空・翔る思い

安土と空

6

土曜日、その日は安土に誘われて外で昼食を食べる予定になっていた。浅葱先輩と陸、矢崎も一緒で、中華料理を食べに行くのだそうだ。放課後、浅葱先輩の車で待ち合わせ場所のホテルまで連れて行ってもらう。あまりこんな所に来たことがない空は、なんとなく気恥ずかしくなりもぞもぞしてしまう。それに比べたら浅葱先輩はどこに行っても周囲を圧倒する気のようなものを発している。通りかかる人はみんな浅葱先輩の美しさに目が釘付けになるようで…一緒にいる空も時々ぼーっと見つめているときがあるが、美しいものに対する反応は万人共通なんだな、と思う。
 陸は浅葱先輩と空の間でちんまり座っている。外面が良いというのはこの事で、どこからどうみてもお行儀の良いおぼっちゃま、といったふうを装っている。
「あ!」
 浅葱先輩が知り合いを見つけたようで、小さく声を上げて立ち上がった。浅葱先輩の視線の先に安土を見つけ、空も立ち上がる。いつも中心にいる安土が後方にいたので空は気がつくのが遅れたのだが…
 安土の前には恰幅の良い初老の紳士が立ちはだかっていた。
「貴雄おじさま!」
 浅葱先輩が嬉しそうな笑顔を浮かべて駆け寄っていく。空も陸を引っ張って安土の元に駆けだした。
 しかし…浅葱先輩がその紳士に近寄り、空が少し遅れて近づくと、知らない黒服達に通せんぼをされてしまった。不安になり、後ろにいる安土を見る。安土は直ぐに通せんぼをしている黒服達に小声で話しかけ、空の周りから黒服達をよけてくれたが、その黒服達がぎょっとしたように自分を見ていることに気がつく程度には冷静だった。
「安土さん…」
 安土は空の背中に手を当て、その紳士の方へ向かせた。
「秋思、海月の精霊を射落としたのかと思ったら…違うようだな」
「まだ殺されたくありませんから…ところで…こいつがお話ししていた空です。空、この方は安土組の前組長で、俺の義父だ」
 

 別室に通されるまでの間、空は緊張しすぎて自分でちゃんと歩いていたのかさえ覚えていなかった。
「安土さん…僕、ちゃんと、自己紹介したかな…?」
 安土を見上げて訪ねると、義父が答えた。
「白石空」
「え、あ、はい!何でしょう?」
「…と、言っておった」
 後ろにいた矢崎がぷっと吹き出す。
「土産がどうのこうのとか、何やらごちゃごちゃ言っておるのも聞こえたが…」
「あの、安土さんが教えてくれなかったから…挨拶とか、手みやげとか、考えて無くて、あの…」
「大丈夫だよ空君。貴雄おじさまには僕が何よりの手みやげだよね?」
 先代はずっと浅葱先輩の腕を取って、手の甲を撫でながら歩いているのでそれはそうなのだろうが…
 安土を見上げるが、笑っているだけで助け船すら出してくれない。
「えと、こっちが弟の…ええ!?」
「りっくんだろ?」
 なんと陸も先代と手を繋いで歩いていた。
「まあそんなに緊張するな。とって食うわけじゃない。そんなことしたら俺も速攻で棺桶行きだ、な?秋思」


 空の緊張も料理がやってくると同時に解れてきた。安土とはあまり出歩いたことがなく、月に一度外食するかペットショップへ行くくらいで、安土組の人に会うのもこれが初めてだった。
 今も特別室で円卓を囲んでいるが、先ほどの黒服達が部屋の隅をぐるりと取り巻いていた。彼らはいつも安土家に出入りしている下っ端とは違い、事務所に詰めている部下なのだそうだ。彼らも空に会ったのは初めてで、組長が自ら選んだイロである空を興味津々眺めていた。かつては美女達が座っていた席に、事もあろうに制服の少年達が座っている…海月浅葱は良く知っているが、あとの兄弟はどうみてもその辺にいるガキと変わらない。ヤクザに取り囲まれ緊張しておかしな言動を呈している姿から目が離せなかった。先代は子供好きでどんな子供にも優しく接するのだが、空の場合はそれだけでは済ませられない。安土組の威厳や将来がのし掛かってくるのだ。隠居したとは言え現役時代以上の権力をもつ先代の意向に、空の運命はかかっている。もし先代がNOと言えば、殺しはしないまでも、空は永遠に安土とは会えなくなるだろう。
 周囲の思惑などどこ吹く風、とばかりに少年達は料理に目が釘付けになっていたのだが…


「陸、そうやって嫌いなものを掘り返さない!」
「僕じゃないよ、これ矢崎さんがやったんだよ!」
「お前が嫌いって言うから退けてやったんだろうが!」
 こんな席で取り繕っても化けの皮は直ぐ剥がれるが、元来取り繕う事が出来ない空は緊張しつつもいつもの自分を見せ始めていた。
「安土さん、これ、なに?」
 空は気味の悪い緑色をしたゼリー状の物体を指さして、安土を見上げた。
「ピータン。アヒルの卵の腐ったヤツだ。美味いから食ってみろ」
 恐る恐る箸で摘み、目の前にかざしてみる。安土が美味しいと言ったので、なんとなく透明な部分がキラキラして綺麗に見えてきた。思い切って口に放り込む…その場にいた全員が空に注目し、妙に緊張している。
「ん??…んー?」
 ごっくんと飲み込んで数秒後、空の例の笑顔が見られた。
「おいしい」
「言っただろ?」
 そして何故か全員がほっと胸をなで下ろしたのだった。


「空は笑うとえらく可愛いな」
 先代が目を細めて空に笑いかけた。可愛いと言われても…困るだけなのだが…
「えと、安土さんも、ちゃんと食べてます?お酒ばっかり飲んじゃだめですよ?あ、この白身魚、ふんわりしていて美味しいですよ?」
 安土と出会ってから可愛いと言われる機会が増えたけれど、自分のどこを見て可愛いと言っているのか今ひとつ理解しかねて、その話題が出たら切り返すのだけは上手くなった(ような気がする)
「そうか、ふんわりしてるか、そうか」
「はい。ふんわりしてます」
 先代が何度も繰り返しながら白身を口に入れる。
「ね?」
「ん。ふんわりして、うまいな」
 空がにっこり笑う。
 先代が何度か同じ事を繰り返していると、さすがに気がついた安土が止めに入った。
「オヤジ、その辺でやめとけ…歯はまだ丈夫だろ?硬いものも食わないと呆けるぞ」
「安土さん、お義父さんに向かってそんなこと…」
「オヤジでもケジメは付けてもらわないとな」
「?」
 良く分からないけど、ヤクザ独特の言葉だったら空も覚えておいて、後から意味を聞いてみようと、呑気に考えるのだった。
「ほお、俺を牽制したぞこいつ」
 先代は楽しそうにしているので、気にしなくて良いのかも知れない。
「秋思と空は食事の後俺の部屋に来い。浅葱とりっくんは先にデザートバイキングへ行っていると良い。ここのホテルのデザートはとびきり美味いぞ」
 きっと自分たちのことを話すんだ…そう思って緊張したが、テーブルの下で安土がそっと手を握ってくれた。空は、その手の温もりを信じていれば良いのだと自分に言い聞かせ、安土の手をぎゅっと握り返した。


「秋思の自宅と違って人払いできんがこいつらの事は気にするな」
 先代が泊まっている部屋は豪華なスイート・ルームで、エレベーターホールから部屋の扉までに四人、部屋の中にも四人の黒服達が隅に控えていた。
「いえ…安土組の人にはいつもお世話になってますから…大事な話なら一緒に聞いてもらいたいです」
「うんうん。良い子だ」
 先代に勧められるまま安土と隣同士でソファに座ると、直ぐに紅茶が運ばれてきた。
「空はもうコーヒーを飲んでも良いのか?子供には毒だと聞いてからは紅茶を出すようにしてるんだが」
「カフェ・オーレならよく飲みます」
「うんうん。子供は牛乳を飲まんとな。俺は子供が好きだ。どんな悪ガキでも子供は純粋だからな。ヤクザの子も堅気の子も、みんな好きだ。空とりっくんも好きだ。浅葱はいつの間にか大人っぽくなってきたな…あれは一途な良い子だ。秋思の事もおねしょしとる頃から知ってるが、こいつと弟は俺の中でも別格だ。だから、実の孫よりこいつらの子供を見てみたい。そう思っている。秋思には立派な嫁を探してやりたいと思っている。空、お前、秋思の妾では嫌か?」
 いきなり妾になれとは…思ってもいなかった質問に、空は愕然とする。
「妾って…」
「愛人だな。それなりの待遇はする。だが秋思にはきちんとした家庭を持ってもらう」
 高校生の空にそんな選択ができるわけなかった。安土と知り合うまでは恋もした事が無く、両親がいなければ寂しいと思うような年齢で、いきなり愛人話など…別れろと言われた方がまだ良かったかも知れない。
 安土が他の女性と結婚する?家庭を、子供を作って?その間、自分はどうなるの?毎朝毎晩会っている今だって、もっとずっと一緒にいることが出来ればと思っているのに…それに奥さんになる人だって、空の所へ安土が行ってしまうのを何とも思わないはずが無いじゃないか…
 それに、それに…嫌なことが次々と頭の中にわき上がり、たまらなくなった空は安土に抱きついた。
「安土さ…いやだ…そんなの…いや。それじゃあ、みんな、幸せになれないよ。安土さんだって、きっと…嫌なこと、沢山…」
「空…」
 小刻みに震えながらぎゅうぎゅうと身体を押しつけてくる。こんな時の空は感情が高ぶりすぎて自分をコントロール出来なくなっている状態だ。はじめて心が通い合った日は好きという気持ちが溢れかえってどうしようもなくなり、そんなことがこれまでに2、3度あっただろうか。今回はどうやらマイナスの感情に支配されてしまったのか空の顔色は真っ青で…
「オヤジ、空が過呼吸おこした。袋みたいなのあるか?」
 安土の言葉を聞いた途端、部屋にいた全員があわてふためいて袋状のものを探し始める。
「組長、コンビニの袋があります!」
 黒服が差し出したコンビニのビニール袋を急いで空の口元に宛がう。苦しさから安土の腕にしがみついた空の指先が食い込み、空の指先が真っ白になっていた。
「空、今のはオヤジの悪い冗談だ…俺にはお前だけだ。信じろ」
 今にも死にそうで苦しそうな呼吸が、少しづつ整ってくる。相当苦しかったのか、それとも悲しかったのか、空の目尻には大粒の涙がたまっていて、今にもこぼれ落ちそうなその涙を親指で拭ってやると、空は体中の力をふっと抜いて、安土に倒れ込んできた。
「嫌だ…」
「…だそうだ」
 先代を睨みつけながら安土が言う。
「すまんな、試すようなことを言って。空、許してくれ。そこまで驚かせる気は無かったんだが…安土組はお前を認める。だがな、他は騒ぐぞ。安土と懇意になりたい組も、潰したい組も、お前を狙ってくる。二人とも覚悟しておけ。死ぬ気でお互いを守り抜け」
 どちらも死なない。空は漠然とそう思った。どちらか一方が死ねば残された方も生きてはいられないだろう。生きていなければ、愛し合えないじゃないか…


「はぁ〜びっくりした…」
 正気に戻った空の第一声に、部屋中にいた者が笑いを堪えた。
「空、こんな事良くあるのか?」
 心配そうに先代が空の顔をのぞき込んできた。
「いえ…初めてです…」
 安土が先代から引き剥がすように、空を自分の方へぐいと抱き寄せる。
「ちょ、安土さん!人前!」
 人前でも憚らずに抱きついていったことはすっかり忘れているらしい。
「もう家族だ。安土家公認だから気にするな」
「空の家族には言ったのか?」
「「…」」
 そこが最難関だ。空の恋人が年上の男でしかもヤクザ。空は未成年でもあるので下手を打てば警察沙汰になる。
「まあがんばれ」
 素っ気ない一言で先代は逃げを決め込んだようだった。


「あれで良かったのかな…」
 過呼吸の発作を起こして勝ち取ったような感もあり、空はあまりすっきりしなかった。
「良い。認めると言ったんだ、それを覆すような人間の息子にはなってないつもりだ」
 デザートバイキングへ来てみると、浅葱先輩と陸が2周目を回っているところだった。二人ともあり得ないほど皿に盛り上げている。
「すごっ…それ、食べ過ぎだよ…」
 陸はともかく、浅葱先輩はもう少し綺麗に盛りつければいいのに…
「いいの。だれかさんみたいに甘さが足りてないもん」
 浅葱先輩が空に耳打ちする。
 空も甘い物は大好きだが、最近知った別の甘さはデザートより甘く全身が満たされる。空が答えを失って突っ立っていると、矢崎がやってきてコーヒーをポットごと持ち去ろうとしていた。
「矢崎さん、それはやめた方が…」
「見ているだけで吐きそうなんだ。これくらい大目にみろ」
 確か矢崎は甘い物が苦手だった。空と陸のためにケーキを持ってきてくれるけれど、自分では一度も食べたことがない。
「空、お前も皿に取って向こうで食べてろ。俺はこいつに少し話しがある」
 空は頷くと、目の前のデザートに集中した。
「よし、食べようっと」


 食べている間は幸せだったが、2時間も経つうちに胸自棄に苦しむことになる。浅葱先輩も陸も、動くのも億劫になっていたが、座り込むとますます苦しくなるので、空はホテルの中のお店を見て回ることにした。本当はみんなで何処かに出掛けたかったのだが、珍しいことに安土からダメだと言われてしまった。それでもホテルの中だけならと許可をもらい、五人で腹ごなしをしようと思ったら…また見たことのない安土組の人達が3人現れ、空達について回ることになった。
 どこから見てもヤクザな集団に名門学校の制服を着た少年3人の団体は一際目立っていた。空はなんとなく居心地が悪く緊張したが、浅葱先輩と陸はまるっきり普段通りはしゃいでいた。
 浅葱先輩は買い物が好きなようで、洋服や小物を試着しては次々に矢崎に手渡す。すると矢崎がレジへ持っていって自分の財布からお金を払い、受け取った品物は後から来た3人が持つ。そうやって次々に店を制覇していく。
「空君はこんなの似合うのに…」
 まだ秋口だけど、店には冬物がずらりと並んでいて、浅葱先輩がその中の、オフホワイトでとても手触りの良いセーターを空にあてる。
「ね?で、パンツは…こっちの皮のやつ。はい、試着室へゴー!」
 押し込まれて仕方なく試着室へ入り、取りあえず着替えてみる。
「あ、ほらね、安土さん、空君にぴったり。りっくんはもう少し元気いっぱいのが良いよね?」
 陸もあまり服装には頓着しない方だが、空よりはまともな物を選んで着ていた。
「うん。僕はこっちのオレンジ色のが良い」
 陸が選んだ物はオレンジ色ベースに、明るい色の模様が入ったやつだった。空も陸も試着を終えると、浅葱先輩は脱いだ物を矢崎にどさっと手渡す。矢崎がレジへ向かいはじめて、空は慌てて止めに入った。
「矢崎さん!僕たちお金持ってきてないから…」
「ん?俺の財布は安土の財布。安土の財布は空の財布でもある。覚えとけ」
 浅葱先輩は超ご機嫌で空と陸の手を掴むと、次の店に突撃を開始し、空はさっきのバイキングとは別の意味で胃がひっくり返りそうだった。


 ひとしきり買い物が終わりお腹もこなれたところで、浅葱先輩は先代と約束があるからと先代の部屋へ行き、陸は夕方から塾があるので家へ帰ることになった。
「空、お前はちょっと俺についてこい。陸は車で送らせる」
 そう言われて、まだ一緒にいて良いのだと思うと陸には悪いが嬉しかった。
 安土と一緒に車に乗り込み、空が連れて行かれたのは安土の会社だった。
 10階建てのビルで、ゆったりとした敷地の中に明るいデザイン、とてもヤクザの事務所とは思えない。
「凄い、綺麗なビル…」
「ああ、二年前に建て替えた。それまではありきたりなビルだったんだがな」
 正面の車寄せにずらっと黒服達が並んでいる。車から降りた空は、黒服達が腰を折る中を緊張しながら安土に肩を抱かれて歩く。
 建物の中は明るくすっきりしており、清潔感が漂う。所々に配置された黒服がまた、安土に向かって丁寧な挨拶をしていた。
 安土はその中を、堂々と歩いていく。空がはじめて見る、安土組、組長の姿だった。


 はじめてであった日、空は安土と黒服達に囲まれてエレベーターに乗った。その時と同じく黒服に囲まれていたが、今は何となく親近感がわいてくる。安土が誰よりも大切な存在になったと同時に、安土組の人達も空にとっては大事な家族の一員になりつつある。
「ここは安土組の本部で、ここにいる者は全員が組員だ。他にも幾つかビルがあって、そっちは表の仕事関係だから安土組とは関わりがない社員も大勢いる。そっちはそのうち行く機会もあるだろうが…ここはお前の家でもあると思って良い」
 空が通された社長室は最上階にあり、秘書室を二つ抜けた奥にあった。観音開きのドアを開け中に入ると、正面は一面ガラス張りで、街の風景が一望できる。
「うわぁ…凄く景色が良い。夜景が凄いだろうね…」
「ああ…もうすぐ見られる。見て帰るか?」
「見たいけど…安土さんお仕事なんでしょう?」
「いや、特に何もない」
 じゃあどうして会社に来たんだろう…
「空の存在を知らせるためだ。うちの組員達にな。今頃全員に伝わっているはずだ。もうすぐしたら矢崎が部下を連れてくる。それまでゆっくりしていると良い」
 空をソファーに座らせると、黒服が紅茶とミルクを持ってきた。
「ありがとうございます」
「…いえ」
 黒服がちらっと空を見る。その視線は鋭かったが、安土や矢崎で慣れていたし、安土の部下なら恐いだけではないはずだと空には思えた。
 安土の分らしきコーヒーを空の横に置くと、静かに後ろに下がる。
「あ…美味しい」
 ミルクを入れても、紅茶の味と香りが負けていない。
「そうか?こいつは茶を点てるのが趣味なんだ」
「え?茶道もできるんですか?」
 空が振り向いて訊ねると、黒服が先ほどとは打って変わって照れて頭を掻きながら答えた。
「はい。一応、教える免状も持ってたんですが…」
「安土組の人って、多彩ですね」
「昔は茶道でも博打うってたらしい。こいつはそれを復活させようとして家元から破門されたそうだ」
 面白そうな話しをもっと聞いていたかったが、丁度その時、矢崎が部下を連れて入ってきた。
 一緒に入ってきた男は黒服の中でもかなり若く見える。
「こいつが一番若い田島だ。できるだけ若い方が違和感ないだろう」
「た…田島俊太です。よろしくお願いしますっ」
 緊張しているのか、声がひっくり返りそうだ。
「…矢崎…大丈夫なのか?」
「そりゃおめぇ、うちの組員だから大丈夫だろう」
「ふん…空、こいつがたった今からお前の側付きになる。俺がいないときは必ずこいつがお前についている。お前の護衛役だ」
 空はきょとんとその若い組員を見つめた。
「護衛?」
「ああ。空は俺が守る。が、俺が仕事してる間や学校の行き帰りには、何かあっても駆けつけるのに時間が掛かる。その間俺の代わりにお前を守る役目だ。何もないときはパシリに使えばいい」
「僕は、そんな、気にかけてもらわなくても良いのに…」
「空、何もないのが前提だが、中にはお前を利用して俺をどうにかしようとする連中が出てくるかもしれない。そうなる前に出来るだけ阻止するが、そのためにも護衛が必要なんだ。慣れてしまえば空気みたいなもんになる」
「それは…安土さんが、ヤクザだから?」
 ストレートな質問に、田島は硬直したが、安土は空の頭を柔らかく撫でながらはっきりと肯定した。
「そうだ。ヤクザだからだ」
 空は自分が安土を窮地に立たせる原因にだけはなりたくなかった。それに、安土組の人達はみないい人で、彼らが側にいてくれるのは心強くもあった。
「危ない事って、あるのかな…」
 ヤクザである安土と付き合う事のリスクは自分でも考えてみたが、未知の世界なので全く分からない。けれど、たとえどんなことがあっても、安土が助けに来てくれることは分かっているから、恐いとは思わない。ただ、素人である自分の判断で、迷惑はかけたくない。
「無いとは言い切れないが、俺が必ず助ける。信じて待っていてくれ」
「うん」
 空はすっと立ち上がり、田島に、よろしくお願いします、と言って頭を下げたのだった。


「空、こいつは白石の家には絶対に入らねぇ。その代わり、お前が家を出るときは必ずこいつに連絡を入れろ。あのマンションは絶対に外部の者が入れないようになっているが、それでも内部に手引きするヤツがいれば侵入は可能だ。こいつは俺の部屋に常駐させているから、一分で迎えにやる。うちに上がってくるときも絶対だ、いいな?」
 心配性だな、と思ったけれど、安土が安心できるなら空はそうしようと思った。
「うん。メールで良いの?」
「メールでも電話でも良い。番号は分かってるな?」
「うん。さっき教えてもらった」
 そうしているうちにいつの間にかマンションについてしまった。
「あ、お父さんの車だ。もう帰ってきたんだ…メール打っておこうっと」
 空が父親とメールの交換をし始めたのも安土のお陰だ。父親に一言メールを打つだけでも、後ろめたさが少しなくなる。
『今下の駐車場です。トラの世話をしてから家に帰ります』
 と打つと直ぐに『了解しました』と返事があった。今日は色々なことがあった。安土の義父に会って、安土組の事務所にも行って、新しい人達にも出会って…その全てを父に話せる日が早く来ますように、と思いながら空は携帯を閉じた。


 トラとひとしきり遊んだ後家に帰ると、何故か矢崎が家族団らんに加わっていた。
「あれ、矢崎さん、もう帰ったのかと思った」
「ああ、陸から迎えに来いってお願いされたんで、たまにはな」
「え?僕の荷物を預けたまんまだったから取りに行くって言ったら迎えに来たんじゃん」
「あ!荷物!」
 そう言えばなんだか沢山買ってもらった…
「空、安土さんから沢山買ってもらったそうじゃないか…自分で出来る範囲で良いからお礼をしておきなさい」
 今日のことはすでに陸が話してしまったらしい。
「うん。それは分かってる。けど、何あげたら良いのかな…お父さんだったらどんなお礼する?」
「そうだな…忙しいようだから…うちの健康食品とか、うちのリラックスぐグッズとか…だな」
 なんだ、自分の会社の宣伝か…と思っていたら、矢崎が身を乗り出してきた。
「リラックス・グッズ?」
「ええ、最近出した新製品なんですけどね…入浴剤とか…安眠枕とかマットとか…矢崎さんも使ってみますか?入浴剤は特に人気がありましてね…確か試供品が沢山あったはず…」
 陸がぱたぱたと浴室へ駆けていき、手にして戻ってきたのは試供品が入った段ボールだった。
「いっぱいあるよ。香りが良いから僕も使ってる。おっさんたちの肩こり腰痛にも効く、ってさ」
「おっさんは余計だ。けど、もらっていくか…」
「空、安土さんにも明日持っていってあげなさい」
「うん」
 陸は先にお風呂に入って寝ると言うので、矢崎を玄関まで送る。玄関のドアを開けたところで矢崎に手招きされたので一緒にドアの外に出た。
「空、これからは俺もお前の兄弟だ。何かあったら直ぐに連絡しろ。わかったな?」
 矢崎は苦手だったけれど、兄弟と言われたことは素直に嬉しいし、これからもっと矢崎を知れば、良いところも沢山見えてくるのだろう。陸とのことはまだ心配だったが、安土の言うとおりなら、矢崎は陸を酷い目に遭わせるような真似はしない。根拠はないが、砂に染みこむ水のように、安土の言葉は空の心に浸透する。
「はい」