛豪華で僕なんか肩凝っちゃう。ここの方がすっきりしてて落ち着くよ」
「ですよね。矢崎幹部んちなんか、もう…今は韓国の宮廷ドラマにはまってるもんで、まんま撮影に使えそうな部屋ですぜ」
 それは初耳だ。世の中を斜めから見つめて鼻笑っている矢崎が韓国ドラマにはまっているなんて…
「その前はシャーロックホームズだったんで英国調。その前は北欧調、ベルサイユ宮殿みたいなときもありましたぜ。飽きると改装するんでいらなくなった家具とか全部うっぱらって俺たちの小遣いになるんっすよ。一緒に住むわけじゃないから毎月改装して欲しいくらいです」
 ベルサイユ宮殿で寛ぐ矢崎…考えられないくらいおかしい。
「連れ込む女の周期もそれに合わせて変わるんっすけどね…」
 人も物も、自分以外には執着しないのか…
「一生大事にしたいってものが、矢崎さんにはまだ現れてないんだね…」
 おもしろいけど、寂しい人生のような気がする。空には大事にしたい物が沢山ある。子どもの頃に買ってもらったお菓子のおまけは全部取っている。家族がバラバラになる前に買ってもらった野球道具やサッカーボール、絵本や偉人伝シリーズとかも取ってある。
 それに、新しい、家族以上に大切な安土とトラ、組員のみんな。


「矢崎さんにも大切なものはあるよ」
 浅葱先輩は組員が点ててくれたコーヒーにミルクを入れながら言った。
「矢崎さんにとっては安土組長と安土組が何より大切なんだ。組員のみんなもね」
「そうか…それはあるよね。でも、先輩、矢崎さんのこと良く見てますね」
 それはさりげない一言だった。同じ高校生だけど凄く落ち着きがあって、綺麗だから弱いのかと思ったら一本筋が通った男らしさがある。美しさと強さと優秀な頭脳にお金、天は全てを与えたという希な例みたいだった。
「うん、まあね。ばらしちゃうと、実はうちもヤクザだったんだ」
 エイプリルフールはとっくに過ぎた。それとも僕が知らない『嘘をついても良い日』があるのだろうか…
 ぽけ…と綺麗な浅葱先輩を見つめてしまった。
「ヤクザって…安土組みたいな、あのヤクザ…?」
「うん。もう解散しちゃったんだけどね。組が崩壊するときに先代の安土組が助けてくれたの。僕のおじいちゃんが先代と仲良しだったんだ」
 規模は大きくなかったけれど、宝石商の商売が順調で資金も豊富、上部の団体からも評価されていて、それがある時、新興の組から乗っ取られそうになった。お祖父さんは宝石の代金を集金に行った先で待ち伏せていた敵に殺され、浅葱さんとお兄さんが人質に取られた。お父さんは組を継ぐ気が無かったのと家族が犠牲になったショックが大きく、安土組の先代に組は解散しシマを全て譲るので助けて欲しいと話しを持ちかけた。罪は自分と若頭が全て引き受けるので、息子達を助けて欲しいと…
 

 その結果、安土組は無血で全てを収めてくれたが、人質となっていた兄弟は無傷ではなく…逆上した若頭と彼の側近が敵組織の幹部を数名、日本刀で斬り殺してしまったのだった。彼らは現在殺人罪で服役中。三名が、それぞれ10年の刑を申し渡され、あと7年残っているのだそうだ。
 安土組には返そうにも返せないくらいの恩義があり、そのために取締役には必ず一人、安土組のメンバーを就任させることにしている。そうすれば、安土組にも毎月幾ばくかの金が流れる。
「竜太郎さんって言うんだけど、服役中の若頭…ずっと僕の側付きで…でも、一度も面会してくれないんだ…大好きで、自首する前の夜はずっと抱き締めててくれたのに…もう組は解散してしまったんだから、自分のことは忘れてくれって…そんなの無理なのに。僕のために罪を犯してくれたんだよ?忘れるなんてできない。だから、毎週、しつこいくらい手紙を書いて、写真も沢山添えて…竜太郎さんが出てきたときに浦島太郎になってないように、僕を見てもちゃんと気が付いてくれるように、ほとんど毎日分の写真を撮って送ってるんだ。返事は…年賀状は送ってくれる。明けましておめでとうございます以外は何も書いてないんだけどね…」


 自分以外の誰かのために誰かを殺す。そんな世界が身近にあったなんて、空は驚嘆した。でも…それが強い絆で結ばれた二人の間でならあり得るのだろう。空は安土のことを考えた。もし安土になにかあれば…人をあやめたり、傷つけたりすることが出来るだろうか?恐らく出来ない…こんな自分には安土への愛情が足りないのだろうか?
「空君、どうかした?」
「ん?ええ…と…竜太郎さんって、とっても浅葱さんのこと愛してるんだなって…」
「うん。安土さんだって、そのくらい空君の事が好きだと思うよ」
「え…なんで…そう思うの」
 …分かったの?と聞きそうになってすんでの所で言い直した。少しは駆け引きが上手くなっただろうか…
「ふふふ。そんなわけで、矢崎さんと僕はずっと前から仲良しなんだよ。天変地異の前触れとか言って驚いてたもん。いずれはそんな相手もみつかるんだろうけど、まさか未成年のぼうやだなんて、安土組が崩壊するって心配してた。うちと同じ運命をたどるんじゃないかって…うちとは土台から違うのにね。矢崎さんはああ見えて、安土さんの事が心配でたまらないんだよ。血を分けた兄弟で、なおかつ同じ組の二本柱なんだから…あれでお兄ちゃんっ子な可愛いところあるんだよ」
「お互いに何かあれば、誰かを傷つけたりできるのかな…」
「たぶんね。お互いにそんなことは望んでいないだろうけど…それ相応の事はするだろうね。二人にとって安土組は家族そのものだから、組の屋台骨が揺らぐことだけは避けるだろうけど…空君、安土さんにとって空君はもうかけがえのない家族なんだよ。矢崎さんが心配しつつ反対しないのは、安土さんが空君を選んだから。空君も、迷いながらどうやって自分の世界と交わらせていくか一生懸命考えているから、頭ごなしに反対しないんだよ。それに…ちょっぴり羨ましいのかもね」
「羨ましい?」
「うん。今までは、まぁ、組長と若頭って言う関係でもあるからいつも一緒だったんだけど、最近安土さんは空君と一緒にいたがるから、拗ねてるんじゃない?お兄ちゃんを取られて…」
 そんな人には見えないけど、もしそうだったら、矢崎の意地悪な物言いも可愛く思える…
「矢崎さんって、恋人欲しくないのかな?」
「どうだろ…矢崎さんは好きな子は虐めるタイプだし、いつも誰かを弄り倒してるから…二人ともそれなりの立場の人達だから、時々女性を連れてるのは見たことあるけど…みんな玄人さんだった」
「玄人?」
「うん。クラブのママさんとか水商売系で、惚れたキレたって言わない良くできた女の人達。ああ、空君は気にしなくて良いからね。空君と出会ってからは仕事終わったら即帰宅してるし…」
「女の人と一緒じゃないといけない事ってあるのかな?」
「んー…どうだろ。結婚してたら奥さん同伴ってこともあるけど、してないし。安土さんには空君がいるから、空君を連れて行くんじゃない?」
 空はびっくりして浅葱先輩をびっくり眼で見つめてしまった。
「そ、それはっないでしょ普通…そんな、絶対嫌だ…僕なんか…ヘンだよ」
 浅葱先輩くらい綺麗なら連れて歩いても良いけど、自分のようなどこにでもいそうな子供を連れ歩いたって、知り合いの子供の面倒を見ているくらいにしか思われない。恋人なんてばれてしまった日には、安土さんの恥にしかならないのじゃないか…?
「ヘンじゃないよ。空君の良さは誰にでも直ぐ伝わる。それに、空君自分が笑ったときの顔見たことある?空君って、写真の顔は緊張するタイプだし…でも、凄く温かくて、可愛くなるんだよ」
 可愛い…男としてどうかと思うけど…
「男らしいとか言われる方が良いけどな…」
「ふふふ…僕だってそうだよ。でもさ、どう転んだって安土さん達みたいにはなれそうにないもん。自分のフィールドで力一杯輝く方が良いと思うな」
 

 久しぶりに里帰りしたポチタマに会えて嬉しかったのか、トラは思いっきり走り回って、ポチタマとレスリングして、楽しそうだった。やはり猫は猫同士で遊んだ方が良いのだろうか?できればトラにも相棒を見つけて上げたい。けど、これ以上安土に迷惑を掛けるのも気が引ける。
「空さん、組長が駐車場に着いたそうです」
 仔猫たちが団子になって転げ回るのを見ていたら、もうそんな時間になっていたのか…
「浅葱先輩、今日はここで夕食を食べていってくださいね」
 浅葱先輩が訊ねてくると知らせたら料亭にお弁当を注文してくれたようで、綺麗な漆のお弁当箱が10個ほど届けられた。安土家に出入りしている人数よりはかなり多い。しかも、七人分もテーブルにセッティングされている…不思議に思い、頭の中でいつもの人数を数えていると、部屋のチャイムが鳴った。安土だ。
 空の鼓動がトクン…と弾み、玄関まで出迎えに行く間に笑みが広がっていく。安土が鍵を開けてドアを開け、姿を現す。
「お帰りなさい!」
 満面の笑みで出迎えると、安土がそっと抱き締めてくれる…はずだったが、今日は安土の背後に大勢の人間がいた。
「お父さん…!」


「空の学校のお友達が訊ねて来ていると聞いてね。安土さんからこちらで一緒に食事でもと誘われたんだ。まったくお前は…何から何まで安土さんにご迷惑を掛けて…本来なら我が家でおもてなしするのが筋だが、安土さんからお願い事があると言われたのでね…」
 それはもしかして…この家の玄関で父を見たとき、空の身体に寒気が走ったが、今また父の台詞で今度は目が回りはじめた。お願いごとって…
「お父さん、こちらが海月先輩だよ。僕の学校の高等部3年で生徒会長」
 父の後ろには陸もいて、空がどうすればいいのか見当も付かずに呆然と突っ立っているのとは対照的に、陸は慣れた雰囲気で海月先輩を父に紹介した。
「今日はトラにも会いたかったし、安土さんのお家にお伺いしたいと言ったのは僕なんです。だから空君を怒らないであげてください…」
 浅葱先輩がすまなそうに、控えめに微笑む。どんな表情をしても綺麗な人は綺麗なままだな、と空は関係ないことしか頭に浮かばない。
 全員が席に着くのを見計らって、黒服がやはりエプロン姿で、お吸い物を運んで来た。
「ほお…松茸の香りですね。今年初めてだ」
 去年も一昨年も一昨昨年もうちで松茸など食べた覚えが無いので、父達は外でしょっちゅう食べているに違いない。舌も庶民派の空にはどうでも良いことだが…
「お口に合えばいいのですが…白石さん、お酒はいける口ですか?」
 よそ行き態度の矢崎に、空と陸は顔を見合わせる。
「ほどほどに…」
 そう言えば子どもの頃は父もよく家で晩酌をしていた。陸が産まれたばかりで、空と陸の両方を膝に抱えて、いつか3人で一緒に飲むのが楽しみだと…
「お父さん、3人で飲むのはまだまだ先のことだね…」
 残念だけど、そんな会話を思い出したのが嬉しくて、空は下唇を噛んで微笑んだ。
「ああ、あと四年だな…陸はまだ赤ん坊だったから覚えてないかも知れないが、二人を膝にのせて晩酌していたな」
 父も、久しぶりに空と陸を見て微笑む。
 安土と付き合うようになって親子の会話が増えた事を、父は気付いてくれただろうか?そうであれば、せめて近所付き合いくらいは普通にしても良いと思ってくれるのでは?もちろん、純粋に嬉しいのであって、切り札にしようなんて姑息な考えはない。
「えー、僕覚えてない…だって父さんとは一緒に遊んだ記憶もないもん」
 12品も入った松花堂弁当を前に、思いっきり迷い箸をしながら陸がぷーっとほっぺたを膨らます。
「陸、それお前、みっともないから箸を置いて良く見て考えて喰え」
 陸に教育的指導をしたのは矢崎だった。
「だってどれが何だかさっぱりわかんないんだもん!」
「端っこから順番に少しずつ喰えば良いだろ?」
「いきなり嫌いなものだったらどうするの!」
「黙って飲み込め」
 

 この二人が言い合いをはじめると延々と続く。空か安土がたしなめて鎮静化するのだが、今日は二人の応酬に加えて父親の様子が気になり、空は父と安土を交互に見つめる。       先に言葉を発したのは父だった。
「陸…矢崎さんの言う通りだぞ。だが、父さんも悪かった…陸には行儀や作法をきちんと教えていなかったからな…」
 行儀作法を知らないのではなく、陸は身につけると言うよりそれで内申点が上がるなら、必要な場所で披露すればいいと思っていた。安土家は陸の心の中でも既にくつろげる場所になっていたのだろう、本来の陸の性格が良く現れる。空にしても同じで、自宅にいるときより自分らしく過ごせる。
「お父さん、あのさ、僕も陸も、ここにいる方が、家にいるときより気持ちが休まるっていうか…家が嫌いなんじゃないけど、学校から帰っても誰もいなくて、ただいまも、おやすみなさいも、行ってきますも、挨拶もろくにできない。陸なんて朝ご飯もまともに食べてないんだよ?お父さんには黙ってたけど、最近ずっと、陸とここで朝ご飯食べさせてもらってる…みんな見た目はヤクザで職業もヤクザかも知れないけど、僕たちにはとても良い人達だよ?どうして…どうして、お付き合いしちゃいけないの?」

 

 少しでも父の安土に対する偏見を減らしたくて話し始めたものの、内容は空にとってごく普通のことで、父の気持ちを動かすには物足りない気がする。
 父は深いため息をつきながら箸を置くと、安土に向き直り、頭を下げたのだった。安土や矢崎が箸を置いて姿勢を正すのは分かるが、浅葱先輩まで居住まいを正し、矢崎は陸からも箸を取り上げてしまった。空は…出遅れてしまい、かなり間抜けに思えたがゆっくりそっと口の中の物を飲み込み、箸をきちんと揃えて箸置きに置いた。
「申し訳ありませんでした」
 父の最初の言葉がそれだった。
「ですが…私の最初の反応は、親として当然の反応だったと思います。ほったらかしにしていたとは言え、子供がヤクザと交流を持つなど決して許せる事ではない。幸いなことにあなた方は私が恐れているような人達では無いらしい。正直言ってどこまで信用して良いのか分かりませんが、子供達をみていると私なんかより余程信頼して頼っているようだ…私たちがしっかり向き合わなかった証拠です」
「お父さん、じゃあ、ここに遊びに来て良いの?ずっと?三ヶ月だけじゃなくて?」
 まだまだ沢山聞きたいことがあるけれど、考えてみればこの数年、まともに相談事をした覚えもない。相談するほど深刻な事態に陥ったこともなく、ダメと言われることが分かっていることは諦めた。仔猫の一件だけはどうしても譲れなかったけれど、もし安土が現れなかったら、今度ばかりは修復できない傷を心に受けていたかもしれない。
「それは、安土さん達と話し合って決めようと思う。安土さんは私以上に忙しい方のようだから、空も陸ももう少し気を遣いなさい。ところで、安土さんからのお話というのは?」
 

 空はちらっと安土を見た。
「トラを…うちで飼うことにしたんだが、なにしろ動物など一度も飼った事がないので…これからも空と陸に時々様子を見てやってもらえないかと言うことと…」
 安土は言葉を止め、父の空いた杯を満たしながら続けた。
「…失礼だが、空も陸もまともな朝食を摂っていないようなので…ぜひうちで…」
「いえいえ、そこまでは…お恥ずかしい話し、妻が食事の支度をしたがらなくなってしまって…家政婦を頼もうと何人か面接をしたのですが、なかなか良さそうな人が見つからなくて、そのままになっているんですよ…」
 一言言えば一万倍になって帰ってくる母のもんくを聞きたくないので、父は母の行いには何一つ注文を付けなくなっていた。空も陸も同じで、母がキレる前に万事整えておく方が利口なのだ。
「なんならうちのを貸しましょうか?」
 矢崎は珍しいことに親切心からそう言ったのだが、父は大あわてで断ってしまった。皆さんお忙しいのに、と言うのは建前で、この上白石家の中にまでヤクザが出没するようになるのは御免被りたいというのが本音だろうか…
「矢崎さん、それよりやっぱり空君達が上に上がってくる方が気楽でしょ?」
 安土と空が少しでも長く一緒にいられるように、が大前提の話しなのに…そう思った浅葱が助け船を出す。と同時にテーブルの下では、浅葱が長い足で思いっきり矢崎のつま先を踏んづけていた。
(もう、無粋なんだから!)
 浅葱ごときの力では痛くもないのか、顔色一つ買えずに矢崎は言った。
「…と、それもそうだな。陸、お前も上の方が玄関先で組み手とかできていいだろ?」
「そだね。上の方が玄関先は広いからね」
「陸、お前そんなことまで…」
「だってお父さん、安土組の人達、みんな柔道とか空手とか凄いんだよ?稽古付けてもらったら、僕、一年生の中では一番強くなれたんだ」
「陸、おめえはほら、野菜とか食ってないからちびっこくて弱く見られんだ。俺のも食え。ほら、ほうれん草とかにんじんとか…」
 矢崎が自分のおかずから野菜だけを陸のお弁当に移動しはじめる。
「ちょっと…矢崎さん、僕嫌いなんだってば…いいよ小さくて。小さくて強い方がかっこいいじゃん!」 
「ガタイがいいとそれだけで余計な連中が寄ってこねえんだよ」
「大男、総身に知恵が回りかね、って言うじゃん?」
「小男は総身の智恵もたかが知れ、って続くんだ、それ」
「じゃあ僕たちどっちもバカじゃん」
「俺はバカじゃねえぞ。俺ハーバード出身」
「うそつき」
「ホントだってば。なあ、秋思?うちに卒業証書飾ってあんぞ?」
 

 矢崎と陸の減らず口のたたき合いが面白くて、全員が笑いを堪えて聞いていたが、突然話しを振られた安土に真偽を訊ねる視線が一斉に向けられ、一瞬だけ安土が笑った。
「そう言えばそうだったな」
 陸がびっくりして矢崎を見上げた。
「うっそ!?」
「本当だっつうの」
「じゃあ今度卒業証書見せてよ。見るまで信じない。見ても信じないかも。だってもしかしたら偽物かもしれないじゃん」
「本物見たことあるのかよ」
「ないよ…」
「じゃあ本物か偽物かどうやって見分けるんだ?」
「…理数系は得意?」
「ああ?数学と物理は天才的だ」
「…じゃあ後で問題集持ってくるから、やってみせて」
「中学のか?」
「…お兄ちゃんの!お兄ちゃんの問題集貸して!」
 そしてその夜は、肝心なことは話し合いもせずに全員で数学の問題集を解いていたのだった。