空・翔る思い

安土と空

5

「今度は英語だからね」
 どこまでも完璧な答えを出し続ける矢崎にふくれっつらで負け惜しみのような台詞を空が出したところで、その日はお開きになった。
「ね、お父さん、矢崎さんと英語の問題集解きっこしても良い?」
 早い時点で脱落して、トラ、ポチ・タマと遊んでいた父はもうどうにでもなれと言う気持ちになっていた。全てにおいて、自分より遙かに出来が良い安土家の人間と付き合うな、と頭ごなしに言ってみても、それは負け惜しみでしかない。
「ああ。だが、無理を言うんじゃないぞ。忙しくないときにお願いしなさい」
「矢崎さんったら、いつもうちのお店でお茶してるから、早く帰って陸君の勉強みてあげるといいよ」
 父は海月先輩も元ヤクザの息子だと知って卒倒しそうだった。由緒正しい高貴な血筋のご子息と言った方がぴったりな容姿と物腰の海月浅葱に『勉強を見てもらうと良い』などと言われると、それまで躊躇していた気持ちなど何処かへ吹っ飛んでしまい、一も二もなく『ぜひお願いします』と言いそうになる。結局、自分の人を見る目などその程度のものだったのだ。
「さて、僕はそろそろ帰らないと…」
 浅葱が暇を告げると、父もそろそろ、と空と陸に目配せしながら立ち上がる。
「お父さん、僕、海月先輩を送ってくるから、陸を連れて帰ってくれる?後片づけも手伝うからちょっとだけ遅くなるかも…」
 父は軽く頷くと、陸を連れて帰っていった。
「じゃ、僕も帰るけど、空君はここで良いからね」
「え…でも、荷物沢山ありますよ…」
「矢崎さんに手伝ってもらうから大丈夫。空君は安土さんのお世話があるでしょ?」
 お世話と言うほどのことは無いけれど…
 安土を見上げると視線が重なり、肩に手を回してきた。そう言えば今日は全く安土に触れていなかった、と思った瞬間、ぽっと顔が火照ってしまった。


 空が後かたづけを手伝おうとすると安土に止められ、肩を抱かれたまま寝室に連れて行かれてしまった。
「手伝うって言ったのに…」
「…後で湯飲みでも洗えばいい」
 そっと抱き寄せられると、今日はいつも以上に甘えたい気分になる…三ヶ月という制限が解除され、父に安土の良さを少しでも分かってもらえたのが嬉しい。恋人として付き合うことを許してもらったわけではないけれど、それでも十分な進歩があった。
「良かったね」
「ああ。ほっとした。俺たちより、陸と矢崎と、浅葱さんのお陰だ」
「うん…お父さんを見たときはびっくりしたけど、心の準備してなかったから、逆に素直になんでも話せて良かったのかな…うちが嫌いなんじゃなくて…寂しかったの、分かってもらえたかな?」
「ああ。大丈夫だ。だが、次はこんなもんじゃすまないかもしれない。オヤジさんも空も、もっと苦しめてしまうかも知れない。それでも俺はお前が欲しい。いつか必ず理解してもらう。信じて、ついてきてくれるか、空…」
 どんな事が起こっても、安土は絶対に自分を傷つけたりしない。この人となら、どんな困難でも一緒に乗り越えられる。
「うん…」
 安土が側にいてくれるだけで空の気持ちは晴れやかになり、羽を広げて遙か彼方まで飛べそうな気になる。
 安土の唇が空の唇を食み、熱く濡れた舌がそっと押し入ってくる。そんな、ほんの少しの刺激で、空の未熟な心と体はとろけてしまう。へなへなと崩れ落ちそうになる感覚も最初は恐かったけれど、安土の力強い腕に支えられている安心感に自ら身体を預けるようになった。
 くったりして安土に寄りかかるとつむじやこめかみに優しいキスが降り注ぐ。
「下まで送っていこう…」
 

 白石家の玄関前でまたひとしきりキスをして、名残惜しいのを我慢してドアを開けると、見たことのある靴が…
 矢崎の靴だ。
「あれ…?」
 安土にも家に上がってもらい、居間へ向かう。父親が一人でお茶を飲んでいた。
「お父さん、矢崎さんは?」
「陸に引っ張られて…英語も見てもらうとか…すみませんね安土さん明日もお仕事なのに。良かったら連れて帰って上げてください。お前もだぞ、空」
 空が陸の部屋まで案内し、ドアを開けようとすると安土がそっと止めた。
「どうしたの?」
 安土は廊下の壁にもたれ掛かって腕を組み、じっと空を見つめた。
「矢崎、相当きてるな」
「??」
「まああれだ…陸の事を気に入ってる、って事だ」
「え!?」
 驚いて大きな声を出しそうになった空の口を、安土は素早く塞いだ。指で静かにするように合図すると、空は口を塞がれたまま頭を縦に振った。
「それって…えーと…矢崎さんって…小さい男の子が好きなの?」
 いくらなんでもまだ小学生に間違われるような陸を好きになるなんて、あり得ない。それに矢崎の態度は猫がネズミをいたぶって遊んでいるような様子で…
「いや、かつてそんな事はなかったが…人の気持ちなんて、どこでどう転ぶか分からんからな」
 自分たちのことを考えると良く分かるではないか…空はふと思う。
「でも…」
「心配か?」
「…うん」
「矢崎もまだ、めんどくさい弟ができたくらいにしか思ってないだろう。あいつはあれで人の気持ちには鈍感だからな。陸にその気がなければそれで終わる」
「放っておいて大丈夫なの?」
「ああ。詳しくは明日話そう。今日は連れて帰る」
 気を取り直し、ノックして部屋にはいると、陸は真面目に机に向かって教科書を広げていて、矢崎は机に軽く腰掛けて、こちらもくそ真面目な表情で陸の手元をのぞき込んでいた。
「矢崎、帰るぞ」
「ん?ああ。迎えがきちまった。まあそんな感じだ、陸。今週末までに…こっからここまで丸暗記して音読できるようにしとけ。読みながら意味もわかんねえとだめだぞ」
 陸の頭をくしゃくしゃっと掻き、矢崎は安土と共に帰って行った。


「あ、お父さんお早う。これ、上でおみそ汁分けてもらったから、飲んでで。陸と一緒に出掛けます」
「またそんなものまで…まあ有り難いが…」
 家でみそ汁なんて何年ぶりだろうか…節度のある付き合いをしようと思っているのに、初日からツボを得た差し入れで決心が大揺れに揺れる。正直言って、白石父にとって安土の人間は仕事の面だけでも優秀な人材が揃っていて、羨ましい。自社の社員の中にはどうしたものかと思ってしまう社員も多々存在する。安土のようにカリスマ性があれば、一言声を掛けるだけで全てが思惑通りに動いてくれるのだろうが、凡人の自分など、社長とはいえ株主からは突き上げられ取締役会からは押さえられ…良い品物を見分ける目と感だけでここまで大きくなったようなものだ。その感が、ヤクザの安土に警鐘を鳴らさないと言うことは…信用して良いと言うことか?
 行ってきます、行ってらっしゃい、挨拶すら数年ぶりで気恥ずかしいが、疲れでどんよりしていた気持ちがぱっと晴れ、清々しい。
「ふむ。合わせミソか…」
 丁度良い加減のミソに大根と油揚げの具。
「明日は飯を炊いておくか…」
 と一人ごち、父は明日もみそ汁をおすそ分けしてもらうことを考えている自分に苦笑いしてしまった。


『今日は帰宅した後、トラのに予防接種を受けさせに動物病院へ行きます』
「よし…っと」
 メールの送信ボタンを押して、空は携帯を胸ポケットにしまう。
「お兄ちゃん、安土さんにメール?」
「ん?うん。今日はトラを予防接種に連れて行くから…」
「あ。空君、メール帰ってきたよ」
 昼休み、いつもは特別席でスペシャル・ランチを食べている浅葱先輩と陸が、今日は一般席で定食を食べている。空に付き合ってこうなったのだが、ブタのショウガ焼き定食を食べても浅葱先輩は様になる。
 浅葱先輩に胸元を指さされると、僅かに遅れて振動が伝わってきた。
『了解。車を手配しておく』
「あ…。そんなつもりじゃなかったのに…」
「返信めちゃくちゃ速いよね…羨ましいな…」
(そうか…浅葱先輩は…返事もらえないんだっけ…)
 自分のせいで服役している恋人に自分のことなど忘れろと言われて、毎週手紙を書いているのに返事をもらえない浅葱先輩の事を考えると、先輩の前では安土にメールを出すことに気が引ける。
 

 空は返信せずに携帯を閉じた。車はいらないと言っても絶対に用意するだろうから、今夜合った時に話し合えばいい。メールだと昼休み中押し問答が続きそうだった。
 話しをどう繋げばいいのか分からなくて、空は食べながら英語の教科書を見ている陸の頭をコツンと叩いた。
「陸、食べながら教科書読まないの。みっともないよ」
「だって範囲が広すぎるんだよ…」
「集中して食べないから身に付かないんだよ。大きくなれないぞ」
「…はーい」
 浅葱先輩は空が叩いて髪が乱れた部分をなおしながら、陸の頭を撫でてくれた。
「僕も中学の頃はりっくんくらいだったんだよ。背が伸びたのは高校生になってからだから、気にしなくて良いのに」
「浅葱先輩とか安土さんは優しいのに、矢崎さんはいっつもチビとか言っていじめるんだ。いつか絶対のしてやるんだ!」
「あの人も子供っぽいところがあるからね。りっくんみたいな弟ができて嬉しいんだよ」
 そう言えば安土も同じようなことを言っていた。いや、それより問題なのは矢崎が陸を気に入っている、と言うことだ。どんな気に入り方なんだか…
「弟!僕、弟って立場に散々苦しめられたのに、なんで矢崎さんの弟にまでなんなきゃいけないの!弟!絶対お断り。絶対やだ、あんな人の弟」
 苦しめられたって…兄としては捨て置けない言葉だ。
「陸、僕も苦しめたの?」
「だってお兄ちゃんは、お父さんと遊んだり、お母さんやお姉ちゃんとも楽しい思い出があるのに、僕だけ何にもない」
 物質的には陸が一番恵まれているけれど、精神的にはかなり寂しい思いをさせたのかもしれない。陸は幼稚園の頃から受験体制に入ったので、空ともあまり遊んだことがなかった。空は弟が産まれて嬉しかったのだけど…
「それに、お兄ちゃんの学校の生徒達は乱暴者が多くてさ、前の家にいるときにはよく小突かれたりしてたんだ。制服とか着てたから…」
 それは初耳で、しかも聞き捨てならない。
「それって、僕の友達?」
「違うけど…商店街の、地元組」
 以前住んでいたところは古い町で、何代も前から住んでいる人が多く、空の家族はその直ぐ近くに新しくできた建て売り住宅に住んでいたので、新参者だった。それでいじめられたことはなかったけれど、陸のように私立のおぼっちゃま学校に通う子もいなくて、ある意味陸は目立った存在だった。大人は遠くまで一人で通う陸に優しかったが、見た目も仕草もおぼっちゃまな陸と比べられる子供達はたまらなかったのだろうか?
「お兄ちゃんに言わないから…」
「言ってもしかたないでしょ?無視した方が賢いよ」
「まさか、今もだれかにいじめられてるとか…」
「ないない。いじめっ子はいるみたいだけど…僕はなよっちく見えないし、虐めたら三倍返しされそうだから大丈夫なんだって」
 三倍返しって…頭も良いし口も達者だから触らぬ神に祟りなし、と言ったところだろうか。誰かさんと良く似ている…
「ふふふ…それにりっくんは生徒会の人気者だからね。誰も手は出してこないよ」
 浅葱先輩にアタックをかけたのは、そんな理由もあったのだろうか。だとすれば空が思っている以上に陸は狡賢い。それを嫌う生徒もいるはずだから、少しは気に留めてやらないと…
「陸、だからって無茶したらだめだよ?ほんの些細なことが気に入らなくて因縁ふっかけてくる子もいるからね?」
 陸は怪訝な表情で空を見た後、浅葱先輩の耳元で何かをそっと囁いていた。
(ラブラブだとこんなに性格変わるのかな?)
 浅葱先輩は陸の台詞がそうとうおかしかったみたいで、暫くテーブルに突っ伏して笑っていた。


 トラを動物病院へ連れて行った後、安土家で宿題をしていたら父からメールがあった。今夜は遅くなるから、無洗米を放り込んでスイッチを入れておけと…
「トラ…今日でこの世が終わるかも」
 白石家も安土家も、なぜ男が料理をしているのだろうか。安土家は男しかいないから仕方ないけど、家は女性が二人もいるのに、なぜ…
「清田さん、僕一度うちに帰って、ごはん炊く準備してきます」
 安土家常駐の黒服の一人、清田に声をかけると、清田が提案してきた。
「空さん、米は沢山炊いた方が美味いんです。明日の朝、空さんちの炊飯器の釜を持ってきてくれたら、うちのでっかい炊飯器からおすそ分けしますよ」
 それも良いかもしれない。安土家では、いつも炊きたての美味しいごはんが出てくる。あれを家で食べられたら…でもこれは父には黙っていた方が良いのかな…
「隠し事はしたくないけど、ごはんくらい良いよね?」
 トラに首をかしげて見せたら、にー、と返事が返ってきた。
「空さん、組長が駐車場に着いたそうです」
 空は駐車場に着いたと連絡があって、姿を見るまでの時間がとても好きだ。ドキドキする鼓動を押さえるために何度か深呼吸してから玄関に向かう。スリッパを整えてもう一度深呼吸をすると、玄関のチャイムが鳴る。ドアが引かれ、最初に入ってくるのが安土だ。その後に矢崎と数人の黒服が続く。
「おかえりなさい」
 隠しきれない笑顔で迎えると、安土は後ろに人がいることに構わず、空を抱き寄せる。矢崎と黒服達は、靴をしまったり自分たちのスリッパを出したりで安土と空を盗み見る事もないが、やはり人前での抱擁は抵抗がある。
「ただいま。変わりはないか?」
「うん。トラの予防注射も済んだし、宿題もおわっちゃった。お父さんも今日は遅くなるって。陸も帰ってるはずなんだけど…」
「陸なら後から来るって連絡があったぜ」
 陸は矢崎なんか、といつも言っているくせに、安土家に来るときは矢崎に連絡を入れる。
「そっか。じゃあごはんの準備をするから上がってきてって、陸に伝えてもらえますか?」
 矢崎にそんなことを頼む自分も自分だが…
「おう」
 当然とばかりに答える矢崎も矢崎で、
「トラ、注射がんばったな」
 と言って足元にじゃれつくトラを抱き上げている安土も、みんなヤクザじゃないみたいだ。
 

 安土について寝室へ入り、部屋着に着替える手伝いをする。
 でも本当はそれだけの理由じゃなくて…
 上着を受け取りハンガーに掛け、ネクタイを受け取り…着替えてしまう前に抱き寄せられることもあるし、シャツを脱ぎながらキスをされることもある。一番好きな時間は、安土が上半身裸になって、その逞しい身体を見る事が出来たとき。安土の背中に住む鳳凰にお帰りなさい、と言えたとき。
 鳳凰に声をかけ、喉をすっと撫でると、安土が焼き餅を焼いて空の首筋に音を立ててキスしてくる。そんな瞬間も好きだ。ほんの五分くらいの行為だが、心の底からじんわり温かくなり、空は十分幸せだった。
「そうだ…昨日の矢崎さんの話…」
「ん?ああ、あいつの事か。大した話しはないんだが…俺も弟も、まともに誰かと付き合った事はない。が、弟は俺より長いスパンで女と付き合ってた。長くて三ヶ月ほどだがな。相手の気持ちなど完全無視で、嫌がられようと好かれようと、気に入ったら奪い飽きたら捨てる、その繰り返しだ。誰かのために自分の時間や能力を割くなどもってのほかだと考えているヤツが、陸に柔道の技を教え、勉強を見て、送り迎えまでやってのけるようになった。今まで通りなら三ヶ月もすれば飽きるんだが…始まりからして違う。この先どうなるのか、俺にも分からんのだ」
「陸は…今日、矢崎なんて大嫌い、いつかのしてやるって言ってたよ。陸があんなに負けん気が強いなんて、思いもよらなかった。好きか嫌いかで考えると嫌いだけど、好きでも嫌いでも他の誰より強く意識してる。そんな感情って、恋愛に変わったりするのかな?」
「どう転んでも、お前達家族に嫌な思いをさせないと約束する」
「うん。分かってる。僕は…陸がまだ子供で、矢崎さんがもの凄く酷い人間だとしても、好きになっちゃったのなら、とめない。ていうか…もっと気になったことがあるんだけど…」
 矢崎は長くて三ヶ月で、安土より長く女と付き合っていた、と言う言葉が耳から離れなくて、陸のことより自分の事が不安になってきたのだ。
「俺は今まで誰も愛したことが無いってことだ。空が初めてで、最後だ。絶対に離れない。お前が心配することなんか微塵もない」
 安土の、囁くようで凛とした響きの声に断言されると、空の不安は一気に吹き飛ぶ。空が下唇を噛んで喜びを隠しきれないといった笑みを零すと、安土は空を懐深く抱き締め、柔らかな口づけを落とした。


「陸、もうお父さん帰ってくるし、僕たちも帰るよ。矢崎さん達の仕事を邪魔しちゃいけないって、お父さんにも言われただろ?」
 食事の後、陸は早速問題集を広げ、矢崎と問題の解き合いをし始めた。同じ問題をよーいどんで始めて、どちらが早く解き終わるかのタイムトライアル。二時間ぶっ続けで、さすがの矢崎も目が疲れたのか、目薬を差しながら応戦していた。
「おっさん、今日の所はこれでお終いにするけど…次は物理ね」
「へいへい…なんでも持ってこい。受けて立つぞこのチビ」
 勉強が終わった途端に憎まれ口。
「矢崎さん、矢崎さんの家はお近くなんですか?」
 今から帰るのはしんどいんじゃないだろうか、と思って訊ねたら、陸が口をあんぐり開けて見返してきた。
「お兄ちゃん…本気でそんな質問してるの?」
「え…陸は、知ってるの?」
「そんなの知り合って初期の話題だよね?」
 陸が矢崎に向かって問いかける。
「あー?それもそうだな。空と話し込むと秋思が睨むからな、プライベートは話してないな」
「ふーん…矢崎のおっさんはこのマンションの15階に住んでんだよ。な?」
「何が、な?だ。このクソガキ」


 毎日がそんなふうに過ぎていき、半年たった頃には父親の態度もかなり軟化したように思える。変わったと言えば空がやっと16才になり、多分産まれて半年のトラも人間で言えば同じくらいになった事くらいだろうか。トラと空が同い年なら、やっぱり自分はまだ子供だな、と空は思う。 
「子供?昔の人間は15,6で親になってたんだぜ?」
「寿命が40とか50の頃と一緒にすんなよ」
 矢崎と陸の言い合いにも慣れたけれど、喜ぶべきなのか安土に対しては相変わらずドキドキしっぱなしだった。
 誕生日には安土と矢崎も招き、家族全員で祝ってもらった。安土からはパーティの前に小さなプレゼントをもらっていて、それはリングを通したネックレスだった。安土も同じ物を揃え、矢崎からは盛大に冷やかされた。

「矢崎さん、今夜はとことん付き合ってね。明日休みでしょ?たまには頭使わないと剥げるし」
 今夜は両親とも不在で、姉も友達の家へ泊まりに行き、空は久しぶりに安土家に泊まり、矢崎は陸に付き合わされて勉強会をすることになっていた。「陸、ほどほどにね」
「うん。お兄ちゃんもね」
 陸は既に勉強モードに切り替わっているようで、返事はしたけれどいい加減にあしらうような態度だった。
「じゃあ…お休み、陸、矢崎さん」
「「お休み」」


「良いのかな、二人きりにして…」
「勉強する気満々だったから、良いんじゃないのか?」
「そうかな?」
「そうだろ。なんだったら終わるまで監視しておくか?」
 くくっと笑いながら安土が優しく耳元で囁いた。ぞわっ…とした、自分でもそれが快感だと分かる感覚に、空は逆らえない。
「やだ…安土さんと二人きりが良い…」
 今夜も人払いがされていて…
 安土の家の居間はスタンドの明かりだけで、普段とは随分違う様子だった。トラは自分のケージの中のベッドで眠っていたらしく、安土と空が入ってきたとき一瞬だけ目を覚ましたが、安土に抱きかかえられ、口づけをかわしながら横切っていった二人をちらっと見ただけで、また丸くなって眠ってしまった。


「秋思、お前達、まだやってねぇのか?」
 社長室、と書かれた扉の奥で、安土の横に立って書類をめくっていた矢崎が急にそんな話題を振ってきた。
「いきなりなんだ…まだ、抱いてない」
 矢崎は手に持っていた書類をばさっと安土の前に放り投げた。それは書類のようだったが…美しく着飾った女性の写真だった。
「上から送ってきた。断る材料に乏しいんでな、自分でなんとかしてくれ」
 金と力と頭脳、しかも独身。安土組と懇意になりたい組は多く、仕事上だけではなく、自分の娘はまだしも愛人や妻まで安土に差し出す輩が増えてきていた。下心のある雑多な組はさておき、上部団体の、安土にとって親にあたる人々からの好意は無視するわけにはいかない。
 娘をヤクザに嫁がせたい親はいないが、安土の場合は表のビジネスでも成功を収めている上に、他のどの組よりヤクザらしい一面も持っていた。
 安土組の先代はまだ生きているが、秋思を育て上げ跡目を継がせると、自分はさっさと隠居して高みの見物をしゃれ込んでいる。実子も一人いるがどうしようもない男で、跡目は継がせない代わりにそれなりの暮らしが出来る会社の社長に据えている。他の経営陣は秋思や先代の息が掛かった者を置いているが…もっとも頭の痛い部分である。一男一女をもうけているがまだ幼児で、いずれは先代が預かり親よりまともになる程度には育てるつもりらしい。
 空のことは組の中でもトップシークレットで箝口令がしかれている。最近の安土組長は付き合いが悪い、以外の噂は耳に入ってこないので固く守られているのだろう。先代からも特に連絡はない。が、こちらから話しをするのが筋だろう。
「三ヶ月で決着がつくと思ってたんだがな…本気なら、暫く荒れるぜ」
 そんなことは分かり切っている。それも込みで空に信じろと言ったつもりだ。
 安土はデスクの上の受話器を取り、直通ボタンを押した。