「克彦!!」
 力強い腕が克彦を抱き込み、鋭いナイフが掠めた右頬をまさぐる。白いシャツの首筋に血の跡が点々とついているが、美しい頬にも柔らかな首筋にも傷は見あたらない。
 傷を負ったのは庇って腕を突き出した部下だったようで、その部下は怪我をした腕で男の腕をがっちりと挟み込みんだまま、背後に腕をひねりあげ男を床に跪かせていた。
「怪我は!?良く見せてみろ!」
 足元で呻いている暴漢にその刃より鋭い視線をちらと送った後、また克彦に向き直り今度はじっくりと頬から首筋に優しく指先を這わした。
「ゆき…痛いところは、無いからだいじょうぶ…だと思う」
 一瞬のことで何が起こったのか分からず、数十秒経った今、刃物で斬りつけられたのだと理解したとたん、恐怖が襲ってきた。足が震え、身体が動かない。本田に抱き締められているからだけではなく、感覚が無いのだ。意識はあるけれど他人の身体のようで、本田に縋り付きたいのだが指先さえ動かせない。
「ああ…怪我は無いようだ」
「でも…身体が動かない…」
「無理に動かなくて良い。気持ちを楽にして、俺に任せておけ」
 微かに震えている身体をゆったり抱き締め、おでこやこめかみに口付けながら背中を優しくさする。動けない克彦の腕を片方ずつ自分の首に絡ませ抱き上げると甘えるように本田の首筋に顔を埋めてくる。
「ゆき…」
「どうした?」
 エレベーターに乗り込み、最上階を押す。振り向くと、部下が暴漢をがっちりと羽交い締めにしたまま連れ去ろうとしている。外には何人かの部下が駆けつけていたが、誰も一言も発しないまま、怒気だけを垂れ流している。かつてならその場で怒声を浴びせながら血まみれにしていたが、克彦がいる前では声を荒げることも御法度だと、誰が言い出したわけでもないのに暗黙の了解になっていた。
 最上階に到着し扉が開くと、いつもの護衛が深く腰を折って礼をし、大股で歩き出した本田の前後に付き、順番に入れ替わりながら本田が進む先のドアを素早く開ける。
「2時間後に出る。それまで誰も取り次ぐな」


 克彦と共にソファーに座り、寛げるようにネクタイを緩め、シャツのボタンを一つ二つ外す。白いシャツに滲んだ小さな血の染みを見るとはらわたが煮えくりかえるような怒りがこみ上げ顔が強張りそうになったが、怯えている克彦に気付かれまいと、広い胸にすっぽりと抱き込んだ。
 手入れの行き届いた柔らかく肌触りの良い髪を手でまさぐるが、時折滑らかな感触を邪魔するような粗い切り口が指先を刺激する。耳の下の丁度くぼんだ辺りでぷっつりと髪が無くなっている…何度その部分を掻き上げ梳いてやっても違和感が付きまとう。
 克彦もそれを感じたのか、やっとの事で手を動かし、髪を触った。
「あ…」
 鎖骨の辺りまで伸ばしていたはずの髪が、一部分だけ消滅している感触にがっくりと肩を落とす。
「…せっかく、綺麗に伸ばしてたのに…どうしよう…今夜はちゃんとしてないといけないのに…」
「お前のお気に入りのスタイリストに連絡しよう」
「急には無理だよ…人気者だし…」
「そうだな…だがあいつもお前をこのまま…気を落としたまま人前に出て欲しくないはずだ。きっと、いつも以上にお前を輝かせてくれる」
「ゆき、あの人嫌いだったはず…」
 克彦が何かを思い出し、くすっと笑った。
「あのカマ野郎、お前の髪にベタベタ触りやがって!」
「ふふっ…当たり前だよ、美容師だもん」
「誰にも触られたくなくなるように、俺が触りまくってやる」
 本気だが冗談とも取れるような意地の悪い口調で囁き、唇に軽くキスをしながら胸元のボタンをゆっくり外す。焦らすような動きで手を差し入れ、ひんやりとした肌を温めるように手の平をぴったりと、きめ細かい肌に密着させる。
「寒くないか?」
 部屋は十分に暖められていたが、緊張感が抜けない克彦の身体は少し冷たかった。
「ん…ゆきの手、きもちいい…」
 何が起こったのか分からなかった。瞬きをするよりもほんの僅かな一瞬に、何かがザッと音を立てて耳元を掠めた。目の前に突き出された誰かの腕は切り裂かれ血を流しており、珍しく見開かれた瞳で本田に見つめられ、怪我はないかと聞かれ、何が起こったのか理解した途端に体中に寒気が走り動けなくなった。
 でも…
 本田が側にいてくれて、柔らかく包み込んでくれて…そうしているうちに恐怖は去り、もっと本田に満たされたいと飢えたような欲求に飲み込まれる。もっと、触って欲しい。もっと激しくかき抱いて欲しい…
 ついばむようなキスが焦れったくなり、克彦は自ら本田の唇を捕らえ、舌を絡ませた。


「うぅ…」
 バスルームの大きな鏡で自分の髪の毛がどうなっているのか知ってしまった克彦は、眉も下がりまくって泣きそうな顔をしている。
「…俺、こんなちんちくりんな頭でゆきに抱かれてたの?」
 色々な意味で興奮していたので最初から最後まで甘えまくり、本田も克彦が望むように、意地悪もせずにただ愛してくれた。このみっともない頭であんな台詞やこんな戯れ言を賜ったのかと思うと、火を噴きそうなくらい恥ずかしい。
「ふ…可愛かったぞ?髪型が多少可笑しくてもお前の本質は変わらない」
「それって、俺は可愛いってこと?綺麗とかじゃなくて?」
「どっちも有りだな。綺麗で可愛くて妖艶で…全ての姿を見て良いのは俺だけだ」
 どんなに撫で付けようが部分的に金太郎な髪型でも、沙希と違って愛しいと思うのは惚れた弱みだろうか。
「だがお前が恐れ悲しみ絶望する姿は見たくない。いや、そんな感情は絶対に持たせない。もしほんの少しでもそんな負の感情が芽生えたら、直ぐに俺に話せ。いつものお前に戻すのも俺でなければならない」
 どこかの絶対君主のような言いぐさが、克彦には誰よりも深い愛情からの言葉だと分かっている。支配されるのも服従するのも大嫌いだけれど、本田の言葉はもっとも自分らしく生きるために不必要な弱さをなぎ払ってくれる、嵐のように激しい愛情なのだ。
「うん」
「あと三十分で出るぞ」

『あの男は足立会の会長、竜姫の男でした。誠仁会本部に同行させます』
 吉野からの電話を切り、克彦にもその内容を伝えた。
「ゆきと、誠仁会に任せるよ。ただ…どうするのかは、知りたくない…情けないけど」
「分かっている。お前が情けないんじゃなくて、俺たちがヤクザなだけだ。黒瀬組の至宝に手をかけやがったんだ、それに見合った報いを受けて当然だ」
 

 誠仁会本部では約束の時間を大幅に遅れて登場した黒瀬組の本田組長とその愛人に文句を言う者など一人もいなかった。
 黒瀬組をエリート然とした、所謂、経済ヤクザと勘違いしていた一部の誠仁会幹部達は、無惨な姿になって引き立てられた足立会とやらの会長を見て絶句し、その後ろから拘束された吉野が異様なオーラを発しながらフラフラと歩いてくる姿にも目を見張った。事情を知らない者がそんな吉野を見れば裏切り行為でもしたのかと疑っただろう。そしてその場にいた者のほとんどがそう疑っていて、あわよくば自分の組に引き抜こうかと忙しく画策していた。そのくらい、吉野の才能と見た目に惚れている者は多い。
 本田組長とそのイロが数時間前に襲われたらしい…それに吉野が関わっているのか?黒瀬組を土台からひっくり返すような何がおこったのか…憶測と妄想に余念がなく、答えと切り札が現れるのが少々遅れたくらいで機嫌を損ねる暇がなかったのである。
 吉野は、足立会の会長が黒瀬組の組員達に暴行を受ける姿を見て興奮し、身体から顔から全身なます切りにして楽しんでいたところを止められ、止めようとした何人かの組員を夢の中に送り込んでしまったので拘束されただけである。が、そんな吉野の趣味を知るものはごく数人に限られていた。


 誠仁会本部の控え室に通された克彦は、先に到着して退屈していた沙希に突進され畳の上に押し倒されていた。
「克彦さん!!大丈夫!?襲われたって…!!」
 尻餅をついた上に腹に乗りかかられ、うぇっとなりながらもなんとか耐えた。
「だ、大丈夫…沙希ちゃん、重いってば…」
「ごめんなさい…」
 慌てて克彦の上から飛び退き、乱れた着物を直しながら克彦の脇にちんまりと座った。
「克彦さん、髪の毛…」
 右頬に近い部分の髪の毛が、不自然にばっさりと切られていた。
「ああ、これ…ここに来る前に美容室に寄ったんだけど、いつものスタイリストが泣いちゃって…落ち着いて髪型考えるまで少し待って、って言われちゃったんだ。ゆきが腹立てるからますます怖がらせて、明後日、イメージチェンジの予定」
 一部金太郎な髪型は不本意だが、あんな事があった後、美容室の人達と冗談を言い合って笑い転げたのは良かったと思う。少し重くなりかけていた気持ちがすっと晴れ、いつもの自分に戻ることができた。
「克彦さんも、ここだけ俺とお揃いだね」
 ぱっつん金太郎の部分に手を当て、沙希が嬉しそうに笑っている。
「あははは!じゃあ俺も着物きなきゃだね」
「ねえねえ克彦さん、例のヤツ、もう一回おさらいしておこうよ。俺、つっかえそうで恐い…」
 そう、例のアレである。
 すっかり忘れていた克彦は白い肌を蒼くして、畳の上に飛び起きた。
「やばいよ沙希ちゃんっ!!俺、すっかり忘れてるっ!!」
 本田と園部は既に会長と大幹部が雁首を揃える座敷に通され、この部屋には克彦と沙希しかいない。迎えに来るまで絶対に出るなと言われているが、台詞を忘れ、慌てて復習をはじめた克彦と沙希は、屋敷の中をこっそり見て回る気持ちの余裕など全く無かった。
 

 二人の、特に克彦の性格を熟知している本田は勿論、二人が待つ部屋の外に誠仁会の者達を監視役として控えさせていた。奥の間に続く襖の向こうに2名、廊下側に2名。
 その四人は…部屋の中から聞こえてくる仁義の口上を、お互いに顔を見合せながら聞いてた。女にもそうそういないような美貌の青年とお人形のような少年が、ヤクザとなって久しい自分たちですら切ったことがない口上を真剣に練習している…?
 浮き世の戯れ言などに微塵も興味が無さそうな黒瀬組組長が心底惚れ込み、全ての組員からも愛されていると言う噂の青年は、今まで自分たちが見てきたこの世界に出入りする女達とはまるっきり異なり、緊迫した雰囲気が漂うこの本部内で一際柔らかく華やいだ空気を振りまいている。
 襖の奥で繰り広げられるテンポの良い会話に聞き耳を立てては口の端を歪めて笑いを堪えていると、廊下側の襖がすっと開いて美貌の青年がひょっこり顔を出した。
「やっぱりいるよ、見張り…」
「こっちにもー…」
 沙希は隣の部屋の方を覗いたらしい。
「あのさ、お願いがあるんだけど…」
「は、はい、何でしょう」
 克彦ににっこり微笑まれ、見張りはその美しさにどきっとしながら姿勢を正した。
「俺たち仁義の切り方の練習してきたんだけどさ、見て貰えるかな?黒瀬組に恥かかせられないからね…」
 廊下の二人を部屋に招き入れながら、克彦は昔からの友達に話すように喋り続けた。
「ゆきも園部さんも教えてくれなくてさ、ってか俺たちも聞く暇なかったんだけど…やっぱり初めて会長さんに会うんだから、ちゃんとした挨拶するべきだよね?みんなヤクザのトップだから名詞交換ってわけにも行かないだろうし、ここは虎穴に入らずんば虎児を得ず?で、ヤクザと言えばおひかえなすっての仁義切らなきゃいけないのかなと思って…プロにレッスンつけてもらうのが一番かな、と思ったの」
 虎穴…郷に入れば郷に従え、、、ではないのだろうかと見張り達は首をかしげたが、何を言いたいのかは十分分かった。
 しかし。
 ここにいる見張りの四人も、任侠映画で何度か聞いたっきりである。
 ヤクザのプロではあるが、今時、仁義を切るヤクザなどいないことも知っている。それこそ辺鄙な田舎のヤクザか香具師あたりなら余興の出し物で口上をつらつら垂れるかもしれないが…今時は名詞交換が主流である。
 しかも今日は内輪ばかりの内部報告会みたいなものである。この二人に手を出せばどうなるか、この四人も既に聞いている。ほんの数時間前、この青年に刃を向けた者は凄まじい状態でここに引き立てられていた。この後、おそらく本田組長から怒りの全てをぶちまけられるはずだ。
 この可愛らしい堅気の二人は守られるべき存在として誠仁会に迎え入れられるのだ。身内の中でも別格の高みに、大切に据え置かれるのだ。
「でさ、台詞とか俺たちネットで調べたんだけど、これで良いかどうか聞いておいてね。言い回しとかおかしかったら、ちゃんと教えてよ?黒瀬組の汚点とか言われたくないし!」
 拳を握って強く頷き合う二人を止める器用さなど、四人の見張りは持ち合わせていなかった。


 会合が終わりいよいよ克彦と沙希を誠仁会主要メンバーに引き合わせる時が近づいてきた。本田と園部は克彦と沙希が大人しくしていてくれたことにほっとしながら、足早に恋人達が待つ部屋に向かった。
 が、廊下側に置いていた2名の見張りが見あたらない。
 大股で部屋に近づき勢いよく襖を開けると…


「克彦…何をやっているんだ…」
「沙希…お前」
 腰を中腰に落とし、右手の手のひらを見せるように前へ突き出すポーズの克彦と沙希が邪魔するなとばかりににらみ返してくる。
「もー…せっかく練習してるんだから…ポーズが決まらないんだ、ポーズが…ちょっと、直らない!」
 見張りだったはずの一人はポーズモデルをさせられていたようだが、黒瀬組の組長とNY本部長に睨まれ、土下座してしまった。他の三人もさっと脇に除け畳を突き破らんばかりの勢いで土下座する。
「申し訳ございません!」
 悪いことをしたわけではないが、怒りの気を発しているヤクザ上層部にはこうする以外、良い方法はない。
「え、ちょっと、なんでお前達あやまってんの?俺たち指導してもらってただけなのに…」
「克彦、なんの指導が必要だったんだ?」
 克彦に対する本田の態度は優しい。毎回良くこんなに切り替えが早くできるな、と克彦は感心してしまった。
「仁義の切り方?」

「「はぁ…?」」

 本田と園部がちらっとお互いを見てすぐに視線を恋人達に戻す。二人とも口の端を微妙に釣り上げながら、必死で奥歯を噛みしめている。
「ご苦労だったな。今から宴会だ。お前達も席に行け」
 深いため息を一つついて先に言葉を発したのは組長である本田だった。  小一時間、勘違いも甚だしい克彦達の相手を、疑問符だらけではあっても真面目に務めてくれた彼らをねぎらうのは当然のことだ。
「教えてくれて有り難うございました!」
 園部に頭をくしゃくしゃ撫でられながら、沙希が元気よくお礼を言う。
「ありがとうね!」
 克彦も、深い礼をしながら部屋を出て行く彼らに手を振りながら見送る。
「ゆきが大事なこと教えてくれないから今日は大変だったんだよ?ちゃんと挨拶しないといけないのに、俺たちってこう、身体が細くて貫禄出せないからポーズが決まんないの。どうしよう…」
 手本を見せて、と言われないうちに宴席へ連れ出した方が懸命だと思った本田と園部は、それぞれの恋人達のネクタイやら着付けやらを手早く直すと、口上をぶつぶつ呟きあう二人を促し、大広間へと向かった。

(沙希ちゃん…なんか、想像していたのと違うんだけど…)
 色とりどりの料理が並べられた膳の前に座らせられた克彦が、隣に座って料理に釘付けになっている沙希に耳打ちした。なぜだか分からないが、沙希のごはんの器にはオムライスが盛りつけられており、アメリカの国旗と黒瀬組の代紋が描かれた小さな旗が立っていたのだ。
(俺だけオムライス??)
(いつ仁義切ればいいのかな…??)
(あ、克彦さんの所にだけ三段重ねの盃が…)
(か、固めの盃!?)
「克彦、沙希、少しだけ静かにしておこうか?」
 どんなときでもマイペースを崩さない克彦と、常に思考回路がトンチンカンな沙希(本田目線)は、静まりかえった全員の視線を浴びているにもかかわらず、小声で話し込んでいる。
「あ、うん。ごめん」
(もう、沙希ちゃんが話しかけるから…)
(だってぇ…オムライス…)
(いいじゃん、大好物なんだから。俺なんか盃だよ盃…)
(俺も披露宴の時、盃でシャンメリー飲んだよ?)
「克彦、会長がいらっしゃるぞ」
 廊下の方から慌ただしい足音が聞こえて来る。克彦と沙希は今まで崩していた姿勢をきっちり直し、表情を引き締めた。
「おう、揃ったな」
 60代半ばだが黒々とした髪のお陰で50代に見える鉄田が勢いよく座敷に入ってきた。
「そっちが噂の克彦君か!こりゃまた上玉じゃねぇか!そっちの可愛いのが沙希ちゃんか?うちの床の間に飾りてぇなぁ」


「ほう、克彦君と沙希ちゃんは、仁義切る練習までしてたのか?今時の若もんのくせに、しっかりしてやがる。俺も久しぶりにやってみるか!」
「沙希ちゃん、プロの口上だよ!聞かせて貰おうよ!」
「はいっ!!」
 喜々として座敷の真ん中に座って拍手をする二人と、良い気色になった鉄田会長を止められる者などいない。
「よし、二人とも順番に指導してやるからな、まずは手本だ。おい、今津の、おめぇも昔やった口だろ?」
 名指しを断るわけにもいかず、しぶしぶ立ち上がった今津が鉄田の真正面に立ち一呼吸すると、すっと腰を落として手の平を上に返した。


「沙希ちゃん、それは相撲の蹲踞(そんきょ)だ、そんなに腰を落とさんでもいいんだ、もうちょっとほら、このくらいで…前に重心を持ってきて…」
 そう言いながら沙希の腕や背中を触っている鉄田にむかついた園部は、俺が教えますよ、と言って鉄田を追い払った。
「ふん。このままさらって行こうかと思うとったのに…」
 骨董品が好きな鉄田はお人形のような沙希を気に入り、先ほどから余計なまでに接触している。もちろん、克彦のことも気に入っているのだが、園部より本田の方が数十倍恐ろしいことを鉄田は知っている。それに、沙希に対しては孫ができたような嬉しさの方が大きい。克彦は…夕方襲われたせいで妙な髪型になっているが、妖艶さは自分が知っているどんなに美しい女よりも遙かに上だ。何体か持っているスーパードルフィーより美しく、本田が先に知り合っていなければ自分がモノにしていた。そういう下心があるので迂闊に近づけば本田を怒らせるに違いなかった。本田が怒ればどうなるか、たとえ誠仁会会長といえど安心してふんぞりかっているわけにはいかないだろう。腕を使い物にならなくされた竜姫、赤字破門の上東南アジアに飛ばされる沙次郎、そして恐らく今夜この宴の後に半殺しにされる足立会の会長…自分も同じようなことはやってきたが、今回の処分はあまりにも一方的すぎる。黒瀬組の言うとおりにしなければ誠仁会の全ての組を敵に回すことも辞さないと、ごり押しのような形で決定されたのだが…得体の知れない軍隊を背後に持つと言われている黒瀬組の本田雪柾が望む道元組への要求はあまりにも下らなさすぎた。
 竜姫と沙次郎は殺すわけでもなく、北海運輸の経営権は妥当な金額で返すと言う。竜姫と沙次郎を疎んじていた道元組には旨すぎる話しだった。
 金などいらない、ましてやクズの命など奪う価値もない。本田が望んだのは克彦と克彦を取り巻く全ての堅気の身の安全だった。かれらがヤクザの世界に突っかかってこない限り手出しは厳禁、これを徹底するのが望みだった。
 

 ひとしきり飲んで騒いで夜も更けた頃、本田は克彦と沙希を先に帰すよう指示を出した。
「どうして?ゆき、まだ仕事?」
「ああ。直ぐに終わるが、お前達は先に帰ってゆっくりしておけ」
 あと一仕事。克彦を襲った者への制裁が残っている。血煙が舞うであろう屋敷に留め置くことはできない。
「うん…」
 

 二人を送り出した後、本田は鉄田に連れられ先ずは吉野が拘束されている部屋に向かった。拘束されたくらいで落ち着く事はないが、なます切りを楽しんだ後で少しは満足しているようだった。
 隣に座っていた沼田が立ち上がり、寝転がせていた吉野をベッドの端に座らせるべく抱き起こした。
「千草、お前も手伝うだろう?」
 にやりと笑った本田の目には狂気が宿っていたが、それをまともに見て動じないのは吉野くらいのものだろう。沼田と園部はあからさまに嫌な顔をしている。
「お前の獲物だった男を庭に連れてきて動かないように固定しておいてくれるな?」
 吉野がゆらりと笑い、頷く。
 吉野の拘束を解き、沼田に先導させ恐怖で震える男がいる部屋へ案内させた。吉野が男を連れてくるまでに、本田は鉄田のコレクションの中から刀を選ばなくてはならない。
「無銘の刀だが、切れ味は抜群だ。地肌も美しいので吉野にやろうかと思うんだが…」
「切れてなんぼ、でしょう。今夜はこれを借りましょうか。しかし、吉野に持たせるのは自殺行為かと…」
 再び鞘に収め、庭へと向かう。後始末が楽なよう、一面に防水シートが敷かれ、大事な庭木にもシートが被せられていた。
 数十人のヤクザ幹部は縁側に鈴なりになっている。血を見るのは慣れているが、浴びるのは御免被りたい。しかしそのほとんどの者が、これから行われる処刑より、吉野の尋常でない様子に目が釘付けになっていた。あれは誰だ?と問いたくなるほどの変わりようである。いつも涼しげにスーツを着こなし、物腰も柔らかく仕事も完璧で、隠れたファンを多く持っている。が、今は髪も乱れ、ぴかぴかと光沢のあるエナメル・パンツに胸元の開いたベストを着ている。長身で細身と思っていた身体も、大きく開いたベストの胸元から見える部分は美しい筋肉で飾られていた。
「千草、そいつの腕を…あとはお前の好きにすると良い」
 言いながら本田が刀身を抜く。月の光を反射する刀を男の目の前にかざす。十分な恐怖心を煽るために…。既に血だらけで顔も原形をとどめていないが、本田には目の前の男が見えているようで見えていない。克彦をかつて無いほど怯えさせた…普通にしていても、本田にだけ分かる、本能的な怯えとでも言うのか…あの様子では克彦本人も気がついていなかったと思われる。目の前の物体はその悪しき罪の固まりでしかない。
 太刀を振り上げ降ろす。返して斜めに振り上げる。
 見事な光りの太刀筋を残し、一瞬で終わった。
 絶叫と血飛沫など最低の飾りでしかない。
 血を振り落として鞘に収めた刀を鉄田に返すと、本田はそれ以上何もしようとしない吉野を連れて、その場を離れた。

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