空・翔る思い

安土と空

7

 家中が寝静まってから、空は部屋を出た。この時間に田島へ連絡するのは気が引けたので安土にメールすると、すぐに迎えに来てくれた。
「まだ起きてるかな…って思って…」
「お前が来ると分かってたからな」
「遅くにごめんなさい。でも…」
 会いたくて、と言う言葉の代わりに、空は安土に縋り付いた。このところ、鈍い自分自身にもそれと分かるような身体の高ぶりがある。実際に安土を目の前にすると照れるやら恥ずかしいやらが先でのっぴきならない事態は避けられるのだが、一人で安土のことを考えていると、身体が勝手に反応して大変なことになってしまう。
 抱き締められてキスして、一緒に眠って、それだけでいつまでも続くとは思わなかったが、突然はじまった恋に心と体のバランスが取れていなかった。
「上に行くか?」
「うん」
 安土の家にはいると、玄関脇の部屋から田島がひょっこり顔を出したが、次の瞬間に後ろに引っ張られるように姿を消した。なにすんですか、とかひっこんでろとかばしっとか音が聞こえてきて、空は少しだけ笑ってしまった。安土組の人達は空気を読むのも上手く、安土と空が二人きりになりたいときは、いつのまにか彼らも自室に引っ込んでいる。
 少しだけ気をそがれたが、安土とならんでリビングのソファに座り抱き合っているとすぐに空の心は何処かへ飛んでいってしまった。温かな手で項をまさぐられながら唇を重ねる。大きくて柔らかな親指の腹で首筋を撫でられると、そこから全身にゾクゾクとした感覚が這い回る。
「ん…」
 たまらずに声を漏らすと、安土が力一杯抱き締めてきた。
「空、好きだ」
「…うん。僕も」
 

「空、なんか良い匂いがするな…いつもと違う石けんか?」
 今日は父の会社の新製品、桧の香りのマグマ温泉の元、と言うのをバスタブに放り込んだのだ。
「あ…これお父さんの会社の試供品。安土さんこの匂い好き?」
 安土は空の首筋に顔を埋めて大きく息を吸い込んだ。
「ああ。良い匂いだ…落ち着くな」
「じゃあ明日試供品持ってくるね」
「すまんな」
「いつも色々なものもらってるし…肩こりとか腰痛に効くんだって」
 安土はくくっと笑いながら、また空を抱き寄せた。
「有り難いことに、まだ困ってないな…」
「ふふふ…矢崎さんもそう言って怒ってた」
「空、明日一緒に風呂はいるか?」
「やだ!」
 即答に、安土が苦笑いながらため息をついた。


 嫌というより、そこはかとなく恥ずかしい。男同士でお風呂にはいるのとは違う恥ずかしさだ。安土の身体は大好きで、そのほれぼれするような身体に抱き締められるのは好きだが、自分の貧弱な身体を見せるのはできれば一生御免被りたいと思うほど、嫌だった。
 それに、大好きな人に見られたり、触れられたりしたら過呼吸と心臓発作であっという間に死んでしまうかも知れないじゃないか…
 高校生ともなれば一通りの知識はある。安土のことを考えながら恥ずかしいことをする事だってある。けれど、その後の罪悪感やらむなしさやらで毎度後悔しているのも事実で…
 そして、ただ一緒に風呂に入ろうと言われて余計なことまで心配する自分は、もっと情けない。
 空は安土が笑って流してくれたことに感謝しつつ、ごそごそと寝る態勢に入った。安土も異議は無いようで、空が深く眠れるようにそっと身体に腕を回した。


 陸がそこまで頭の良い子だとは、だれも思っていなかった。
 全国一斉模試があるとかで土日にテスト会場まで送った時、なぜか矢崎も一緒で、陸が試験会場に吸い込まれた後、しばらく会場を眺めていたので帰りを促すと…
「なあ空、陸はいったい幾つだ?」
「え?今確か…14になったところ…」
「お前よりみっつ下だよな?」
「一年の半分はね」
「…高校二年対象って、会場に書いてあるぞ」
 良く見ると、ほんとうにそう書いてあった。まさか陸が間違えるはずが無いのだが…
「ちょっと、聞いてくる」
 会場は陸が通っている塾だったので、事務所に聞けば直ぐに分かるはずだ。
 建物に入って直ぐに事務所があったので中に入って訊ねると、ちょうど陸を知っている先生が対応してくれた。
「ああ、試験まではまだ時間がありますので…で、こちらは?」
 先生が怪しい黒服に目をちらっと向けた。
「えと、僕は陸の兄で白石空と言います、こっちは…」
「家庭教師の矢崎です」
 間髪入れずに矢崎が答えた。隣にいた田島は硬直していたが、
「矢崎さんの…部下、です」
 語尾が弱くなっていたが、なんとか矢崎に合わせられた。
「ほお、白石君にはカテキョもいたんですね。どうりで優秀なはずだ…」
 その先生によると、陸はもとから理数系に強く、中学の勉強はほとんど終わっていたらしい。陸と空の通う学校は大学までのエスカレーター式で、特に高校受験の必要がない陸は受験生のコースには入らずに高校生の授業を受けていたのだそうだ。
「最近は文系の成績も上がってきたので、特別に今回の試験を受けさせてみようと言うことになって…内緒ですよ?」
 その教師は矢崎の指導方法を何とか聞き出そうとしていたが、ただ一緒に死にものぐるいのタイム・トライアルをしているだけとは言えるはずがない。適当に言葉を濁しながら受け答えしていたがそのうち飽きたようで、携帯が鳴ったことにしてその場を去ってしまった。
「すごいっすね、空さんの弟。柔道も腕を上げてきて、もういつでもうちの組に入れますよ」
 田島が喜々としながら言ったが、空としては複雑だった。一応自分は白石の長男で跡継ぎだが、その器ではない。陸の方が跡取りとして向いているような気がするのだ。
「でもねー…僕はお父さんの会社を継げそうにないから…陸にがんばってもらわないとね…」
 けれども、自分が安土の人間になるのは当然だが、自分の都合で陸を跡継ぎにさせるのは嫌だった。まだ先のことかも知れないけれど、白石家のこれからのことも上手く丸く収める必要があって、空は安土組の先代に認めてもらえたからと言って喜んでばかりもいられなかった。
「大丈夫っすよ。なんとかなりますって。空さんがずっと笑っていられるように、安土組が存在するんっすから」
 そのためだけじゃないだろうけど、悩みばかりが膨らむ空には有り難い言葉だった。
「矢崎さん、どこいっちゃったんだろうね?」
 気を取り直して、空は家に帰るべく、矢崎を捜し始めた。


 矢崎は近くのカフェで自分だけコーヒーを飲んでいた。空と田島が通りかかると手を振って合図をしてくれた。休日の朝っぱらからびしっとスーツを着てカフェに座る矢崎は、やはり堅気っぽく見えない。
「ねえ、矢崎さん、田島さんもだけど、なんで休みの日の朝からスーツ?もっとこう、カジュアルなの持ってないの?」
「持ってねぇな」
「捨て去られました」
 二人の答えは違ったが、どっちの答えも不思議だ。
「俺たちのこの格好は伝統というか…いつ捕まっても良いように格好だけはきちんとしておくって事だ。入るときも出るときも、サツより偉く見えるようにな」
 空が色々と想像して暗くなる。
「心配するな。捕まるような下手はうたねぇ。スーツ着ていればいつでもはったりが利くからな。その辺のちんぴらみたいな派手なスウェット着てたんじゃ、さっきみたいにカテキョですとは言えないだろ。便利なんだよ。女のウケも良いしな」
 最後の一言は余計だが、便利なのは制服も同じだ。きちんとした場所では空の学校の制服は効果絶大だった。
「帰るか?安土は3時頃までかかるそうだ」
 先週に引き続き、安土は組関係の集まりがあるとかで、朝早くから出掛けていた。安土組の先代と一緒だそうで、陸を迎えに来る頃、時間が合えばみんなでお茶をすることになっている。
「うん。今日はお父さんもいるし、きっと陸がどんな試験受けてるか知らないだろうから教えて上げなきゃ」
 きっとびっくりするだろうな、でもそのびっくりは良いびっくりなので、父も喜ぶだろう。


 次の日には陸がかなり良い成績を残していることが、自己採点の結果で分かった。回答欄を間違えるとか、名前を書き忘れるとか笑えないようなミスが無い限り、塾はじまって以来の好成績なのだそうだ。みんなが凄い凄いと褒める中、矢崎だけは悔しがって陸に説教をし始めた。
「ったく、なんで日本人なのに日本語わからねぇんだ?」
「仕方ないだろ、これ昔の人の言葉なんだから。自分だって苦手なくせに、もんく言わなくてもいいじゃん!」
 ここは白石家の居間で、矢崎がいることも当たり前の風景になっていたのだが、白石家の両親が二人揃って感心している隣で怒鳴り合っているのは妙な話だった。
「陸、矢崎さんも、今度がんばれば良いから、ね?」
「今度っていつだ?」
「んなこと塾の先生に聞いてよ。僕は先生に言われたとおりに受けただけなんだし、中学生なんだからいいじゃん!」
「なんでもやるときは死ぬ気でやれ!」
「死んだら勉強できないじゃん!」
「そのくらい真剣にやって死んだら骨ぐらい拾ってやる」
「おっさんの方が先に死ぬにきまってんじゃん!おっさんの骨なんて砕いてその辺の犬に食べさせちゃうからね!」
 両親は、またはじまった、くらいにしか思っておらず、空はこれが矢崎と陸流のじゃれあいだと分かっていても、止めずにはいられない。
「もう、二人とも、今日は遅いから…陸も、矢崎さんは」
「「明日も仕事!!」」
 次の日の朝、二人とも機嫌はなおっていたが、二人だけ古語で会話しているのが、なんだか微笑ましかった。

 

 海月浅葱が最近の出来事を手紙にしたため写真を添えて封をしたとき、手元の携帯が陸からの着信を知らせていた。
「りっくん?どうしたのー?」
 弟のように可愛がっている陸とはほぼ毎日学食で昼ご飯を食べ、放課後はメールをしたり、かなり頻繁に遣り取りをしている。他愛もないことやポチタマの事を話したり…だが、その夜は違っていた。陸から電話をかけてきたのに、呼びかけてもなかなか返事が返ってこなかった。
「りっくん?」
 電話の向こうで鼻を啜るような音が聞こえてきた。
「どうしたの!?どこにいるの!?」
「…先輩の、家の前…」
 震えるような声が何か深刻な事態を思い起こさせ、浅葱は大急ぎで玄関へ急いだ。門のセキュリティを急いで解除し外に出てみると、陸が壁にもたれてうずくまっていた。
「りっくん!」
 駆け寄って、陸にそっと触れる。
「…せんぱい…たす、けて…」
 浅葱はとにかく陸を立ち上がらせ背中におぶり、必死で家の中に入った。力が弱い自分を、浅葱はこれほどまで呪ったことはない。見るからに暴行を受けた陸がそれ以上痛みを感じないようにさっと抱き上げることなどできなかった。
「りっくん、ちょっとだけがまんして…」
 二階の自分の部屋まで運ぶのは無理だったので、出来るだけ近い所にあるソファーに陸を横たえた。
 制服の上着もシャツもボタンが引きちぎられていて、所々に血がこびりついていた。唇の端も血が滲み、青痣が出来ている。
 陸はソファーに横たわると、千切れた制服の前を合わせ、丸くなって震えはじめた。
「りっくん、気分悪いの?すぐにお医者様呼んで上げるからね」
「せんぱい…」
 陸は携帯を取りだした浅葱の腕を力なく握った。
「大丈夫だよ。僕の主治医だから…りっくんは何にも心配しないで、ね?」
 陸は震えながら頷いたが、まだ何か言い足りないけれどなかなか言い出せないようだった。
「りっくん…」
「せんぱい…やざきさん、に…言わないで…言ったらまた…虐められるから…」
 最後の方は涙でぐちゃぐちゃだった。
 浅葱は陸をそっと抱き締めて、分かった、と答えると、主治医の携帯を鳴らした。


 浅葱の主治医の診断で救急病院に搬送された後、浅葱は空と安土に連絡を取った。陸の希望もあったので、矢崎にはまだ伏せたままでいて欲しいと伝え、白石の両親には空から伝えてもらうことにした。
 陸は、レイプされていた。
「不幸中の幸いですが…CTスキャンの結果、内臓には損傷ありません。裂傷に打ち身と、腕の骨にヒビが入ってます」
 両親より先に安土と駆けつけた陸は、付き添ってくれた浅葱の主治医から大まかな報告を受けていたが、後から陸の怪我の内容を知らされた両親はこれから何をどうすればいいのか全く見当がつかず、ただ陸の側にうなだれて座っているしかできなかった。
 陸は眠らされているので、誰がどうしてそんなことをしたのかさえ分からない。父親はまっさきに安土組との関連を疑ったが、言い出せずにいた。
 そんなことは安土も承知していたし、思い当たる事が無いわけでも無かったので、直ぐに調べるように、組には伝令を飛ばしていた。ただ、矢崎には知られないように動かなければならず、その事の方が大変ではあった。
 矢崎を遠ざけながら、矢崎が使えない穴を埋めるのは至難の業だ。特にヤクザがらみの場合は…
 しかし、心配していたヤクザがらみという疑いは直ぐに払拭された。
 陸が通う塾の同級生の何人もが、陸が上級生に呼び出されたことを知っていたからだった。


「どうする、空。やった連中は3人。特定済みだ」
 怒りを抑えているような話しぶりだが、安土の怒気は誰が見ても明らかだった。
「オヤジさんも、刑事事件にすれば陸があいたくもない嫌な目に遭うぞ」
 父親に対してはいつも丁寧な言葉遣いだったのが、さすがにこのときは自分が抑えられなかったのか、半ば脅すような口調に変わっていた。
「それは分かっています。けれど、あなた方の手を汚すわけにはいかない。策があるわけではないが…それよりも…陸が元気になるのが先です」
 

 なぜそんなことが起こったか…理由は簡単だった。陸が気に入らない、それだけだった。
 目が覚めた陸は怪我の痛みに時々顔をしかめてはいたが悲壮感を漂わせるわけでもなく、不気味なほど普通だった。詳しく話した事はないが、同じ経験を持つ浅葱先輩の方がショックが大きく、陸の方が慰めるしまつだった。 問題は矢崎で…
「だから何度も言わせないでって…塾の帰りに浅葱先輩の家に寄ろうと思って道を歩いてたら、ブレーキが壊れて暴走してた小学生の自転車が突っ込んできたんだってば」
 倒れた所に植木鉢みたいなのがあって顔面を打って、子供は自転車ごと乗り上げてくるわで大変だった、と言うことにしていた。
 矢崎には翌日の朝知らされ、何故か血相を変えた矢崎が陸の病室に飛び込んできて、その小学生を詫びに来させろとか親も一緒に連れてこいとか挙げ句の果てに慰謝料の計算まではじめて…安土に引きずられるように外へ出され、病室で大きな声を出さないことを条件に、もう一度面会させてもらえたのだった。
「陸、りんご食うか?病室ではリンゴ剥くのが筋だろ?」
「…特に好きじゃないから良いよ。メロンとか桃の方が良い。甘くて冷たくてジューシーなやつ」
「そうか…」
 そう言ったきり部屋を出て行き、一時間もしないうちにメロンと桃を大量に買い込んでくる。
「多すぎるよそれ…食べきれないから…」
 減らず口のたたき合いもなりを潜め、矢崎は陸に文句を言われると沈痛な面持ちで黙り込んだ。
「矢崎さん、仕事は?」
 一日中付き添おうとする矢崎を追い出すのは陸の本心では無いはずだ。矢崎にだけは事実を知られたくないのは…

 

りっくん、矢崎さんのこと好きなんだよ…」
 陸の気持ちを考えると泣き出してしまうため、浅葱は陸のお見舞いにはなるべく行かないようにしていた。浅葱が泣いているところに矢崎がかちあわせれば、矢崎に不信感を抱かせる。
 空も、矢崎に疑われたら嘘を付き通す自信がなかったので、矢崎がいない隙を狙って見舞うしかない。
「矢崎だって好きなくせに…大人なんだから、もうちょっとりっくんの気持ちとか自分の気持ちとか、真面目に考えればいいのに…いじめてばっかで…だからりっくん泣きたいの我慢してるんだ…僕なんか…一年間泣きっぱなしだったのに」
 好きでもないやつに酷い目にあわされた辛さは浅葱が一番良く知っている。空だって、安土以外の男にそんなことをされたら…想像しただけで背筋が凍る。
「りっくんは空君よりは子供に見えるけど、ずっと大人びてるところがあって、安土さんと空君の事も気がついてたよ。だから、自分の気持ちに気がついていないはずがないんだ」
 空は浅葱先輩の言葉に耳を奪われた。
 知ってた?安土さんとのことを??
「りっくんは今時の子だから、相手が年上の男でヤクザでも、本人達が良ければそれで良いって思ってるみたいだよ。りっくんは…矢崎さんのことは好きだけど、のめり込むほど好きかどうか分かってなかったんだと思う。勉強も楽しいし、野心みたいなのもあるし。今度のことで、凄く好きなことが分かったんじゃないかな?誰より矢崎さんにすがりたいのに、そしたら自分の身に起こったことを知られてしまう。気持ちが純粋な分、自分が汚れちゃった、とか思うんだよね。ひねくれ者の矢崎にばれて、いつもの調子で冷やかされたりバカにされたり、そしたらりっくんもそれに合わせてなんでもなかったふりをしなきゃいけなくなる。笑い飛ばされたらすっきりするだろうけど、本心は伝えられなくなる。どう転んでも失恋するとしか思えなくなっちゃうんだよね…」
 

 陸と腹を割って話してみたかったけれど、いつ行っても矢崎がとぐろを巻いていたので聞き出せない。矢崎と一緒にいるときの陸は以前と変わらないように見えるが、矢崎が席を外すと途端に大人しくなる。矢崎は食べ物や飲み物など思いつく限りの大量な差し入れと共にやってくるのだが、正直な話し、トイレの辛さを避けたくて、陸は飲み物や水分の多い果物以外はあまり食べなかった。食欲がない陸に、矢崎は見落としている部分があるのではないかと医者を脅し、病院側からは煙たがられていたので、いっそのこと出入り禁止にして欲しかった。
 一時間で良いから矢崎を引き離してくれと安土に頼み込み、やっとの事で陸と二人きりになれたのは明後日には退院しても良いと言われた日のことだった。


「陸、あのさ、いつも矢崎さんがいて陸の本当の気持ちを聞いて上げられなかったけど…陸、辛くない?」
 陸は布団の端をぎゅっと握りしめた。その手が微かに震えている。
「トイレが辛いよ」
「そうじゃなくて…」
 矢崎が席を外したほんのちょっとした隙に、そんなことは何度も口走っていたので知っている。 
「別に…男だし…」
「性別は関係ないよ…陸は、僕と安土さんが付き合ってること知ってるよね?」
「…うん」
「男だからあんなことされても大丈夫なんて、思えない。絶対に。陸にもし好きな人とかいたら尚更だし…」
「好きな人なんかいないよ…」
「本当に?じゃあ…矢崎さんは?」
 陸の身体がぴくん、とはねた。
「あ、あんなやつ!なんで好きになんなきゃいけないの…」
「じゃあ、どうして矢崎さんにだけ、黙ってるの?」
「それは…嫌みなやつだから…ばれたら男のくせにとか、ちびでよわっちいからとか、ネタにして虐められるに決まってる」
「辛くないなら、そんなこといつものように言い返せばいいじゃない?」
 陸は言い返せないで、黙って俯いてしまった。
「陸、一人で飲み込まないで、辛かったら辛いって、泣いても良いんだよ?誰も陸が悪いとは思ってないから。矢崎さんだって、本当に意地悪だったら嘘の言い訳にだって鈍くさいからとか、ごちゃごちゃ言ってるはずだよ?」
「お兄ちゃんは…安土さんを信用してるから…信じろって言ってもらえてるから…でも、矢崎さんと僕の間にはそんな繋がりが何にもなかったんだ。バカ言って遊んでるだけで…だから…恐くて…言えない。いつもみたいに笑い飛ばされて、馬鹿言ってるんじゃねぇって言われたら…もう、今までみたいに一緒にいられなくなるんじゃないだろうかって…恐くて…だから…このままで…良い…お兄ちゃん達が心配してくれてるのは、良く分かってるから…僕は大丈夫だから…」
 と言いつつも、陸は泣きそうだった。ただ、陸は兄の自分よりも男気は強いようで、涙を溢れさせることはなかったけれども。