沼田は北海道行きの飛行機の中だったのでいないのは当然だが、吉野も楽しい用事で留守中だ。都筑を心配して気が動転している克彦を慰めるために本田は別室へ籠もってしまい、事件をかぎつけた警察からの電話を受けるのは園部しかいなかった。
 無惨な姿のメルセデスは置いてきたが、克彦・沙希と足立会の痕跡は完璧に消した。足立会の本部は今頃吉野が綺麗に片づけているだろう。
「だから知らねぇ、つってるだろう…乗ってたのはうちの組長だよ。狙われてたんだぞ!?のんびり待ってられるか!さっさと移動したよ…あー?本田は昼飯中だ。後にしろ。こっちが知りてぇよ。車弁償させねぇとな。こっちは被害者なんだ。事情聴取してる暇があったらとっとと犯人見つけろ。吉野?昼寝中だ。起こすと恐いからな。夕方には起きるんじゃねぇか?だから来るな。来ても茶は出ねぇぞ」
 園部は自分が言いたいことだけ言うとさっさとボタンを押して電話を切ってしまった。
「誰か来るの?」
 隣でお茶を飲んでいた沙希が湯気の向こうから問いかけてきた。
「多分な。来る頃には吉野も帰ってきてるだろうから、対応はあいつにまかせる」
「はるさん、都筑さん、大丈夫なの?病院行かなくて良いの?」
「ああ…今治療中だ。心配ねぇ。それより沙希、お前も頑張ったな」
 沙希なりにできることはしたけれど、園部が来てくれなかったらあのまま攫われていたはず…狭い車内に引っ張り込んでボコボコにしたかったけれど、ドリルを持っていたのでそれも危険すぎてできなかった。
「ドリルはちょっとね…」
「タイヤをパンクさせたのはさすがだぞ?」
「時間稼ぎ…」
「ああ。すごいよ、お前は。自慢の恋人だ」
 そう言って褒めてもらっても、結局捕まってしまったし、諦めなければならなかったし、都筑はあんな事になってしまったし…沙希はすっかり自分が情けなくなり、落ち込んでしまった。
 園部にとって黒瀬組は家族で、沙希は名実ともに園部の家族なのだから、黒瀬組も家族である。その黒瀬組の親である組長の最愛の人で、沙希も大好きな克彦さんをちゃんと守れなかったのだ…

 克彦は本田に抱き締めて貰いながらも拭えない不安で押しつぶされそうになっていた。本田の部屋の奥に、いつでも仮眠を取れる小さくても居心地の良い部屋があり、ドア一枚向こうには園部と沙希がいる。泣きたい気分だったが鳴き声を聞かれたくない一心で我慢しており、泣いてすっきりできないからだろうか、気分はどんどん落ち込んでいく。
「ゆき…どうして病院に行っちゃいけないの?」
 あのままずっと付き添っていたかったのに…
 気が動転して都筑を引き止めることができなかった。あのまま車内に残っていれば都筑はあんな目に合わなかったかもしれない。
「俺が黙って誘拐されてれば、都筑はあんな酷い目にあっていなかったかも…」
「そんなことになってればそれこそ都筑は責任を感じて、愚かなことをしていたかもしれん。何かあったらすぐに連絡がある。何もないってことは大丈夫ってことだ。それに、お前が行くと警察に嫌な目にあわされるぞ。あの車には俺が乗っていた。襲われたのは俺と言うことになっている。分かったな?」
「うん、分かった。やったのは…あの竜姫って女?」
「ああ。あいつが使っている組の連中だ。竜姫は行方をくらませている。自分の部下が捕まってるのに逃げ出した薄情な女だ」
「どうしよう…ゆき、都筑が死んじゃったら…俺、絶対、許せない、あの女、許せなくなる…っ!」
 克彦の不安を煽っていたのは今日起こった事だけではなく、自分の心の中に芽生えたどうしようもない怒りだった。男に売られて組対の刑事やちんぴらに弄ばれていた頃でもこんなに誰かを憎いと思ったことはなかった。付き合っていた好きな男に酷いことを言われても、こっぴどく振られても、時間が経つと忘れられたし、今は思い出せもしない。
 自分を形作っていた世界は、そんな程度の物だったのか…
 今、こうして自分を抱き締めている男が与えてくれた世界とは比べものにならないくらい半端で薄い物だったのか。


 園部が扉をノックしたのは一時間ほど経った頃だった。都筑に付き添っていた黒服から連絡があり、都筑はまだ眠っているが命に別状はない、と。頭蓋骨にヒビが入っているが脳内には出血や損傷は見られないので、今は目が覚めるのを待っている段階だそうだ。目が覚めてから、後遺症が出てこなければ良いのだが…
 内側から扉が開き、憔悴しきった克彦と共に本田が出てきた。
「克彦さん…」
 沙希が心配そうに駆け寄る。
「大丈夫?都筑さん、大丈夫なんだって。一緒にお見舞いに行こうね?」
「ん。沙希ちゃんも、助けてくれてありがとうね。格好良かったよ」
 実際、本田達が来るまで時間稼ぎをしてくれたのは沙希だ。電気ドリルを持って突進したあと、運転席の窓から車内に飛び込んで運転手を拘束したのも沙希で、その行為がなかったら克彦を乗せたまま逃走されていたかもしれない。
「沙希、お前のお陰で克彦は無事だったし、悪い奴らも捕まえられた。良くやったな」
 本田が褒めてやると、沙希はすこしだけにっこりした。
「でも俺…夢中で…戦い方とかちっとも上手くなかった。都筑さんも守れなかったし…」
「あんまり危ないことはするな。園部の泣き顔なんざ気味が悪くて見てられねぇからな」
「克彦さんも沙希も、何も喰ってねぇだろ?何かデリバリーするか?」
 園部が話題を変えると、克彦も少しだけ元気を取り戻して言った。
「沙希ちゃん美味しいカレーが食べたいんだって」
 

 夕方、何食わぬ顔で吉野が帰ってきた直ぐ後、警察の人間が事務所にやってきた。克彦と沙希はゲストを泊める部屋に移動させ、好奇心旺盛なこの二人が出てこないように見張りも付けた。
「ほー…園部がいるとは珍しいな」
 先代の頃から黒瀬組を担当しているその刑事にとって、現在の黒瀬組の幹部達は息子のような存在だ。出来が良いのか悪いのか、性根が良いのか腐っているのかわからない子供達ではあるが。
「日本の正月が恋しくてな。雑煮やら餅やら、やっぱ日本の正月は良いなー」
「その割には…なんかこの部屋、カレーの匂いがするぞ…」
「アメリカにはカレーライス、って料理はねぇんだ。日本に帰ったら絶対食べなきゃな」
「世間話はさておき、今日の騒ぎの事を話せ。誰が誰を何の目的で電気ドリルでベンツに大穴空けたんだ?」
 ソファーに深々と座り直した刑事の前に、吉野がすっとコーヒーを出した。
「それはこちらが知りたいくらいです。ご存じと思いますが今は抗争も、その火種も見あたらない。本田か黒瀬組のどちらかに個人的な恨みでもあるのか…だとしたら特定するのは不可能です」
「ふーん…本田、お前そろそろ誠仁会の幹部になる話しが出てきてるだろう?お前を引きずり降ろしたい連中は山のようにいると思うぞ。だが、恐ろしすぎて手が出せない。お前らと来たら、証拠を隠滅するのが得意だからな…一晩で組が無くなっても、何の痕跡もない。全てが噂で、皆その噂に怯えている」
 自分たちの痕跡を消すのは当然のことだ。今回は克彦と沙希がいたことを消すのが最優先で、あまり知られていない足立会など後かたづけの対象にもならないが、足立会から竜姫との繋がりがばれたら面倒だ。
「で、最近お前と良くつるんで行動している綺麗どころがいるという噂があるんだが…」
「私が、ですか?」
 たった今まで話していたのは自分だからと、吉野はとぼけて答えてみた。
「…だったら何にも言わん。お前だったら万々歳だ。少しは人間らしいところ見せてみろ」
「なかなか良い方がいらっしゃいませんので…」
「今度紹介してやるよ。噂は吉野じゃなくて本田、お前だ」
 刑事はコーヒーを一口啜りながら本田をじっと見つめた。相変わらず何を考えているのか分からない瞳で、まっすぐ前を向いている。何かあるのかと思って刑事は本田の視線の先を見てみるが、壁しかないのは分かっていてもそうせずにはいられない。子供の頃からその瞳に宿る光りは鋭く、疚しい人間はふるいに掛けられる前に身を隠すか、読み違えて無謀な挑戦状を突きつけては手ひどくやられてしまうかのどちらかだった。
「お前なら堅気のご令嬢から血統の良い玄人まで、引く手あまただ。それが本妻候補の誰とも付き合ってる気配がない。いや、本妻候補が次々に脱落して道元の娘が幅をきかせているらしいが…あの蛇女に手を出すほどお前も酔狂じゃないだろ?」
「別に誰でも構わんが…お前、今日の事故の話しをしに来たんじゃないのか?」
「ああ、そうだったな。だが真相は教えてもらえんのだろう?未だかつて俺たちの質問にまともに答えて貰ったことはないからな。茶飲み話のネタでも仕入れられたらラッキー、てところだ」
「そんなに暇なら早く犯人を捕まえろ」
 園部がワザとコーヒーカップががちゃっと鳴るようにテーブルの上に足を投げ出した。
 吉野が見とがめて眉間に皺を寄せる。
「園部さん、ちんぴらみたいな真似はやめてください」
「まともなのは吉野だけか…」
 本田と園部はその言葉にちらっと顔を見合わせた。
「吉野、お前早いとこ足洗って堅気になれや。いくらでも良い嫁さん紹介するぞ。さて、帰るかな。本田、女には気をつけろよ。ぷっつんいったら何しでかすかわかんねぇからな」
 刑事…滝川祥太郎(たきがわ しょうたろう)は上等なソファから名残惜しそうに立ち上がり、園部とタメを張れそうな強面で全員を一にらみしながらゆっくりと扉へ向かった。吉野が、さっと追い越し扉を開ける。
「お前は良くできた男だな、吉野。コーヒーはうまいし、嫁にも行けるな」
「…ありがとうございます。コーヒーメーカーに良く伝えておきます」


「沙希ちゃん、俺やっぱり都筑の所に行ってくる。沙希ちゃん協力してくれる?」
 沙希にも事情は良く飲み込めていなかったが、いつも明るくて笑わせてくれる克彦さんがあり得ないくらい落ち込んで、憔悴している。沙希自身も頭から血を流して倒れている人など初めて見て、あの光景を思い出したら足が震える。しかも自分が良く知っている人があんな事になって…園部も本田も褒めてくれたけれど、大したことができなかった自分がとても悔しい。
「…でも…はるさんがここを出ちゃいけないって…」
 都筑の所へ行きたい克彦の気持ちは分かるが、園部の言いつけも気になる。もう危なくないのだったら、今頃みんなで都筑の元へ行っているはず。部下とはいえ、園部にとっても都筑は家族の一員なのだ。
「…きっとまだ危ないことがあるんだよ…」
「でも!都筑は俺をかばってあんなことに…!!もし何かあったら…わかった、沙希ちゃんには迷惑掛けられないから、俺一人で行く。もう悪い連中も捕まったし、きっと大丈夫」
 克彦は部屋の外に待機している組員に、紅茶を持ってくるように伝えた。その組員が見張りの場を離れることはないが…暫くして紅茶を持ってきた組員が帰った後、見張りの胸元に熱い紅茶をぶっかけひるんでいるところを部屋の中に押し込め、全速力で駆け出した。どうしようか迷った沙希も克彦の後を追い、エントランスを目指した。


「克彦さんが脱走しました!」
 直ぐに一階の警備室と社長室に伝えたが、折り悪く本田は刑事を建物の外まで追い出すために部屋を離れていたところだった。
 ちょうど本田と幹部達が滝川刑事と共にエレベーターを降りると、克彦が警備の者達を交わそうと暴れ回っているところに出くわしてしまった。克彦に怪我を負わせないように捕まえようとする警備係に向かって、自分がコーディネートした植木を振り回している。沙希はすっぽ抜けてはじけ飛んだ鉢を抱えてどうすればいいのか地団駄踏んで見ていた。
「沙希!克彦さんを捕まえろっ!」
 園部の声が発せられた途端、頭がはっきりした沙希が克彦に飛びかかる。
 捕まえる、というより克彦に掴まった、と言う方が近い表現ではあるが、克彦の勢いは削がれた。
 吉野が走り寄り、克彦の腕を軽く拘束する。
「どっかの組の鉄砲玉か?」
 のんびり見ていた滝川が本田を睨んだ。この時期なので鉄砲玉と思われてもしょうがないが、それにしては植木を振り回すなど可愛い鉄砲玉である。
 捕まれた腕が痛いのか、克彦の顔が少しだけ苦痛と悔しさを浮かべている。本田は足早に近づき、吉野から克彦を受け取った。
「ゆきっ!俺、都筑の所に行きたいっ!!」
「…分かった。連れて行ってやるから三分だけ大人しくしててくれ。向こうにいる男は組対の刑事だ」
 組対の刑事…そう聞いた途端に克彦の動きが止まった。組対の刑事とヤクザ、克彦にとっては最悪の組み合わせである。ただしヤクザの方は黒瀬組のお陰で良い人達もいると理解できるようになったが…
「克彦、これは組対四課の滝川だ。滝川、こちらは水口克彦、うちを担当してくれたインテリア・デザイナーで、俺の噂の相手だ」
 滝川は驚きに顔を引きつらせて克彦を見た。お目に掛かったことがないような美人で、しかも不躾なほど傲慢な視線で滝川を品定めするように上から下まで舐め回している。…植木の残骸を持って。隣には袴姿の日本人形のような少年が立ちつくしている。
「…男…か?」
「失礼な。どっからどう見ても男だろ?なんで警察がここにいるんだよ。そこでぼーっと突っ立ってる暇があったら都筑をあんな目にあわせた犯人を連れて来いよ。こっちは被害者なのに、なにそのでかい態度。ああ、警察官なんてでかいのは図体と態度だけで頭の中身はスカスカだもん…んぐっ」
 克彦の得意技を手の平で封じたのは沙希だった。
「きっと見つけてくれるよ、ね?」
 沙希が黒い瞳をキラキラさせながら滝川を見上げる。
「あ…ああ」
(なんなんだ、こいつら…)
「沙希、おまえはこっち来い」
 園部が手を差し出すと、日本人形のような少年は素直にその手を取り、園部と一緒に事務所の方に帰って行った。あの園部が。子供と手を繋いで仲よく歩いている…滝川は何が起こっているのか信じられなかった。
「滝川、克彦は堅気だ。うちの組の事には一切関わってねぇ。余計な手は出すなよ」
「…いや…手と言われてもな…男だろ、こいつ?しかも何ださっきの口の悪さは…」
 克彦はぷいと顔を背け、本田を見上げた。
「ゆき、もう三分経った。都筑の所に連れてって」
「克彦さんとやら、何でそんなに都筑のことを気にするんだ?」
 ひょっとしてもしかしたら、と思った滝川は、ためしにカマを掛けてみたのだが。
「気になるんだったら自分で調べれば良いだろ?能無し」
 唖然とする滝川にはお構いなしに、克彦はくるっと振り向くと出口へ向かって大股で歩き始めた。
 本田と吉野がそれに続く。
 取り残された滝川は急いで最後尾を駆けだした。


 滝川は数々のあり得ない光景に一日の疲れも吹っ飛んでいた。あの本田が自分の前を歩かせ、何でも言うことを聞き、表情を柔らげて腕に抱く…
 本田が連れ歩いていた女達より遙かに美しく高飛車で、それでいて組員の安否を気遣う様は聖母のようだ。
「やばいやばい…」
 滝川は見とれてぼーっとなる自分に活を入れるために両手の平でパンパン、自分の頬を叩いた。
「うるさいよ。都筑が起きるだろう」
 起きた方が安心するクセに…
 見たところ顔は腫れておらず、と言うことは頭蓋内に損傷は無さそうだ。脳しんとうなら今夜中に一度目を覚ますだろうから、事情聴取は明日だな…などと考えながらも視線は克彦を捕らえてしまう。
 嫁に行くわけにはいかないだろうし、いずれ本田が飽きてしまえば都筑のために心を痛めたことも無駄になってしまうではないか。それに、この美貌の男が下心無く本田と付き合っているのか分かったものではない。欲しい物は何でも手に入れてくれる今のうちにせいぜい頑張っておけよ、と滝川は無理矢理自分の常識を奮い立たせることで今日目の当たりにした非日常を忘れ、仕事へ戻っていた。


「やっぱりあれは竜姫の仕業だったんだ…」
 都筑が目覚めたら直ぐに病院へ戻るという約束で、克彦は本田の家に泊まり込むことにした。
「ああ。竜姫はいま行方不明だ。恐らく実家、もしくは道元組の息が掛かった場所にいるだろう」
「足立会を使ったのに、自分だけ実家に隠れたの?」
「そう言うやつだ」
「…ゆき、今日襲ってきた連中はどうするの…?」
 仕事に口を出すのは憚られるが自分のせいで起こったことだ。本田と付き合うことになった牛島の件も詳しくは聞かず、自分だけ何も知ろうとしないのは卑怯者のような気がする。本田が裏でどんな事をしているのか最悪の事は想像できるが…
「どうしようか…まだはっきりと決めてはいない」
「ゆき、仕事に口を出すのはどうかと思うけど…でも…俺のせいでゆきが汚れるのは嫌だ…」
 汚れる…本田はその言葉に少しだけ動揺した。今まで何人もの命を奪ったことがある。その状況に立ったとき、何の途惑いもなく殺せるようになったのはいつからだったか…未だかつて『汚れる』などとは思ったこともない。やられたらやり返す。倍返しで相手が死んでしまってもそれは単に運が無かっただけである。
「人殺しの俺は嫌か?」
 自嘲気味な笑いを口の端に浮かべながら克彦に問うた。
「生き残るために必要なら…でも、俺のためにゆきが手を血に染めるのは嫌だ。それにあいつらは…竜姫に言われてやっただけだろ?組員ほったらかして逃げるなんて、あいつらだって騙されたんだ。捨てられて殺されるだけなんて、そんなの…」
「お前が嫌なら…他の方法を考えよう。実のところ、大人数を処理するのは時間も経費も勿体ない。だが、許しはしない。後もう少しでお前の頬に傷が付いていたのかも知れないんだぞ?」
 もう形も残っていない、ナイフの跡があったそこを指でそっと撫でられ、唇で触れられた。
「美しい物をわざわざ傷つけるなど、愚か者のする事だ」
「じゃあどうするの?ゆきは一度口に出したら絶対に実行する。今、殺さないって言った。次はどうするのか、教えて…」
「殺しはしない。今言えるのはそれだけだ。全てが終わったらお前に真っ先に話す。心配しないで待っていろ」
「…分かった。信じてる」


 都筑が目覚めたのは午前一時を回った頃だった。とても眠ってなどいられなかった克彦は直ぐに病院の都筑を見舞うことにした。自分も沙希も無事なことや、お礼を、真っ先に言いたかった。
「都筑…」
 そっと病室にはいると、都筑ママが付き添っていた。
「克彦ちゃん…来てくれたのね、ありがとう。さっき目を覚ましてね、お医者様にももう大丈夫って太鼓判押されたから…」
 都筑は克彦に気が付くと頬を緩めて起きあがろうとした。克彦の後ろには本田の姿も見える。
「都筑、無理しないで…」
 急いで駆け寄り、起きあがろうとして頭を抱えた都筑の肩をベッドに軽く押さえつける。
「…すみません…克彦さん、無事だったんですね!?お怪我は?」
「俺は大丈夫。それより…俺のせいで…都筑が死んでしまったらどうしようかと思った…」
 克彦の顔がみるみる歪み、耐えきれなくなった克彦は両手で顔を覆い、ほんの一瞬だけ泣き、ぐいっと涙を拭った。
「うわ…え…俺は大丈夫ですから!よけ損なった俺が馬鹿だったんです。暫く鍛錬さぼってたから!うわ…組長、すいませんっ!」
 気を失ってしまったので自分がどんな醜態を晒したのか都筑は知らなかったけれど、どんな場面でも克彦に恐怖心を与えてはいけないと思っている。それは克彦に怪我を負わせない事ももちろんだが、暴力シーンを見せて怖がらせてはいけない事も含む。肉体的な暴力よりも、それを見た後のトラウマは精神にどんな作用を及ぼすか分かったものではない。何かがきっかけとなって思い出し、日常の他愛もない場面で重大な事態を引き起こさないとも限らない。
「…今回は許す。お前が全快したら、下の者から順に訓練し直す。沙希の方がよっぽど頼りになるな。克彦、気が済んだら帰るぞ。明日はこいつも事情聴取されるはずだ。今夜は休ませておけ」
「…うん。都筑、明日、何か美味しいもの作って持ってきてあげるからね。ゆっくり休んで…」
 都筑の部屋を出るときに、もう一度振り向いて手を振る。
 外には見張りの警察官と組の者がにらみ合っているが、滝川や捜査官の姿がない。
「こういう時って真っ先に事情聴取されそうなんだけど…」
 克彦が不思議がると本田はふっと笑った。
「役に立つものを渡して、明日の朝まで見なかったことにしてもらった」
「…やっぱ警察より黒瀬組の方が躾ができてる!」
 都筑が元気な姿を見て気持ちが落ち着いたのか、克彦は少しだけいつものパワーを瞳に取り戻しつつあった。


 昨日の『事故』は克彦の会社にも知らされており、せめて今日一日は大事を取って休み、消化できなかったお詫びと挨拶はまた新たに日程を組み直す事にしてもらった。
 訪問先の駐車場に暫く放置されていたメルセデスの凄まじい姿に、克彦の安否を気遣う電話が朝からひっきりなしに掛かっていて、仕事もできそうにない。仕方がないので都筑に差し入れる料理でも作ろうと本田の冷蔵庫を空けると、見事に何もなかった。
「今日はさすがに買い物行きたいなんて我が儘言えないよね…」
 克彦が望めば本田は行かせてくれる。でも、竜姫の居場所が特定できていない今、勝手に動き回ればまた誰かに迷惑をかけてしまうかもしれない。
「あ。沙希ちゃんに頼もうっと」
 子分ができた気になっていたけれど、昨日は沙希の機転で難を逃れ、子分というより小さな騎士のようで、誰よりも頼りがいがあった。
 でも…
 沙希は黒瀬組の組員ではない。本人は都筑と克彦を守りきれなかったことを悔やんでいるそうだが、克彦と同じ立場、堅気なのだから、危ない真似はしない、させないように言っておかなければ…
「…うん。今日は園部さんいないの?そっか…うん…じゃあ、ちゃんと園部さんの部下の人達と一緒に来るんだよ?じゃあ待ってるからね」
 沙希は園部の言いつけをきちんと守り、護衛役の三人と一緒に来るという。買い物は沙希に任せて、克彦はみんなに食べさせる献立を考えることに意識を集中した。竜姫のことで自分が何かできるとしたら、今は大人しくする事、だろう。
  

 目の前で全てのものに当たり散らす妹を睨みながら、兄の沙次郎もまた何度も拳を机に叩き付けていた。
「畜生…!お前はっ…余計な事ばかりしやがって!!」
 道元組にとって黒瀬組は手中に収めたい組ではある。竜姫が本田の本妻になれば道元組で三番手しか張れない自分の株も上がるというものだ。若頭である兄を飛び越えて道元組の次期組長を狙うためにはそれなりの資金とそれを稼ぎ出す兵隊が必要で、足立会もいずれは自分の配下に置くつもりだった。その足立会が、綺麗に無くなってしまったのだ…
 女達を蹴落とすくらいなら口は挟まないが、それにも失敗して慰謝料まで請求されているのにまだ強引に誘拐しようなど、愚かにも程がある。慰謝料を請求された時点で道元組に話しを振っていたらまだ何とかなったかもしれないが…
「兄貴、若頭からお電話です」
 どんな話しか想像できるだけに、沙次郎は生きた心地がしなかった。
「…おう。…分かった…すぐ行く」
 それだけ言うと竜姫には見向きもせず部屋を出た。本田が、足立会の組員を連れて、道元組の本部に乗り込んできたらしい。直ぐに本部まで来いと言う兄の声は険しかった。
「全く…女の浅知恵で何もかもめちゃくちゃにしやがって!」
 雲行きが怪しくなれば保身第一で、部下はほったらかしにして自分だけ逃げようなど、この世界ではあってはならないこと。一度でもそんなことをすれば信用がなくなり、いつまた裏切られ寝返られるか分からないではないか…足立会が存続していればの話しだが、今は少しでも味方が欲しい時期なのにそれを失ってしまうとは。今後、他の組を自分の傘下に入れることも難しくなってしまう。この落とし前はたとえ自分の妹だろうと、つけてもらわなくてはいけない。

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