空・翔る思い

安土と空

8

 原因は矢崎が昨夜持ってきた松前寿司だった。
 空と話したことで少し気分が晴れた陸は、食欲がないことを心配してくれる矢崎を素直に受け入れ、お見舞いで持ってきてくれた松前寿司を少しでも食べようと思った。ゆっくり良く噛んで食べれば大丈夫だと言い聞かせてみたものの、久しぶりに食べたお寿司が美味しくて、途中からは夢中になって食べてしまった。矢崎もどんどん勧めるので、調子に乗って、食べてしまった。冷凍庫に残っていたアイスクリームも食べてしまった。
 次の日の夕方、嫌な予感は的中。悲しい事では泣かなかったけれど…お尻の痛みはどうしようもなく、死にそうになりながらなんとかトイレからはい出た後、ナースコールでも泣いてしまった。
「食欲が出たのは良い事ね。でも、いきなり食べ過ぎよ」
 と看護士にしかられてしまった。
 処置が終わって看護士が出て行ってすぐ、矢崎がやってきた。
「陸、手当してもらったのか?」
「うん」
「ふーん。なんの?いつもは午前中だろ?」
「ん?そうでもないよ?」
 矢崎はそれ以上聞かずに、持っていた手みやげを開けずに冷蔵庫に放り込んだ。
「あ、それ、今日は何持ってきてくれたの?昨日のお寿司、凄く美味しかった」
「ああ。昨日は同業の集まりで寿司屋に行ったんだ。美味かったから陸にも食べさせようと思った」
「ふーん…同業って、ヤクザ?」
「そうだ、ヤクザだ。陸、ヤクザっていうのはな、若い頃は特に喧嘩ばっかりして生傷たえねぇんだ」
 

 矢崎は陸のベッドに腰を下ろし、陸をまっすぐに見つめた。
「だから…切られた傷とか、擦り傷とか、殴られた跡とか、分かるんだ」
 そう言って大分良くなっていた唇の端の青痣をすっと撫でた。
「ちょっとした傷は放っておくが、医者に診せられねぇ時のために、医者から薬をくすねておくんだ。だから、薬の知識もある。消毒薬、止血剤、化膿止め…」
 そして、痛々しい青痣に指を這わしながら、矢崎の表情が怒りに満ちたものに変化していく。
「陸、唇の痣は、殴られたもんだ。左右同時に痣作るなんて、どんなコケ方したんだ?それに…後から出てきた顎の痣…」
 矢崎が陸の顎を柔らかく掴んだ。
「ここをこうやって、押さえつけられた…指の形がうっすら分かる…さっきの看護婦が持ってたのは座薬だろ?」
 次々と言い当てられる事実に陸は答えることが出来ず、矢崎から視線を反らす。
「陸、誰にやられた?…誰にやられたかって聞いてんだ!!」
「自転車が突っ込んできて…!!」
「俺に嘘をつくなっ!!言え、陸!そいつら全員、ただじゃおかねぇ…!お前は俺のものだ…誰のものにてぇだしたのか、思い知らせてやるっ!!」
 矢崎の恐ろしい声が静かな病室に響き渡り、異変を感じた看護士達がバタバタと駆けてくる。
「てめぇら入るなっ!!」
 ドアを開けた途端に罵声が飛び、一瞬立ち止まった看護士達は矢崎の射るような視線にたじろぎ、その場から動けなくなってしまった。
 その直ぐ後ろから見舞いに来ていた安土と空が、看護士達をかき分けて病室に入る。
「てめえら、俺に嘘ついてやがったのか!?」
 わめくなり、安土に向かって突進してくる。安土に付き添っていた黒服と田島が矢崎を止めようと間に入り、殴りかかる矢崎の拳をもろにうけながらも、なんとか取り押さえた。
「矢崎、落ち着け。空、陸についてろ」
 そう言って男達はまだ暴れる矢崎を羽交い締めにして、何処かへ去っていった。
 

「陸、大丈夫?」
 陸はボロボロ涙を流していた。うれしくて、でも辛くて。
「…うん…」
 空が抱き締めると、陸はぎゅっと抱きついてますます激しく泣き出した。
「陸…」
 矢崎が、俺のものだと言ってくれた。でも…
「ばれちゃった…もう、死んじゃいたい…」
「なに言ってんの…矢崎さんは、陸の事が大好きなんだよ?」
「でも、でも、僕、もう…」
「陸のことを怒ったわけじゃないでしょ?矢崎さん、恐かったね。だけど、そのくらい陸のことが好きなんだよ?陸は、信じて待っていればいい」


 それから三時間ほどたって、安土と矢崎は戻ってきた。二人とも、なんとか落ち着いたようだった。
「空、あとは矢崎に任せて、俺たちは帰るぞ」
「うん、わかった。じゃあ陸、また明日ね」
 多少不安な部分はあったが、好きあってる二人なんだし、二人きりにして上げたい。空は陸の頭を撫でると、元気よく安土に駆け寄っていった。
「ちっ…なんで鍵かからねぇんだ…」
 安土と空を追い出し、無粋な看護士が見回りに来ないよう鍵をかけようと思ったら、ドアには鍵がなかった。
「当たり前じゃん。急変したときとか、内側から鍵がかかってたらたいへんでしょ…」
 それもそうだな、と言いながら、頭をかきながら、矢崎は陸の側へ近づいていった。
「陸、さっきは怒鳴って悪かった。お前に対して怒ったわけじゃない」
「うん。凄く恐かったけど、分かってる」
 矢崎は陸の隣に座ると、陸の小さな身体をぐっと抱き寄せた。
「陸、お前が好きだ。素直に言えなくてすまなかった…」
「矢崎さん…でも、僕…」
「言うな」
 と言うなり、矢崎は食らいつくように陸の唇を自分の唇で塞ぐ。
 陸は突然何が起こったのか分からず、気がついたときにはファーストキスが終わっていた。


「陸、大丈夫かな…」
 最終的には落ち着いていたとは言え、あれほどの剣幕で怒り狂っていた矢崎が、完全に怒りを静めたとは考えられない。
「無理なことはしないだろう」
「陸を襲った子達はどうなるのかな…」
「それもお前の父親に任せるように言ってあるが…あいつのことだ、何をするか分からない」
「僕も許せない。けど、怪我させたり、酷い目に遭わせるのは、違うと思う…」
 憎い連中でも、彼らを愛している人達は存在するのだ。
「空、お前とは違う考えかも知れんが…俺たちはヤクザだ。やられたら、やり返す。相手が二度とこちらに手を出したくなくなるくらいやり返す。ただ、それで矢崎や安土組が不利益を被ることは避けたい。今は警察沙汰になれないからな。お前にも、陸にも迷惑がかかる」
「じゃあ…どうするの?」
「陸を襲った連中の親は、どれも社長や医者だった。正面から仕掛けて会社や病院を乗っ取るつもりだろう…それなら合法的に仕返しが出来る。連中も親の権力や金を傘に着て生きている連中だから、いきなり全てを奪われたら相当なショックを受けるはずだ。そのくらいで許すように言ってある。大事なのは陸が元気になることだろう?」
 

 もし空が被害者だったら、安土も怒りにまかせて殺していたかも知れない。前回は殺したが、相手に親族がいないことやその他の条件が揃っていたのでやったまでだ。今回は必ず足がつく。そうなれば、空を浅葱のように一人で長い時間待たせることになってしまう。堅気の子供を殺せば、一生空とは会えなくなるかも知れない。空はまだ若いので、いずれ他の誰かと愛し合うようになり、それはそれで構わないが、空が天寿を全うするまで幸せでいられるように助けることは叶わなくなるだろう。空を一生守ると言った言葉を裏切ることなど、できない。
「僕たちのために、誰も傷つけないで…前に、里親詐欺の人から助けてもらったあと、安土さん、とても辛そうだった。あの人がどうなったか知らないけれど、僕のせいで安土さんの心が悪い物にむしばまれるのは嫌だ…」
 

 矢崎は部下に必要な物を持ってこさせると、遠慮無く陸の個室のシャワーを使い、パジャマに着替えて陸の隣に潜り込んできた。
「ちょ、矢崎さん…」
「狭いな…おら、もう少しこっちに来い」
 ぐいっと陸を引き寄せ、頭の下に腕を回す。もう片方の腕は陸の腰に回され、陸は矢崎に半ば乗り上げるような体勢にされてしまった。
「腕は大丈夫か?」
「うん…」
 両親に抱き締めてもらった記憶がないので、矢崎の抱擁にはとまどったけれど、嫌じゃない。
「矢崎さん、重くない?」
「誰が重いって?」
 どうせチビだよ…と言い返そうかと思ったけれど…
「なあ陸、なんで俺に嘘ついたんだ?」
「だって…あんなこと…」
 思い出して、目の奥が痛くなる…
「言ったら、矢崎さんに、虐められるって…」
「俺が怒るとか、悲しむとかじゃなくて…虐める、か…。陸、お前が受けたのは卑劣な暴力だ。それで苦しんでるお前をこの上虐めるわけないだろ」
 ギプスをはめている腕にあたらないように、陸の脇腹から背中にかけて腕を回し、矢崎は陸の上に覆いかぶさるように引き寄せた。
「俺の陸を傷つけやがって…傷が治ったら、お前に教えてやる。ゆっくり時間をかけて…愛し合うってことを…」
「矢崎さ…」
 今度のキスは優しかった。何か言いかけて少し開いていた唇を柔らかく挟み、ちゅっ、と音を立てて吸う。舌先を少しだけ差し込むと、陸はびっくりして顔を仰け反らせてしまった。
 子供っぽい仕草に苦笑いしながら追いかける。少しだけ強引に唇を押しつけると、陸の身体の力が抜けるまで、背中に回した手で優しくさする。そうしているうちに身体の強張りが徐々に解けていき、陸は矢崎の舌を大人しく受け入れた。


 次の日は浅葱先輩や空がお見舞いに来て、矢崎とのことを無理矢理聞き出されおめでとうと言われたのは良かったが…
 陸の傷も癒え、あとは2週間後にギプスを外すだけだから退院しても良いと許可が出たのも良かったが…
 退院の日、当然のように陸を迎えに来た矢崎は、そのまま陸の父親の会社に乗り込み、陸の強奪宣言をしたのだった。
「お父さん!」
 矢崎にいきなりお父さんと呼ばれ、白石の父親は面食らった。その前に、陸を抱えてアポ無しで社長室に飛び込んできた事にも驚いていたのだが…
「矢崎さん…それに陸も…どうしたんだ?」
 陸はその場所に来るまでに何が起こるのか何となく予想ができていた。
「お父さん。陸を俺にくれ。いや、陸は俺がもらう」
「矢崎さん、突然なにを…陸をもらうとは…一体…」
「俺は陸に惚れている。陸も俺に惚れている。だから今日から一緒に暮らすことにした」
「はっ!?とても正気の沙汰とは思えん…陸も矢崎さんも男で、しかも陸はまだ子供だ…矢崎さんともあろう人が…」
「俺は本気だ。年の差も性別も関係ない」
 

 父親は口を開けたまま、後ろのイスにどっさりと座り込んでしまった。まだ何が起こったのか把握しきれていない様子だった。
「ちょっと待ってください…何が何だか、私にはさっぱり飲み込めないんだが…」
「簡単でしょう?俺と陸は惚れあっているので今日から一緒に住むってことだ。一応報告しておこうと思った」
「報告って…私の意見はどうでも良いと言うことですか?」
「まあそうだ。今すぐ認めてもらえるとは思ってない。だが認めてもらえるまで待つ気もない。あんたたちに陸を任せていたら、また同じようなことが起こらないとも限らねぇ。俺の側にいた方が安全で、幸せになれる」
「安全で幸せになれるかどうか分からないが…親として許す気はない。バカなことは考えないで冷静になってください」
「俺は冷静だ」
「とてもそうだとは…陸、お前は…お前も同意の上か?」
 陸は同意した覚えなど無かった。ここに来るまでの間、今日から一緒に住むとだけ言われ、何のことだか良く分からないまま連れてこられたのだ。矢崎の家は9階下で、いつ頃からか矢崎はいつも白石家に入り浸っていたので一緒に住んでいるようなものだ。陸が9階下の矢崎の家に住もうが違いが無いように思える。違うのは、お互いに好きあっていると言うことで、それを父親に知られてしまったこと。
 矢崎に勉強や柔道を教えてもらうのとのは違うのだ。未成年の自分が年上のヤクザ男と、恋人として一緒に住むのだ。
「うん」
 

 不安だらけで何も分からないのに、うんと答えてしまったのは何故なんだろう…矢崎が好きだしキスも抱擁も好きだ。はじめて誰かを好きになったばかりで、この目が回るような展開に置いてけぼりをくらったはずなのに、直感だけで返事をしてしまった。直感なんて、いままでひらめいたこともないのに…中学二年で人生最大の岐路に立たされたのに、直感で答えを出して良いのだろうか…そう考える自分がいる一方で、陸の口からは直感君が次々に言葉を繰り出していく。
「ずっと前から好きだったんだ、って、入院してから気がついた…一緒にいたい…勉強もスポーツもがんばるから…お父さんや矢崎さんより立派になるから…だから…一緒にいたい」
「…だそうだ」
「絶対にダメだと言ったら?訴えると言ったら?矢崎さんも安土組も、相当な害を被りますよ?」
「…陸を連れてどこまでも逃げるさ」


 その一報を聞いて腰を抜かしたのは、空だった。午前中に退院と聞かされて急いで行ったつもりが到着してみたら陸は既に退院していて、矢崎が一緒だったと看護士に教えてもらったので連絡を取ってみたら…
 自宅マンションにとんぼ返りして矢崎の部屋へ向かう。陸は既にそこにいて、部屋をあちこち見て回っている最中だった。
「あ、お兄ちゃん」
 普段通りの陸だ。
「あ、じゃないよ…どうすんの、これから…」
「ごめんね、お兄ちゃんの先越して…」
「そうじゃなくて…」
「矢崎さんが言ってたんだ。お兄ちゃん達みたいに機会ばっかり伺ってても仕方ないって。どうせ反対されるんだし…でもこれでお兄ちゃん達が言いづらくなっただろうねって…ごめんね」
 矢崎は安土に呼び出されていたのか、後から二人揃って現れた。
 陸はまるっきり何も、疑問も途惑いも無さそうな様子で、手当たり次第に戸棚や引き出しを開けて回っている。
「陸、少しは遠慮して…」
「好きにして良いぞ。お前の家だ」
 陸は紅茶の缶を見つけ、淹れたこともないのにお茶の用意をし始める。少しは混乱しているのだろうか?
 急須に紅茶葉をいれ、日本茶を入れるようなやり方で四つのカップに均等にそそいだ。誰も止めようとしないのがおかしい。やはりみんなそれぞれ、動揺しているのだろうか…
「あの…」
 兄として、何とかしないといけないのだろうか…
 声をかけてみたが、その先が続かない。
 陸はリビングのロー・テーブルにカップを置くと、矢崎の足元の床にぺったりと座り込んだ。そんな仕草は空よりずっと子供だ。
「陸は、本当にこれで良いの?」
「…うん。てか、今までとあんまり変わらないじゃん…家ではずっと一人で部屋にいたし、最近はずっと安土さんちだったでしょ?どうせ許してもらえないんだったら、こそこそするより良い。僕にはお兄ちゃんみたいに矢崎さんちに来る理由がないんだもん…」
 矢崎のズボンの膝の辺りをきゅっと握る陸の手もまだ子供だけれど、子供だからダメだと言われる理不尽さは空も良く知っている。そこから自由にしてくれたのが安土で、矢崎も陸にとってはそんな存在なのかもしれなかった。


 さすがにその日はトラの世話が終わってすぐに自宅へ帰った。父親と話さなければいけないことが沢山ある。そのうちの一つも、気持ちを的確に表現できる言葉が見つかってはいなかったけれど。
「好きって気持ちだけじゃいけないのかな…」
 それで分かってもらえるなんて思っていないけれど、言わずにはいられない。
「大人になればそれでも構わないが…いや…もうそんな建前を言う必要もないか…」
 父親は妙に落ち着いていた。
「矢崎さんはどうしても陸が欲しいといった。好きだから、だそうだ。性別も年の差も関係ないと。お父さんは陸の父親だ。仕事にかまけて放っておいたことは認めるが、お前達のことは誰よりも愛している。だから陸を手放したくない。いずれは家からも独り立ちしていくだろうが、それまでは絶対にダメだ。子供を教育して自立できるように支えるのは私の役目だ。社会に出て、結婚して、子供を持って、私は孫の顔を見て…私だってそれが楽しみだったんだ。恋をするのが悪いとは思ってないが、年相応の、順序がある。それがなんでいきなり…年上の男で、しかもヤクザなんかに…」
 やはり最終的にはそこに行き着くのか…だったら自分も前途多難だ。
「年上の男のヤクザ…がダメなの?」
 要約するとそれだけなんだが…
「…正直言って、矢崎さんや安土さんは私の会社の人間より優秀だ。短気で強引な部分はあるが…口に出したことは必ずやり遂げる。今回の陸の件でも余計なお世話を焼いてくれた…」
「え…何をしてくれたの?お父さんに任せるって…」
「向こうの親に会って話しをしようとしたときに、弁護士を回してくれた。安土組のだ。初めは穏やかに話が進んだのだが…結局は証拠が不十分だったので交渉はうまく行かなくなった」
「証拠って…あれだけの怪我させておいて、じゅうぶんな証拠じゃないか!」
「…陸を連れてこいと言われた。医者をしている親がいてね、調べて、息子達にも確認させてから話を進めると…要するに、正式な手順を踏めと言うことだ。そうして警察に被害届を出せば対応するとな。だがそうすれば、また陸を苦しめることにもなりかねない。そんな時に矢崎さんは、私では到底手に入れられないような資料を渡してくれたんだ。それをどうしろとは言われなかったがな。私がやらなければ、矢崎さんが手を出してくるのだろう。それが昨日の昼間。そして今日。羨ましいほどのフットワークだな」
 自嘲気味ではあったが、父は、笑っていた。
「陸がもし女でそれなりの年齢だったら…すぐにでも嫁にやっていたかもしれんな。もう私にはつまらない意地を通すくらいの事しかできないんだよ」
 絶対に許さないと言いつつの敗北宣言。
 と同時に空は自分の行く末が心に重くのし掛かった。


 心配するなと安土は言ってくれる。時間が掛かっても空の親には認めてもらうからと…
(でも…)
 いきなり親密度を増した矢崎と陸に刺激されたのか、空はキス以上のことをしようとしない安土にじれったさを感じるようになってきた。まさかそんなことを安土に言えるほど大人びてもいない。悶々としていても、キスや抱擁でむずがゆい気持ちが治まってしまう場合がほとんどで、いつのまにか眠っていたりする。もしかしたら自分にそういった事をしたくなるような魅力がないのかもしれない…どこにでもいる普通の男だし…いや、そんな普通の男が、たまにわけが分からなくなってしまう様は安土の興味を削いでしまうのかもしれない…
「いっそのこと、猫に変身したいかも…」
 猫は、どんなにおじさんになっても仕草がかわいいじゃないか…僕なんか…
 安土の帰りを待っている時間が、だんだん苦しくなる。仕事なのは分かっているけれど、お酒の匂いがしていることもあるし…そんな時、安土がどこでだれとどんな風に飲んでいるのかが気になる。
 そう言えば以前矢崎から、女は掃いて捨てるほど寄ってきた、と言う話しを聞いたことがある。今もそうなんだろうか?空と知り合ってからはますます格好良くなるばかりで、だったら女の人も放っておくはずがない。玄人の女の人がどんな感じなのか見たことはないけれど、とても綺麗で魅力的に違いない。安土は空のことを『可愛い』と言ってくれるが、可愛くて綺麗な人だって沢山いるだろう。素人の、普通の女の人だって可愛くて綺麗な人は沢山いる。自分が可愛いのは今のうちだけで、年をとれば普通のおじさんになってしまうんじゃないか…
「空さん、空さん…?組長が駐車場に…」
 側付きの田島が、空に安土の到着を告げた時も、不安の堂々巡り、の真っ最中だった。
「あ、はい…」
 帰宅がいつもより、少し遅い。
 リビングの床に寝転がってトラと遊んでいた空はゆっくり起きあがり、玄関へ向かった。
「おかえりなさい…」
 元気のない空を、安土が抱き寄せる。
「どうした空、具合でも悪いのか?」
「え…ううん、大丈夫」
 安土はそのまま空を連れて寝室へ入る。安土家の中で最も勘が優れているトラもさっさと自分の寝床に入って丸くなった。


「弟や家の事で、何か悩みがあるのか?どんな些細な不安でも言ってくれ」
 頬を両手で包み、まっすぐに見つめながら安土は言った。
 こんなに自分の事を心配してくれる人を疑うなんて…でも…
「今日は…お酒の席じゃなかったの?」
「いや…何を考えていた?良いことでは無さそうだが…」
「…一生、トラみたいに、猫みたいに可愛かったらいいなって…」
「そうだな…俺も猫だったら、よぼよぼのじじいになった姿を空に見せなくてもいいな」
 微かに笑いながら安土はそんなことを言った。
「空、また余計な事を考えていたな?」
「余計じゃないよ…本当のことかもしれない…」
「それなら尚更、何を考えていたのか教えてもらわないとな…」
 そっと抱き寄せられ、耳元で『言ってご覧』と促される。深い響きの声が身体の隅々まで響き、背中をさすられるたびに痺れるような快感が広がる。
 また、我を忘れてしまいそうだ。もっとちゃんとしなきゃ…
 ちゃんと、って、何を?こんな時って、自分からも何かしなきゃいけないのかな?僕ができる事って…
 

 空は深呼吸をして乱れた気持ちを整え、安土の首に自分の腕を回した。背の高い安土の顔を引き寄せるように引っ張り、自分も背伸びをすると、近づいてきた安土の唇に自分の唇を押しつける。
 それまではされるがままだった空の思い切った行動に、安土は心の中で驚きつつ、喜んでそれを受け入れる。空が驚かないように自分からは動かず、次にどんな事をやってくれるのかじっと待つ。
「安土さん…僕は…魅力無い?」
 何を言い出すのかと思ったら…
「…どう言えば信じてくれる?今まで、お前ほど心を動かされた人間はいない」
「でも、綺麗な女の人達が掃いて捨てるほどいた…って…」
「世の中全ての綺麗どころがまとめて押し寄せてきても、お前の魅力には叶わない」
「でも…でも…まだ、キスしかしたことなくて…」
 清水の舞台から飛び降りるって、こんな感じだろうか?足元から地面が無くなって真っ逆さまに落ちていくように、一気に血圧が下がる。
 それなのに、事もあろうに安土は、口元を抑えて笑いを堪えているではないか。死ぬ気で、つかえていた胸の内を白状したのに、笑うなんて…
 今度はかーっと頭に血が上って、羞恥心と怒りで安土に殴りかかりたくなった。どん、と拳で安土の厚い胸板を叩くと、安土はまた笑いながら空の腕を掴み、真っ赤になって暴れる空を抱きかかえ、そのままベッドまで運び少しだけ乱暴にベッドの上に放り投げた。
 両手首を抑え、ゆっくりと空の上に覆いかぶさる。
 驚いて動けなくなってしまったのか、硬直したまま安土を見上げる空に少しづつ顔を寄せ…おでこに軽いキスを落とした。
「空、もう少しすれば仕事が落ち着く…そしたら…」
 

 …お前を抱く…
 

 耳元で囁かれた言葉に空の鼓動が千々に乱れ、全身の血が沸騰したかのように熱く、熱くたぎる。
「…しごと…?」
 どうにか鎮めようと必死で話題を探す。確かにこのところ帰りが遅くて、待っている時間につい余計なことを考えてしまうのだ。
「ああ。ある企業を吸収する…病院も…分かるな?」
「もしかして、陸の…」
 安土はそれには答えず、柔らかく微笑みかけてきた。
「親は子の鏡って言うだろ?連中の親はやはり腹黒い奴らだった。その点、空と陸の父親は真面目で優しい人間だ」
 それまでの緊張が解け、安土が空の横に身体をずらしていつもの眠る体勢にはいる。
「陸は、大丈夫だよね?」
「ああ。矢崎に任せておけばいい。ろくでなしを側に置くほど俺もバカじゃないぞ。ああ見えて情が深いやつなんだ」
「犯人の高校生を…傷つけたりしない?」
「空…あれだけのことをされて、まだ許す気でいるのか?」
「許さないんじゃなくて…」
 空は自分に力があれば、彼らを思う存分殴っていたと思う。陸は大事な弟だし、傷ついた小さな陸に変わって復讐できるものならしているだろう。家族として大切にしてくれる安土の気持ちは嬉しいが、以前、空が襲われたときのように安土の心が荒むのなら、そんなことはして欲しくない。
「前に安土さんが僕を助けてくれたとき…安土さん、すごく辛そうだった。もうあんな思いをして欲しくない…」
 安土はゆっくり身体を起こし、空の唇に口づけた。
「その一言で、俺は救われる…どこまで落とすかはもう決めている。金と権力からは完全に遠ざかってもらう、それだけだ。心配するな」
「うん…ありがとう」