「滝川はな、うちの嫁の幼なじみなんだ」
「「えええ!!」」
「嫁とは俺が40の時に出会って、口説き落とした。まだ若頭のころで、こいつはまだ学生だったな」
 滝川はステーキを頬張ったまま頷いている。
「幼なじみがヤクザに盗られた腹いせに警察官になりおった。最初は事あるごとに突っかかって来たがな、俺たちを引き離すだけが策ではないと気が付いたようだ。ま、刑事が一人、うろちょろするくらい大したことは無いがな」
 色恋沙汰が大好きな克彦はほんの少しだけ滝川に興味を引かれたようだ。ほんの少しだけ。少しだけなら、普通に口を聞いてやっても良いかもしれない。
「幼なじみ…って、恋人とかじゃなかったの?今津のおじいちゃんに盗られてはらわた煮えくりかえって一人で組に殴り込み、とかしなかったの?」
 滝川は眉間に皺を寄せ、しかめっ面で克彦を見た。
「恋人…なわけ無いだろう。あいつはな、俺の天使なんだ。誰にも渡さずに一生閉じこめておくつもりだったんだ。田舎の修道院にでも預けようと思ってたんだ。それをこのヤクザ野郎が…」
 持っていた箸をテーブルの上にぐっと押しつけ、わなわなと腕をふるわせている。恐らくもう少しで…ばきっ、と言う音と共に折れた割り箸の先が今津目がけて飛んでいくはずだ。果たして、どこへ飛んでいっても可笑しくない割り箸の先は見事な勢いで今津の肩に当たった。素晴らしいコントロールだ。
「その執着心はヤクザ以上じゃないか…八重子が俺のことを本当に愛するようになるまで嫁にはださん!ってな、親より凄い剣幕だったな」
 ぽかん、と口を開けて見ていた沙希に笑いながら話しかける。
「押して押して押しまくってやっと手に入れた。園部より強引に押しまくったんだぞ?」
 見た目はとても優しそうだけど、強引さは本田や園部以上らしい。
「どんな人なんですか?お会いしたいな…」
 今津のおじいちゃんがとても愛している女の人…ずうずうしいかもしれないが、会ってみたい、と沙希は期待に胸を膨らませて聞いてみた。
「ん?凄く可愛らしいぞ。連れてきたかったんだが、ヤクザが二名以上いる公の場所に連れてきてはいけないことになってるんだ。こいつに言われてな」
 他にも山のような条件をのまされた。だが、その一つたりとも破ったことはない。
「帰るまでにうちに遊びに来ると良い。八重子も沙希ちゃんと克彦君のことを聞いて会いたがっている」

「だいたいお前ら、揃いも揃ってなんでヤクザなんかと付き合ってんだ?」「好きになった人がヤクザだっただけ。ほぼ一目惚れだけどさ、最初は見ないようにしてた。それはたぶん、まともに見ちゃったら惚れてしまうって分かってたからかもしれない。もう見た目なんかドツボだし図々しさも思いやりも天下一品で…見ちゃいけない、関わっちゃいけないって分かってるんだけど…俺なんて我が儘で自分勝手で高ピーで、綺麗な顔と身体以外なんにも持ってないからますます増長して女王様になっちゃうの。それでいつも振られてたんだけどさ、ゆきは気にしてないどころか、俺らしく生きてる俺が好きだって言ってくれたんだよね。ヤクザとして生きてきて今のゆきが存在するなら、俺もその生き様ごと認めなきゃ、男じゃない」
 お箸を握りしめた拳を今にも空に向かって突き出しそうな勢いなのは少しばかり笑えたが、瞳は真剣そのものだ。そんな克彦を見る沙希も口元を引き締めて頷いている。
「そっちのちっさいのは?お前、まだ中学生だろ?子供は大人とえっちしちゃいけないんだぞ?」
「俺は沙希です!小さい小さいって、俺だって気にしてるのに!それに俺、高校生です!NYでは言葉が不自由だから中学に通ってるけど…でも16才です!訂正してください!」
「…すまんな、謝る。で、最後の質問の答えは?」
「えと…」
 元来そっち系の話しが苦手な沙希は急に頬を染めて口ごもってしまった。 克彦と今津が助け船を出さないのは単なる意地悪なのか、それとも、少しでも沙希を大人扱いしてやろうという親心なのか…
「俺…あの…えと…はるさんは俺の理想の男で、大好きで…えと…はるさんだけ。はるさん以外、考えられない…時々意地悪されるけど、それも本当は嫌なんじゃなくて恥ずかしいだけで、わけわかんなくなったら気にならないし…えと…とにかく…俺がはるさんのこと好きだから良いんです!まだ子供かもしれないけど、恋愛しちゃいけない事はないでしょ?はるさんは、ちゃんと自分で選ぶように考えさせてくれた。最後に飛び込んだのは俺だもん」
 良く言った、とばかりに克彦と今津も大きく頷いた。滝川だけが面白く無さそうにふて腐れていて…
「ふんっ」
 と言ったまま、またステーキを頬張りはじめた。


「でさ、あんたはどうなの?」
 上着で隠れているが腕のボタンと、ネクタイの下の第二ボタンは取れてしまっている。侘びしい独り者か古女房に飽きられた寂しいだんなか…どちらにしても他人のことより自分のことに神経を使った方が良さそうである。
 もう少し気を遣えば決して見た目は悪くないのに、と克彦はいつものクセで上から下までじっくり何度も視線を動かした。
「俺かー?ヤクザばっかり追いかけてるからなー。怖がられて長続きしねぇ」
 まあそんな所だろう。
「こいつにもちゃんとした女はいたんだぜ?」
 今津が滝川の背中をポンポン叩きながら、庇うように付け足した。
「しかも部下で、とんでも無く肝っ玉が据わった女だったな。肝が太すぎて大和会(だいわ)に追いかけられて殺されそうになった。それを俺と黒瀬の先代が助けたんだ。それなのに…こいつは振られた。ヤクザを取り締まる自分たちがヤクザに助けられたのを、彼女は恥じたんだな。ヤクザに助けを求めたこいつを許せなかったんだな」
「ふーん…じゃあ、今その部下はどうしてるの?」
 なかなか良いところあるじゃん、とおもった克彦は少しだけ滝川を見直した。
「政治家の妻になって暴力団追放を叫んでる。だがな…事態はますます悪くなっていて…また俺が水面下でごそごそ犬かきしてるってわけだ」
 ヤクザに、まともに立ち向かって勝てる堅気は心底善良な人か極悪な人間だ。
「彼女は善良なんだ。だが、旦那は見た目善良な悪徳代議士…なんで彼女自身気が付かないで居るのか不思議だった。若い頃は見えていなくても、一緒に暮らしているうちに相手がどんな人間か分かるだろ?彼女もバカじゃないから見切ったはずなのに…気が付いていても、家族のことを考えると振り切れないんだな。自分が貫き通してきた信念が揺らいでも、言った手前途中で方向転換することも潔しとしない。そんなものドブに捨てて子供ごとこっちに帰ってくればなんとでもしてやるんだがな。そんな殊勝なことするくらいなら殺された方がマシ、そんなふうに考える女」

「でな、黒瀬の先代と旧交を温めていたら、お前らの話しを聞いた。美貌の漢とちびっこ戦士を拝みに来たってわけだ」
 また『ちび』と言われた沙希がすっと背筋を伸ばす。
「これはオフレコだぞー。俺はな、ヤクザ同士が殺し合うのは一向に構わない。堅気に迷惑掛けなきゃ好きにやってくれて良い。極悪堅気を潰してくれるんだったら目を瞑る。要はな、まっとうな人間が幸せに一生暮らせるようになれば文句ないんだ。お前らもな。無理強いされてんじゃなけりゃ、男だろうと子供だろうと構わん。しばらく顔を合わせる機会も多くなると思うし、適当に知り合っておきたかったのさ。いいもん喰えるし」
 さっきからステーキしか食べていないので本当に舌が肥えているかは怪しい。沙希が自分の皿を見つめ、残っていたお肉をつまんで滝川のお皿に移した。
「これ、あげる。俺はお肉も野菜も均等に食べなきゃいけないの。育ち盛りだからね」
 すると、滝川は手つかずだった付け合わせの野菜を自分の皿からざーっと沙希の皿に移動した。
「よし。野菜も食って大きくなれよ」
「はるさんみたいになれるかな?」
 それには答えてくれなかったけれど、否定もしない。いつかそのうち絶対に、と思ってがんばっていれば報われると自分に言い聞かせていたけれど、このところちっとも縦にも横にも大きくならないので、応援してくれる人は無条件で好きになる。
 滝川の事をとても見直した克彦も沙希と今津組長が慌てるほど日本酒を酌み交わし、騒ぎまくったのだった。


「途中から水で薄めたんだけど…」
 本田が迎えに来たのは、飲み過ぎた克彦がテーブルに突っ伏して眠りこけた後だった。酒豪というより酒乱気味の克彦を見るのは楽しかったので、園部相手だと厳しく制限するけれど、克彦には飲ませすぎたかもしれないと沙希は反省していた。
「これ全部飲ませたのか?」
 銘柄が違う空き瓶が10本以上転がっている。
「半分以上薄めたんだけど…」
「いいんだぜ、沙希は気にしなくても」
 園部は水が入ったピッチャーをしっかり握りしめていた沙希からそれを取り上げ、同じくテーブルの上でうつぶせていた滝川の頭上にかざす。
「はるさん!!」
 水がこぼれ落ちる寸前で、酔った振りをしていた滝川が素早く起きあがった。
「ひでぇな…」
「お前が酔っぱらうはずねぇだろ」
「あれ…滝川さん…酔ってないの??」
「沙希、こいつはザルだ。血も涙も汗もアルコールでできてんだ」
「園部、ちびは良い子だな。お前に愛想尽かしたら俺が面倒見てやる。あっちの綺麗な兄ちゃんも、綺麗なくせに漢だ。本田を振り回すだけの事はある。実はこっちの仕事のついでにお前達の様子をおやっさんから見てくるよう頼まれてた。道元竜姫がやらかしたことも勿論、俺の耳には届いてる。まあそれは黙っておくから、こっちが欲しい情報持ってたら渡してくれ」
 半分眠りこけながらも上機嫌でニコニコ笑っている克彦を抱き上げようとしていた本田が静止し、滝川を見る。
「どういう話しを聞いたのか知らんが、こっちはあくまで被害者だ。黙っておこうが掘り返されようが痛くも痒くもない。それより…俺がいないところで克彦に会うな」
 今津組長や沙希がいるからと言って、克彦が滝川相手にここまでご機嫌な状態になっているのが何よりも気に入らない本田だった。

 うにゃうにゃと戯言を呟く克彦を抱き上げ駐車場まで運び、後部座席に押し込む。そんな本田の姿を眺めていた滝川は呆れたと同時に一抹のうらやましさを感じ、ふんっと小さく鼻を鳴らした。
「なんでヤクザがもてて、悪を懲らしめている正義の警察官の俺が嫌われるんだ」
 沙希がドギーバッグにデザートのケーキやクッキーを詰め込んだ物を、克彦の横に収まった本田に手渡している。
「警察やめれば良いだろ。年はいってるが中途採用で黒瀬組に入れるかもな?」
 去っていく車にぶんぶん手を振っている沙希を背後からすくい上げながら園部は言った。
「半世紀も生きてきて、女の一人も幸せにできないなんてな。だいたいあいつらが…ヤクザに絡まれるから俺が巻き込まれたんだぜ?八重子はともかく、浩恵(ひろえ)のやろーは日ごとに問題を大きくしやがって!」
 みっともなく銜えていた煙草を地面に放り投げ靴で踏みつける。そんなものに八つ当たりしても仕方ないだろうにと沙希は思うが、それよりもポイ捨てが気になったので、抱きかかえられたまま園部のポケットを探り、自分がプレゼントした携帯用灰皿を滝川に差し出した。
「ポイ捨てはダメ。黒瀬組の人はみんなそんなことしないのに…」
「はっ!?なんてこった…まるで俺らがちんぴらみたいじゃねぇか」
 沙希が以前就いていたビルメンテナンスの大事な仕事には「掃除」も含まれていた。きちんとしたオフィスビルなのに、どうして?と問いたくなるような場所に吸い殻が落ちていたりして、頭に来たことが多々ある。身体のことを考えると禁煙して欲しいけれど、園部が煙草を吸う姿にドキドキしたい気持ちもあり、一日一箱以下なら吸っても良いと言うことにしている。園部も以前はポイ捨てをしていたが、沙希に見とがめられて携帯灰皿を持つようになった。もっとも、園部が捨てた物は最後尾の下っ端が片づける事になっていたのだが。
「はるさん…」
「ん?どうした?」
「これ、滝川さんにあげても良い?はるさんのぶんは、俺がもう一つ用意するから…」
「ダメだ。せっかくの沙希からのプレゼントを他の男にやるわけにはいかねぇ。おい、誰か安いヤツをこいつに渡しておけ。ほら、車が来た、帰るぞ」
 少し眠そうな顔をしている沙希の身体を揺すると腕を首に回してきゅっと抱きついてくる。その一瞬で滝川のことなど園部の記憶の中から吹っ飛びそうになる。
「ああ、お前の欲しそうな情報な…明日の夕方、沼田に聞いてみると良い。盗ってきたのはあいつだからな」
 滝川は赤ん坊をあやすように沙希を揺すっている園部に呆れた顔の一瞥をくれ、携帯用灰皿をポケットにしまいながら踵を返した。
「…信じられねぇ…あいつら…気でも狂ったのか…冗談だろ」
 情報をやると言われたことに対してではなく、周囲も憚らず自分のイロにべたべた極甘な態度を示すヤクザの幹部の姿を、まだ信じられない。信じたくない。
「あいつらの方がよっぽど人間臭いじゃないか…」


 夜中に一度目を覚ましたとき、誰よりも優しく気の付く恋人に口うつしで飲ませて貰った2日酔いの薬が効いているのか、深酒をした翌朝とは思えないくらい気分が良い。男らしく整った恋人の寝顔をたっぷり眺めた後、またごそごそと惰眠を貪る。
 克彦がすっかり目覚めたのは本田がシャワーを浴びて寝室に戻った直ぐ後だった。ベッドサイドに腰掛けた背中の弥勒菩薩に頬を寄せると、本田は克彦を抱き寄せ唇に噛みつくようなキスをした。
「こっちが先だろ?」
 どうかしていると自分でも思うが、本田雪柾以外に克彦の気持ちが少しでもなびくのは我慢ならない。自分の身体の一部とは言え、弥勒菩薩は本田ではないのだ。
「ん。でも、ゆきを守ってくれるから…。ゆき、今日も仕事?」
 昨夜は酔いつぶれて何も聞けなかった。滝川の存在が考えていたほど憂慮すべきものではないと分かり、安心してしまった。
「ああ。蛇女への制裁は道元に任せることにした。恐らく今日の午前中には誠仁会幹部が集まって道元組への処罰が決まるはずだ。今夜、誠仁会の幹部に会う。お前も連れて行く。分かるな?」
「うん…」
 それは、たぶんもうここから逃げ出せないという事なのだろう。
「でもさ、もし…ゆきが俺のこときー…」
 …らいになったらと続けるはずだった唇を、言葉ごと飲み込まれる。
「もしまたお前がその言葉を口走ったら、今度は猿ぐつわ噛ませてベッドに縛り付けるからな」
 

 今日は事務所に来てはいけないと言われたので、足腰立たない沙希が連れてこられたのは克彦が今夜のお披露目のために身繕いをしていた本田のマンション。目覚めは悪くなかったとは言え、飲み過ぎてむくんだ顔を何とかしようと奮闘している真っ最中であった。
「沙希ちゃんはそこに転がっててね」
 克彦が床の上でストレッチをしながらソファーを指さすと、園部がソファーにそっと沙希の身体を降ろした。
「夕方に迎えに来る。その前に呉服屋のじいちゃんが尋ねてくるはずだ」
「えー?沙希ちゃんまた新しい着物買ってもらったの?俺、今夜何着ていこう…ねえ園部さん、後でうちに服を取りに帰っても良いかな?」
「ダメです。組長に伝えておきますから…直接連絡があるまでここで大人しくしていて下さい」
「ケチ!」
「……沙希、克彦さんが退屈しないように…がんばれよ」
 そうしたいのは山々だが、誰かさんのせいで沙希もフラフラなのだ。昼過ぎには回復する見込みだけれど。
 園部は部屋を出ると万が一の場合のため、自分の部下もドアの外に待機させておいた。
「中の二人を絶対にここから出すな。夕方呉服屋が来るが、じいさんと付き添いの二名だ。誰が来るかは写メを送るから確認してから入れろ」


「沙希ちゃん、沙希ちゃんも今夜誠仁会の集まりに出るんだよね?」
「うん。それでおじいちゃんが新しい着物持ってくるんだって。こないだので良いのに…」
 披露宴?の時に着た着物の他にもニューヨークから持って帰ってきたものが沢山ある。袴の色を変えたら何度も楽しめるのだから一通りローテーションしてから買えばいいのに…と、少しは譲歩するようになった。
「克彦さんは俺みたいに着飾らなくても十分綺麗だから…昨日のカッコでも大丈夫だよ?」
「んー…昨日の服はなんとなく酒臭いかも…」
 久しぶりに楽しい酒で、最後の方はいつどうやって帰り着いたのか覚えていない。夜中に目覚めた時、本田が側にいて妙に安心してしまった事は覚えている。
 今夜初めて会う誠仁会の幹部達にできるだけ良い印象を与えたいのに…
「ねえ沙希ちゃん、今夜、何か特別な事するのかな?なんかこう、ヤクザの盃ごとみたいなやつ?」
 沙希はソファーの上で、今まで見た映画を思い出してみるが…
「…これから世話になる人には、仁義を切ったりー…親子の盃を交わすときもなんか決まった台詞があったと思うけど…」
「沙希ちゃん、そのビデオ持ってる?」
「うん。でも、ニューヨークのはるさんち…ちょっと待ってね、家に誰か残ってると思うから…」
 そう言って沙希は受話器を取ると慣れた手つきでニューヨークに電話をかけた。何やら英語で話しているが、何となく察するに、DVDをパソコンにおとしてメールで送信してくれと言っているようだ。
「一時間くらいでできると思うけど…あ、そうだ、仁義の切り方はネットで探せば出てくるかもしれない!」


 本田の書斎にあるパソコンを起動し検索をかけると、意外なことに、沢山の例文が出てきた。
「…つっかかったり間違えたりしたら…指つめられちゃうんだ…」
「うん…」
「じゃあさ、簡単で、かっこいいやつ考えようよ」
 などと二人で頭を絞ること小一時間、必要事項を盛り込んだ台詞を二人分考え、いざ練習。鏡の前で手の位置や腰の位置をお互いに意見し合い、細身の自分たちでもそれらしく見えるポーズを身体に叩き込んでいるうちに、時間などあっという間に過ぎてしまった。食事をしながら、おやつを食べながら、何度も台詞とポーズを練習する。
 そんなに大事なことなら本田も園部ももっと早いうちに教えてくれるはず…などとは思いつかなかったのは、この二人の良いところなのか悪いところなのか…二人ともどこかで舞い上がっていたのかもしれない。
 夕方にさしかかる頃、沙希の呉服屋のおじいちゃんが大層な荷物と共にやってきたときも、こんにちはの変わりに仁義をきってしまうほどノリノリだった。
「おやおや、お二人ともさすがですね、本物は迫力が違いますね」
 呉服屋を部屋に連れて入った本田の部下は呆気にとられたまま、報告するべきか否か迷った挙げ句、克彦の性格を良く知っているにもかかわらず、しっかり者の沙希までが一緒にやっているので冗談に違いないと結論づけてしまった。そう思った方が、気が楽だった。
「ねえねえ、俺の衣装取りに帰っちゃいけない?」
 園部に頼んだはずだが、連絡は来ていない。いろいろとヤクザの仕事が大変な一日なのだろうと思うとこちらから連絡するのも気が引ける。
「組長に確認を盗りますので、少し待って頂けますか?」
「だってもう危ないヤツはいないんだろう?」
「そうですが…お一人で外出させないようにと組長から言われていますから。今すぐ連絡してみます」
 自宅の警備担当からの電話は直ぐに本田へ繋がる。特に克彦が滞在しているときはワンコールで出るほど素早い。
「克彦さん、組長からです」
 克彦は組員の携帯を受け取るとどうしても家に帰って今夜のための洋服を選びたいと、食い下がる。
『分かった…あと一時間でここを出られる。お前の家まで一緒に行こう』
「でも…ゆきは直接会場に行った方が速いだろ?ここの組員二人連れて行くから大丈夫だよ」
『俺が少しでも早く、長くお前に会いたいんだ』
 ダメ、と一言で言えば早いのに、乱暴で押しつけがましいことを言わない本田に、克彦は鼓動が跳ねるのを感じた。
「ん…じゃあ大人しく待ってる。ごめんね、忙しいときに電話して」
『いいや。何時でも、お前の好きなときに俺を呼べ』
 あれだけ騒いだのに、本田の一言で大人しく言うことを聞くようになった克彦の様子に、沙希もにっこり微笑んだ。

「ゆき…わざわざごめんね」
 自宅までの短い道を二人で歩きながら、克彦は自分に対してどこまでも優しい本田にときめいていた。毎日、会うたびに恋に落ちる。
「いいや。それより、先に部下を部屋に入れて空気を入れ換えさせているが、構わなかったか?」
 年が明けて二週間、克彦は1、2度短い時間しか自宅に帰っていない。仕事がはじまった途端竜姫に襲われ、ずっと本田のマンションか事務所にいて、こんなに長時間本田の側にいたのも初めてかもしれない。この短い間に多くの事件が起き、そのせいであっという間に日々が過ぎたからかもしれないが、息苦しい思いは1秒だってしなかった。
 我が儘を言いすぎて捨てられるかも、と毎日のように思ったけれど、直ぐに力強く否定してくれる本田が近くにいることが、これほど効果的だとは思わなかった。
「ありがと。勝手に入ってもらって大丈夫だよ」
 護衛の連中もいるのかいないのかこちらが不安になるくらい、克彦の目が届かないところで守ってくれている。
 マンションのエントランスからその部下達に到着したことを伝える。たぶんこの電話で彼らは速やかに自分たちの部屋に戻るのだ。
 この2、3日、護衛の彼らも本業で留守にすることが多かったので、空気の入れ換えだけではなく、克彦の部屋を点検する事が主な仕事だった。


 克彦の部屋はペントハウスだが、12階建てのそう大きくはないマンションで広めのエレベーターが一基あるだけだ。その一基も誰かが使用中なのか途中の階で停まっていた。
 そう言えば外に宅配業者やらピザの配達バイクやらが止まっていた。総戸数が少ないので普段はほとんど人影を見ることもなく、珍しく賑やかな瞬間に遭遇したようだった。
「近所にあのピザ屋あったんだ…クラストが石釜で焼きました、って香りで美味しいんだよ」
 ピザの生地を作るのは簡単だが、凝り性の克彦は良い窯がないので焼けない、とピザだけは専門店で食べるかデリバリーをたのむ。
 本田が何か言いかけたとき、後方からついてきたいた部下達が追いつき軽く会釈して、扉が開いたときに支えるためエレベータのボタンの前に立った。すーっと音もなくエレベーターの扉が開き、ピザのデリバリーをしていた青年が男達の集団に少しばかりたじろいだのを見て克彦は、ご苦労様です、とにこやかに挨拶した。艶やかな笑顔につられて、その青年もはにかみながら挨拶を返す。
 その後ろにいたのは宅配業者の男だ。ピザ屋の爽やかな青年とは打って変わって疲れた暗い表情だ。駆け出さんばかりの活き活きとした青年の後ろから小さな小包を抱えて出てくる。
 宅配業者がほんの少し手元のバランスを崩し荷物を落としかけたとき、扉の横にいた男は何かが光ったのを見つけ、エレベーターに乗り込もうとした本田と克彦に腕を伸ばす。
 その腕の少し上を掠って、光るものが克彦の肩口をザッと音を立てて通り過ぎていった。
「克彦!」
 ふわっと、柔らかい絹糸のような物が宙を舞う。
 組員が差し出した腕で宅配業者を装った男の腕を挟み込む。本田も克彦を自分の方へ抱き寄せていたが、二人の素早さがなければ、光るものは克彦の頬か首筋を抉っていたかもしれない…
 宙を舞ったのは、克彦のよく手入れされた髪の毛だった。

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